5.これが私の教養よ! 下
私の護身術が辺境伯様の許可を得たという一件は、すぐに城内に知れ渡ったらしい。
『王都から来た罪人令嬢が、辺境伯様を論破した』
『あまつさえ、お子様たちに格闘術を仕込んでいる』
そんな噂が、使用人や兵士たちの間で、まことしやかに囁かれるようになった。
ある者は不敬な女だと眉をひそめ、またある者は面白いと興味津々な目を私に向けるようになった。
そしてその噂は当然、この城の武のトップの耳にも入ることになった。
その日の夕方。
子供たちとの授業を終え、中庭で一人、木剣の素振りをしていた時のことだ。
王都にいた頃から父に叩き込まれた護身術は、私の唯一の特技であり、ストレス解消法でもあった。
仮面を被っていた頃も、夜中にこっそり庭に出て、こうして木剣を振っていたものだ。
(辺境の空気は、王都より澄んでるな)
剣を振るたびに、冷たい空気が肺を満たしていく。
気持ちがいい。
「ふっ! はっ!」
夢中になって木剣を振っていると、不意に、背後から低い声がかかった。
「……それが、辺境伯様を納得させたという、護身術か」
びくっ!
私は、慌てて振り返った。
いつの間に、そこに立っていたのか。
夕日を背にして、一人の男が立っていた。
背が高い。
辺境伯様と同じくらいか、それ以上だ。
黒い髪を短く刈り込み、体には、無駄な肉が一切ない。
灰色の騎士団の制服を着ているが、その上からでも、鍛え上げられた体躯だと分かる。
そして何より印象的だったのは、その目だ。
夕日の逆光の中でもはっきりと分かる、銀色の瞳。
まるで、研ぎ澄まされた鋼のような、冷たい光を宿している。
……というか誰?
「……失礼。どちら様で?」
私が木剣を握りしめたまま尋ねると、男は無表情のまま、一歩、私に近づいた。
「ここの騎士団長を務めている。ジークハルト・ベルクだ」
「……騎士団長様でしたか。これはご丁寧に」
私は、軽く会釈をした。
グライフェン辺境伯様領の騎士団長。
この最前線の、武力の頂点に立つ男。
ジークハルトと名乗った騎士団長は、私から木剣へと視線を移した。
「……噂は聞いている。リオニア嬢。王都で王子をやり込め、この地では辺境伯様を言い包めた、口の達者な令嬢、とな」
「まあ、光栄ですわ。噂通り、口だけは達者ですのよ」
私はあえて、王都で使っていた淑女の仮面の口調で返してみた。
だが、騎士団長は眉一つ動かさない。
それどころか、その銀色の目が、私を値踏みするように細められた。
「……その構え、素人ではない」
「嗜み、ですわ」
「嗜みで辺境伯様のお子様たちに格闘術を教えるのか」
「護身術と呼んでいただきたいですわね」
「感心だが、付け焼き刃はかえって危険だ。いざという時、中途半端な技術は相手を逆上させるだけになる」
私たちの会話は火花が散るようだった。
お互いに、一歩も引かない。
騎士団長はしばらく私を無言で見つめていたが、やがて、
「……そうだな」
と、小さく呟いた。
そして彼は、どこから取り出したのかもう一本の練習用木剣を手に取った。
「……え?」
「ではその護身術が、どれほどのものか」
彼は、木剣を軽く一振りし、その切っ先を、まっすぐ私に向けた。
「この私が、直々に確かめてやろう」
「……は? え? ちょっと待って」
こいつ、最初からそのつもりで……。
「手合わせを、望む」
「いやいや! なんでそうなるのよ!?」
私は思わず素の口調に戻っていた。だって私ただの貴族令嬢よ? 相手になるわけないじゃない。
でも、厭味ったらしく皮肉げに歪められた口元を目にしたとき、私の闘争心に火が付いた。
「~~っ! わかった! わかったわよ!」
「ほう?」
「やってやろうじゃない! 騎士団長がなんぼのもんよ!」
そして、私たちは中庭の中央で、木剣を構えて向き合った。
騎士団長――ジークハルトは、ただ立っているだけなのに、まるで鋼鉄の城壁のように何の隙も見えない。
(わかってたことだけど……こりゃ、一筋縄じゃいかないわね)
「手加減は無用ですよ」
「それはこちらの台詞だ、ご令嬢」
先に動いたのは、私だった。
「やあっ!」
私は、貴族の剣術の型など無視した、変則的な突きを繰り出した。
しかし、ジークハルトは、それを最小限の動きで弾き返す。
重いっ……!
手首に、痺れるような衝撃が走る。
私はすぐに体勢を立て直し、今度は彼の足元を狙って、低く剣を振るった。
「甘い」
ジークハルトはそれを軽々と飛び越えると、今度は彼の方から、嵐のような連撃を仕掛けてきた。
速い! 王都の騎士たちとの遊びのような手合わせとは次元が違う。
一撃一撃が、私の木剣を砕かんばかりの威力を持っている。
私は、避けて、弾いて、受け流すので精一杯だった。
くっそ、強い!
だが私も、伊達にわんぱく令嬢なんて呼ばれてない。
私は、わざと大きく体勢を崩すフリをした。
「……!」
ジークハルトが、好機と見て踏み込んでくる。
その瞬間、私は地面すれすれまで屈み込み、再び彼の足元を狙った!
「なっ……!」
さすがのジークハルトも、この型破りな動きは予想していなかったらしい。
彼は咄嗟に後ろに跳んで、私の足払いをかわした……が、その体勢がほんの一瞬崩れた。
(今だ……!)
私は地面を蹴って、体当たりするように彼の懐に飛び込んだ!
だが――。
「……そこまでだ」
冷たい声と共に、私の視界がぐるりと反転した。
気が付くと私は、訓練場の柔らかい芝生の上に仰向けに倒されていた。
首筋には木剣の切っ先が突きつけられている。
ジークハルトが、完璧に私を押さえ込んでいた。
……完敗だ。
ほんの一瞬。体勢が崩れたように見えたのは、私を誘い込むための罠だったのだ。
シーン、と中庭が静まり返る。
私は、首筋の木剣と、私を見下ろす銀色の瞳を、交互に見た。
それから、ふう、と大きく息を吐き出した。
そして。
「あー! 負けたー!」
私は、両手両足を広げて、大の字になった。
「くっ……あははは! やっぱめちゃくちゃ強いわ、団長様! 完敗よ!」
私は、空を見上げて、心の底から笑った。
久しぶりだ。こんなに本気で打ち合って、こんなに清々しく負けたのは。
私のその反応が、よほど予想外だったらしい。
ジークハルトは、銀色の目をわずかに見開いて固まっていた。
「……何が、おかしい」
「いやあ、だって、本当に強いんだもの。流石に騎士団長に勝てるだなんて自惚れてはなかったけれど、にしても気持ちいいくらいの負けっぷりだわ」
私は笑いすぎて滲んだ涙を、手の甲で拭った。
ジークハルトは、黙ったまま私に手を差し伸べた。
私はその手を素直に取って、体を起こした。
「ありがとうございました、団長様。いい訓練になったわ」
「……」
彼は、何も言わずに、自分の木剣を鞘代わりのベルトに収め、脱いでいた上着を羽織った。
そして、私に背を向けて歩き出す。
あ、振り向いた。
その銀色の目が、再び、私を射抜く。
「このグライフェン辺境伯領は、常に危険と隣り合わせだ。王都から来た令嬢の遊びで、領内を混乱させることは、許さん」
「……遊びじゃありませんよー」
「ならば、示してみせろ。君のその護身術は、まあ……それなりのもののようだが」
「あれっ? 意外と高評価?」
「……勘違いするな。私は、まだ君を信用したわけではない」
騎士団長は、それだけ言うと、私に背を向けた。
「……あ、ちょっと!」
私が呼び止めるのも聞かず、彼は、長い足でさっさと歩き去っていく。
「なんなの、あの人……会話をしろ会話を!」
私は、残された中庭で、木剣を握りしめたまま、呆然とその背中を見送るしかなかった。
黒髪、銀目。ジークハルト・ベルク。
クールな性格……っていうか、ただの暗いヤツじゃない。
私は、なんだか無性に腹が立ってきて、残りの体力すべてを使い果たすかのように、もう一度、木剣を振り回し始めた。
「てやーっ! とおーっ! あの黒髪ネクラ野郎! そこは戦いを経て打ち解けるところだろーっ!」
私が心のモヤモヤを叫びながら一人で息を切らしていると、中庭の入り口から、ひょっこりと顔が覗いた。
「リオニア様?」
「あ、アマンダさん。お帰り」
「ただいま戻りましたわ。……あの、今、とても背の高い方が、こちらから出ていかれましたが……」
「そうなのよ! なんか、騎士団長だって! ジークハルトとか言ったっけな! すっごい感じ悪いのよ!」
私が、木剣を杖代わりにして愚痴をこぼすと、アマンダさんは、こてん、と首を傾げた。
「ジークハルト様……ベルク騎士団長ですわね。グライフェン辺境伯様家のご親戚筋にあたる方で、子爵家の嫡男でもあると、補佐官の方がおっしゃっていましたわ」
「へえ子爵家嫡男……。王都だったら、間違いなく令嬢たちの注目の的ね」
「ふふ、そうですわね」
「あの陰気さをどうにかできれば、だけど」
「まあまあ」
アマンダさんは、私の隣に来ると、自分が抱えていた数冊の分厚い帳簿を、どさりとベンチに置いた。
「……ん? どうしたのアマンダさん。その荷物」
「これですの? お部屋で、少し確認したいことがありまして」
「ふうん。相変わらず熱心ねえ」
私は、汗を拭いながら、何気なくその帳簿の表紙を見た。
『辺境伯様領 穀物倉庫 出納帳』
『王都商会 取引記録(写し)』
「……なんか、大変そうね」
「ええ、大変ですの」
アマンダさんは、そう言った。
いつもの、数字を解き明かすのが楽しい、という明るい声ではなかった。
私は、彼女の横顔を見た。
夕日に照らされた彼女の顔は、いつになく真剣で、そして……険しい。
「アマンダさん……?」
「……リオニア様」
彼女は、私を見上げた。
その瞳は、何か、とんでもないものを見つけてしまった、という色をしていた。
「どうやら、わたくし……」
彼女は、ゴクリと唾を飲み込む。
「この辺境伯領の、とんでもない秘密を、見つけてしまったかもしれませんわ」
「……秘密?」
「はい。……これは、ただの滞りではありません。……もっと、根の深い……」
アマンダさんの言葉に、私は、さっきまでの騎士団長への怒りも、素振りの疲れも、どこかへ吹き飛んでいくのを感じた。
(波乱の共同生活、か)
私は、アマンダさんが抱える帳簿と、彼女の真剣な顔を、交互に見た。
どうやらこの辺境の地は、私が思っていた以上に、刺激的な場所になりそうだ。




