8.負けるつもりは、ありませんから 下
作戦決行は、翌日の午後と決まった。
辺境伯様にはジークハルトを通じて、すべての証拠が揃ったこと、そして、私たちの計画を伝えてある。
場所は、城の一番大きな応接室。
辺境伯様が、「領地の交易に関する緊急の諮問会議」と称して、ランフォルト子爵をたった一人で呼び出す手筈になっていた。
そして午後。応接室には重厚な絨毯が敷かれ、壁には歴代辺境伯の肖像画が並んでいる。
上座には辺境伯様が、難しい顔をして座っている。
その斜め後ろには、まるで鋼の像のように、ジークハルトが直立不動で控えている。
私とアマンダさんは、その応接室に隣接する小さな控えの間にいた。
扉が、ほんの少しだけ開けられていて、中の様子が伺える。
(……来たわね)
廊下から、重々しい足音が聞こえてくる。
やがて扉が開き、一人の初老の男が入室した。
彼が、ランフォルト子爵。
年の頃は六十近いだろうか。白髪混じりの髪をきっちりと撫で付け、高価そうな、しかし、華美ではない威厳のある服を身につけている。
「辺境伯様。お呼びにより、ランフォルト、ただいま参りました」
その声は深く落ち着いており、長年、この領地の中枢にいた者だけが持つ自信に満ちていた。
「おお、子爵か。待っていたぞ。……まあ、座れ」
辺境伯様の、いつも通りの演技。若干声が硬い気がするのはご愛嬌か。
「はて。して、緊急の諮問会議とは、一体……? 他の者たちはまだのようですかな」
「うむ。いや、なに」
辺境伯様は机の上の書類を意味もなくパラパラとめくりながら、言った。
「近頃どうも領内の財政が思わしくなくてな。 君には長年、交易と財務を任せてきた。……何か良い知恵はないものかと思ってな」
「ははあ。なるほど」
ランフォルト子爵は少しも疑う様子なく頷いた。
「辺境伯様。ご心配には及びません。確かにここ数年、天候不順が続き穀物の価格が安定しておりませんが、このランフォルト、先代からのご恩に報いるため、全身全霊で領地経営にあたっておりますれば」
「おお、そうか。頼もしいぞ、子爵」
「つきましては来季の王都商会との取引ですが、もう少し、こちらに有利な条件を引き出すべく交渉を……」
(……さてと)
私は、控えの間のアマンダさんと、目を見合わせた。
(そろそろ、出番ね)
私は静かに控えの間の扉を開け、アマンダさんと二人、応接室へと足を踏み入れた。
コツ、コツ、と、私たちのヒールの音だけが室内に響く。
「……?」
ランフォルト子爵が私たちの気配に気付き、訝しげな顔で振り返った。
そして私とアマンダさんの顔を見るなり、その眉間に深いシワが刻まれた。
「……失礼。どなたかな、君たちは。ここは辺境伯様との、重要な会議の場であ……」
「ごきげんよう、ランフォルト子爵」
私は彼の言葉を遮り、王都仕込みの完璧なカーテシーを、ゆっくりと披露してみせた。
「その『天候不順』について、私たちにも、詳しくお話を伺わせていただけます?」
「……なっ」
子爵の顔色が変わった。
彼は、私たちと、辺境伯様の顔を、交互に見る。
「辺境伯様! この者たちは一体……!? まさか王都から来たという罪人と、公爵令嬢……?」
辺境伯様は答えない。
ただ冷たい目で、彼を見つめている。
「子爵様ったらそんなに目を見開いて。これを見たらもっと驚かせてしまうかしら?」
私は、彼の目の前の机に、一枚のスケッチを、ひらりと置いた。
ジークハルトが押さえた、密会の証拠だ。
「……っ!」
子爵が、息を飲むのが分かった。
「これは……何のつもりだ、小娘!」
「いきなり小娘呼ばわりとはこんにゃろ……こほん。えーあなたは三日前の夜。この廃屋で、王都商会の男と、こそこそお話合いをなさっていましたわよね?」
「なっ……! で、デタラメを! 私はそんな場所知らん!」
「ご存知ない? おかしいですわね。そちらに掛けられたあなたの外套の裾には、あの廃屋周辺に自生する珍しい苔の胞子が、それはもうべったりと付着していましたけれど」
これはもちろん、いま私が考えたデタラメだけどね。
子爵の顔は一瞬、青ざめたが、しかし気丈にも言い返してくる。
「う……! たしかにそのような場所に赴くこともあるかもしれない。だがそれは」
「商談、と言い訳なさるおつもり? こんな人目につかない場所で? ……やましいことが、おありだったんじゃないかしら」
「黙れ! 黙れ、小娘が! 辺境伯様! この女は、私を陥れようとしておりますぞ! 王都から来た素性の知れぬ女の讒言に、耳を貸してはなりませぬ!」
ランフォルト子爵は、立ち上がり、必死の形相で、辺境伯様に訴えかけた。
「私は先代からこのグライフェン家に仕えてきた! この私の忠誠をお疑いになるおつもりか!」
「……そうですわね」
私は、彼の必死の訴えに、冷たく言い放った。
「あなたの『忠誠』が、どれほどのものか、この数字が、証明してくれていますわ」
私はアマンダさんに向かって、頷いた。
アマンダさんが、一歩前に出る。
彼女の手には、あの、完璧な資金の流れの一覧表が握られていた。
「ランフォルト子爵」
アマンダさんの、氷のように冷たい声が、室内に響く。
「あなたは、ここ五年間、収穫が芳しくないにも関わらず、『豊作による在庫過多』として王都商会へ穀物を不当に安い価格で売却」
「な、何を……!」
「王都商会は安く大量の作物を仕入れられますわね。さて、貴方がその見返りに得た裏金は資金洗浄を経たのち、王都の宝飾店の口座に。そして、口座から購入した宝石は、奥様の別邸へ」
アマンダさんは、その一覧表を、子爵の目の前に、叩きつけた。
「宝石――現物ならば追跡できないと思いましたか? 浅はかですわね」
一覧表を見た、ランフォルト子爵の顔から、完全に、血の気が引いた。
そこには、彼が築き上げた偽の口座、金の流れ、そして最終的な行き先である、王都の宝飾店の名前まですべてが記されていたからだ。
「あ……あ…………」
彼は、口をパクパクさせ、もはや、言葉も出ないらしい。
「奥様へのプレゼント、ずいぶんと奮発なさいましたのねえ。さあて、これが、あなたの忠誠の、結果ですか?」
私の皮肉たっぷりな呟きが彼の耳に届いたかどうか。
彼は、わなわなと震えながら私たちを睨みつけた。
その目が憎悪と焦りで充血している。
「……貴様らか」
彼は、絞り出すような声で言った。
「貴様ら、王都から来た小娘たちが、この私を……!」
次の瞬間だった。
ランフォルト子爵は叫び声を上げながら、懐から、ギラリと光るものを取り出した!
短剣だ!
「黙れ、黙れ、黙れえええっ!」
彼は完全に逆上し、一番近くにいた私に向かってその短剣を振りかざし、襲いかかってきた!
「リオニア様!」
アマンダさんの悲鳴が響く。
私は咄嗟に、王都から履き慣らしてきたヒールのかかとで絨毯を強く蹴り、体勢を低くした。
護身術の基本。相手の攻撃を避ける。
だが、私が避けるよりも速く。
私の目の前を鋼のような黒い影が通り過ぎた。
「……!」
ガギンッ!
耳障りな金属音。
何が起こったのか分からなかった。
分かったのは、ランフォルト子爵が短い悲鳴と共に床に倒れ伏していること。
そして、その彼の上に片膝をつき、その腕をあり得ない角度に捻じ上げ、短剣を床に叩き落とさせている、ジークハルト団長の後ろ姿だった。
「……っ、ぐ、あああっ!」
子爵が言葉にならない呻き声を上げる。
ジークハルトは、その声には一切耳を貸す様子もなく、冷え冷えとした鋼のような声で言った。
「……辺境伯様の御前である」
彼は捻じ上げた腕をさらに、ギリ、と締め上げる。
「これ以上の狼藉は、グライフェン騎士団長の名において許さん」
あっけなかった。
あれほどまでに威厳を保っていた重鎮貴族の、あまりにも惨めな最後だった。
ランフォルト子爵は駆けつけた兵士たちによって縄を打たれ、引きずられるようにして応接室から連れ出されていった。
「……辺境伯様、お許しを、お許しを……!」
最後まで彼は、みっともなくそう叫んでいた。
嵐が去った。
応接室には辺境伯様と、ジークハルト、そして、私とアマンダさんの四人だけが残された。
辺境伯様は、深く、深く、椅子に座り込み、天井を仰いでいた。
その顔は、激怒と、安堵と、そして深い疲労が入り混じっていた。
やがて彼はゆっくりと、私たちに向き直った。
そして私たちに、深く、深く、頭を下げた。
「……リオニア嬢、アマンダ嬢」
「辺境伯様!」
私とアマンダさんが、慌てて声を上げる。
「どうか、お顔を上げてください!」
「いや……」
彼は、頭を下げたまま、絞り出すように言った。
「……すまなかった。私の責任だ。先代からの重臣という言葉に目が眩み、真実を見ようとしていなかった」
「……」
「そして……礼を言う」
辺境伯様は、顔を上げた。
その鷹のような目には、うっすらと、涙が滲んでいるように見えた。
「二人とも、このグライフェン辺境伯領の恩人だ」
その言葉は、私とアマンダさんの胸に、温かく染み渡っていった。
私たちは、顔を見合わせた。
(……やったわね、アマンダさん)
(ええ、リオニア様!)
言葉には出さなかったけれど、お互いの気持ちは痛いほど分かった。
私たちはこの地で、私たちの居場所を守り切ったのだ。
「……フン」
その時、私たちの感動的なムードをぶち壊すかのように、不機嫌そうな声が横から聞こえた。
見ると、ジークハルトが腕を組み、相変わらずの無表情で私たちを、というか、私を見ている。
「……なによ、団長様。せっかくいいところなのに」
私が文句を言うと、彼はその銀色の目を私に向けた。
もうそこには、初めて会った時のような値踏みするような色も、侮蔑の色もなかった。
ただ、まっすぐに、私を見ている。
「……『口』だけでは、なかったようだな」
ぽつり、と、彼が呟いた。
「え?」
「あの短剣を、避けようとしていた。……あの状況で、冷静に足を動かせる令嬢が、どれほどいるか」
「……そりゃ、どうも」
「……まあ、避ける前に、私が制圧したが」
「あー、そうね! そうだったわ!」
私はわざとらしく大声で言った。
「いやー、危なかったですわ! あのとき団長様が助けてくれなかったら、わたくし今頃どうなっていたことか! さすがは我らが騎士団長様! 惚れちゃいそうですわ~!」
私が両手を組んで、わざとらしく彼を褒め称えると、ジークハルトは分かりやすく顔を顰めた。
「……調子に乗るな、小娘」
「あ、小娘って言ったわね!?」
「……それと」
彼は、私の抗議を無視して、アマンダさんに向き直った。
「……アマンダ嬢。君の、その数字を読む力。……素晴らしいものだ。騎士団の食糧庫が空にならずに済んだのは、君のおかげだ」
「……!」
アマンダさんは驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに頬を染めた。
「……ありがとう、ございます! 団長様!」
「……フン」
ジークハルトはそれだけ言うと、また私たちに背を向け、応接室の扉へと向かった。
「あ、ちょっと! どこ行くのよ!」
「後処理だ。ランフォルトの残党狩りと、王都商会への通達。……やることは、山積みだ」
彼は、振り返らないまま、そう言った。
「……それと」
扉に手をかけた彼が、一瞬、動きを止めた。
「……リオニア嬢。君が立案した、この作戦。……見事だった」
「……え?」
「……だが、二度とあのような、危険な囮になるような真似は、するな」
「……はあ?」
彼はそれだけ言うと、今度こそ、応接室から出て行った。
残されたのは、私と、アマンダさん。
そして、なぜかとても楽しそうに口元を緩めている、辺境伯様だった。
「……な、なんなのよ、あの人……!」
私はジークハルトが出て行った扉を睨みつけながら呟いた。
最後の、なに?
囮になるな、って……。
……あの人もしかして、私がわざと子爵に襲い掛かるように仕向けたって思ってるの!?
いや、まあ、そう仕向けたのは、事実だけど!
……というか、あの最後の、ちょっと心配してる、みたいな口調は、なに!? 精神攻撃!?
私は、自分の顔がカアッと熱くなるのを感じた。
「……くっそー! あの、銀目ネクラ野郎めー!!」
私の訳の分からない叫び声が、勝利に沸く応接室に響き渡ったのだった。




