巷間のブラックパストⅣ
恵美たちは浪花文具店の前で立ち尽くしていた。これがもう少し早い時間帯なら、近くの小学校の生徒らが遊んでいてもおかしくはないが、すでに宵闇が近くまで迫っている。カラスの鳴き声が、あざ笑うように頭上を飛び交っていた。
あおいとみれいが二人揃って冴木を穴が開くほど見つめていた。こうしてみるとやはり姉妹なのだと納得する。冴木は普段の倍の圧に負けたのか、見解を述べた。
「店主の方を見る限り……」
冴木が浪花文具店へと目線を向ける。開け放たれた入口からは、奥でじっと座っている店主の姿が見える。年老いたお婆さんだというのは、ここからでも分かった。
「間違えて全く違う商品を入力して、レシートを出したって可能性があるんじゃないかな。商品の数的には同じなわけだからね」
「いえ、それは違います」
恵美は隣から割って入った。
「お婆さんは確かに、私が子供のときからこのお店を切り盛りしている方です。ご高齢なのはそうですが、商品を間違えることはありません。なぜなら、バーコードリーダーを手に持っていました。もちろん、読み取らずにレジに登録してある商品を印字もできますが……」
「バーコードを読み取るところを見たんですか?」
「いえ、ちょうど二階の物音が気になって見てはいないんですが、お会計はきっちり四百五十円だと口頭で発言していました」
「はぁ、そうですか」
冴木はまさか横からも口出しされるとは思っていなかったようで少し面食らった様子だったが、すぐに立て直した。
「では、前の客のレシートを渡しそびれていて、間違えて渡したんでしょう」
なるほど、そのパターンもあったか、と恵美は素直に納得した。確かにレシートを貰わない人は案外多い。みれいも合点がいったようで「なぁんだ」と呆れた様子だった。
しかし異を唱えたのは、あおいだった。
「冴木さん、違います。レシートには支払いをした日時も記載されているんですよ、この時間は本当についさっきです」
冴木が僅かに口をへの字に曲げた気がした。
「冴木先輩」
みれいが冴木の表情の変化に気付いたのか、顔を覗き込むようにぐいっと近づく。まるで磁石の同じ極同士が反発するように、冴木が身を引いた。
「もしかして、適当な推理でこの場を有耶無耶にしようとしておられます?」
「……いや、分かった。分かったから、そんなに近づかないでくれ」
恵美は思わず苦笑した。冴木はすっかりみれいに手懐けられている。確かに真意はどうあれ、この場の全員が納得さえすればこの場はお開きになっただろう。だが、先ほどの虚構はあおいが納得しなかった。これでは推理を主食とするみれいの前では焼け石に水だ。
冴木は諦めたかのように溜め息を一つ零すと、ポケットから棒付きキャンディーを取り出した。包み紙を見たあおいが「げぇっ」と唸る。
「冴木さん、それってウィアードポップン?」
「そう、よく知ってるね。近所のスーパーにあるんだけど、なんだか人気がないみたいなんだ」
冴木はもう一つ取り出すと、あおいに手渡す。あおいは排水溝に絡まった髪の毛でもとるかのように指二本でつまみあげた。
「これ……うわっ……。恵美さん、あげる」
まるで撒き餌のように放たれたキャンディーを、恵美は反射的に受け取り、包み紙をみた。貝のような絵がかいてある。その下に、見たこともないフォントで、あさりの酒蒸し味と書かれていた。
「それは結構当たりですよ」
冴木が何食わぬ顔で棒付きキャンディーを口に放り込んでいる。それは一体何味なのか、想像すらできない。恵美は返す言葉がなかった。
「レシートが違うなら、店主に直接言えばいいだけの話じゃないのかな」
冴木が話しを戻して、もっともらしいことをいった。それもそうだ、と恵美が頷きかけたところでみれいが人差し指を立ててリズムよく左右に振った。
「わたくし、好物のおかずは最後に残すタイプなんですの。このレシートの謎も、答えがそこにあると分かっていても最後に残しておきたいんですわ」
「君の思想に付き合う義理はないんだけれど……。そうだな、もう少し……情報が欲しい」
冴木が目を閉じた。あおいはどうしたらよいのか分からないのか、きょろきょろと様子を伺っている。どうやらここは年長者の出番だろう、と恵美はお店に来てからのことを仔細に説明した。みれいも静かに聞き入って、相槌すら入れなかった。
「なるほど……」
冴木はゆっくり目を開けたかと思うと、浪花文具店の二階に目を向けた。恵美も自然と視線を追う。すると、二階にある窓のカーテンがさっと閉まった。
「もう一度だけ、レシートを見せてもらえる?」
冴木がいうと、あおいがレシートを前に出した。
たっぷり収納ファイルボックスA4サイズ縦型。
水性マーカーペンしなやか仕立て。
消しゴムMONO<モノ>
テープノフセン(蛍光紙)15mm幅。
合計¥721
誰もなにも言葉を発しない。カラスの声が、遠ざかっていく。
「ひとまず、そうだね」
冴木が口火を切った。
「お婆さんを、連れ出そう」
「え?」
みれいが素っ頓狂な声を上げた。
「どうしてですの?」
「何か理由をつけて、外に連れ出してほしい。まぁ、そうだな、僕も行くよ。葉山さん、僕が合図をだしたら警察に通報してもらえないですか?」
「そ、それはいいですけど、通報ですか?」
「よろしくお願いします」
冴木とみれいが何か相談しながら、浪花文具店に入っていく。入口には恵美とあおいが取り残された。
「あの、すみません」
冴木が店主に声をかけるのが聞こえてくる。
「外のガチャポン、お金を入れても出てこないんですけど見てもらえますか」
店主はどこか慌てた様子でしきりに背後を気にしている。
「すぐに来てもらえませんか?」
冴木が念を押したとき、レジの後ろにはあった半開の扉が音を立てて開いた。中から出て来たのは、三十前後の顎鬚を蓄えた男だった。坊主で、耳にピアスがついている。腕には高そうな腕時計がはめられていて、二の腕の辺りにタトゥーも見えた。
「お客さん、どうしましたー?」
余裕ありげな男の表情は、冴木とみれいのオレンジの反射ベストをみて一瞬歪む。だが、それも一瞬だった。すぐにへらへらとした笑いに塗り替わる。
「こんばんは、お孫さんですか?」
冴木が変わらず聞く。
「そうっすけど……なんすか?」
「いえ、僕ここによく来るんですけど、自慢のお孫さんがいるっていつも聞かされていたんですよ。確かお名前は、たかしさんでしたよね?」
「おう、それがなんだよ。客じゃないなら、こっちは忙しいから出てってくれねぇか」
冴木が振り返った。恵美の視線と交差したところで、冴木が小さく頷く。これは合図だ。
すぐに通報しようと思ったが、ポケットのなかに手ごたえがない。
「ああ、しまった。あおいお嬢様。すみませんがスマホを置いてきてしまっていて、代わりに連絡していただけないでしょうか」
「う、うん。分かった!」
あおいが手際よくスマートフォンを操作して、耳に当てる。だが当然、店の入り口からレジまでよく見渡せるのだから、向こう側からもこちらが良く見える。冴木の出した合図はあまりにも露骨で、警戒していた男からすれば悪事が露見したと思われても仕方がないだろう。
「ちっ」
男の舌打ちが聞こえた。見ると、レジから横に飛び出して、恵美たちのほうへ向かおうとしている。棚が倒れて、けたたましい音が鳴る。綺麗に整列されていた文具たちが散らばり、それを蹴散らすように男がこちらへ駆けてきたかと思うと、何かを投げてきた。
「きゃっ」
あおいの手元に文具が飛んできて、スマートフォンが地面を滑って離れていく。
「あおいお嬢様!」
恵美は迫りくる男から遠ざけるために、慌ててあおいを横に突き飛ばそうと動くが、万が一にでも仕えている家の者に怪我があってはいけないと強く押しのけることが出来なかった。その一瞬の隙をついて、男が恵美を羽交い絞めにした。
「へっ、何だよこのメイドは。おい、動くなよ。下手に通報なんてしてみろ、首をへし折るぞ」
男は血管の浮き出た腕に力を入れながら周りを威嚇するように睨みつけた。
恵美は努めて冷静に、己の行動を反省していた。なるべく穏便に済ませたかったのだが、そうもいかなくなってしまった。地べたに座り込んだあおいは目に涙を浮かべている。きっと植え付けられた恐怖心はそうやすやすとは拭えない。これもまた、畏怖だろう。
レジにいるお婆さんも、みれいを庇うように立っている冴木も、手出しできないといった様子だった。
「恵美さん!」
みれいが叫ぶ。
(みれいお嬢様、私のことを心配してくださっている?)
恵美はそう思ったが、どうやら違うみたいだった。
「あの、あなた。逃げたほうがいいですわ!」
みれいの憐憫を思わせる声は、恵美ではなく背後の男に発せられている。男はみれいが何を言っているのか理解できてない様子だった。
恵美に密着している男の背から、鼓動が伝わってくる。荒い息遣い。そして込めた腕の力も、どこかで緩む瞬間がある。
その瞬間を、恵美は逃さなかった。
恵美は靴のかかとで男の脛を蹴った。途端、呻き声が聞こえて押さえつけていた腕の力が弱まる。その隙に上体を沈めて重心を落とすと、男はまさか攻撃されるとは思っていなかった様子で、あっという間に拘束が解けた。
「なっ、てめぇ……!」
恵美と男が対峙する。だが、もはや決着はついたも同然だった。
「このクソメイドがぁ!」
男が怒りを露わに突進してくる。恵美は間合いを測り、軽く息を吐いた。
「いいですか、あおいお嬢様。これが虎尾脚です」
くるりと重心にした足を回して放たれた一撃は、男の顔面を強かに打ち抜いた。