第10話:無意識の湖
感情の森から数日が経った。
あの黒い木のことが、頭から離れない。
認めた。僕の中に憎しみがあることを。醜くて、棘だらけで、周りの草を枯らすようなものが、僕の一部だということを。
でも、それだけだ。
何も変わっていない。憎しみは消えていない。ソラを思い出せば、まだ胸が熱くなる。人間を思い出せば、まだ歯を食いしばる。
その日、ミーヤが来た。
「もう一つ、見せたい場所がある」
また、どこかへ連れていくのか。
「……どこへ行くんだ」
「お前の奥底へ」
意味がわからなかった。でも、ついていった。
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森の奥へ向かった。
木々が深くなる。光が少なくなる。空気が冷たくなっていく。
足元が湿っている。落ち葉が腐葉土になって、柔らかく沈む。
感情の森とは違う。あの森は色とりどりだった。ここは暗い。静かだ。
「どこまで行くんだ」
「もうすぐだ」
木々の間を抜けた。
森が開けた。
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湖があった。
深い青色。水面は鏡のように静か。波一つない。
音がない。風もない。木々のざわめきも、鳥の声も、何もない。ただ、静寂。
「これは無意識の湖」
ミーヤが言った。
「お前の奥底にあるものが、ここに映る」
湖を見る。水面に空が映っている。淡い金色と青。猫の国の空。
「見たいものが見えるのか?」
「違う」
ミーヤは湖を見た。
「見たくないものが、見える」
覗きたくなかった。
でも、ミーヤは待っている。何も言わず、ただ待っている。
一歩、近づいた。
水面を覗き込んだ。
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最初に映ったのは、自分の顔だった。
疲れた目。痩せた頬。傷だらけだった頃の自分。死ぬ直前の自分。
見たくない顔だった。
——水面が揺れた。
顔が崩れる。輪郭が溶けて、別の形になっていく。
別の顔が浮かび上がった。
子猫だった。
あの子猫。餌を奪った、あの小さな子猫。
震えている。小さな体を丸めて、震えている。
「にゃあ」
声が聞こえた。水の中から。
僕を見ている。責めるような目じゃない。ただ、悲しそうな目。どうして、と問いかけるような目。
「やめろ」
声が出た。
——水面が揺れた。
子猫の顔が崩れる。溶けていく。また別の形になる。
ソラが映った。
「こいつです」
あの瞬間。指を差した瞬間。あの声。あの姿。
でも——目が違う。
怯えている。
震えている。
指を差しながら、ソラは——怯えていた?
「嘘だ」
あいつは冷たかった。僕を売った。躊躇いなんかなかった。怯えてなんかいなかった。
——水面が揺れた。
ソラの顔が崩れる。また別の顔が浮かぶ。
人間の子供だった。
あの子供。「ミー、元気でね」と手を振った子供。笑顔で僕を置いていった子供。
でも——泣いている。
目が赤い。頬に涙の跡がある。
笑顔の下で、泣いていた?
「嘘だ!」
僕は湖から飛び退いた。
息が荒い。心臓が暴れている。体が震えている。
「何を見せた!」
叫んだ。ミーヤに向かって叫んだ。
「あいつらは僕を傷つけた!それが真実だ!」
「ソラは怯えてなんかなかった、あいつは僕を売ったんだ!」
「あの子供は笑ってた、泣いてなんかいなかった!」
ミーヤは静かに言った。
「湖は嘘をつかない」
「じゃあ湖が壊れてる!」
「……そうかもしれないな」
ミーヤはそれ以上、何も言わなかった。
否定も肯定もしない。ただ、そこにいる。
僕は背を向けた。走り出した。湖から、森から、逃げ出した。
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草原に出た。
一人だった。ミーヤはついてこなかった。
草原に座った。膝を抱えた。
心臓がまだ早い。息がまだ荒い。
「嘘だ……」
声に出した。でも、力がない。
あの映像が頭から離れない。
子猫の目。悲しそうな目。
ソラの目。怯えた目。
子供の目。泣いていた目。
「嘘に決まってる……」
本当に嘘なのか。
それとも——見たくなかった真実なのか。
考えたくなかった。
考えたら、憎しみが揺らぐ。
憎しみが揺らいだら、僕は——何を支えに生きればいい。
あいつらが悪い。僕は被害者だ。傷つけられた側だ。
それが支えだった。
僕は悪くない。僕は間違っていない。悪いのはあいつらだ。
その確信があったから、生きてこられた。憎しみがあったから、立っていられた。
それが崩れたら——
僕は、何になる。
答えは出なかった。
でも、映像は消えなかった。
夜が更けていく。星が出ている。温かい光。でも、心は冷たいままだった。
一人で、草原に座っている。
嘘だと思いたい。
でも、湖の映像が——消えてくれない。




