第9話 水瀬怜奈の秘密
ギルド『アイアンウォール』での活動が、俺の日常に新たなリズムをもたらした。
昼は、現実世界で怜奈とのプロジェクトに没頭する。夜は、仮想世界でゴウやユキと共に強敵に挑む。二つの世界は、まるで車の両輪のように、俺の毎日を前へと進めていた。
プロジェクトの最終プレゼンを明日に控え、俺と怜奈はオフィスで最後の準備に追われていた。時計の針はとうに終電の時間を過ぎ、窓の外には静まり返った夜の街が広がっている。
「よし、これで資料は完璧かな」
俺がそう言って伸びをすると、怜奈も「うん、大丈夫そう」と安堵の息を漏らした。結局、今夜は会社に泊まり込むことになりそうだ。
二人きりの静かなオフィス。
給湯室でコーヒーを淹れながら、自然と雑談になった。仕事の話から、趣味の話へ。
「如月くんって、何か趣味とかあるの?」
「俺? んー、まあ、ゲームとかかな」
「え、本当!? 奇遇だなあ、私も結構やるんだよ」
意外な事実に、俺は少し驚いた。怜奈がゲーム好き、というのはあまりイメージがなかったからだ。
「最近は、ほら、巷で話題のARゲームにハマってて……。現実がゲームになるなんて、すごいよね」
彼女が屈託なく笑う。
ARゲーム。その言葉に、俺の心臓がどきりと鳴った。まさか、『AO』のことか?
だが、彼女は具体的なゲームタイトルを口にはしなかった。俺も「へえ、そうなんだ」と相槌を打ちながら、平静を装う。これ以上、踏み込んではいけない気がした。
深夜、仮眠を取るために席を立った怜奈が、ふと、バランスを崩してよろめいた。
「きゃっ」
彼女の体が、資料を積んだスチール棚の角に強く腕を打ち付ける。ガシャン、と大きな音が響いた。
「大丈夫か!?」
俺は慌てて駆け寄る。見ると、彼女の白魚のような腕に、痛々しい青痣がみるみるうちに広がっていく。
「だ、大丈夫! ちょっと打っただけだから……!」
怜奈は慌てたように腕をさすり、俺から隠すように背を向けた。
だが、その時だった。
彼女がポケットから、見慣れた形状の小さな小瓶のようなものを取り出し、それを一気に呷るのを、俺は確かに見た。
それは、ゲーム内で何度も使ったことのある――。
次の瞬間、俺は信じられない光景を目の当たりにした。
怜奈がさすっていた腕から、あの痛々しい痣が、まるでCGのようにすーっと消えていったのだ。
完全に。跡形もなく。
「……もう平気だから。心配かけてごめんね」
彼女はそう言って、何事もなかったかのように微笑んだ。
俺は、それ以上何も聞けなかった。だが、頭の中で全てのピースが繋がっていく。
彼女も、プレイヤーだ。
俺と同じ、現実とゲームの境界線が壊れ始めた世界の住人。
翌日のプレゼンは、大成功に終わった。
俺たちのプロジェクトは役員たちから高い評価を受け、祝賀会の話まで持ち上がる。
だが、俺の心は晴れなかった。
帰り道、二人きりになった瞬間を狙って、俺は意を決して怜奈に尋ねた。
「水瀬さん。もしかして、『Aetherize Online』をプレイしてる?」
俺の言葉に、怜奈の足がぴたりと止まる。
彼女は一瞬、凍りついたような、全てを見透かされたような表情を見せた。
そして、次の瞬間には、ひどく悲しげに、諦めたように微笑んでこう言った。
「……人違い、じゃないかな」
それだけを言い残し、彼女は俺に背を向けて、逃げるように走り去ってしまった。
呼び止めることもできず、俺はその場に立ち尽くす。
彼女のあの拒絶の態度。そこには、ただ秘密を知られたくないというだけではない、もっと深い何かがあるように思えてならなかった。