普通の行方
ゆかりさんの家から帰り、牧はしばらく呆然としていた。
ドアの向こうで聞こえた微かな音。そして、この胸騒ぎ。(まさか、誰かいたのか?でも、それにしてはゆかりさんの反応が変だった。もし友達なら、普通に「今友達が来てるんだ」とか言うはずだし、彼氏ならそもそも紹介されないだろう……)
しかし、女性との関係に不慣れな牧にとって、その違和感は処理しきれないパズルのピースだった。もしかしたら、地方都市のアパート特有の、隣の部屋の生活音を聞き間違えただけかもしれない。影も、照明が反射した錯覚かもしれない。
「彼女いない歴が長すぎて、色々と深読みしすぎなんだ、おれは」
そう自分に言い聞かせ、牧はスマホを手に取った。やはり、ゆかりさんからの返信を待つのではなく、自分から連絡したいという気持ちが勝った。
「家に無事着きましたか?今日は本当に楽しかったです。また近いうちに会いたいです」
すると、すぐにゆかりさんから返信がきた。
「ありがとうございます。家に着きましたよ。牧さんといると、すごく心が落ち着きます。もちろん、また会いましょう!」
そのやり取りに、牧は安堵した。あの不自然さは、ただの自分の勘違いだったのだと。
そして、3回目のデートの約束はすぐに決まった。
3回目のデートは、少しレトロな雰囲気が残る地元の商店街でのカフェ巡りになった。
「この商店街、昔ながらの喫茶店が多くて好きなんです。牧さんは、どんなコーヒーが好きですか?」とゆかりさんは機嫌よさそうに笑った。
ゆかりさんと過ごす時間は、私に新しい「普通」を与えてくれていた。おしゃれなカフェに入り、美味しいコーヒーを飲みながら、他愛もない話をする。これこそ、多くの人が享受している普通の週末の過ごし方だ。
一軒目のカフェで、私たちは仕事や休日の過ごし方について話していた。
「牧さんは、本当に真面目ですよね。一つ一つ、ちゃんと考えて行動に移しているのがすごいなと思います」
「ゆかりさんこそ、看護師という大変な仕事で、人の命を預かっているなんて尊敬しますよ。僕なんて、誰の人生にも影響を与えない仕事ですから」
「そんなことないですよ。みんなが牧さんみたいに真面目に働いてるから、社会が回ってるんです。でも、たまには息抜きも必要ですよ。自分の考えや、やりたいことを否定する人なんかに、気を遣う必要はないんです」
ゆかりさんがそう言うとき、彼女はコーヒーカップを少し強く握りしめていた。その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようで、彼女の「自分を否定されること」への強い拒否反応が、再び垣間見えた気がした。
二軒目の古い喫茶店で、ゆかりさんが「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきますね」と席を立った。
牧はぼんやりとスマホを眺めていたが、その時、店の入り口から入ってきた二人の女性が、まっすぐこちらへ歩いてきた。二人は20代後半から30代前半くらいに見え、華やかな身なりをしていた。
彼女たちは牧のテーブルの横で立ち止まり、ひそひそ声で話しながら、牧をちらりと見た。
「ねぇ、あそこに座ってるの、もしかしてゆかりの…」
一人が、牧にだけ聞こえるような小さな声で話しかけてきた。
「もしかして、ゆかりの彼氏さんですか?」
牧は驚き、口ごもった。
「え、いえ、あの、そういうわけではないのですが……」
牧が否定すると、二人の女性は目配せをしあった。
「彼氏じゃないって、ならいっか」
「うん、変なこと言わなくても」
彼女たちは牧に背を向け、そのまま店の奥の席へと歩いて行ってしまった。
牧は、急に胸騒ぎがした。彼女たちは一体、何を言おうとしたのだろうか?そして、彼氏ではないなら言わなくていい「変なこと」とは、何なのだろうか。
彼が頭の中でその言葉の意味を巡らせていると、ゆかりさんが戻ってきた。
「お待たせしました。どうしたんですか、牧さん。何か考え込んでいるみたいで」
ゆかりさんは笑顔だったが、その背後には、何か牧に知られてはいけない真実が、音もなく迫ってきているような予感がした。




