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ごめんなさい。私、正直者なんです!  作者: 秋月アムリ
【番外編】氷の才女と若き狼

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12/14

1.狼たちの憂鬱

 北の辺境にも、遅い春が訪れようとしていた。

 分厚い石壁で囲まれたグライフェン辺境伯領の居城。その広大な中庭には、雪解け水を含んだ黒土の匂いが漂っている。

 厳しい冬を越え、ようやく芽吹き始めた若草を踏みしめるブーツの音。そして、激しく打ち合わされる木剣の乾いた音が、澄み渡る青空に吸い込まれていく。


「――そこまで!」


 凛とした声が響き渡ると同時に、弾かれた木剣が空を舞った。

 ドサッ、と重い音を立てて芝生の上に大の字になったのは、次男のフリードリヒだ。

 そして、その喉元に切っ先を突きつけられ、荒い息を吐きながら立ち尽くしているのが、長男のゲオルグだった。


「はい、二人とも終了。……動きが悪くはないけど、最後の一歩が迷ってるわよ」


 そう言ってニカっと笑ったのは、家庭教師であり、騎士団長の妻でもあるリオニア・ベルクだ。

 七年前、王都から追放されてきた「わんぱく令嬢」は、今や三児の母となり、その貫禄と美貌に磨きがかかっていた。

 変わらないのは、その燃えるような瞳と、理不尽なまでの強さだけだ。


「……参りました、先生」


 ゲオルグは肩で息をしながら木剣を下ろした。

 十九歳になった彼は、父である辺境伯譲りの長身と、広い肩幅を持つ青年に成長していた。日に焼けた肌に、鋭さを増した瞳。幼い頃の「小さな狼の子」という面影は消え、今や一角の騎士としての風格を漂わせている。

 だが、それでもこの師には敵わない。


「ふう……。やっぱり先生は化け物だ……」


 芝生に転がったまま、十七歳のフリードリヒが恍惚とした溜息を漏らす。

 彼は兄とは対照的に、線が細く知的な顔立ちをした美少年に育っていた。王都の貴族学校に留学していた時期もあり、その優男風のルックスに惹かれる令嬢は数知れない。

 ……彼が口を開かなければ、の話だが。


「見ましたか兄上。今の先生の踏み込み。あんなの、人間業じゃありませんよ。お子様を産んだ後とは思えないキレだ……。やはりリオニア先生こそが、この世における女性の完成形なのでは?」


 フリードリヒは空を見上げたまま、うっとりと語り始めた。


「王都のご令嬢たちなんて、先生の足元にも及びません。あんな高潔な魂を持った女性が、他にいるでしょうか。いや、いない」


 ゲオルグは額の汗を拭いながら、呆れ果てた視線を弟に向けた。


「……お前、まだそんなことを言っているのか。もう七年だぞ」


 七年。

 リオニアとアマンダがこの地にやってきてから、それだけの月日が流れていた。

 その間、フリードリヒの憧れは、いつしか歪んだ信仰心へと変貌を遂げていたらしい。


「七年経っても色褪せないどころか、ジークハルト団長との訓練を経てさらに神々しさを増しています。ああ、僕も早く先生のような強靭な女性を見つけて、毎日ボコボコにされたい……」

「……お前の性癖には胃が痛くなる」


 ゲオルグは近くのベンチに腰を下ろし、水筒の水を煽った。

 冷たい水が、火照った体に染み渡る。


(……俺は、後を継ぐのに相応しい存在になれているのか?)


 ゲオルグは、遠くで夫であるジークハルト騎士団長と談笑しているリオニアを見つめた。

 あの二人が並ぶと、まさに最強の夫婦だ。武力、統率力、そして何より、常識に囚われない決断力。


 父である辺境伯もまた、偉大な「北の盾」として君臨している。

 彼らに囲まれて育ったゲオルグは、常に焦燥感を抱いていた。


 自分は凡人だ。

 剣の腕は、血の滲むような努力でようやく人並み以上になった。だが、リオニアのような天性の勘もなければ、ジークハルトのような鋼の精神力もない。父のような圧倒的なカリスマ性も、まだ備わっていない。

 自分にあるのは、ただ目の前のものに喰らいつく忍耐力だけだ。


「……兄上?」


 不意に黙り込んだ兄を、フリードリヒが下から覗き込んだ。


「どうしました? 眉間の皺が父上に似てきましたよ」

「うるさい。……休憩は終わりだ。俺は執務室に行く」

「えっ、もうですか? まだアマンダ先生の講義まで時間があるでしょう」

「予習をしておきたいんだ。……お前と違って、俺は頭の出来も凡人だからな」


 ゲオルグは自嘲気味にそう言うと、木剣を片付けて立ち上がった。

 フリードリヒは不思議そうに首を傾げたが、すぐに「じゃあ僕は先生の残像を目に焼き付けてから行きます!」と、再びリオニアの方へ熱い視線を送り始めた。

 本当に、気楽な弟だ。

 ゲオルグは弟を放置し、一人、石造りの回廊へと歩き出した。


 城内は、活気に満ちていた。

 すれ違う兵士たちが、ゲオルグの姿を認めると背筋を伸ばして敬礼する。

 使用人たちも、親愛と敬意を込めて頭を下げる。


 次期辺境伯。若き狼。

 それが、今のゲオルグに向けられる評価だった。

 だが、その評価が高ければ高いほど、内側の空洞が広がるような気がした。


(俺が目指すのは、力による支配じゃない)


 彼は無意識のうちに、剣の柄ではなく、胸ポケットにしまってある万年筆に触れていた。

 脳裏に浮かぶのは、中庭で泥にまみれる最強の夫婦ではない。

 静かな執務室で、書類の山に囲まれながら、冷徹なまでに数字と向き合う、一人の女性の姿だった。


 アマンダ・ヴァインベルク。

 かつて公爵令嬢として王都にその名を馳せ、今は辺境伯領の「氷の財務顧問」として、この地の繁栄を陰から支える才女。

 ゲオルグが十六の時から、財務と領地経営学を叩き込まれてきた、もう一人の師だ。


 リオニアが動の師なら、アマンダは静の師だった。

 彼女は剣を振らない。声を荒らげることもない。

 ただ、その青い瞳で真実を見抜き、数字という揺るぎない武器で、飢えや貧困といった見えない敵と戦い続けている。


(……あの方に、会いたい)


 予習というのは半分言い訳だった。

 ただ、彼女のいる空間に行きたかった。


 インクと古い紙の匂い。静かにページをめくる音。そして、時折響く、鈴を転がすような、けれど凛とした彼女の声。

 その空間だけが、焦燥感に駆られるゲオルグの心を鎮めてくれる唯一の場所だった。


 ゲオルグは回廊を抜け、行政棟の重い扉を開けた。

 そこは、戦場とはまた違う、もう一つの最前線だ。


 忙しなく行き交う文官たちが、ゲオルグに気付いて道を空ける。

 彼は迷わず、一番奥にある特別財務顧問室へと足を向けた。


 扉の前で、一度深呼吸をする。

 服の乱れがないか確認し、手についた訓練の泥をハンカチで念入りに拭う。

 フリードリヒを呆れた目で見ていた自分だが、やっていることは大差ないかもしれない。

 苦笑しつつ、彼はノックをした。


「……どうぞ」


 中から聞こえたのは、記憶にある通りの、澄んだ声だった。

 ゲオルグは扉を開けた。


 部屋の中は、静謐に満ちていた。

 壁一面の本棚には、分厚い帳簿や記録書が整然と並んでいる。

 窓から差し込む春の日差しが、舞う埃をキラキラと照らしていた。

 そして、部屋の中央にある大きな執務机に向かっている女性が一人。


 亜麻色の髪を緩くまとめ、シンプルな、しかし仕立ての良いドレスに身を包んだアマンダがそこにいた。

 彼女は顔を上げ、入ってきたゲオルグを見ると、ふわりと微笑んだ。


「あら、ゲオルグ様。お早いですわね」


 二十四歳になった彼女は、可憐な公爵令嬢という殻を破り、大人の女性としての落ち着きと、知的な色香を纏っていた。

 王都からは、今でも彼女を目当てに縁談の釣書が届くという。

 だが彼女はそれら全てを「仕事が恋人ですの」と一笑に付して断り続けている。


「……授業の時間には、まだ早かったでしょうか」


 ゲオルグが問いかけると、アマンダはペンを置き、眼鏡を外した。

 仕事中だけかけるその銀縁の眼鏡が、ゲオルグは密かに好きだった。


「いいえ、構いませんわ。ちょうど一区切りついたところです。……それに」


 彼女は立ち上がり、窓辺のポットに歩み寄った。


「貴方がいらっしゃると、美味しい紅茶が飲みたくなりますの。……淹れて差し上げますわ」

「いえ、俺がやります。アマンダ先生はどうぞ座っていてください」


 ゲオルグは慌てて彼女を制し、ポットを受け取った。

 ふと、指先が触れ合う。

 彼女の手は白く、滑らかで、インクの染みが一つだけついていた。

 対する自分の手は、剣ダコだらけで、ゴツゴツと無骨だ。

 その対比に、ゲオルグは胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……逞しくなられましたね」


 アマンダが、眩しそうに目を細めて彼を見上げていた。


「背も、また伸びたのではありませんか? 今はもう、見上げるばかりですわ」

「……もう十九ですから。まあ、成長期は終わったはずなんですが」

「ふふ。中身も、随分と大人になられました」


 彼女にとっては、いつまで経っても「教え子」なのだろう。

 その優しい眼差しが、嬉しい反面、少しだけもどかしかった。


「……まだまだです。父上や、ジークハルト団長には遠く及びません」


 ゲオルグは紅茶をカップに注ぎながら、つい本音を漏らしてしまった。

 アマンダの前だと、張り詰めている糸が緩んでしまう。


「今日も、リオニア先生に完敗しました。……俺には、彼らのような圧倒的な何か(・・)がない」


 カップを差し出すと、アマンダはそれを受け取り、香りを楽しむように目を閉じた。

 そして、静かに口を開いた。


「……ゲオルグ様。貴方は、獅子になりたいのですか?」

「え?」

「辺境伯様やジークハルト様、それにリオニア様は、いわば百獣の王、獅子ですわ。圧倒的な力で群れを率い、敵をなぎ倒す」

「……はい。この辺境を守るには、それが必要だと」

「けれど」


 アマンダは目を開け、真っ直ぐにゲオルグを見つめた。

 その瞳は、帳簿の不整合を見抜く時と同じ、冷徹なまでの鋭さと、深い慈愛に満ちていた。


「貴方は獅子ではありません。……貴方は、狼ですわ」

「狼……」

「群れ全体の動きを見渡し、仲間と連携し、知恵を使って獲物を追い詰める。……貴方が十六の時、初めて提出した税制改革のレポート。あれを読んだ時、わたくしは震えましたのよ」


 彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「武力一辺倒だったこの領地に、物流と経済という新しい血を通わせようとする視点。それは、獅子にはない、貴方だけの武器です」

「……アマンダ先生」

「自信をお持ちなさいな。貴方は、歴代のどの辺境伯とも違う、新しい名君になれる器をお持ちですわ」


 その言葉は、どんな剣の指導よりも、ゲオルグの芯を貫いた。

 迷いが、氷解していくようだ。

 彼女はいつもそうだ。

 自分でも気づかない自分の価値を、正確な数字のように示してくれる。


(……ああ、やはり)


 ゲオルグは、紅茶の湯気の向こうで微笑む彼女を見つめた。

 フリードリヒがリオニアを崇めるのとは違う。

 これは信仰ではない。

 もっと渇いた、けれど温かい、強烈な思慕だ。


 この人を、誰にも渡したくない。

 王都の貴族にも、他の誰にも。

 この知性を、この微笑みを、一番近くで守り抜きたい。


「……貴女にそう言っていただけるのが、俺にとって一番の誉れです」


 ゲオルグは、精一杯の想いを込めてそう告げた。

 アマンダは一瞬きょとんとして、それから「まあ、お上手になられて」とコロコロと笑った。

 まだ、届いていないのか。

 彼女の中で自分はまだ、生徒の枠を出ていないのだ。


 だが、構わない。

 狼は、獲物を追い詰める忍耐強さを持っている。

 ゲオルグはカップを置き、静かに、しかし確かな決意を秘めて、愛しい師を見つめ返した。


 七年目の春。

 若き狼の恋は、雪解け水のように静かに、けれど激しく流れ始めていた。


というわけで番外編です。

個人的にこのお話はとても気に入っていて、蛇足かも……という思いはありつつ、でも書きたい! と思って書きました。

もう少し読み(書き)たいというお話をいくらでも膨らませられるのは作者の特権ですね(?)

(実は温めている番外編のアイデアは他にもいくつかあります)

楽しんでいただけたら嬉しいです!

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