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第1話 ようこそ、現実を塗り替える世界へ

 ピピピッ、ピピピッ。


 無機質な電子音が、意識の深淵から俺を無理やり引きずり出す。

 瞼の裏で明滅する赤い光は、まるでタイムリミットを告げる爆弾のようだ。手を伸ばしてスマートフォンのアラームを止めると、しんと静まり返ったワンルームに、自分のため息だけがやけに大きく響いた。


 如月颯太きさらぎ そうた、27歳。中小企業の営業職。

 それが、今の俺の全てだ。


 ベッドから起き上がった体は、鉛のように重い。昨日の残業と、ろくに味わいもせず胃に流し込んだコンビニ弁当が、まだ腹の底で居座っている感覚。

 窓の外は、すでに白み始めている。

 また、昨日と同じ今日が始まる。


 ◇


 満員電車に揺られ、生気のない人々の群れに押し込まれながら会社に着く。自分のデスクにカバンを置いた瞬間、背後から投げかけられた声に心臓が跳ねた。


「如月くん、ちょっといいかな」


 声の主は、小林部長。ねっとりとした口調と、人の粗探しを生きがいにしているような目が特徴の、俺が最も苦手とする上司だ。


「は、はい、なんでしょうか」


「昨日提出してもらった企画書なんだけどね。取引先の社名、一文字間違ってるよ。株式会社『高千穂』じゃなくて『髙千穂』だ。こういう細かいミスが、会社の信用をどれだけ損なうか、分かってる?」


 ああ、まただ。

 血の気が引いていくのが分かった。何度も、何度も確認したはずなのに。


「も、申し訳ありません! すぐに修正します!」


「当たり前だ。それと、このデータだけど、もう少し見やすくグラフ化できないのかね。ほら、水瀬くんの資料を見てみろ。誰が見ても一目で分かるように、実に良くまとまっている。君も少しは見習ったらどうだ」


 部長が指さしたのは、隣の部署のエース、水瀬怜奈みなせ れなが作った資料だった。カラフルかつ直感的なグラフ、要点を的確に絞ったテキスト。俺の無骨な資料とは、天と地ほどの差があった。

 チラリと視線を送ると、怜奈と目が合った。彼女は困ったように眉を下げ、「大丈夫?」と口パクで伝えてくる。

 その同情が、かえって惨めさを加速させた。

 俺は曖昧に頭を下げることしかできず、自分のデスクに戻った。


 キーボードを叩く音だけが響くオフィスで、俺はただの歯車ですらない。いつ交換されてもおかしくない、一本のネジに過ぎない。

 そんな閉塞感が、ずしりと肩にのしかかっていた。


 ◇


 その日の夜、疲れ果てて帰宅した俺は、惰性でスマートフォンの画面を眺めていた。SNSをスクロールしても、友人たちの輝かしい日常報告が目に入るだけ。溜まるのは「いいね」ではなく、ため息だ。


 ふと、一通のメールに目が留まった。

 件名は、『【Aetherize Online】クローズドβテストご当選のお知らせ』。


「……え?」


 思わず声が漏れた。

『Aetherize Online (エーサライズ・オンライン)』――通称『AO』。

 世界中のゲーマーが待ち望んでいた、史上初のフルダイブ型AR(拡張現実)ゲーム。専用のARデバイス【エーテルグラス】を装着することで、現実世界にゲームレイヤーを重ね合わせ、日常そのものを冒険の舞台に変えてしまうという、まさに夢の技術だ。

 落選続きで、とっくの昔に諦めていた。それが、まさか。


 メールを開き、文面を何度も読み返す。「当選」の二文字が、黒い液晶の上で輝いて見えた。


「よっしゃああああああ!!」


 気づけば、俺は拳を突き上げ、誰もいない部屋で叫んでいた。腹の底に溜まっていた澱のようなものが、一気に吹き飛んでいくような爽快感があった。


 それから数日後。

 俺の部屋に、近未来的なデザインの黒い箱が届いた。側面には、『Aetherize Online』のロゴが銀色に輝いている。

 箱を開けると、中には流線形のサングラスのようなデバイス――【エーテルグラス】が鎮座していた。


 ゴクリ、と喉が鳴る。

 震える手でエーテルグラスを手に取り、そっと装着する。


 瞬間、世界が変わった。


『――システム起動。網膜投影、空間認識、正常に作動。ようこそ、挑戦者。あなたの世界は、今、書き換えられます――』


 女性とも男性ともつかない、透き通った合成音声が脳内に直接響く。

 視界の端に、半透明のUIが滑らかに展開された。

 目の前に浮かび上がったウィンドウに従い、初期設定を進めていく。プレイヤーネームの入力画面。俺は迷わず、長年使い続けてきたハンドルネームを打ち込んだ。

Schwarz(シュヴァルツ) Ritter(リッター)

 ドイツ語で、黒騎士。

 学生の頃、初めてオンラインゲームに触れた時からずっと使っている、俺のもう一つの名前だ。冴えない現実の自分とは違う、孤高で最強の騎士。そんな厨二病全開の憧れを、27歳になった今も捨てきれずにいる。

 アバターは、現実の自分のスキャンデータをベースに、少しだけ髪の色をアッシュ系の黒に、目つきを鋭く調整した。ほんの少しの虚栄心。だけど、今はそれが心地よかった。


 全ての初期設定を終えると、目の前に光の粒子が集まり、一人の女性の姿を形作った。長く美しい銀髪に、慈愛に満ちた微笑みを浮かべたNPC。その名は『アイリス』。彼女が、この世界の案内人らしい。


『Schwarz Ritter様、ようこそ『Aetherize Online』へ。ここは、あなたの日常が冒険に変わる場所。さあ、最初のクエストを始めましょう』


 アイリスが優雅に手を振ると、俺の部屋に信じられない光景が広がった。

 床からは淡い光を放つクリスタルの花が咲き乱れ、天井からは星屑のような光の粒子がキラキラと舞い落ちてくる。見慣れたはずの殺風景なワンルームが、一瞬にして幻想的なファンタジー空間へと変貌を遂げていた。


「す……げぇ……」


 これが、AR。これが、『AO』の世界。

 現実と虚構が、完璧に融合している。


『最初のクエストは、チュートリアルとなります。あなたの家の近辺に、システムの歪みから生まれた軽微なバグモンスター【グリッチスライム】が発生しました。これを討伐し、世界の安定を取り戻してください』


 目の前にクエストウィンドウがポップアップする。

【クエスト:初めての討伐】

【内容:近所の公園に出現したグリッチスライムを3体討伐する】

【報酬:経験値100、初心者用ポーション×3】


『クエストを受注しますか?』という問いに、俺は迷わず「はい」と念じた。

 すると、アイリスの姿が光と共に消え、代わりに俺の手に、ずしりとした感触が生まれた。

 見れば、そこには一振りの短い剣が握られていた。鈍い銀色の光を放つ【ビギナーズソード】。ステータスは最低ランクだが、今の俺にとっては、世界で最も頼もしい武器に思えた。


 ◇


 夜の空気が肌に心地よい。

 俺は指定された公園へと足を運んだ。エーテルグラス越しに見る夜の公園は、昼間のそれとは全く違う顔をしていた。街灯の光は聖なる柱のように天を指し、木々の葉はエメラルド色の光を帯びている。


 そして――いた。


 ブランコの近くに、ぼんやりと発光する半透明のゼリー状の塊が三つ、ぷるぷると揺れている。

 あれが、【グリッチスライム】。

 ゲームでしか見たことのないモンスターが、今、現実の風景の中に存在している。この非日常感に、武者震いがした。


 ビギナーズソードを握りしめ、そっとスライムに近づく。一歩、また一歩と距離を詰めると、一体のスライムがこちらに気づき、ぴょん、と跳ねて突進してきた。


「うおっ!?」


 思わず身をひねって避ける。現実の自分の体を動かさなければ、攻撃を食らってしまう。これがARゲームのリアル。

 心臓がドクドクと高鳴る。恐怖と、それ以上の興奮が全身を駆け巡った。


「いくぞっ!」


 自分を鼓舞するように叫び、剣を振るう。だが、焦りからか、剣先は空を切った。スライムは再び跳ね、今度は俺の足にべちゃりとぶつかる。

『HP -5』

 視界の端に赤いダメージ表示が出た。痛みはないが、微弱な電流のような痺れが走る。


「くそっ!」


 落ち着け、俺。相手はただのスライムだ。ゲームなら最弱のザコモンスターじゃないか。

 呼吸を整え、スライムの動きをよく見る。跳ねる前の、わずかな溜め。

 ――そこだ。


 スライムが三度目の跳躍を見せた瞬間、俺は狙いを定めて剣を水平に薙いだ。

 ガィン、という硬質な手応えと共に、剣がスライムの体を捉える。青い光のダメージエフェクトが散り、スライムの体がぐにゃりと歪んだ。

 いける!

 勢いに乗ってもう一撃。しかし、スライムは素早く後方へ跳躍してそれをかわす。


「逃がすか!」


 ここで、チュートリアルで教わったもう一つの攻撃方法を思い出した。魔法だ。

 俺は左手をスライムに向け、習得したばかりの初級魔法の名を叫んだ。


「【ファイアボルト】!」


 詠唱は音声認識。言葉に呼応し、左の掌に小さな魔方陣が浮かび上がり、そこからバスケットボール大の火の玉が撃ち出された。

 火の玉は一直線に飛び、スライムに命中。

 ジュッ、という音と共に、スライムの体が激しく燃え上がり、断末魔の叫びのような音を残して光の粒子となって霧散した。


『グリッチスライムを討伐しました。EXP 15を獲得』


 勝った。

 俺が、勝ったんだ。

 じわじわと込み上げてくる達成感。会社の失敗なんて、もうどうでもよくなっていた。

 残りの二体は、一度経験したおかげで落ち着いて対処できた。剣で牽制し、動きが止まったところをファイアボルトで仕留める。我ながら、なかなかのコンビネーションだ。


 三体目を倒した瞬間、ファンファーレのような高らかな音が鳴り響いた。

『QUEST CLEAR!』

『LEVEL UP! あなたのレベルは2になりました』

『ステータスポイントを5獲得しました。ステータス画面を開き、ポイントを割り振ってください』


 目の前に現れたウィンドウには、【筋力(STR)】【体力(VIT)】【敏捷(AGI)】【知力(INT)】【魅力(CHARM)】といった項目が並んでいる。これが、俺の能力値。


「自分の手で、自分を強くできる……」


 誰かに評価されるんじゃない。結果がすべてでもない。ただ、努力が純粋な「強さ」として蓄積されていく。なんて素晴らしいシステムなんだろう。

 俺は迷った末、まずは分かりやすい変化を求めて、ポイントを【筋力(STR)】に3、【敏捷(AGI)】に2、割り振った。

 決定した瞬間、体の内側から力がみなぎってくるような、不思議な感覚に包まれた。もちろん、気のせいかもしれない。ただのプラシーボ効果だろう。でも、それでもよかった。


 心地よい疲労感と、それを上回る満足感を胸に、俺は家路についた。

 シャワーを浴びてベッドに潜り込む。

 ほんの数日前までの、あの息苦しいだけの毎日が嘘のようだ。部長に叱責され、自分の無力さに打ちひしがれていた惨めな俺。それに比べて、今はどうだ。剣を振り、魔法を放ち、自分の力でモンスターを倒した高揚感が、まだ全身を駆け巡っている。


 明日からまた仕事だ。また、あの息苦しいオフィスに戻らなければならない。正直、考えるだけで憂鬱になる。

 でも。


「夜になれば……また、この世界に来られる」


 目を閉じながら、自然と口角が上がった。数日前までは考えられなかった変化だ。


「明日から、少しは現実も楽しくなるといいんだけどな……」


 その呟きが、まさか予言めいたものになるなんて。

 この時の俺は、まだ知る由もなかった。


読んでくれてありがとう。

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