葛藤と決意
「えっ、家……ですか?」
「はい。まだ話し足りないですし。……それに、牧さんのことをもっとよく知りたいなって思ったんです」
ゆかりは少しはにかむようにして首をかしげた。35歳の男が、気になる女性から家に誘われる。それは本来、飛び上がるほど嬉しい、この上なく「男冥利に尽きる」展開のはずだった。
だが、牧の脳裏には、前回のデートの終わりの体験が焼きついていた。
(あの時のゆかりさんは何だっただろう……でも、もしここで断ったら、もう二度と誘われないかもしれない。これこそが、おれが求めていた『普通』の進展じゃないのか?それに、あの家の中がどうなっているのか知りたい。)
「……いいんですか? お邪魔じゃなければ、ぜひ」
牧は恐怖を期待で塗りつぶすように答えた。ゆかりは「嬉しい」と微笑み、彼の腕にそっと手を添えた。その手の感触は、驚くほど冷たかった。
ゆかりのアパートまでの道中、牧は言いようのない高揚感と緊張の中にいた。
ゆかりの背中を追いかけながら、牧は自分の頬が緩みっぱなしなことに気づいていた。
不安がないわけじゃない。昨夜見た、重い荷物を引きずる彼女の冷徹な横顔が、時折脳裏をかすめる。けれど、隣で「楽しみですね」と微笑む今の彼女は、あまりにも可憐で、温かい。
ふと周囲を見渡すと、昨日まで「死んだ灰色の街」に見えていた広島の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したかのようにカラフルに輝いていた。街灯のオレンジ、信号の赤、行き交う車のヘッドライト。そのすべてが、自分の新しい門出を祝福しているかのように。
(もし、彼女に秘密があったとしても……それがおれを必要としてくれる理由なら、おれはそれを受け入れる。もう、あの空っぽな金曜日の夜には戻りたくないんだ)
牧の決意は、もはや盲目的な信仰に近いものへと変わっていた。
「さあ、着きましたよ。どうぞ、入ってください」
玄関の鍵を開け、ゆかりが先に中に入る。
「お邪魔します……」
緊張で喉を鳴らしながら一歩足を踏み入れると、そこには驚くほど「普通」の、清潔感溢れる空間が広がっていた。
白を基調としたリビングには、柔らかな間接照明が灯っている。棚には可愛らしい観葉植物が並び、キッチンからは微かに洗剤の清潔な香りがした。
「今、お茶を淹れますね。そこに座って待っていてください」
ゆかりがキッチンへ向かう。牧は言われるがまま、ふかふかのソファに腰を下ろした。
テレビ、コーヒーテーブル、女性らしいデザインのクッション。どこを見渡しても、狂気のかけらも見当たらない。
(……やっぱり、おれの考えすぎだったんだ。彼女はただ、普通にここで生活しているだけなんだ)
安堵が全身の力を抜けさせる。牧は、ようやく手に入れた「誰かの温もりのある部屋」という事実に酔いしれようとした。
しかし。
ふと視線を向けたリビングの突き当たり。固く閉ざされた一枚のドア。
そのドアの隙間から、昨日、ホームセンターの駐車場で見かけたあの不気味な青いビニール紐が、ほんの数センチだけ、舌を出すように食み出しているのが見えた。
そして、静まり返った部屋の奥から、
「ガタッ」と、何かが倒れるような、乾いた音が響いた。
「……ゆかりさん、今、奥で音が……」
キッチンでカップを用意していたゆかりの手が、ぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと振り返る。その顔には、先ほどまでの「理想の彼女」の笑顔はなかった。
「……ああ、聞こえちゃいましたか。やっぱり、敏感なんですね、牧さんは」
彼女は濡れた手をエプロンで拭くこともせず、無機質な足音を立てて、その閉ざされたドアへと歩み寄った。




