無自覚の恩人
足元で魔力をもらっていたヘルハウンドが、大分満腹になったあたりで皆に質問を投げかけてきた。
「まさかこれほど魔力を食べ放題だとは思いませんでした。魔女っていうのは普段からこんなに魔力飽和状態なんですか?」
「んなわけないでしょうよ。そんな魔女みたことも聞いたこともないわよ。普通は契約した使い魔にしか、力を分け与えられないんじゃない?」
こんなに魔力が豊富なのに、アメリアは碌な魔法が使えなかった。魔力を魔法に変換する機能が絶対的に欠けているみたいだった。
蛇口のない水道みたいだ、と彼女のアンバランスさを見ながら不憫に思う。
なにか不自然で、出来損ないの魔女。
それがどうしてなのか気にならなくもないが、ピクシーたち魔物にとってはさほど重要な事柄ではない。魔女の『普通』など所詮魔物の自分たちには関わりのないことだ。
重要なのは、彼女は自分たちの恩人であり、さらに大切なごちそうを無自覚に提供してくれる素晴らしい存在だということ。
ごくりと喉を鳴らして、ピクシーはもう一度アメリアの頬に口を寄せると、彼女から漏れ出ている魔力をゆっくりと吸い込む。
「アタシもアメリアに救われなければ、きっと消滅していたでしょうね……」
彼女の魔力を堪能しながら、ピクシーは己の過去を振りかえる。
もしかすると、とっくに消滅していたかもしれない自分が今ここにいられるのは、アメリアに出会えたから。
だからアメリアに恩返しをしたいという気持ちも、もちろん嘘ではない。
ただそれよりも圧倒的に見返りのほうが大きいだけで、決して彼女を騙しているわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、アメリアの魔力を心ゆくまで堪能するのであった。
***
魔物とは、この世ならざるもの。
その言葉のとおりに、魔物というものは存在が不確かで、どうしてそれらが生まれるのか、その理由も分かっていない。
不思議なもの、人の理解が及ばないもの、魔物とはそういうもの。
ピクシーはとある森の、魔素が溜まった泉の底から生まれた。
生まれたての魔物は、風が吹いただけで消えるような不確かな存在である。
時を同じくして生まれたたくさんの仲間が、ふとした瞬間に消滅していった。
存在し始めたばかりの弱い魔物は、遺骸など残らない。
だから消えてしまった者は、初めからそこに存在しなかったと同じこと。消えても悲しいなどという感情は芽生えてこない。
その頃のピクシーには、ただそこに存在しているだけで、何かを思ったり考えたりはしなかった。
生まれてから月日が経つと、ピクシーは自分と他が違う存在だと区別がつくようになる。それにより彼に『意思』が生まれ、自分のしたいこと、したくないことを考える時間が増えていく。
意思を持つようになると、他のピクシーたちと交流したり森の生き物と会話をしたり、それまで知らなかったたくさんのことを聞いて、『喜怒哀楽』という感情を理解するようになった。
喜怒哀楽という感情を知ると、何の変化もない泉での暮らしは退屈に感じる。同じことの繰り返し。つまらない・面白いなどの『感情』をまだ理解しない仲間たちとの会話はとてつもなく退屈だった。
こことは違う場所に行きたい。
もっと違う生き物ともっと違う世界に触れて楽しいことをもっと知りたい。
そうしてピクシーはある日ついに、仲間の制止を振り切って泉から離れ、気の向くまま色々なところへ飛んでいった。
泉の外の世界は果てがないのかと思うほど広かった。何を見ても楽しい。何もかも初めての体験で、新しいものを見て聞いて、驚きと感動に満ちた日々を送っていた。
人の耳元で甘言を囁き惑わして遊ぶのは何度やっても面白い。
嫌な奴に魔法をかけて転ばせたり、服を破いて恥をかかせてやった時はスカッとした。
国の繁栄と滅亡を鑑賞して楽しんだこともある。
ピクシーの姿が見える子どもと友達になって、その子の一生を観察したこともある。
魔物使いに捕まりそうになって、必死に逃げ回った時期もあった。
危険な目に遭うことすらも、刺激的な経験ができたと楽しめた。
そうして心ゆくまで外の世界を堪能し、自由気ままな生活が永遠に続くと当たり前のように思っていたのだが、ふと気が付くと以前より自分が弱く薄くなっていると気が付いた。
以前はどこまでも高く飛べたしどこまでも遠くに行けたのに、上に上がることができなくなっていた。
美しく光る自慢の羽が失われて、自分の姿が変化していることに気付いた時は、もう取り返しがつかなかった。
魔物としての力が消えてしまったピクシーは、いつのまにかただのつまらない蝶々の姿になり果てていた。
おかしい、自分は美しい妖精なのにどうして、と必死に羽ばたいたが、もはや元の姿に戻ることはできなくなっていた。
ピクシーは魔素溜まりから生まれた魔物だった。そこから離れた彼は、力の源を失って存在自体が消滅しかけていた。
その時のピクシーにはそんなことが分かるはずもなく、また生まれ故郷の泉がどこだったかも、虫に成り下がった彼には思い出せなくなっていた。
そんな時、森で虫取りをしていた子どもたちにピクシーはうっかり捕獲されてしまったのだ。
わしづかみで乱暴に虫かごに放り込まれて、突きまわされる。動かない蝶々に腹を立てた子どもたちは虫かごを振り回したり叩いたりしたので、羽がボロボロになったピクシーは虫の姿で死にかけていた。
「ちょ、ちょっと君ら……そんなにいじくったら、虫は死んじゃうよ……」
ぼそぼそと注意する声が、消滅寸前のピクシーの耳に聞こえてきた。それに対し生意気な言葉で反論する子どもたちの喚き声がしばらく続いていたが、注意してきた声の主がお金を子どもたちに渡して、代わりに虫かごを受け取っていた。
「し、死んじゃったかなあ……」
声の主は死にかけたピクシーをかごから取り出し、掌に載せ様子を窺っている。
ピクシーはもう死を待つばかりだと思っていたし、実際羽が千切れかけ足が折れていた。
もう彼が助かる見込みはなかった。
だがその掌に包まれているピクシーの体に変化が起きた。
自分を包み込む掌から、魔力が流れ込んでくる。
枯れ果てていた命の源が、どくどくと注ぎ込まれてくるようで、消滅しかけていた体に力が満たされていった。
何が起きたのか理解できないまま、千切れかけていたはずの羽を確認するようにパタパタと羽ばたかせてみた。
「あ、生きてる。じゃあ、いいか……」
そんな声と共に、ピクシーは花の上にそっと下ろされた。この不思議な手の持ち主は何者なんだろうと思いながら見上げてみると、チカチカと瞬く藤紫色の瞳と目が合った。
(ただの人間じゃない……魔女のたぐい?)
ピクシーの命の恩人は、瞳と同じ色の長い髪を揺らめかせながら立ち上がると、気まぐれで助けた蝶々のことなどもう忘れたかのようにそそくさとその場を離れていく。
待って、というピクシーの小さな声は届かず、魔物の姿を取り戻して飛びたてるようになった時にはもう姿を見失っていた。
改めて己の身を確認してみると、彼女から注がれた魔力が体の中心に溜まり、命の核となっていた。
ピクシーのような弱い魔物は、小さな子どもなどには見えることもあるが、普通の人には見えないような幻に近い存在だ。それが今、実体を得ている。
この世に存在し始めて初めて、自分が生きている、と実感した。
命の核が拍動し、自分が確かに肉体を得て存在している、と実感した。
姿を変化させてみると、蝶々の姿にも人間の姿にも化けることができる。
(あの人をみつけなきゃ……)
自分に命を与えてくれたあの人にお礼を言いたい。もう一度あの手に触れたい。そしてもう一度あの魔力を食べたい。
生き続けるためには『食べ』なければいけないのだと消滅しかけてようやく理解した。
空を飛ぶ羽に力がこもる。あの人の魔力の匂いを探しながらピクシーは空を駆け巡った。