6.やるからには完膚なきまでに
「……この辺境伯領の、とんでもない秘密を、見つけてしまったかもしれませんわ」
中庭に響いたアマンダさんの声は、いつもの凛としたものではなく、かすかに震えていた。
夕日に照らされた彼女の顔は、血の気が引いたように青白い。
さっきまでの騎士団長ジークハルトへの怒りも、模擬戦の疲れも、一瞬でどこかへ吹き飛んだ。
「秘密?」
「はい。……これは、ただの滞りではありません。 ……もっと、根の深い……」
彼女は、抱えている分厚い帳簿を、まるで恐ろしいものでも見るかのように見つめている。
私は、周囲を素早く見渡した。
もう夕食に近い時間だ。中庭には、私とアマンダさん以外に人影はない。
だが、壁に耳ありなんとやら、だ。
「……ここでは、まずいわね」
私は木剣を置くと、アマンダさんの手を取った。
「部屋に戻るわよ。詳しく聞かせてちょうだい」
私たちは逃げるように中庭を後にし、塔にある私たちの部屋へと急いだ。
石の階段を駆け上がり、部屋に飛び込むと、私はすぐに内側から鍵をかけた。
「ふう……。これでひとまず大丈夫」
アマンダさんは持っていた帳簿を、部屋に一つだけある小さな机の上にどさりと置いた。
『辺境伯領 穀物倉庫 出納帳』
『王都商会 取引記録(写し)』
彼女が中庭のベンチに置いていた帳簿だった。
「アマンダさん、一体、何を見つけたの?」
私が尋ねると、彼女は深呼吸を一つして、決意を固めたように顔を上げた。
「リオニア様。……まず、これをご覧くださいまし」
彼女は、『穀物倉庫 出納帳』 を開き、あるページを指差した。
そこには、びっしりと数字が並んでいる。
「これは領内の穀物倉庫の在庫記録ですわ。今年の収穫も平年並みですが、倉庫には十分な備蓄があることになっています」
「うん。それが、何か?」
「ですが、こちらを」
次に彼女が開いたのは、『王都商会 取引記録』 だった。
「こちらは辺境伯領で収穫された穀物の、主な取引先とその記録です。……ですが、この取引記録と、出納帳の数字を照らし合わせると……どうにも、計算が合わないのです」
「計算が合わない?」
「はい。最初は、単なる管理上のミスなのだと思っておりました。ですが、わたくしどうしても気になって、過去数年分の契約書をすべて引っ張り出して調べ直したのですわ」
アマンダさんの目が、鋭い光を帯びる。
王都にいた頃の、ただ優雅に微笑んでいた彼女とは、まるで別人だ。
「そして、見つけました。……この、不自然な取引契約を」
彼女が指差したのは、契約書の末尾にある署名だった。
「……ランフォルト子爵」
「ご存知ですの?」
「名前だけは。辺境伯様の補佐的な立場で、領内の交易を一手に担っている、先代からの重鎮貴族……だって、補佐官の人たちが噂してたわ」
「その通りですわ」
アマンダさんの声が、一段と低くなる。
「問題は、このランフォルト子爵が、辺境伯様ご自身ではなく、代理人として、この商会との独占的な取引契約を結んでいる点です」
「……どういうこと?」
「この契約書、一見すると、辺境伯領に非常に有利な条件に見えます。ですが、この条項……『収穫量変動の際は、双方の協議の上、価格を決定する』……ここが、あまりにも曖昧なのです」
彼女の指が、帳簿の別のページを叩いた。
「ここ数年、辺境は豊作とは言えない状況が続いています。ですが、この帳簿上では、毎年『豊作による在庫過多』を理由に、王都の商会へ、相場よりはるかに安い価格で大量の穀物が売却されているのです」
「……は? 豊作でもなんでもないのに?」
「はい。そして、『安く売った』ことによって生じた損失は、領地の財政から補填されています」
よくわからないな。豊作だと偽って領内で損失補填?
いったい、なにがしたいのだろう? 私の疑問に応えるように、アマンダさんが続けた。
「……ですが、実際には豊作ではないのですから、穀物は足りなくなりますわよね」
「……まさか」
私は、言葉を失った。
アマンダさんは、さらに別の書類を広げた。
「この損失補填のせいで、領地の財政にも影響が出ています。また穀物も、本来備蓄として必要な分まで売却されています。出納帳では倉庫に穀物があることになっているため、誰も気付いていませんが……このままいけば、今年の冬を越すための備蓄が、底をつきます」
「……は?」
「騎士団や兵士の方々へ供給する食料すら、危うくなる。……これが、わたくしが見つけた内容ですわ」
アマンダさんの顔は、真っ青だった。
「この商会は穀物を安く仕入れられ、ランフォルト子爵の側も何らかの見返りを得ているのでしょう。数字は、嘘をつきませんもの。 ……この数字が示しているのは、この領地に対する、明確な裏切りですわ」
部屋が、シンと静まり返った。
窓の外で、辺境の冷たい風がヒューと音を立てている。
王都での、あのバカ王子との婚約破棄騒動が、まるで子供の遊びのように思えてきた。
これは、領地の存亡に関わる大問題だ。
「……辺境伯様は、ランフォルト子爵を信頼しているのよね?」
「ええ。補佐官の方のお話では、先代から仕える、最も信頼厚い重鎮だとか。辺境伯様ご自身も、まさか彼が裏切るなどとは、夢にも思っていないでしょう」
「……どうする、アマンダさん。これを……突き出す?」
私が尋ねると、アマンダさんは、迷いのない、強い瞳で私を見返した。
「もちろんですわ」
その声に、私は、あの夜会で彼女の手を取った時のことを思い出していた。
「これを放置すれば、この領地が……わたくしたちの、ようやく見つけた居場所が、なくなってしまいます!」
そうだ。
彼女はもう、誰かに守られるだけの公爵令嬢じゃない。
自分の居場所を、自分の力で守ろうとする、戦う人だ。
「……決まりね」
私も、覚悟を決めた。
「明日、一番で辺境伯様にご報告よ。……ただし」
私は、机に広げられた帳簿を見つめた。
「報告の仕方には、細心の注意が必要ね。相手は、先代からの重鎮貴族。私たちがどれだけ完璧な証拠を突きつけても、私たちが『王都から来た厄介者』であることは変わらない」
「……リオニア様」
「証拠が完璧であればあるほど、ランフォルト子爵は、こう言うでしょう。『王都から来た罪人の娘と、世間知らずの公爵令嬢が、この私を陥れようとしている』と。……最悪、私たち二人の讒言だと、握り潰されかねないわ」
「では、どうすれば……?」
「辺境伯様が、私たちの言葉を信じるしかない、と思わせるのよ。……アマンダさん、今夜、徹夜になるわよ。いい?」
「望むところですわ!」
私たちは、ランプの灯りを頼りに、アマンダさんが見つけた数字の証拠を、誰もが一目で理解できるように、完璧な報告書としてまとめる作業に取り掛かった。
*
翌朝。
私たちは、朝食もそこそこに、辺境伯様の執務室へと向かった。
寝不足で目の下にはクマができているかもしれないが、そんなことは気にしていられない。
衛兵に「緊急の報告です」と強く伝え、私たちは、朝から書類の山に埋もれていた辺境伯様の前に通された。
「……どうした、二人揃って。朝から騒々しい」
辺境伯様は、疲れた顔で私たちを見た。
「リオニア嬢、子供たちの授業はいいのか?」
「本日は、授業よりも、もっと緊急で、重大な案件がございます」
私がそう言うと、アマンダさんが、一歩前に出た。
彼女の手には、昨夜、私と二人で完成させた報告書が握られている。
「辺境伯様。どうか、この数字だけを、ご覧になってくださいまし」
アマンダさんは、余計な前置きは一切せず、報告書を辺境伯様の机に広げた。
「……これは? 財務の報告なら、補佐官から受けることになっているが」
怪訝な顔をする辺境伯様に、アマンダさんは一切動じなかった。
彼女は、王都の令嬢たちが宝石の名前を覚えるように、数字と契約書を暗記してきたのだ。
「辺境伯様。まず、こちらの穀物倉庫の出納帳と、王都商会との取引記録の数字のズレについてご説明いたします」
アマンダさんの、冷静で、淀みない説明が始まった。
最初は「何を言っているんだ」という顔で、面倒そうに書類を眺めていた辺境伯様。
しかし、アマンダさんが提示する、あまりにも具体的で、反論のしようのない数字の矛盾を次々と突きつけられるうちに、その表情は、次第に険しいものへと変わっていった。
そして、アマンダさんの説明が、ランフォルト子爵が結んだ不自然な契約書の内容と、それによって予測される領地の財政危機、そして食料備蓄の枯渇に及んだ時。
辺境伯様は、鷹のような目を、怒りで血走らせていた。
「ランフォルトが……」
机の上に置かれた報告書を、彼は、握り潰さんばかりの勢いで掴んでいた。
「あの男が……! この私を、父の代から……! 馬鹿なあっ!」
ドンッ! と、彼が机を拳で叩きつける。
執務室の空気が、ビリビリと震えた。
「辺境伯様」
私は、その震える拳に、静かに声をかけた。
「怒るのは、後です」
「……!」
「今はこの裏切り者を、どうやって確実に追い詰めるか。……それを、お考えください」
辺境伯様は、はっ、と我に返ったように私を見た。
彼は、大きく、荒い息を数回繰り返し、無理やり冷静さを取り戻そうとしている。
「……追い詰める、だと? 当たり前だ! 今すぐ兵を差し向け、あの男の屋敷を包囲し、牢にぶち込んでくれる!」
「お待ちください!」
私は、今にも飛び出していきそうな辺境伯様を、大声で制した。
「それをしたら、ランフォルト子爵の思う壺です!」
「……何だと?」
「彼は、先代からの重鎮。領内の貴族や商人たちへの影響力も大きい。もし、今、辺境伯様が、感情のままに彼を拘束すれば……」
私は、王都で見てきた、汚い貴族たちの手口を思い浮かべながら、言葉を続けた。
「彼は、きっとこう言うでしょう。『辺境伯様は、王都から来た素性の知れぬ女たちに唆され、長年忠誠を誓ってきた、この私を疑われた』と。……そうなれば、領内の他の貴族たちも、あなたに不信感を抱くかもしれません」
「……くっ」
「それに、彼が捕まる前に、不正の証拠である裏帳簿や、王都の商会との密約書の元本をすべて焼き払ってしまったら? 私たちにあるのは、アマンダさんが解析した写しだけ。彼は、いくらでも言い逃れができます」
辺境伯様は、悔しそうに、唇を噛み締めた。
「……では、どうしろと。このまま、不正を見過ごせというのか」
「いいえ」
私は、首を横に振った。
「見過ごすなんて、とんでもない。……やるからには、完膚なきまでに、です」
私は、アマンダさんに向き直った。
「アマンダさん。あなたは引き続き、物流と資金の流れの解析をお願い。穀物がどこに消えたのか。王都の商会に還流しているのか。それからランフォルト子爵周辺に不審な金の流れはないか。……それを、突き止めて」
アマンダさんは、力強く頷いた。
「はい。この数字を追えば、必ず流れは掴めますわ。……三日、いえ、二日ください。必ず、突き止めてみせます」
「頼んだわ。……そして、私」
私は、辺境伯様に向き直った。
「私は、ランフォルト子爵を追い詰めるための計画を立案します。私が、言い逃れできないように問い詰める」
「無茶だ!」
辺境伯様が、即座に反対した。
「君が一人で対峙するなど、自殺行為だ! あの男が本当に裏切り者だとしたら……君の身が危うい!」
「もちろん、一人ではありません」
私は、あえてニヤリと笑ってみせた。
「辺境伯様。……この作戦を成功させるには、アマンダさんの頭脳と、私の口だけでは、足りません」
「……」
「私たちには、強力な駒が、もう一つ必要です」
「駒……だと?」
「はい。この城で、最も信頼でき、最も武力を持ち、そして、領内の情報に通じている人物。……彼に、私たちの剣と盾になっていただくのです」
辺境伯様は、私の言葉の意図を、すぐに理解したようだ。
彼は、深く頷き、その口から、私と同じ答えを導き出した。
「……ジークハルト、か」
「はい。騎士団長です」
辺境伯様は迷わなかった。
彼はすぐに側近の兵士を呼び、一言、命じた。
「ジークハルトを呼べ。……緊急の軍令だ」
数分も経たないうちに、執務室の扉が、荒々しくノックされた。
「ジークハルト・ベルク、ただいま参りました。お呼びでしょうか、辺境伯」
扉が開き、ジークハルトが、厳しい表情で入ってきた。
彼は、朝の訓練中だったのか、まだ制服の首元を少し緩め、額には汗が浮かんでいる。
そして、執務室の中に、私とアマンダさんがいるのを認めると、その銀色の目が、わずかに細められた。
「……また、君たちか」
あの模擬戦の時と同じ、値踏みするような、冷たい視線だ。
「団長様。昨日はどうも」
私がひらひらと手を振ってみせると、彼は露骨に私を無視し、辺境伯様に向き直った。
「緊急の軍令とは、一体……」
「ジークハルト」
辺境伯様が、重い口を開いた。
「……座れ。緊急事態だ。……アマンダ公爵令嬢から、報告を聞け」
ジークハルトは訝しげな顔をしながらも、勧められた椅子に座り、腕を組んた。
「……公爵令嬢から? 財務の報告を?」
「いいから、聞け」
アマンダさんが、一歩前に出た。
彼女は、先ほど辺境伯様にした説明を、今度はジークハルトにも、一言一句違わずに繰り返した。
ジークハルトは、相変わらずの無表情で、黙って説明を聞いている。その銀色の瞳は、アマンダさんが広げた報告書を、ただじっと見つめている。
何を考えているのか、まったく読めない。
だが、アマンダさんの説明が、騎士団や兵士たちへの食料供給すら危うくなるという部分に差し掛かった、その瞬間。
彼の銀色の瞳が、カッと、研ぎ澄まされた鋼のような鋭い光を放ったのを私は見逃さなかった。
説明が、すべて終わった。
執務室に、重い沈黙が落ちる。
ジークハルトは、ゆっくりと顔を上げ、低い声で呟いた。
「……ランフォルト子爵が不正契約を?」
「ああ」
辺境伯様が、苦々しく頷く。
「信じ難いことだが、このアマンダ嬢がまとめた証拠を見る限り、疑いの余地はない」
ジークハルトは、私に向き直った。
その目は、もはや私を値踏みするような色ではなく、純粋な疑問と……苛立ちを含んでいた。
「……それで? なぜ君が作戦を立案するなどと、ふざけたことを言っている」
(うわ、やっぱり聞こえてたか、私の声)
「ふざけてなんかいませんよ、団長様」
私は、椅子から立ち上がり、彼と真っ直ぐに向き合った。
「私は王都で、あなたたちが想像もつかないような汚い貴族たちを、それこそ山ほど見てきました」
「……」
「彼らがどういう手口で責任から逃れ、どういう甘い言葉で相手を丸め込み、自分たちの私腹を肥やすか。……その手口なら、知り尽くしています」
私は、自分自身を指差した。
「私のこの『口』は、バカ王子を論破するためだけにあるんじゃありません。こういう、領地を食い物にする悪党を、完膚なきまでに追い詰めるためにも使えるんですよ」
「……」
「あなたは、この領地で最強の武力を持っている。その武力と、騎士団が持つ情報網で、私たちの道を切り開いてほしい」
私は、アマンダさんを見た。
「アマンダさんは、数字という揺るがない武器で、敵の城壁を内側から崩す」
そして、もう一度、ジークハルトを見据えた。
「そして、私が、敵の大将……ランフォルト子爵を追い詰める」
「……」
「どうです? 信用できない『女子供の遊び』 だと笑って、この領地が、あなたの守るべき騎士団が、飢えで沈んでいくのを、指をくわえて待っています?」
私の、最大限の挑発。
ジークハルトは、黙って私を見つめていた。
その銀色の瞳の中で、何かが、激しく揺れ動いている。
やがて彼は、ふっ、と自嘲するような、それでいてどこか楽しむような、不思議な息を吐いた。
「……面白い」
あの模擬戦の時とは、違う。
「面白い女だとは思っていたが…… まさか王都から、これほどのとんでもない『厄介事』まで持ち込んでくるとはな」
いやその言い分はおかしい。私のせいみたいじゃないか。人聞きの悪い。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして辺境伯様に向き直り、片膝をつき、騎士の礼を取った。
「辺境伯。……いえ、伯父上」
え、今、伯父上って……。
あ、そういえば、アマンダさんがご親戚筋って言ってたっけ。
「この作戦、ジークハルト・ベルク、グライフェン騎士団の名誉にかけて、必ずや、遂行させていただきます」
辺境伯様が、その肩に、力強く手を置いた。
「……頼む、ジークハルト。お前しかいない」
ジークハルトは、立ち上がると、私とアマンダさんに向き直った。
その銀色の瞳には、もう、一切の迷いはなかった。
「……で、具体的に、どう動く。まずはランフォルトの屋敷に忍び込み、裏帳簿でも探すか?」
「あら」
私は、思わず笑ってしまった。
「意外と脳筋ですのね、団長様」
「なっ……!」
ジークハルトの無表情な顔が、初めて分かりやすくムッとした。
「じょ、冗談ですよ、冗談!」
私は、慌てて手を振った。
「まずは、あなたの部下……騎士団の情報網を使って、徹底的に、ランフォルト子爵の裏を洗ってもらいます。アマンダさんと連携しながらね」
「裏、だと?」
「ええ。彼の最近の行動、金の流れ、付き合いのある商人。そして、何より……」
私は、人差し指を立てた。
「その王都商会の人間と、密会している証拠。これを、押さえてちょうだい」
「……それは、命令、か?」
ジークハルトの目が、再び、鋭くなる。
「いいえ」
私は、最高の笑顔 (仮面じゃないやつね!)で、彼に言った。
「これは、作戦の提案であり、私たちの願いです」
「……」
「よろしくね、団長様」
ジークハルトは、チッ、と小さく舌打ちをすると、一言も返事をせず踵を返して、嵐のように執務室を出て行った。
「……やれやれだ」
辺境伯様が、大きなため息をつき、額を押さえている。
「……リオニア嬢。君は、あのジークハルトまで手玉に取る気か」
「さあ? どうでしょう」
私とアマンダさんは、顔を見合わせ、頷いた。
私たちの本当の戦いが、今、始まったのだ。




