10.だって私、忙しいんですもの
私はゆっくりと王都の文官に向き直った。
そして王都にいた頃のあの完璧な淑女の笑顔、久しぶりにそれを貼り付けた。
「……それはそれは。国王陛下には大変感謝いたしますわ」
「うむ。そうであろうな」
「ですが」
私はその笑顔のままきっぱりと言った。
「そのありがたいお申し出。……謹んでお断りさせていただきますわ」
「……………………は?」
文官の間抜けな声が謁見の間に響いた。
「……い、今なんと言った? 断る? 赦免を? 王都への帰還を!?」
「ええ。お断りいたします」
私は貼り付けていた淑女の笑顔を消した。
代わりにいつもの正直な悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「だって私、忙しいんですもの」
「は……?」
「ここの優秀なお子様たちに護身術を叩き込まないと。それにあのバカ王子がいる王都なんて。退屈で息が詰まって、反吐が出そうだわ」
「なっ……! き、貴様……っ! 再び不敬を……!」
文官が顔を真っ赤にしてわめき散らす。
私はそれを完全に無視した。
「それに私、見つけちゃったんですよ」
「な、何をだ!?」
「ここで自分の居場所を。……そして」
私はちらりとあの鋼の男を見た。
まだ私を凝視している。
「……まあそれはどうでもいいか」
「よくないだろう!」
え? 今の誰? ジークハルト?
いやまさかね。
私が驚いて見ると、彼は何事もなかったかのようにそっぽを向いていた。
……空耳?
私が首を傾げていると、隣でずっと黙っていたアマンダさんが一歩前に出た。
「……使者様。まことに申し訳ございません」
彼女は公爵令嬢として完璧な礼で、文官に頭を下げた。
「わたくしも、王都へ帰還するつもりは毛頭ございません」
「なっ……! アマンダ公爵令嬢まで!?」
「はい。わたくしはランフォルト子爵が残した負債の整理。そして辺境伯領の新たな百年を見据えた財政改革。その計画で手一杯ですの。王都で意味のないお茶会に興じている暇など、一刻たりともございませんわ」
きっぱりと言い切ったアマンダさん。
文官はもはや言葉も出ないらしい。
信じられないという顔で口をぱくぱくしながら、私とアマンダさんを交互に見ている。
罪を赦免され王都に帰れるという、この上ない名誉を蹴ったのだから。
あ、ようやく衝撃から立ち直ったようだ。額に前髪を汗で張りつけながら、文官が喚いた。
「……し、正気か君たちは……!? なにを考えているんだ!?」
その時。
ずっと黙って事の成り行きを見守っていた辺境伯様が、「……ぶっ」と吹き出した。
そして。
「ぶ、ははははは! あーっはははははははははは!」
謁見の間に豪快な笑い声が響き渡った。
辺境伯様が腹を抱えて笑っている。
「あ、あなた……!」
奥様のソフィア夫人が慌ててその背中を叩いていた。
「はー……っ。いやぁ、すまんすまん」
辺境伯様は涙を拭いながら唖然としている文官に向き直った。
「……使者殿。聞こえた通りだ。この二人は、我が領地の宝だ」
「は、はあ……」
「王都に返すつもりはない。……いや、聞いてのとおり彼女たちがそれを望んでいない。国王陛下には私からそう言上しよう」
「し、しかし、それでは陛下の御心を……」
「構わん!」
辺境伯様は言い切った。
「このグライフェン辺境伯の名において。リオニア・キルシュバウム嬢。並びにアマンダ・ヴァインベルク嬢の身柄は、この地で永久に保護する!」
その言葉は何よりも力強かった。
文官はもはや、何も言い返せない。
真っ青な顔ですごすごと引き下がっていくしかなかった。
嵐がまた一つ去った。
謁見の間には私たちだけが残された。
辺境伯様は満足そうに笑っている。
「……さて。これで王都の連中も、しばらくはちょっかいを出してこんだろう」
「……ありがとうございます。辺境伯様」
私とアマンダさんが頭を下げた。
「礼を言うのはこちらだ。……改めてよろしく頼むぞ。リオニア先生。アマンダ先生」
彼は嬉しそうに目を細めた。
謁見の間を出て廊下を歩く。
「……やっちゃったわね、私たち」
「ええ。やりましたわね、リオニア様」
二人で顔を見合わせてクスクスと笑う。
もう私たちを縛るものは何もない。
私たちは本当の自由を手に入れたのだ。
「……では、わたくしは執務室に戻りますわ。さきほどの税制改革の続きが……」
「はいはい。頑張ってアマンダ先生」
アマンダさんと別れた。
私は自分の部屋に戻るため塔へと向かう。
これですべて片付いた。
明日からもいつも通りの騒がしい日々が始まる。
忙しくて最高に楽しい日々だ。
そんなことを考えていた私の、行く手を遮る影があった。
「……騎士団長」
いつの間に先回りしていたのか。
彼は塔へと続く薄暗い廊下にいた。
壁に寄りかかるようにして立っている。
その銀色の目が私をじっと見つめていた。
「……なによ。まだ何か用?」
「……君は、残ると決めた」
それは質問じゃなく確認だった。
「そうよ。言ったじゃない忙しいって」
「……そうか」
彼は壁から背を離した。
ゆっくりと私に向かって一歩歩み寄ってくる。
……あれ? なんだかいつもと様子が違う。
その銀色の瞳が真剣すぎた。
私は思わず一歩後ずさりそうになった。
「リオニア・キルシュバウム」
彼が私の名前をフルネームで呼んだ。
「……な、なによ」
「君はこの領地の恩人だ。辺境伯様の保護下にある。……だがそれだけでは不十分だ」
「……は?」
「君の、その型破りな行動と、その口は。いつまた新たな火種を生むか分からん」
「……ちょっと失礼ね!?」
彼は私の抗議を無視した。
そして私の目の前。
本当に鼻先が触れそうな距離で立ち止まった。
「……だから、私が見張る」
「……へ?」
「私が君の正式な監視役になる」
その言葉の意味が一瞬理解できなかった。
監視役? 一応もう私は罪人じゃ……。
「……何言って、」
「リオニア」
彼が私の名前を呼んだ。
その低い声に心臓がドクンと大きく跳ねた。
「……私と結婚しろ」
「……」
シーン。
廊下が静まり返った。
私今なんて言われた?
結婚?
けっこん?
「……はああああああああああああああああああっ!?」
私の人生で一番間抜けな声が廊下に響き渡った。
「……き、聞こえなかったのか。口だけでなく耳まで悪いのか君は」
「聞こえたわよ! 聞こえたけども! なによそれ!? 結婚しろ!?」
私は混乱で頭が沸騰しそうだった。
「い、意味が分からない! それってプロポーズのつもり!? だとしたらぜんっぜんロマンチックじゃないわよ!?」
「ロマンチック?」
彼は心底不思議そうに首を傾げた。
「……そんなものが必要か?」
「当たり前でしょこの朴念仁!」
「……俺は合理的な提案をしている」
彼はあくまでも真顔で続けた。
「君はこの領地に残る。俺もこの領地を守る。……君は、俺が知る中で唯一、話していても退屈しない女だ」
「……っ!」
「君の剣の腕も、俺が鍛えればまあそれなりにはなるだろう。……辺境伯家の親族であり、騎士団長である俺が君の夫となれば、王都の連中も二度と君に手出しはできなくなる」
「……」
「……それに」
彼はそこで一瞬言葉を切った。
……ほんのほんのわずかだけど。
その視線を泳がせた。
「……君が王都に帰るかもしれないと思った時」
「……」
「……少し気分が悪かった」
「……!」
「……それだけだ」
彼はそう言って私を真っ直ぐに見つめた。
その銀色の瞳の奥。
いつもは鋼の無表情に隠されているところ。
そこに、熱がこもっているのが分かってしまった。
……ああもう。
なんなのよこの男。
不器用すぎるにも程がある。
合理的? 監視役?
全部言い訳じゃないの。
私はさっきまでの怒りやら混乱やら。
全部どこかへ飛んでいくのを感じた。
そして心の底から笑いがこみ上げてきた。
「……ぷっ」
「……な、何がおかしい」
「あは、あはははは! おかしくないわけないでしょ!」
私は涙が出るほど笑った。
それからその鋼の胸当てを人差し指でつんと突いた。
「……いいわよ」
「……は?」
「結婚してあげるわよ、ジークハルト・ベルク。その合理的な提案。受けてあげる」
彼の銀色の目が驚きで大きく見開かれた。
あの無表情な鋼の男が今完全に固まっている。
(……あ、可愛いところあるんじゃない)
私は満足して彼を見上げた。
「た・だ・し。条件があるわ」
「……なんだ」
「私はあなたの妻になったからって、お淑やかに黙っているつもりないからね」
「……」
「私は私のやりたいように子供たちに護身術を教える。剣の訓練も付き合ってもらうわ。……そして」
私は彼の襟元をぐいと掴んで引き寄せた。
「……私の口がうるさいって、文句言わないこと」
「……」
ジークハルトはゼロ距離で私を見下ろしたまま。
ほんのわずかにその口の端を上げて笑った。
「……ああ」
彼は低い声で言った。
「……君が静かだったら。それこそ俺が退屈で死んでしまう」
「……!」
彼はそう言うと、私の手をそっと解いた。
代わりにその大きな節くれだった剣士の手で。
私の手を静かに握った。
……ああもう、完敗だ。
私は、どうやらこの不器用で、朴念仁で、最高に格好いい騎士団長様には。
一生勝てそうにない。




