葛藤
「……いえ、ゆかりさん。どうしても、もう一度……顔が見たいと思って」
牧は震える声を必死に絞り出し、精一杯の理由を口にした。嘘ではない。ただ、その執着の根源にあるのは愛というよりは、不信感に対する確認だった。
ゆかりの顔を覆っていた冷徹な影が、一瞬で霧散する。彼女はいつもの、春の陽だまりのような明るい笑顔を浮かべた。
「まあ……! もう一度会いたいだなんて、嬉しいです」
その声には先ほどの無機質な響きなど微塵もなく、牧の知る「理想の彼女」そのものだった。
「本当はお部屋に上がってほしいのですが、今は少し散らかっていて……。恥ずかしいから、また今度、ちゃんと片付けたら呼びますね」
屈託のない彼女の反応に、牧の全身を縛り付けていた強張りが、スッと解けていく。やはり自分の考えすぎだったのか。彼女が買ったものも、何か日常的な、至極真っ当な理由があるに違いない。
「ぜひ、またデートさせていただきたいので……また連絡しますね」
牧はなんとかそれだけを伝え、彼女の視線を背中に感じながら家路を急いだ。
自宅のベッドに潜り込んだときには、時計の針はすでに午前0時を回っていた。
静まり返った暗闇の中で、牧の思考は激しく揺れ動く。
やっと手に入りかけた「普通の幸せ」。優しくて、美しくて、自分を必要としてくれるゆかり。その温もりを失いたくないと願う心が、今日見た不気味な光景を必死に打ち消そうとする。
(ただの買い出しだ。介護か何か、言いにくい事情があるだけなんだ……)
そう自分に言い聞かせる一方で、網膜にはあの無表情な彼女の横顔と、覗き穴の向こうに広がっていた澱んだ闇が焼き付いて離れない。
信じたいという渇望と、逃げ出せと叫ぶ本能。
理想の日常という薄氷の上で、牧は自分がいつ底なしの深淵に落ちるかもわからぬまま、浅い眠りの中へと沈んでいった。




