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第11話:繋ぎ手のトム

湖の日から、ミーヤを避けていた。


一人で猫の国をさまよう。草原を歩く。丘を越える。川沿いを歩く。


どこへ行っても、落ち着かなかった。


考えないようにしている。でも、頭から離れない。


ソラの怯えた目。子供の泣いた目。子猫の悲しそうな目。


「嘘だ」


自分に言い聞かせる。でも、声に力がない。


足が重かった。体が疲れているんじゃない。心が疲れている。


食べ物を前にしても、あまり食欲がなかった。食べなくても死なない体になったのに、それでも何かが減っていく感覚があった。


---


ある丘の上で、足を止めた。


草原が見渡せる場所だった。風が吹いている。温かい風。


座り込んだ。膝を抱えた。


「お、新入り?」


声がした。


振り返ると、一匹の猫がいた。


オレンジと白の斑模様。片方の耳に傷の跡がある。明るい緑色の目。


警戒した。体が強張る。


でも、この猫は攻撃的な雰囲気じゃなかった。尻尾がゆるく揺れている。


「俺はトム。繋ぎ手のトム」


「……繋ぎ手?」


「まあ、気にすんな」


トムは隣に座った。許可も取らず、自然に。距離が近い。でも、嫌な感じはしなかった。


「お前、暗い顔してんな」


「……」


「ここに来たばっかはみんなそうだ。俺もそうだった」


同じ景色を見ている。草原が広がっている。遠くに感情の森が見える。


---


「お前、人間にやられたクチだろ」


トムが言った。


「……なんでわかる」


「目を見りゃわかる。俺も同じだったからな」


同じ。


この猫も、人間に傷つけられたのか。


「同じ……?」


「俺も捨てられた。殴られた。最後は車に轢かれた」


淡々と言った。


重くない。感情を込めていない。ただの事実として、話している。


「人間なんか滅べばいいと思ってた」


トムは空を見上げた。


「本気でそう思ってた。全員死ねって。毎日そう思ってた」


僕と同じだ。同じことを思っていた。


「……今は、違うのか」


「違うっていうか……」


トムは首を傾げた。


「わかんなくなった、が正しいかな」


「わかんなくなった?」


「恨んでた人間も、誰かに傷つけられてたんだって気づいてさ」


湖の映像が、頭をよぎった。


「俺を殴ってたやつも、親に殴られて育ったらしい」


「……」


「じゃあ誰が悪いんだって話になるだろ。そいつか?そいつの親か?そのまた親か?」


「……」


「考えてたら、恨むのがめんどくさくなった」


めんどくさくなった。


赦したわけじゃない。理解したわけでもない。ただ、疲れた。


「……僕は、まだめんどくさくなれない」


正直に言った。


「だろうな」


トムは笑った。嘲笑じゃない。わかってる、という顔だった。


「お前、まだ傷が新しいもん。血が出てる傷を、無理に触るこたない」


「……」


「いいんだよ、ゆっくりで」


トムが立ち上がった。


「でもな、一つだけ言っとく」


振り返って、僕を見た。


「恨み続けるのって、めちゃくちゃ疲れるぞ」


「……」


「握りしめてる手、そのうち痛くなる」


握りしめてる手。


憎しみを握りしめてる、僕の手。


「俺は疲れた。だから手放した。楽になりたかっただけだ、かっこいい理由なんかない」


「……」


「お前はまだ握りしめてていい。でも、いつか手が疲れる。その時は——まあ、その時考えりゃいい」


トムは歩き出した。


「またな、新入り」


軽い足取りで、丘を下りていく。振り返らなかった。


---


一人になった。


丘の上に座ったまま、トムの言葉を反芻していた。


「握りしめてる手、そのうち痛くなる」


手を見た。


何も握っていない。でも、確かに——握りしめている感覚がある。


憎しみを。ソラへの怒りを。人間への恨みを。


離せない。離したら、崩れてしまう気がする。


でも——確かに、手が痛い。ずっと握りしめていて、指が痺れている。


ふと、母さんを思い出した。


「お前は優しい子だね」


あの声。あの温もり。段ボールの中で、兄弟が眠った後、僕だけを舐めてくれた夜。


「優しいから、傷つきやすい。気をつけるんだよ」


母さん。


僕は優しくなんかなかった。


誰かを傷つけた。子猫から餌を奪った。ソラを憎んだ。人間を呪った。醜い感情を抱えて、そのまま死んだ。


会えなくて、よかったのかもしれない。


こんな僕を見せたくなかった。優しい子だって言ってくれた母さんに、こんな僕を見せたくなかった。


空が橙色に染まっていく。夕暮れだ。


遠くに、ミーヤが見えた。


草原の端に、静かに座っている。こちらを見ている。待っている。


僕は立ち上がった。


まだ話す気にはなれなかった。湖のことも、トムのことも、何も整理できていない。


でも——避け続けるのも、疲れた。


ゆっくりと、丘を下りる。ミーヤの方へ、歩き出す。


話すかどうかは、わからない。


でも、少なくとも——逃げるのは、やめようと思った。

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