2.よろしくね、アマンダさん!
アマンダさんの顔は、さっきまでの絶望に打ちひしがれたものではなく、まるで重い荷物を下ろしたかのような、清々しいものだった。
だが、いつまでも二人で笑い合っているわけにはいかない。
ホールの静寂を破ったのは、予想通り、あのバカ王子の甲高い叫び声だった。
「衛兵! 衛兵を呼べ! この女を捕らえろ! 王族への不敬罪だ! はんぎゅっ……は、反逆罪だぞ!」
レグルス王子は、真っ赤な顔でわめき散らしている。さっき私に論破されて言葉を失っていたのが嘘のようだ。こういう時だけは声が出るらしい。噛んでたけども (笑)
やがて、ホールの入り口が騒がしくなり、バタバタと重い足音と鎧の擦れる音が響いてきた。屈強な王城の衛兵たちが、何事かと駆け込んできたのだ。
王子は待ってましたとばかりに、私をビシッと指差した。
「そいつだ! そいつを捕縛しろ!」
「はっ!」
衛兵たちは、事情も飲み込めないまま、命令に従おうと私に向かってくる。
私はアマンダさんの手をそっと離した。
「どうやら、おしゃべりが過ぎたみたいね」
「リオニア様……!」
アマンダさんが心配そうに私の名前を呼ぶ。
私は彼女にだけ聞こえるように、そっと囁いた。
「大丈夫。あなたまで巻き込まれる必要はないわ。堂々としていて。あなたは被害者なんだから」
そうこうしているうちに、屈強な衛兵たちに両腕をがっしりと掴まれた。
まあ、抵抗はしない。するだけ無駄だ。それにここで暴れたら、本当にただの「わんぱく令嬢」に逆戻りだ。
私は、連行されながらも、アマンダさんに向かって振り返り、もう一度、今度は安心させるように笑いかけてみせた。
「大丈夫よ。口は災いの元、ってね」
アマンダさんは、何か言いたそうに唇を震わせていたけれど、結局、声にはならなかった。
私はそのまま衛兵たちに引きずられるようにして、好奇と非難の視線が渦巻くホールを後にした。
連れて行かれたのは、王城の地下、冷たい石造りの小部屋だった。
窓もなく、灯りは壁にかけられたランプだけ。牢屋の一歩手前、といった雰囲気だ。
硬い木製の椅子に座らされ、しばらく待たされた。
(さて、どうなることやら)
死刑、だろうか。
さすがにそれは、と自分でも思うが、相手は王族だ。公衆の面前で「バカ王子」「頭に藁」とまで言ってのけたのだ。威厳も何もあったものじゃない。
レグルス王子のあの怒りようを考えれば、あり得ない話でもなかった。
(まあ、でも)
私は自分の手を見た。
あの時、アマンダさんの涙を見た瞬間、私の頭からは社交界の常識も、王族への敬意も、何もかもが吹っ飛んでいた。
後悔は、不思議と、まったくなかった。
あのバカ王子に一泡吹かせられたこと、そして、アマンダさんがあの場で立ち直るきっかけを作れた……かもしれないこと。
それで十分だ。
私がそんなことを考えていると、重い扉が開く音がした。
入ってきたのは、国王陛下……ではなく、いかにも役人といった風情の、神経質そうな眼鏡の男だった。
彼は私の前に座ると、持っていた書類をパラパラとめくった。
「……キルシュバウム男爵令嬢、リオニア様。ですな」
「はい、そうですが」
「あなたは、先ほどの夜会において、ご自分が何をなさったか、理解しておいでですか」
始まった。
ネチネチとした尋問タイムだ。
私は、社交界で培った淑女の微笑みを浮かべてみせた。
「ええ、もちろん。バカ王子をバカと呼びました」
「……っ!」
役人の眼鏡がピシリと音を立てた気がした。
「あなたという人は……! 事の重大さを分かっておられないのですか! あなたが侮辱なさったのは、この国の第三王子、レグルス殿下なのですよ!」
「知ってますわ。だから言ったんです」
「なっ……!」
役人は言葉を失い、それから、咳払いをして体裁を取り繕った。
「……あなたの行いは、王族に対する重大な不敬罪。および、王家の権威を公然と貶めた反逆罪に該当します。世が世ならば、極刑もって処されても文句は言えぬのですよ!」
「あら、それは大変」
私は、まったく心がこもっていない相槌を打った。
役人は、私のこの態度がよほど気に入らないらしい。額に青筋を立てている。
「反省の色が、まったくない……!」
「反省? 何をです? 私は事実を申し上げたまでですが」
「事実……だと!?」
「ええ。『頭に藁がつまっている』は、もしかしたら比喩表現が過ぎたかもしれませんが、『バカ』に関しては、概ね事実かと。あなたも内心そう思っているのでしょう?」
「もっ、もういい!」
役人は机をバンッと叩いた。
「あなたの処分については、追って沙汰がある! それまで、この部屋で待機していただきます!」
そう言って、役人は肩を怒らせて部屋を出て行った。
(ふう。疲れた)
私は椅子の背もたれに、ぐったりと体重を預けた。
誰かと言い争うのは、思った以上に体力を使うものだ。
どれくらい時間が経っただろう。
ランプの油がチリチリと燃える音だけが響く部屋で、私はうとうとしかけていた。
その時、再び扉が開き、今度は慌てた様子で、見知った顔が飛び込んできた。
「お父様!」
私の父、キルシュバウム男爵だった。
父は、いつもは整えられている髪をぐしゃぐしゃにして、真っ青な顔で部屋に入ってきた。
「リオニア! お前という娘は!」
父は、さっきの役人を下がらせ、部屋の扉をピシャリと閉めた。どうやら、二人きりで話がしたかったらしい。
私は椅子から立ち上がった。
「ごめんなさい、お父様。でも、我慢できなかったのよ」
父は、私の前まで来ると、その大きな手で私の両肩を掴んだ。
「我慢できなかった、だと!? お前は……! お前は、自分が何をしたか分かっているのか!」
父の声が震えている。
私は、父の目を真っ直ぐに見返した。
「分かってるわ。王族を、公衆の面前でコケにした。キルシュバウム家も、ただじゃ済まないかもしれない。……ごめんなさい」
素直に謝ると、父は、掴んでいた手をだらりと下ろし、深い深いため息をついた。
「……処分が、決定した」
ゴクリ、と私の喉が鳴った。
「……まさか、死刑?」
「それだけは、免れた」
「じゃあ国外追放? 修道院送り?」
「いいから聞け!」
父が声を荒げた。
「お前の家柄……我が家は男爵家とはいえ、代々王家に仕えてきた。それと、まあ……あのレグルス王子の、日頃の行いも考慮されて、な」
(やっぱり、貴族らしい立ち振る舞いって大事よね)
「それに……お前があの場でアマンダ公爵令嬢を庇ったという動機……公爵家から国王陛下へ、多少の口添えがあったようだ」
「へえ、アマンダさんが……」
あの後、彼女も大変だっただろうに。私なんかのために動いてくれたなんて。
「だがな、リオニア。タダで済むと思うなよ」
父は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「キルシュバウム男爵令嬢、リオニア・キルシュバウムは、不敬罪および反逆罪に問われる」
「……はい」
「……北の辺境、グライフェン辺境伯領への、追放処分だ」
「追放……」
「事実上の無期限謹慎だ。今後、王都への出入りは一切許されんそうだ」
北の辺境。
グライフェン辺境伯様領。
確か、国土の北端、仮想敵国や魔物の森と隣接する、最も過酷な土地だ。
「まあ、死ぬよりはいっか」
私がそう呟くと、父は「お前は……!」と、今にも殴りかかってきそうな顔をした。
だが、結局、その拳は振り下ろされることなく、父はまた、深いため息をついた。
「……王族を公然と侮辱したんだぞ! よくぞまあ、あそこまで……!」
「だって、ムカついたんだもの」
「ムカついた、で首が飛ぶ社会なんだぞ、ここは!」
「えー! 横暴よ!」
私は、思わず不満を口にした。
「私だって、我慢したのよ! ブン殴ってやりたいのは我慢したのに!」
その言葉に、父は目を剥いた。
「……我慢したのか!? アレで!?」
「したわよ! あんなクズ、一発くらい殴らないと気が済まなかったけど、さすがに王族を殴ったらまずいと思って、口だけにしてあげたのに!」
「そしたら今ごろお前は首だけになってたわい!」
父は、とうとう額を押さえて、がっくりと肩を落とした。
「……もういい。お前は昔からそういう奴だった。……覚悟は、していたつもりだったが……」
父の弱々しい声に、私は胸がチクリと痛んだ。
「お父様、元気だして」
「はぁ…………いいか、リオニア。辺境は王都とは違う。厳しい土地だ。だが、グライフェン辺境伯様は、国王陛下の信任も厚い、忠義に厚いお方だ。……そのお方の監視下で、頭を冷やせ。二度と王都の土を踏めぬかもしれんが……生きているだけ、マシだと思え」
「……うん」
「お母様には、私から話しておく。……お前の荷物は、最低限のものだけ、追って届けさせよう」
父はそう言うと、私に背を向けた。
その背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
「お父様、ごめんなさい」
父は、振り返らないまま、小さく手を振って、部屋を出て行った。
一人残された部屋で、私は、初めて自分のしでかしたことの重さを実感していた。
それから数日は、あっという間だった。
私は、あの小部屋から、王城の使われていない一室に移され、軟禁状態が続いた。
部屋からは一歩も出られず、食事だけが運ばれてくる。
両親との面会も、あの夜の父との一度きり。母とは、顔も合わせられなかった。泣いているだろうか。
数日後、質素な旅支度用の服と、小さな荷物袋が届けられた。
私が持っていくことを許されたのは、着替え数着と、わずかな金銭、それだけ。
キルシュバウム家の紋章が入ったものは、一切許されなかった。
私は、まるで自分という存在が、この王都から消されようとしているのを感じた。
そして、出発の日。
早朝、まだ王都が眠っている時間に、私は起こされた。
護衛、という名の監視役の騎士が二人。それに、御者が一人。
私を乗せるのは、貴族が乗るような立派な馬車ではなく、荷物を運ぶ幌馬車に毛が生えたような、粗末なものだった。
「さあ、乗ってください、リオニア様」
騎士が、事務的な冷たい声で促す。
私は「はいよ」と軽く返事をして、馬車のステップに足をかけようとした。
王都とも、これでお別れか。
あの退屈な社交界、息苦しい仮面の日々。
それらから解放されると思うと、少し清々する反面、家族と二度と会えないかもしれないと思うと、さすがに胸が締め付けられた。
(まあ、でも、私が選んだことだ)
覚悟を決めて、馬車に乗り込もうとした、
その時だった。
「お待ちになってー!」
鈴を転がすような、しかし、明らかに切羽詰まった声が、静かな早朝の空気に響き渡った。
え? と思って振り返ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
王都の通用門へと続く石畳の道を、一人の女性が、こちらに向かって全力で走ってくる。
朝日を浴びて輝く、美しい亜麻色の髪。
高価なシルクの、明らかに外出用ではないドレス。
その裾を、泥だらけにするのも構わずに。
「アマンダ……さん!?」
私は目を丸くした。
公爵令嬢である彼女が、こんな早朝に、侍女も連れずに、全力疾走?
何かの間違いじゃないかと思った。
私を監視していた騎士たちも、突然の出来事に大混乱だ。
「なっ……アマンダ公爵令嬢!?」
「どういうことです!? なぜこのような場所に!」
アマンダさんは、私たちの前までたどり着くと、肩で大きく息をしながらも、私を真っ直ぐに見据えた。
その手には、私と同じような、小さな荷物袋が握られている。
そして、彼女は、はっきりと宣言した。
「わたくしも、ご一緒させていただきますわ!」
「…………は?」
私は、ぽかんとした。
今、なんと言った?
「ご一緒って……どこへ?」
「決まっておりますわ。あなたの行かれる、その……辺境の地へ」
「……本気で言ってるの?」
アマンダさんは、ぜえぜえと息を整えながらも、力強く頷いた。
「本気ですわ! わたくし、すべて、決めてまいりました!」
私は混乱した。
公爵令嬢が、罪人である私と一緒に、辺境へ?
「だ、ダメよ! あなたは公爵令嬢でしょ! 私みたいな罪人と一緒にいたら、あなたまで……!」
「関係ありませんわ!」
アマンダさんは、きっぱりと言った。
「し、しかし、公爵令嬢!」
監視役の騎士が、慌てて間に割って入ろうとする。
「ご実家は! というか、レグルス殿下とのご婚約は……!」
ああ、そうだ。
私は、一番気になっていたことを口にした。
「そうよ! 王子はいいの? あなた、まだ……婚約者じゃ……」
あの日、王子は「婚約破棄だ」と叫んだ。
でも、王家と公爵家の婚約が、あんなバカの一言で簡単に破棄されるとは思えない。
きっとアマンダさんは、今も辛い立場に……。
すると、アマンダさんは、私の言葉を遮るように、ふっと笑った。
それは、あの夜会で見せた、すべてが吹っ切れたような、本当に美しい笑顔だった。
「あんな人、こっちから願い下げですわ!」
彼女は、ドレスの裾についた泥を、まるで勲章のように眺めながら、清々しい表情で言った。
「あの後わたくし、お父様とお母様、そして国王陛下に、すべてお話しいたしました。あの場で起きたこと、そして……わたくしの、本当の気持ちを」
「本当の気持ち……?」
「もう、あの方の婚約者として、自分を偽って生きるのは嫌だと。公爵家の義務よりも、わたくし自身の人生を選びたいと」
アマンダさんの瞳は、朝日を受けて、キラキラと輝いていた。
「わたくしに手を差し伸べてくださったのは、公爵家でも、国王陛下でも、ましてやレグルス殿下でもありません。……リオニア様、あなたですわ」
彼女は、私に向かって、そっと手を差し出した。
「だから、わたくしは行きます。あなたが、わたくしに新しい道を示してくださったように、わたくしも、あなたの側で、新しい人生を始めたいのです」
その言葉に、私は、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
(ああ、なんだ。私、一人じゃなかったんだ)
私は、差し出された彼女の手を、力強く握り返した。
あの夜会とは逆だ。
今度は、彼女が私を、新しい世界へと引っ張り上げてくれる番みたいだ。
「……そう」
私は、心の底から笑っていた。
もう、仮面なんかじゃない。泣きそうなくらい嬉しい、本当の笑顔だ。
「違いないわね」
だが、私たち二人が感動的な再会を果たしている一方で、周囲はそれどころではない。
「し、しかし公爵令嬢! ご実家は、公爵様は、これをご存知で!?」
「いきなり他家のご令嬢が、それも公爵令嬢が、追放される罪人に付いてくるなど、前代未聞ですよ!」
「我々はどう報告すれば……!」
監視役の騎士たちが、頭を抱えて大騒ぎしている。
アマンダさんは、涼しい顔で答えた。
「父も母も、納得してくださいましたわ。『お前の選んだ道を行きなさい』と。これは、わたくしの家出ではありません。正式な同行です」
「そ、そんな……!」
騎士たちは、それでも納得がいかないようだ。
私は、もう一人の乗客となったアマンダさんを、ぐいっと馬車に引き上げた。
彼女は「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたが、すぐに体勢を整えた。
そして、私は、未だにギャーギャー騒いでいる男たちに向かって、一喝した。
「うるさい! 行くわよ!」
私は、馬車の狭い入り口の扉を、ピシャリと力任せに閉めた。
外で「あっ」「リオニア様!?」と慌てる声が聞こえる。
御者が、困惑しながらも、騎士たちの合図を待っている気配がした。
私は、扉をドンドンと叩いた。
「早く出して! それとも、ここで夜が明けるのを待つつもり?」
外で、騎士たちの「ええい、ままよ!」「公爵家には後で報告だ!」「出発するぞ!」という、やけくそな声が聞こえた。
ガタン、と馬車が大きく揺れ、ゆっくりと動き出す。
王都の石畳を走る、ゴトゴトという音が響き始めた。
私たちは、王都を追放されたのだ。
馬車の中は、薄暗くて狭い。
お互いの顔が、やっと見えるくらいだ。
私たちは、顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく、小さく吹き出した。
「ふふっ」
「あはははっ!」
これからどうなるのか、まったく分からない。
北の辺境。過酷な土地。
罪人と、それに付き従う公爵令嬢。
どう考えても普通じゃない。
でも、不思議と不安はなかった。
一人じゃない。
この、最強の相棒、アマンダさんと一緒だ。
「よろしくね、アマンダさん」
「ええ、よろしくお願いいたしますわ、リオニア様」
私たちの、波乱の共同生活が、今、始まった。




