第1話:温もりと喪失
僕は今、誰かの話を聴いている。
傷ついた誰かの、言葉にならない言葉を。
「私なんか、いない方がいいんです」
その言葉を、僕は否定しない。
否定したって届かないことを、僕は知っている。
どうして僕がこんなことをしているのか。
どうして僕が、誰かの痛みに寄り添おうとしているのか。
それを話すには、最初から話さないといけない。
僕がまだ「ニャンタル」という名前すら持っていなかった頃。
僕がまだ、人間を——憎んでいた頃の話を。
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最初の記憶は、暗がりだった。
段ボールの中。湿った匂い。兄弟たちの体温。
そして、乳を求めて押し合う、小さな戦い。
僕は兄弟の中で一番小さかった。
押しのけられて、いつも最後になる。やっとありつけた頃には、もうほとんど出ていない。
恨んではいなかった。
仕方ないと思っていた。弱いのは僕だから。
母さんは痩せていた。
肋骨が浮いて見えるほど痩せていて、それでも僕たちに乳をくれた。自分は何も食べていないのに。
昼間、兄弟たちは元気に動き回る。段ボールの縁によじ登ったり、互いにじゃれ合ったり。僕はその隅で、じっと丸くなっていた。動くと余計に腹が減る。それを、小さいなりに知っていた。
でも、夜は違った。
兄弟が眠った後、母さんがそっと近づいてくる。
僕の体を、丁寧に舐めてくれる。ざらざらした舌が、冷えた毛並みを温めていく。
僕は母さんの顎の下に、頭をぐりぐりと押しつけた。もっと近くに。もっと温かいところに。小さな前足で、母さんの毛をふみふみと踏む。
母さんが低く笑った。喉の奥で、ごろごろと音が鳴っている。
「お前は優しい子だね」
母さんの声は低くて、柔らかかった。
「優しいから、傷つきやすい。気をつけるんだよ」
意味はわからなかった。
でも、声の温かさだけは、体の奥まで届いた。
この時間だけが、僕のものだった。
誰にも押しのけられない、僕だけの時間。
喉がごろごろと鳴る。止められなかった。
母さんの匂いを、僕は今でも覚えている。
土と、草と、少しだけ甘い匂い。
あの匂いに包まれていれば、何も怖くなかった。
明日も、明後日も、ずっとこうしていられると思っていた。
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ある朝、母さんが言った。
「待ってて。餌を探してくる」
いつものことだった。母さんは時々、段ボールを出ていく。そして必ず戻ってくる。口に何かをくわえて、僕たちに分けてくれる。
「うん」と僕は鳴いた。
それが最後だった。
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一日が過ぎた。
母さんは帰ってこなかった。
二日が過ぎた。
兄弟たちが落ち着かなくなった。段ボールの縁に立って、外を見ている。
三日目の朝、一番大きい兄が出ていった。
振り返らなかった。
何も言わずに、路地の向こうに消えていった。
その日のうちに、もう一匹が続いた。
次の日、また一匹。
僕だけが残った。
ここにいれば、母さんは帰ってくる。
そう思っていた。
ここで待っていれば、あの匂いが戻ってくる。あの声が聞こえる。
待った。
段ボールの隅で、丸くなって、待った。
帰ってこなかった。
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母さんの匂いが、段ボールから消えていく。
土の匂いが薄れて、草の匂いが消えて、最後に残った甘い匂いも、雨に流された。
僕は匂いを探した。
段ボールの底を嗅ぎ回って、母さんがいた場所に顔を押しつけて。
でも、もう何も残っていなかった。
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雨が降っていた。
段ボールは濡れて、ふやけて、もう屋根の役目を果たさなかった。
水が染みてくる。毛が重くなる。震えが止まらない。
空腹で、体に力が入らなかった。
三日、何も食べていない。四日かもしれない。もう数えられなかった。
僕が弱いから、置いていかれたのかな。
そう思った。
僕がもっと強かったら。もっと大きかったら。もっと兄弟を押しのけて乳を飲めていたら。
母さんは、帰ってきたのかもしれない。
違う、と頭のどこかで思う。
でも、他に理由が見つからなかった。
僕が弱いから。
僕が小さいから。
僕が——。
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遠くで、鳴き声がした。
耳がぴくりと動く。
野良猫の声。低くて、長い声。
顔を上げる。
雨の向こうに、影が見えた。
一匹の猫が、こちらを見ていた。
路地の角に立って、じっと、こちらを見ていた。
近づいてはこない。
ただ、見ている。
僕は声を出そうとした。助けて、と。誰か、と。
でも喉から出たのは、かすれた音だけだった。
影は動かなかった。
雨の中で、ただ、見ていた。
やがて、影は消えた。
路地の暗がりに溶けるように、いなくなった。
僕は段ボールの底に顔を伏せた。
濡れた段ボールの匂いだけが、鼻についた。
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明日、僕はどうすればいい。
ここにいても、誰も来ない。
母さんは帰ってこない。
動かなきゃ。
そう思った。初めて、そう思った。
でも、体が動かなかった。
目を閉じる。
雨の音だけが、ずっと続いていた。




