表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

束の間の普通

翌朝、牧は重い頭痛と共に目を覚ました。スマートフォンの画面を点灯させると、そこには昨夜の深淵が嘘だったかのように、明るい通知が届いていた。


『おはようございます! 昨日は遅くまでありがとうございました。牧さんの顔が見たいって言ってくれたの、実はすごく嬉しかったです。今日も一日頑張りましょうね』


文字の向こうで微笑む彼女が透けて見えるような、どこまでも「普通」で温かいメッセージ。それを見た瞬間、牧の胸に去来したのは、恐怖ではなく安堵だった。


(やっぱり、おれの妄想だったんだ。あんなに優しい人が、何か恐ろしいことをしているはずがない……)


昨日感じたあの底冷えするような違和感を、牧は心のゴミ箱へと必死に押し込んだ。不安という棘がチクリと胸を刺すたび、彼は彼女からの優しい言葉という絆創膏を上から幾重にも貼り付けて、自分を騙し続けた。


そして迎えた、次のデート。場所は少し背伸びをした、落ち着いた雰囲気の個室居酒屋だった。


「牧さん、お待たせしました」


現れたゆかりは、いつもより少しだけ着飾っていた。淡いベージュのブラウスに、揺れる小ぶりのピアス。控えめだが丁寧に施されたメイクが、彼女の清楚な美しさを際立たせている。


「……すごく、綺麗ですね」


「ふふ、ありがとうございます。牧さんに会うから、ち

ょっと気合入れちゃいました」


個室の引き戸が閉まり、二人きりになる。照明は落とされ、ジャズが静かに流れる空間。運ばれてくる洗練された料理を前に、ゆかりは楽しそうに職場の話や、最近気になっているカフェの話をした。


(ああ、やっぱりこの人だ。おれが求めていたのは、こ

の笑顔なんだ)


牧は必死に彼女の「良い面」を網膜に焼き付けようとした。相槌を打つ彼女の優しい瞳、グラスを持つ細い指先、時折恥ずかしそうに伏せられる睫毛。その一つ一つが、牧にとっては砂漠で見つけたオアシスのようだった。

しかし、ふとした瞬間に、昨夜の光景がフラッシュバックする。

笑いながらジョッキを持つ彼女の手が、昨夜、重い荷物を無造作に引きずっていたあの手と同じだという事実に気づくと、胃のあたりがキュッと収縮し、味がしなくなる。


(信じたい。でも、あの無表情な顔はなんだったんだ? いや、誰にだって人に見せられない一面くらいある。おれだってそうだ。彼女を信じられないのは、おれが臆病だからだ……)


牧の心の中では、盲信という名の甘い毒と、生存本能と

いう名の鋭い警告が、激しく火花を散らしていた。彼女が優しく微笑めば微笑むほど、その裏側にあるかもしれない闇の深さが際立ち、牧を眩暈めまいに似た感覚に陥らせる。


「牧さん? どうしました? お酒、あまり進んでいないみたいですけど」


ゆかりが少し心配そうに、牧の顔を覗き込んだ。その距離は、昨夜の扉越しよりもずっと近い。


「あ、いや……ちょっと仕事の疲れが出ただけです。大丈夫、楽しいですよ」


「よかった。……ねえ、牧さん」


ゆかりは少しの間を置いて、上目遣いに牧を見つめた。その瞳には、深い親愛と、何かを覚悟したような強い光が宿っているように見えた。


「今日……この後、もしよかったら私の家に来ませんか? 前は散らかってるなんて言い訳しちゃいましたけど……本当は、牧さんに見てほしいものがあるんです」


その誘いは、牧が待ち望んでいたはずの「親展」であり、同時に、決して開けてはならない「禁忌の扉」への招待状でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ