第7話 動揺と決意
グリッチスライムの幻影が、脳裏に焼き付いて離れない。
あの夜以来、俺の世界は静かに、だが確実にバランスを崩し始めていた。眠りは浅くなり、夜中に何度も目を覚ます。その度に、部屋の暗がりにあの半透明の塊が揺れていないか確認してしまう。
翌日の仕事は、当然ながら全く手につかなかった。
パソコンのモニターに映る数字の羅列は、意味のある情報として頭に入ってこない。ただの記号の集合にしか見えなかった。
「如月くん、顔色が真っ青だよ。大丈夫?」
隣のデスクから、怜奈が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「あ、ああ……大丈夫だ。ちょっと、寝不足なだけだから」
そう答える声が、自分でも驚くほど上ずっていた。彼女の気遣いが嬉しい反面、その優しさが今の俺には重かった。世界の秘密を一人で抱え込んでいるという意識が、俺と彼女の間に見えない壁を作っていた。
その日はなんとか仕事を終えたものの、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
俺は会社を出ると、当てもなく夜の街を彷徨った。行き交う人々の誰も、この世界が少しずつ変質していることになど気づいていない。俺だけが、世界の亀裂を覗いてしまった。その孤独感が、冷たい風のように心を吹き抜けていく。
(俺は、どうすればいいんだ……?)
アパートに帰り着いたのは、深夜だった。
俺は部屋の明かりもつけず、ベッドに倒れ込む。そして、ほとんど無意識にスマートフォンを手に取っていた。
震える指で、検索窓にキーワードを打ち込む。
『Aetherize Online 異変』
『現実 モンスター 目撃』
『ARゲーム バグ 現実』
表示されるのは、オカルト系のまとめサイトや、個人のブログ記事ばかり。そのほとんどが、信憑性のない与太話として片付けられていた。
やはり、俺の幻覚だったのか。そう思いかけた、その時だった。
検索結果の片隅に、見慣れない匿名掲示板のスレッドが引っかかった。
【総合】Aetherize Online 現実侵食報告スレ part3
吸い寄せられるように、そのリンクをタップする。
そこには、俺が求めていた情報があった。
158:名無しの観測者
昨日23時頃、神奈川の××公園でスキルエフェクトらしき発光を裸眼で確認。
雷系の魔法だったと思う。誰か他に見た奴いるか?
162:名無しの観測者
>>158
俺もだ。近くにいたから動画撮ろうとしたけど、カメラには何も映らなかった。
でも、確かに見えたよな。
175:名無しの観測者
モンスターの目撃報告も増えてきたな。まだスライムとかゴブリンみたいな低レベルのやつだけだが。
これ、マジでヤバいんじゃないか?
複数の人物たちが、真剣に「現実への侵食」について議論していた。
彼らが書き込む日時や場所は、驚くほど具体的で信憑性が高い。中には、俺がグリッチスライムを目撃したのと、ほぼ同じ時間帯、同じ地区での報告もあった。
俺だけでは、なかった。
その事実に安堵すると同時に、事態が自分の想像以上に広範囲で進行していることに、改めて恐怖がこみ上げてきた。このまま侵食が進めば、世界はどうなってしまうんだ?
一人では、この先の変化に対応できない。
掲示板の膨大な書き込みを読み進めるうちに、俺はそう痛感した。
情報を共有し、いざという時に背中を預けられる仲間が必要だ。
孤高の騎士を気取るのは、もう終わりだ。
俺はベッドから跳ね起きると、部屋の隅に置いてあったエーテルグラスを手に取った。
『AO』にログインし、真っ先にフレンドリストを開く。そして、数日前に交換したままになっていた二つの名前――ゴウとユキに、メッセージを送った。
『Schwarz Ritterだ。この前のギルドの話、まだ有効か?』
数秒もしないうちに、ゴウから返信が来た。
『おう、シュヴァさん!待ってたぜ!』
続けてユキからも、『大歓迎です!』というメッセージが届く。
俺は、静かに息を吐いた。暗闇の中で、ようやく一本のロープを掴んだような気分だった。
三人で合流し、ギルド設立の手続きを行う。
ギルド名は、ゴウの「俺たちの盾で仲間を守る、鉄壁の要塞みてえなギルドにしたい」という提案で、『アイアンウォール』に決まった。
俺が「創設メンバー」としてギルドへの参加を承認した、その瞬間。
目の前に、今まで見たことのないウィンドウが厳かに開いた。
『――ギルドスキルが解放されました』