4.これが私の教養よ! 上
辺境伯様領での新しい生活が始まって、数日が過ぎた。
朝は早い。
王都にいた頃のように、侍女がカーテンを開けて紅茶を運んでくれるなんてことはない。
石造りの部屋に差し込む、まだ冷たい朝日を合図に、アマンダさんと二人でベッドから這い出す。
顔を洗い、支給された簡素な服 (でもドレスとは比べ物にならないほど動きやすい)に着替える。
「おはようございます、リオニア様」
「おはよ、アマンダさん」
私たちは、城の使用人や兵士たちに混じって、大食堂で朝食をとる。
メニューは決まって、少し硬い黒パンと、具だくさんのスープ、それと干し肉かチーズ。
王都の貴族が食べるような、細やかで手の込んだ朝食ではないけれど、これが驚くほど美味しかった。
特に、冷えた体に染み渡るスープは最高だ。
「ここのパン、噛めば噛むほど味が出るわね」
「ええ、スープに浸していただくのも、また格別ですわ」
アマンダさんは、すっかりこの生活に馴染んでいた。
それどころか、彼女はまさに水を得た魚のようだった。
「では、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
朝食を終えると、彼女はきりりとした顔で立ち上がる。
「うん、頑張って」
「リオニア様も」
彼女が向かうのは、城の執務室。
辺境伯様の補佐官のもとで、帳簿の整理と財務の仕事が始まっているのだ。
初日こそ「公爵令嬢にこのような雑務を……」と恐縮していた補佐官たちも、アマンダさんの驚異的な仕事ぶりを見て、今では彼女を「アマンダ先生」と呼びたい、とまで言っているらしい。
彼女は、公爵令嬢として受けてきた高度な教育をフル活用し、複雑怪奇だった辺境伯様領の帳簿を、猛烈なスピードで解析・整理し始めていた。
「……すごいわ。アマンダさん、王都にいた頃よりずっと楽しそう」
「ええ、本当に。数字は嘘をつきませんもの。……レグルス殿下とは大違いですわ」
先日、部屋に戻ってきた彼女が、頬を紅潮させながらそう言っていたのを思い出す。
どうやら彼女にとって複雑な帳簿を解き明かすことは、あのバカ王子を相手にするより、よっぽどやりがいのある仕事らしい。
私の相棒は、最強の財務顧問になりつつあるようだ。
さて、一方の私。「家庭教師」のリオニア先生は、というと。
「では、本日のお勉強を始めます」
「「「よろしくお願いいたします」」」
私は、城の一室を与えられた教室で、三人の生徒たちに向かい合っていた。
辺境伯様のお子様たち。
長男のゲオルグ。今年で十二歳。
次男のフリードリヒ。十歳。
そして、長女のヒルデガルト。八歳。
三人は辺境育ちのせいか、王都の貴族の子息令嬢たちとは少し雰囲気が違った。
肌は日に焼け、目つきは鋭い。
貴族の子というより、小さな狼の子、といった感じだ。
「本日の課題は、王家と諸侯の関係性について。特に、三百年前の『獅子王』リヒャルトの功績と、それが現代の貴族制度にどう影響しているか。ゲオルグ、説明してみて」
「は、はい! 獅子王リヒャルトは、当時乱立していた諸侯を武力で……」
長男のゲオルグは、真面目で責任感が強いタイプだ。辺境伯様の後継ぎとしての自覚があるのか、私の質問にも必死で食らいついてくる。
「フリードリヒ。今のゲオルグの答えで、足りない点は?」
「……武力だけじゃなくて、法整備も進めた点、です」
次男のフリードリヒは、少し引っ込み思案だが、頭の回転は速い。兄をよく見ている。
「その通り。じゃあ、ヒルデガルト。もしあなたが獅子王だったら、どうやって諸侯をまとめますか?」
「わたくしでしたら、まず、一番強くてうるさい人を、一対一の決闘で叩きのめしますわ!」
長女のヒルデガルト、通称ヒルダは、一番の「わんぱく」だった。
幼い頃の私を見ているようで、ちょっと苦笑いしてしまう。
「ヒルダ、それは武力制圧よ。……でも発想は悪くないわ。一番強い者を倒す、というのは、時に言葉より雄弁だから」
「やったーですわ!」
「ただし、その後が大事。叩きのめした後、どうする?」
「えーっと……美味しいお菓子をあげて、子分にしますわ!」
「……まあ、それも一つの答えね」
私は、王都で習った淑女としての礼儀作法や、当たり障りのない歴史の授業をするつもりはなかった。
ここは王都じゃない。
いつ敵国の軍隊が、盗賊団が、魔物が、越境してくるか分からない危険な辺境の地だ。
必要なのは、知識だけじゃない。
自分で考え、生き抜く力だ。
「いい? 三人とも。歴史を学ぶのは、昔話を楽しむためじゃないわ。過去に何が起きて、人々がどう考え、どう行動したかを知ることで、今、そして未来に、自分がどうすべきかを考える武器にするためよ」
「武器……ですか?」
ゲオルグが、不思議そうに聞き返す。
「そう。知識は武器。言葉も武器。そして……」
私は、教室の隅に置いてあった練習用の木剣を手に取った。
「こういうのも、立派な武器よ」
「わあ! 剣ですわ!」
ヒルダが目を輝かせる。
「先生、剣術も教えてくれるんですか!?」
フリードリヒも、興奮したように身を乗り出した。
「もちろん。ただし、お行儀の勉強が終わってからね」
「ええー!」
「不満? じゃあ、今日の礼儀作法の授業は、『敵に毒を盛られたかもしれない時の、優雅な離席の仕方』にしましょうか」
「「「やります!!」」」
子供たちは、王都の令嬢たちが聞いたら卒倒しそうな授業内容に、目を輝かせて食いついてきた。
そう、これでいい。
仮面を被った退屈な授業なんて、こっちから願い下げだ。
そんな型破りな授業を続けて、一週間ほど経った頃だった。
その日、私は子供たちを城の中庭に連れ出していた。
「いい、ヒルダ。相手が大きい時は、力で勝負しちゃダメ。相手の力を利用するの」
「こうですの!?」
ヒルダが、私に教わった通り、ゲオルグの腕を掴んで体勢を崩そうとする。
「おっと! あぶない!」
ゲオルグが、慌てて体勢を立て直す。
「そう! いいわよ、ゲオルグも! すぐに体勢を立て直した。フリードリヒ、今、兄様の弱点はどこだった?」
「……足が、揃ってた」
「正解! 足が揃うと、簡単に倒れる。重心を低くして、常にどっしりと構えること」
私は、歴史や政治学の授業の合間に、「護身術」と称して、格闘術の基礎を仕込んでいた。
もちろん、木剣を使った剣術の真似事も。
ここは辺境だ。
いつ、王都では考えられないような危険……例えば魔物の襲撃、あるいは、領内に潜む不穏分子に襲われるか、分からない。
辺境伯様の子供たちなら、なおさらだ。
「自分の身を、自分で守れるようになること」
私はそう教えていた。
子供たちの吸収は、驚くほど早かった。特にヒルダの成長には舌を巻いた。
元々、素質があったのだろう。
今では、ゲオルグとフリードリヒが二人がかりでも、ヒルダを簡単には捕まえられなくなっていた。
「それっ!」
「きゃあ!」
私が指導に熱中していた、その時。
「……何をしておる」
地響きのような、低い声が響いた。
びくり、と子供たちの肩が震える。
私も、ゆっくりと振り返った。
そこには、腕組みをした辺境伯様が、鷹のような目で私たちを睨みつけていた。
「……お父様!」
子供たちが、慌てて背筋を伸ばす。
「辺境伯様。ごきげんよう。ただいま、護身術の授業中ですわ」
私は、あえて、にこやかに挨拶した。
辺境伯様は、私の挨拶には答えず、ゆっくりと中庭に降りてきた。
その顔は、怒っている……というより、困惑しているように見えた。
「……リオニア嬢」
「はい」
「君に任せたのは、子供たちの家庭教師だ。王都の貴族としての教養を身につけさせるためのな」
「はい、承知しております」
「これが、君の言う『教養』か?」
辺境伯様は、泥だらけになっているヒルダの服と、子供たちが持っている木剣を指差した。
「ゲオルグやフリードリヒはともかく、ヒルデガルトにまで格闘術のようなものを……。これは一体どういうつもりだ」
子供たちが、息を飲んで私を見ている。
ここで私が叱られたら、この楽しい (?)授業も、おしまいかもしれない。
私は、背筋を伸ばし、辺境伯様を真っ直ぐに見据えた。
「辺境伯様。お言葉ですが、ここは王都ではありません」
「……何が言いたい」
「ここは、危険な辺境の地です。いつ、何が起こるか分からない。誘拐や、魔物の襲撃、あるいは、領内によからぬ輩が忍び込む危険だってある」
私は、一歩も引かなかった。
「お子様たちは、あなたの、そしてこの領地の未来そのものです。その彼らが、万が一にも、悪意ある者たちによって摘み取られていいはずがありません」
「……」
「礼儀作法や歴史も、もちろん重要です。ですが、それ以前に、自分の命を守る術を知らなくて、どうやってこの厳しい辺境で生きていけましょうか」
私は、ヒルダの頭に、ぽん、と手を置いた。
「ヒルダは、女の子だから守られるべき、か弱い存在? 違います。彼女は、辺境伯家の令嬢です。誰かに守ってもらうのを待つのではなく、いざという時は、自分の知恵と、力と、勇気で、切り抜ける術を身につけるべきです」
私は、言葉を続けた。
「これは、遊びではありません。立派な『護身術』です。そして、何より、彼らがこの辺境で生き抜くために必要な、最低限の教養ですわ」
私は、言い切った。
辺境伯様は、黙って私の言葉を聞いていた。
その鋭い目が、私をじっと見つめている。
(……まずった? 言い過ぎた?)
静寂が、中庭に落ちる。
子供たちは、固唾を飲んで、父の言葉を待っている。
やがて、辺境伯様は、ふう、と長い息を吐いた。
そして、
「……まったく。君のその口は、王子だけでなく、私の頭まで痛くさせる」
そう言って、苦笑いをした。
え?
「……お父様?」
ゲオルグが、恐る恐る声をかける。
辺境伯様は、私から視線を外し、子供たちに向き直った。
「……リオニア嬢の言う通りだ」
「「「えっ」」」
子供たちも、私も、驚いて目を見開いた。
「ここは辺境だ。王都と同じ感覚でいてはならん。……私も、お前たちに『貴族としての教養』を、と王都の家庭教師を望んだが、少し、頭が固くなっていたようだ」
彼は、私の前に立ち、もう一度、私を真っ直ぐに見た。
「リオニア嬢。君のやり方、気に入った。……いや、気に入った、というのは語弊があるな」
彼は、難しい顔でうなった。
「……納得、した。君の論理は正しい。子供たちの教育は、引き続き君に一任する。その護身術とやらも、含めてな」
「……よろしいのですか?」
「ああ。ただし、大怪我だけはさせるなよ。騎士団の訓練とは違うんだからな」
「はい! お任せください!」
私が、満面の笑みで敬礼してみせると、辺境伯様は、また頭が痛いという顔をして、肩をすくめた。
「やれやれだ。……では、私は執務に戻る。お前たちも、先生の言うことをよく聞くんだぞ」
「「「はい!!」」」
子供たちの、今日一番の元気な返事が、中庭に響いた。
辺境伯様が去っていく背中を見送りながら、私は、小さく拳を握りしめた。
(よし! 第一関門、突破!)




