第3話 加速する日常と世界の亀裂
INTに全振りした翌朝。
俺は、アラームが鳴るよりもずっと早く、夜明け前の静寂の中で目を覚ました。
眠気は一切ない。それどころか、頭の中は驚くほど澄み渡っていた。まるで、脳というハードディスクを最適化し、不要なキャッシュを全てクリアしたかのような感覚。昨日までの「爽快感」とは明らかに質の違う、鋭利なまでの「明晰さ」がそこにあった。
ベッドから起き上がり、テレビのニュースを眺める。
アナウンサーが、難解な経済用語を並べ立てて国際情勢を語っていた。いつもなら右から左へと聞き流してしまうような情報が、今日は面白いほどスルスルと頭に入ってくる。専門家が口にするコメントの裏にある意図や、データが示す未来の予測まで、おぼろげながらも理解できる気がした。
「これが……INTの効果か……?」
身体能力の向上とはまた違う、脳が直接的に強化されているという実感。その事実に、俺は背筋にぞくりとした興奮を覚えた。
会社に着くと、その効果はさらに顕著に現れた。
朝のミーティングで、部長が全体の売上データを示しながら、今後の営業戦略について話し始めた。いつもなら気圧されて黙っているだけの時間だ。
だが、今日の俺は違った。部長が提示したデータの中に、誰も気づいていない微かな矛盾点を見つけてしまったのだ。
「――というわけで、来月からは新規顧客の開拓よりも、既存顧客へのアップセルに注力していく方針だ」
部長がそう締めくくろうとした瞬間、俺はほとんど無意識に手を挙げていた。
オフィス中の視線が、一斉に俺に突き刺さる。あの水瀬怜奈でさえ、驚いたように目を見開いていた。
「な、なんだ、如月」
動揺を隠せない部長に、俺は落ち着いて口を開いた。
「恐れ入ります。今ご説明いただいた方針ですが、先月のデータを見る限り、既存顧客の満足度がわずかに低下傾向にあります。この状況でアップセルに注力するのは、顧客離れのリスクを増大させるのではないでしょうか。むしろ、低下の原因を分析し、サポート体制を強化することが先決かと存じます」
そこまで一気に言って、俺はハッと我に返った。
しまった。出過ぎた真似を。
静まり返った会議室で、部長の顔がみるみるうちに険しくなっていく。ああ、終わった。生意気な、と怒鳴られるに違いない。
だが、部長の口から出たのは、意外な言葉だった。
「……顧客満足度の低下だと? どこにそんなデータがある」
「はい、こちらのアンケート結果の項目七と、解約率の微増をクロス集計しますと……」
俺は淀みなく、自分の考えを述べた。頭の中に、まるで模範解答が用意されているかのように、次々と言葉が浮かんでくる。
俺の説明を聞き終えた部長は、しばらく腕を組んで押し黙っていたが、やがて唸るように言った。
「……なるほどな。確かにお前の言う通り、リスクがあるかもしれん。……水瀬、君はこの件、どう思う?」
話を振られた怜奈は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにプロの表情に戻って答える。
「私も、如月くんの意見に賛成です。彼の指摘は的を射ていると思います。まずは足場を固めるべきかと」
怜奈の後押しもあり、最終的に部長は「……分かった。一度、その観点で戦略を練り直そう。如月、後で詳細な分析レポートを提出しろ」と、不承不応ながらも俺の意見を認めた。
会議が終わると、怜奈が俺の席にやってきた。
「如月くん、すごかったよ! まるで別人みたい!」
「いや、そんなことはないよ」
「そんなことあるって! 部長相手にあんなに堂々と意見できるなんて、尊敬しちゃうな。私、全然気づかなかったよ、あのデータ」
彼女の素直な賞賛が、くすぐったい。同時に、INT上昇の恩恵で、もう一つのステータスに影響が出ていることにも気づいていた。それは【魅力(CHA)】。
知的な振る舞いや自信に満ちた態度は、人の目に魅力的に映る。昨日まではただの同僚だった怜奈との距離が、急速に縮まっているのを感じた。
◇
その日から、俺の現実は加速していった。
夜は『Aetherize Online』でクエストをこなし、レベルを上げ、ステータスを強化する。
昼は、その強化された能力で仕事をこなし、社内での評価を確固たるものにしていく。
INTを上げれば企画立案能力が上がり、STRやVITを上げれば深夜までの残業も苦にならなくなる。AGIはレスポンスの速さに繋がり、そして、それら全てが俺の自信となってCHAを底上げしていく。
完璧なサイクルだった。
冴えなかった俺は、もはやどこにもいない。営業成績はトップを走り、今では部署の意見をまとめる中心人物の一人になっていた。部長も、俺に対しては以前のような高圧的な態度は取らなくなった。
何より大きな変化は、水瀬怜奈との関係だ。
仕事で協力する機会が増え、自然と会話する時間も長くなった。昼休みには一緒にランチに行き、時には仕事終わりに二人で食事をすることもあった。
彼女もまた、俺の変化を一番近くで感じ、それを好意的に受け止めてくれているようだった。
「如月くんって、本当に変わったよね。昔は、もっとこう……自信なさそうな感じだったのに」
ある日の帰り道、彼女がふとそう呟いた。
「そうかな。自分じゃよく分からないけど」
「分かるよ。今の如月くん、すごく頼りになる。……なんだか、キラキラして見える」
そう言ってはにかむ彼女の横顔に、俺の心臓は激しく高鳴った。
全てが順調だった。ゲームの力が、俺の人生を最高の方向へと導いてくれている。
そう、信じて疑わなかった。
この世界に、小さな亀裂が入り始めていることに気づくまでは。
◇
それは、ある日のニュース速報がきっかけだった。
『――本日未明、横浜市の湾岸エリアにある閉鎖された倉庫街で、原因不明の発光現象が目撃されました。専門家は、大気中のプラズマによる自然現象との見方を示していますが、詳細は調査中とのことです――』
テレビ画面に映し出されたのは、夜の闇の中で倉庫全体がぼんやりと青白く光っている映像だった。一瞬だけ、強い光が明滅する。
俺はその光に見覚えがあった。
『AO』で、魔法を使った時のエフェクトにそっくりだ。特に、雷系統の上級魔法。
「……気のせい、だよな」
偶然だ。そう自分に言い聞かせた。
だが、その日から、似たような奇妙なニュースが立て続けに報じられるようになった。
渋谷のスクランブル交差点で局地的な突風が発生し、数人が軽い怪我。新宿の公園で、夜間に複数の閃光が目撃される。どれも、原因は不明。
不安が胸をよぎる。
まさか、俺以外のプレイヤーが、現実でスキルを使っている?
いや、ありえない。そもそも、ゲームのスキルエフェクトはエーテルグラスを装着したプレイヤーにしか見えないはずだ。一般のニュースカメラに映るなんて、一体どういうことなんだ?
そして、決定的な出来事が起こった。
その日、俺はレベル上げのために、少し遠出して隣町の河川敷に来ていた。そこは【リザードマンの棲処】というクエストエリアに指定されていたからだ。
エーテルグラスを装着すると、寂れた河川敷は鬱蒼とした湿地帯へと姿を変え、爬虫類の鱗を持つ人型のモンスター、リザードマンたちが徘徊しているのが見える。
俺は愛用のスチールソードを抜き、一体に斬りかかった。
レベルも20を超え、俺の動きはもはや常人のそれではない。リザードマンの素早い攻撃を紙一重でかわし、剣に魔力を纏わせるスキル【エンチャントブレード】で反撃する。
順調に討伐数を重ねていた、その時だった。
少し離れた土手の上で、数人のチンピラ風の男たちが、一人のサラリーマンに絡んでいるのが目に入った。エーテルグラスを外しても見える、紛れもない現実の光景だ。
「おいオッサン、金持ってんだろ。ちょっと貸せや」
「ひっ、や、やめてください……!」
よくあるカツアゲの現場。見て見ぬふりをするべきか。
そう思った瞬間、信じられないことが起こった。
絡んでいたチンピラの一人が、サラリーマンに向かって手を突き出したのだ。
すると、男の手のひらから、ぼんやりとした黒いオーラのようなものが立ち上った。それはエーテルグラスを装着している俺の目には、明らかにスキルのエフェクトとして映っていた。
「【フィアー】」
男が低い声で呟くと、サラリーマンは突然、腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。顔面は蒼白になり、ガタガタと震えている。
間違いない。あれは、状態異常系のスキルだ。相手に恐怖を与え、行動を阻害する。
自分以外にも、プレイヤーがいた。しかも、ゲームの力を、現実で悪用している。
俺の中で、何かがプツリと切れる音がした。
気づけば、俺は土手を駆け上がっていた。
「おい、お前ら。何してんだ」
チンピラたちが、一斉に俺を睨みつける。
「あ? なんだテメェ。ヒーローごっこか?」
スキルを使った男が、嘲るように言った。
「その人を離せ。じゃないと、痛い目見ることになるぞ」
俺は静かに告げ、スチールソードを構えた。もちろん、彼らにはその剣は見えていない。俺がただ、中空を掴んでいるようにしか映らないだろう。
「ハッ、こいつイカれてやがる。やっちまえ」
男の合図で、仲間二人が俺に殴りかかってきた。
俺は冷静にその動きを見切る。
右からのストレート。体を少し傾けるだけで、拳は空を切る。
左からのフック。軽く身をかがめ、死角に回り込む。
AGIに振ったステータスが、現実の戦闘で牙を剥く。彼らの動きは、まるでスローモーションだ。
俺は一人の腕を掴んで捻り上げ、もう一人の腹に、剣の柄をめり込ませた。
「ぐっ……!」
「がはっ!」
二人はあっさりと地面に崩れ落ちる。
残るは、スキルを使った男だけだ。彼は信じられないものを見るような目で、俺と倒れた仲間を交互に見ていた。
「て、テメェ……何者だ……?」
「お前と同じだよ」
俺は男に向かって左手を突き出し、意識を集中させた。
「【ファイアボルト】」
もちろん、本当に火の玉が飛んでいくわけではない。だが、俺の脳がスキルを発動したと認識した瞬間、俺の目には魔方陣が浮かび、男の足元で小さな爆発エフェエクトが起こったように見えた。
そして、現実では。
男の足元の砂利が、パチン、と小さく弾けた。
静電気か、あるいは小石が偶然跳ねただけかもしれない。だが、同じプレイヤーである彼には、それが何を意味するのか、正確に伝わったはずだ。
男は「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げると、仲間を置き去りにして一目散に逃げていった。
俺はふぅ、と息を吐き、へたり込んでいるサラリーマンに手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「あ、あ……ありがとうございます……」
サラリーマンは何度も頭を下げながら去っていく。
一人残された河川敷で、俺は自分の手のひらを見つめた。
ゲームの力が、現実の俺を強くした。
そして、その力で、現実の誰かを助けることができた。
だが、同時に、現実の誰かを傷つけることもできてしまう。
『Aetherize Online』は、もはやただのゲームではなかった。
それは、現実を侵食し、世界のルールそのものを書き換え始めた、巨大な力の奔流。
俺はその流れの中で、一体どこへ向かうのだろうか。
夕暮れの風が、答えを知っているかのように、俺の頬を撫でていった。