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第2話 ステータスは現実を変える

 翌朝。

 俺は、アラームが鳴る五分前に目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が、いつもより眩しくない。それどころか、意識は驚くほどクリアだった。ベッドから体を起こすと、昨日までの日常にこびりついていた鉛のような重さが、綺麗さっぱり消え失せている。


「……あれ?」


 寝起き特有の気怠さがない。まるで八時間、完璧な熟睡をした後のような爽快感。

 俺は自分の両手を握ったり開いたりしてみる。指先まで力がみなぎっているような、不思議な感覚。


「昨日のゲームで興奮してたから、ぐっすり眠れた……とか?」


 そんなありきたりな結論に落ち着けようとしたが、違和感はそれだけでは終わらなかった。

 顔を洗い、着替えを済ませ、トーストを一枚かじる。いつもなら寝癖と格闘し、時間に追われながら慌ただしくこなす朝の支度が、驚くほどスムーズに進んでいく。まるで、昨日までの自分がスローモーションだったかのようだ。


 家を出て駅へと向かう道すがら、その感覚はさらに強くなった。

 いつもなら、最後の上り坂で息が切れ、赤信号に引っかかっては舌打ちをする。そして駅のホームで、発車ベルが鳴り響く中、閉まりかけるドアに駆け込むのがお決まりのパターンだった。

 だが、今日は違う。

 足取りが軽い。坂道を登っても、息がほとんど上がらない。目の前の信号が青に変わるタイミングを、まるで予測していたかのように完璧なペースで横断歩道を渡り切る。


 結果、いつもより五分も早く駅のホームに着いてしまった。

 余裕を持って乗り込んだ電車の中で、俺は吊り革を握りしめながら、自分の体に起きている変化について考えざるを得なかった。


「まさか……な」


 脳裏に浮かぶのは、昨夜の出来事。

 グリッチスライムを倒し、レベルアップして【筋力(STR)】と【敏捷(AGI)】にポイントを振ったこと。

 ゲームのステータスが、現実の身体能力に影響を及ぼす?

 馬鹿げている。そんなSF映画みたいな話があるはずない。あるはずないが、この体の軽やかさと頭の冴えは、一体どう説明すればいいんだ?


 答えの出ない問いを抱えたまま、俺は会社のビルへと足を踏み入れた。


 ◇


 自分のデスクに着くと、俺はすぐに共有フォルダを開いた。

 例の企画書は、昨日部長に指摘された直後、修正を終えていた。社名の誤字を直し、部長に言われた最低限の体裁を整えて再提出済みだ。正直、あの時は焦りで頭が回らず、これ以上どう見やすくすればいいのか皆目見当もつかなかった。


 だが、今、改めてそのファイルを開いてみると、不思議なことが起きた。


(……なんだ、この資料。見づらいにも程がある)


 昨日の自分が作ったものとは思えないほど、構成の粗さが目に付く。

 頭の中に、パッと閃きが生まれたのだ。

(この項目とこの項目をまとめて円グラフにすれば、比率が分かりやすい。こっちの推移データは、折れ線グラフにして……色分けは、暖色系をメインにすればポジティブな印象を与えられるか?)

 次から次へと思考が繋がり、最適解が導き出されていく。まるで、頭の中に優秀なコンサルタントでも住み着いたかのようだ。

 その思考を形にする指の動きも、我ながら滑らかだった。カタカタカタ、と小気味よいタイピング音が響く。普段なら何度も打ち間違える指が、まるでキーボードの上を舞うように正確に言葉を紡いでいく。


 始業前のわずかな時間で、企画書は劇的に生まれ変わった。

 俺は深呼吸を一つして、それを印刷すると部長の席へ向かった。


「部長、申し訳ありません。昨日提出した企画書ですが、どうしても気になった点がありまして、朝一番で再度修正させていただきました。こちらで一度ご確認いただけますでしょうか」


「ん? ……ああ」

 部長は面倒くさそうにそれを受け取ると、パラパラとページをめくり始めた。どうせまた、どこかのアラを見つけて嫌味の一つでも言われるのだろう。俺は固唾を飲んでその時を待った。


 だが、部長の反応は予想外のものだった。

 眉間に刻まれた深いシワが、わずかに緩む。そして、俺の顔と資料を二、三度見比べた後、ほう、と息を漏らした。


「……見やすくなったじゃないか。昨日言ったことを、すぐにここまで反映できるとはな」


 そこで一度言葉を切ると、いつもの嫌味ったらしい笑みを浮かべて付け加える。


「まあ、最初からこれくらいやれって話だがな。よし、下がっていいぞ」


 信じられなかった。

 あの小林部長が、俺の仕事を、評価した。嫌味はオマケみたいなものだ。これは紛れもなく、人生で初めて部長に褒められた瞬間だった。

 呆然としながら自分の席に戻ると、隣の部署から声がかかった。


「颯太くん、すごいじゃない!」


 振り向けば、そこには水瀬怜奈がいた。彼女は人懐っこい笑顔で、小さく拍手をしてくれている。


「部長があんなこと言うなんて、超レアだよ。何かいいことでもあったの?」


「い、いや、別に……たまたまだよ」


「またまたー。でも、本当に良かったね。今日の颯太くん、なんだかいつもよりキリッとして見えるよ?」


 怜奈の屈託のない言葉に、心臓がトクンと跳ねた。いつもはまともに目も合わせられない社内のマドンナと、ごく自然に会話ができている。これも、もしかして。


「そ、そうかな? ありがとう」


 俺はなんとかそう返すのが精一杯だった。席に戻っても、しばらく心臓のドキドキは収まらなかった。


 ◇


 その日の午後の業務は、まさに無双状態だった。

 面倒なデータ入力は普段の倍の速さで終わり、取引先への電話応対も、なぜか言葉がスラスラと出てきてスムーズに進む。頭の回転が速い。体が疲れにくい。昨日までの自分が嘘のようだ。

 この絶好調の波に乗りながら、俺の中で一つの仮説が確信へと変わりつつあった。

『Aetherize Online』でのレベルアップが、現実の俺を強化している。

 そうとしか考えられない。


 もし、これが本当なら?

 もし、ゲームをプレイすればするほど、現実の俺が『強く』なれるとしたら?


 冴えない営業マン、如月颯太の人生は、これから大きく変わるのかもしれない。

 そう思った瞬間、早く家に帰ってエーテルグラスを装着したいという、猛烈な衝動に駆られた。

 時計の針が、やけに遅く進むように感じられた。


 ◇


 定時きっかりにタイムカードを切り、俺は脱兎のごとく会社を飛び出した。

 息を切らしながらアパートのドアを開け、カバンを放り投げると同時にエーテルグラスを装着する。


『――Schwarz Ritter様、お待ちしておりました。あなたの冒険を始めましょう』


 アイリスの心地よい声が、俺を日常から解き放ってくれる。

 まずは確認だ。俺はメニューを開き、ステータス画面を呼び出した。


【Player Name: Schwarz Ritter】

【Level: 2】

【HP: 110/110】

【MP: 60/60】

【STR: 13】

【VIT: 10】

【AGI: 12】

【INT: 10】

【CHA: 10】


 昨日、ポイントを振ったままの数値がそこにあった。俺は息を飲み、今日の現実での出来事を反芻する。この数値が、今日の俺を作り上げたのだ。


『新たなクエストが受注可能です』


 アイリスの声に促され、クエストボードを開く。

【クエスト:夜の害虫駆除】

【内容:街灯に巣食う光蛾ルミナスモスを5体討伐する】

【報酬:経験値150、リフレッシュポーション×1】


 俺は迷わずクエストを受注し、再び夜の街へと繰り出した。

 エーテルグラス越しに見る街灯には、光の粒子を振りまきながら飛び回る、蝶ほどもある巨大な蛾の姿が映し出されていた。


「うわ、キモ……」


 思わず顔をしかめたが、これも強くなるための試練だ。

 ビギナーズソードを抜き、一体に斬りかかる。昨日よりも、剣の振りが明らかに鋭く、速い。ルミナスモスの不規則な飛行パターンにも、体が自然と対応し、楽々と攻撃を当てることができた。これがAGIの上昇効果か!

 ゲーム内での身体能力の向上を明確に実感し、俺は興奮を隠せなかった。


 戦闘は驚くほど順調に進み、あっという間にレベルが3に上がった。

『LEVEL UP! ステータスポイントを5獲得しました』

 今度は、迷わず全てのポイントを【知力(INT)】に注ぎ込んだ。INTは魔法攻撃力とMP、そして魔法防御力に影響するステータス。だが、俺の狙いはそこだけではなかった。


(INTを上げれば、明日の仕事はもっと捗るんじゃないか……?)


 そんな下心を抱きながら、俺はクエスト報酬としてインベントリに追加された【リフレッシュポーション】を取り出した。手のひらの上に、青く輝く小さな瓶が具現化する。説明文には『軽度の疲労を回復する』とあった。

 俺は瓶の栓を抜き、一気に中身を呷る。

 キラキラとした光の粒子が体を包み込むエフェクト。ゲーム内のスタミナゲージが全快した。


 そして――。


「……消えた?」


 現実の体で感じていた、一日分の仕事の疲れ。肩の凝りや、足の重だるさが、すーっと霧散していくのが分かった。

 間違いない。

 確信した。


 このゲームは、ただのゲームじゃない。これは、俺の現実そのものをハックし、強化する、禁断のシステムだ。

 歓喜が全身を駆け巡る。これで俺は変われる。冴えない人生を、自分の手で塗り替えることができる。


 だが、その歓喜の奥底から、小さな冷たい感情が芽生えていることにも、俺は気づいていた。

 未知の力。制御不能な現象。


「これから俺は……一体、どうなってしまうんだ?」


 その問いに、答えられる者はいなかった。ただ、エーテルグラス越しの夜景だけが、無機質に輝いていた。


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