普通と恐怖
牧は吸い寄せられるように、彼女の消えた玄関の扉の前まで歩を進めていた。
一歩踏み出すごとに、安っぽいアパートの共用廊下がギシリと軋む。そのわずかな音さえも、静寂の中では自分の罪を告発する爆音のように響き、牧の心臓は耳の奥で早鐘を打ち鳴らした。冷たい金属の質感を湛えたインターホンに指を伸ばしかけたが、指先が微かに震え、どうしても押すことができない。もし、いまこのボタンを押し、電子音が部屋の静絶を切り裂いて彼女が顔を出したら——。自分は一体どんな顔で、どんな言い訳をすればいいのか。
「……中、どうなってるんだ」
喉の奥で掠れた声が漏れる。抗いがたい好奇心と、内側からせり上がるような不気味な予感。その相反する感情に突き動かされ、牧はそっと玄関の覗き穴に顔を寄せた。
しかし、レンズの向こう側は驚くほど暗かった。焦点が合わず、魚眼レンズ特有の歪んだ視界の中に、ただ澱んだ闇が広がっている。生活臭のしない、密度を持った暗黒だ。目を凝らし、呼吸を止めて中の様子を探ろうとした、その時だった。
——ギィ、……コツン。
家の中から、乾燥した木材を踏みしめるような乾いた音が聞こえた。それは確実に、こちら側……玄関へと近づいてくる足音だ。ゆっくりと、だが迷いのない歩調。
「っ!」
牧の背筋に、氷水を直接流し込まれたような戦慄が走った。見つかる。脳内の警報が鳴り響き、反射的に体が動いた。彼は音を立てないよう、重力さえも殺すような細心の注意を払いながら、玄関のすぐ脇にある二階へ続く共用階段の影へと滑り込んだ。暗がりに身を縮め、膝を抱えるようにして気配を消す。
ガチャリ……
重苦しい金属音が響き、ドアが開く。
牧は階段の隙間から、片目だけで息を殺して様子を伺った。開いたドアの隙間から溢れ出してきたのは、夕暮れの湿った空気とは明らかに異質な、淀んだ空気だった。どこか薬品のような、それでいて腐りかけた果実のように甘ったるい、肺にへばりつくような妙な匂い。
……だが、人が出てくる気配はない。
永遠にも思える数十秒の沈黙の後、再びガチャンと力強い音を立ててドアが閉まった。周囲は再び不気味な静寂に包まれた。
「ふぅ……っ、はぁ……」
牧は膝の震えを抑えながら、深く長い息を吐き出した。額にはべっとりと嫌な汗が滲み、シャツが背中に張り付いている。自分がしていることの異常性に、ようやく自己嫌悪が追いついてきた。
愛しているはずの女性を尾行し、ストーカー紛いの行為に耽る自分。そしてあの、用途の想像を絶する買い物の中身。今の自分は、到底「普通の幸せ」を享受できるような人間ではない。
(帰ろう。これ以上は、ダメだ。見てはいけないものを見てしまう気がする。)
牧は階段の影から這い出し、誰もいないことを確認すると、逃げるようにその場を離れた。背後に広がるあの静かなアパートが、無数の目を持って自分の背中を睨みつけているような錯覚に襲われ、一度も振り返らずに歩を早める。
10歩、20歩。アスファルトを踏む自分の足音だけが、夜の帳が下り始めた住宅街に虚しく響く。
1分ほど進み、アパートの敷地から脱した瞬間、緊張の糸がわずかに緩んだ。助かった。そう思った、その時だった。
「——牧さん」
背後から、鼓膜のすぐ傍で囁かれたような、あまりにも澄んだ声がした。
心臓が跳ね上がり、喉の奥から短い悲鳴が漏れそうになる。全身の毛穴が逆立ち、指先まで凍りついた。恐る恐る、錆びついた機械のような動作で振り返ると、そこには街灯の逆光を背に受けた、ゆかりが立っていた。
彼女は先ほど、確かに部屋に入ってたはずだ。
彼女はいつの間にか牧の背後に回り込み、まるで幽霊のように音もなく、そこにいた。
「どうして、ここにいらっしゃるの?」
逆光に遮られ、彼女の表情は読み取れない。ただ、真っ黒な影の中に二つの瞳だけが、異常なまでの静謐さを湛えて牧を射抜いていた。その瞳に宿っているのが、裏切られた悲しみなのか、それとも獲物を追い詰めた愉悦なのか。牧には、それが死の宣告のようにさえ感じられた。




