普通の崩壊
「いや、特に何もありませんよ。ちょっと、次にどこのカフェに行こうかなって考えてただけです」
牧は精一杯の作り笑いを浮かべて答えた。勇気を出して聞くことなんてできなかった。もし彼女を不機嫌にして、ようやく手に入れかけたこの「普通の幸せ」が指の間からこぼれ落ちてしまったら——。そう思うと、喉元まで出かかった疑問は、苦い唾液と一緒に飲み込むしかなかった。
「……そうですか。それならいいんですけど」
ゆかりはいつもの穏やかな笑顔を返した。しかし、その瞳の奥には、牧のわずかな動揺を冷徹に見透かすような、鋭い光が宿っていた。
(牧さん、嘘をついたわね。あの女たち、余計なことを言ったのかしら……)
その後も会話は途切れなかった。ゆかりはいつも通り、仕事の大変さや最近観た映画の話を楽しそうに続けた。牧もそれに合わせ、必死に「普通」を演じた。しかし、彼の心の中には、先ほどの女性たちの言葉が澱のように溜まっていった。
夕暮れ時、商店街の街灯にオレンジ色の灯がともり始めた頃。そろそろ駅に向かおうかという空気の中で、ゆかりがふと腕時計に目を落とした。
「あら、もうこんな時間……。牧さん、ごめんなさい。今日はこの後、少し急ぎの用事があるのを忘れていました。名残惜しいけれど、今日はここで失礼してもいいかしら?」
「あ、はい。もちろんです。こちらこそ、引き止めてしまって……」
牧は反射的に愛想笑いを返したが、内心では違和感が拭えなかった。ついさっきまで「次はどこのカフェへ」と楽しげに話していたはずだ。そんなに差し迫った予定があるようには見えなかった。
ゆかりは軽やかに手を振って、雑踏の中へ消えていく。牧はその背中を見送ろうとしたが、足が勝手に動いていた。あの女性たちの不可解な警告、そしてゆかりの「鋭い視線」。確かめなければならないという焦燥感が、彼を突き動かした。
牧は一定の距離を保ちながら、彼女のあとを追った。ゆかりは駅とは反対方向にある、大型のホームセンターへと足を踏み入れた。
彼女が迷いなく向かったのは、資材コーナーだった。
・ 太い麻のロープ
・強力な粘着力のガムテープ
「……DIYでも始めるのかな」
牧は陳列棚の陰から必死に自分を納得させようとした。しかし、ゆかりの表情は先ほどまでの穏やかなものとは一変し、まるで事務作業をこなすような無機質な冷たさを湛えている。
続いて彼女は、隣接するスーパーマーケットへ移動した。
カゴに入れられたのは、数日分の食料品。そして、それらとは明らかに不釣り合いな「大人用のおむつ」の大きなパックだった。
(おむつ……? 介護でもしているんだろうか。でも、そんな話一度も聞いたことがない)
彼女がレジを済ませ、重い荷物を抱えて歩き出す。牧の心臓は警鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされた。
ロープ、ガムテープ、そして大量の大人用おむつ。
それらの断片的な情報が、牧の脳内で不吉な形を結び始める。もし、彼女が隠している「日常」が、自分の想像を絶するほど歪んだものだとしたら——。「普通の幸せ」が、音を立てて崩れていく予感がした。
住宅街の路地に入ると、ゆかりの足取りは機械的なほどに一定になった。先ほどまでの軽やかな弾みは消え、重い荷物を提げているはずなのに、その背中は微動だにしない。街灯がまばらになるにつれ、彼女の横顔が時折闇に沈む。そこには微笑みも、穏やかさもなかった。
ただ、目的を遂行するためだけに動く人形のような、虚無的で冷徹な無表情。牧はその横顔に、得体の知れない「不気味さ」を感じて足がすくんだ。
辿り着いたのは、ゆかりのアパートだった。ゆかりは迷いなく自分の部屋へと向かう。その窓には厚手の遮光カーテンが隙間なく閉ざされ、内側の生活を頑なに拒絶していた。ゆかりは周囲を一度も振り返ることなく、慣れた手つきで鍵を開け、吸い込まれるように部屋の中へと消えていった。
静まり返ったドアの前で、牧は立ち尽くした。
彼の脳裏には、数時間前にカフェで見せた彼女の眩しい笑顔と、今しがた買い込んだ「拘束」を連想させる品々が交互にフラッシュバックしていた。おむつが必要な誰かが中にいるのか。それとも、あのロープは「誰か」を逃がさないためのものなのか。
(考えすぎだ。何かの間違いに決まっている。彼女はあんなに優しくて、誠実な人なんだから)
自分に言い聞かせる言葉とは裏腹に、喉の奥には酸っぱい塊がせり上がってくる。もしこのまま黙って帰れば、明日もまた「普通」のふりをして彼女と笑い合えるだろう。しかし、その笑顔の裏側を知ってしまった今、以前のような無垢な気持ちには二度と戻れない。
彼女を信じたいという懇願に似た希望と、最悪の事態を想定してしまう本能的な恐怖。その境界線で、牧の精神は千切れそうに軋んでいた。触れてはいけない深淵が、すぐ目の前で口を開けている。真実を知れば、自分の人生は取り返しのつかない場所へ堕ちていくかもしれない。それでも、彼は逃げ出すことができなかった。呪縛に囚われたかのように、牧は震える手を伸ばし、その扉の向こう側を覗かずにはいられなかった。




