普通か否か
ゆかりさんからのLINEに、私は迷わず返信した。
「もちろん、ぜひお願いします!僕もすごく楽しかったので、またお会いしたいです」
その週末から、私は早速ジョギングを始めた。たった15分走っただけで息切れしたが、体を動かすのは久しぶりに心地よかった。この小さな行動一つ一つが、ゆかりさんと再会する来週の土曜日に繋がっているように感じた。
そして約束の日、私たちは駅前のショッピングセンターで合流した。
「牧さん、今日はありがとうございます。なんだか、前より生き生きしているように見えますね」とゆかりさんが微笑んだ。
「そうですか?実は、この前お話しした『新しいこと』、早速ジョギングを始めたんです。ゆかりさんのおかげですよ」
「まあ、嬉しい。頑張ってくださいね」
まずは、私が「ちょっと見てみたい」と言った書店に二人で向かった。牧は自己啓発コーナーで立ち止まり、ゆかりさんはすぐ近くのミステリー小説の棚を眺めていた。
「牧さん、何を読んでるんですか?」
「いえ、なんか、自己啓発とかビジネス書とか読んで、自分を変えなきゃと思って」
「頑張り屋さんですね。でも、牧さんは今のままでも素敵だと思いますよ」
その時、ゆかりさんが持っていた文庫本が、手のひらから滑り落ち、床に落ちた。彼女は「あ、ごめんなさい」と慌てて拾い上げたが、その一瞬、彼女の顔から笑顔が消え、まるで何かに怯えているような、強い緊張感が走ったのを牧は見逃さなかった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。ちょっと手が滑って。最近、疲れが溜まっているみたいで」
ゆかりさんはすぐに笑顔を取り戻したが、その笑顔の裏に、何か固く閉ざされたものがあるように感じた。
その後、私たちは洋服を見て回り、他愛もない会話を楽しんだ。牧は「普通」のデートをしていることが嬉しかった。ゆかりさんの服を選ぶ姿や、ウィンドウショッピングを楽しむ横顔は、ごくごく一般的な、幸せそうな女性に見えた。
日が傾きかけた頃、予約していた居酒屋へ移動した。
「私、ビールより日本酒が好きなんです」とゆかりさんは笑い、熱燗を注文した。
「へえ、意外ですね。でも、お酒強いんですね」
「まあ、それなりに。看護師って、ストレス発散が大事なので」
二杯目の熱燗を飲みながら、ゆかりさんは楽しそうに職場の話をした。
「病院って色々な人がいるんですよ。同僚だけじゃなくて、患者さんも個性が強い人が多くて。私、自分のやり方を否定されるのが、一番許せないんですよ」
そう言って笑う彼女の目が、一瞬、鋭く光ったように見えた。牧は思わず息を飲んだ。先ほどの書店で見せた怯えとも違う、有無を言わさぬ冷たい意志のようなものが、彼女の言葉の端々から感じられた。
「そ、そうなんですね。仕事の人間関係って大変ですよね」
「ええ、大変ですけど、私は自分の仕事に誇り
を持っています。最終的には、私が正しいってわかってもらえるはずです」
牧は、彼女の言葉が、単なる職場の愚痴にしては少し重すぎるように感じた。
居酒屋を出て、時間は午後10時を回っていた。牧は「送りますよ」と言い、ゆかりさんのアパートまで歩いた。
静かな住宅街を二人で歩く。牧にとっては、初めて女性の家まで送るというシチュエーションで、胸がドキドキしていた。
「今日は本当にありがとうございました。楽しかったです」と牧は言った。
「こちらこそ、楽しかったです。牧さんと話すと、なんだか安心できます」
ゆかりさんのアパートに着いた。古いけれど手入れの行き届いた、ごく一般的なアパートだ。牧は、玄関の前で立ち止まった。
「じゃあ、また連絡しますね」
「はい、気を付けて帰ってくださいね」
ゆかりさんがドアノブに手をかけた、その瞬間。
牧は、ゆかりさんの背後のドアの奥から、一瞬だけ微かな物音がしたような気がした。
それは、何かが擦れるような音、あるいは抑えられた呻きのような、本当に小さな、聞き間違いかと思うほどの音だった。
牧は思わず、ゆかりさんの顔を見た。彼女は、先ほどの音には気づいていないかのように、柔和に微笑んでいた。
しかし、その微笑みは、どこか不自然に貼り付けられたようなものに見えた。そして、彼女がドアを開ける直前、牧の目には、ゆかりさんの背中が、わずかに、びくりと震えたように映った。
「入りますね。今日は本当にありがとう」
彼女は、いつも通りの優しい声で言ったが、その目は、牧の背後ではなく、自分の家のドアの奥、闇の中に何かを警戒するように一瞬向けられた。
「あ、はい……おやすみなさい」
牧がそう言うと、ゆかりさんは素早くドアを開け、そして一瞬にして、戸を閉めてしまった。
ガチャン、と鍵が閉まる音がやけに大きく響き、牧の耳に残った。
その戸の向こう側に、一体何が隠されているのだろうか。牧は、今、自分が送ってきた「普通」で楽しい一日の裏に、決して踏み込んではいけない深い闇が潜んでいるような、言いようのない恐怖を感じていた。
牧は、自分が「普通」になりたいと願う一方で、今、目の前で起きていることが、自分の人生を大きく変える「普通ではない」出来事の始まりだと、まだ理解できていなかった。




