最初に交わした契約書の効力
森や村をいくつも通り過ぎて、ようやく国境が見えてきた。
魔物たちの息も上がっていて疲労の色が濃い。
けれど国境を越えても、どこか休める場所が近くにあるか分からないので、とにかく一旦どこかで一休みしたいと考えていたアメリアは、国境を超えるところで彼らに声をかけようと顔を上げた。
その瞬間、『バチン!』と音を立てて体が見えない何かに弾かれ、アメリアは衝撃でヘルハウンドの背中から滑り落ちた。
「痛っ! ……なっ、なに!? 何これ?」
魔物たちも何が起きたか分からず唖然としている。ヘルハウンドの背中から落ちてしまったアメリアは急いで立ち上がり、前方にいる彼らの元へ足を踏み出した瞬間、再び『バチン!』と弾かれ、しりもちをついた。
恐る恐る手を延ばしてみるが、ある一定のラインで弾かれるので、ここまできてようやく自分に何が起きているのかを理解した。
「国境に、弾かれている……」
一体どうして、と言いかけた時、一族から追放される時に約束した事柄を思い出した。
絶縁を言い渡された時に書かされた、魔法契約書。
あれの項目に、『勝手に国外に移住しない』という文言があったのを思い出した。
「まさか、あの契約書の効力ってこと……?」
契約書にはそんな拘束力はないはずだ。ただ、魔法といっても、同意して契約を結んだことが魔法によって確認されるというだけのものはずで、書類にもこんな制約がかかるなんてどこにも書いていなかった。
……こんな風に物理的な制約を受けるなんて、まるで拘束魔法だ。
自分が書いた契約書が、表面上には分からない強力な魔法が付与されていたと今更ながらに気が付いて、絶望で目の前が真っ暗になる。
「ごめん、みんな。私国境を越えられないみたい。絶縁の時に書いた契約書に、国外に移住しないというのがあったから、制約をうけているみたい……」
契約があるかぎり、アメリアは国を出られない。
契約を無効にするには、その契約書本体を燃やすかして物理的に破棄しないとならない。けれどそれは当然本家で保管されているだろうから、いずれにせよ国外に出るのは不可能だ。それを伝えると魔物たちの顔が青ざめる。
「なるほど、さっきから予知が変わらない理由が分かったよ。まだアメリアが死ぬ未来が見えるんだ。国内限定で逃げ続けても、チューベローズ家が総動員で探しに来られたらいずれ見つかってしまうよ」
「だったら予知が変わるまで行動し続けるしかないわ。アメリアを逃がしている間に、なんとかしてチューベローズ家に潜り込んで、契約書を見つけて燃やすしかないわ」
「そうだね、そして契約が切れたのを確認してすぐアメリアを国外に逃がそう」
ピクシーとケット・シーが、二手に分かれる提案をすると、それまで考えこんでいたサラマンダーが口を開く。
「だったら俺が契約書を探しに行く。商人に紛れて集落に入り込んで、探す。見つからなければ失火に見せかけて書庫ごと燃やしてくる。人化を解けば、俺なら村まるごと焼き尽くすことだってできるから、適任だろ?」
「そんな、無茶だよ。危険すぎる。人化を見破られたらどうするの? サラマンダーがいくら強くても、一族全員を相手に勝てるわけない。絶対殺されるよ……」
魔女の村に使い魔でもない魔物が入り込むなんて自殺行為でしかない。それに、どこにあるか分からない契約書を探すこと自体、現実的でない。それは恐らくサラマンダーも分かっていて、最初から本家を燃やしてしまうつもりなのでは、とアメリアは感じた。
「予知を変えるには行動しないとダメなんだろ。ケット・シー、予知に変化はあるか?」
「……うーん。まだ新しい予知は見えない……魔女の村へは僕も一緒に行く。僕がいれば危険を回避でき……」
言いかけている途中で、ケット・シーがハッと息を呑んで空を見上げた。その表情は恐怖で青ざめている。
「まずい、魔女がここに現れる。一人じゃない。複数に囲まれる」
「本当か!? どれくらい時間の猶予がある? 一時的にでも、どこかに身を隠すか……」
新たな予知に皆が驚愕する。集落を出てからその足で国境まで来たのだ。アメリアが逃げたと気付かれるのはまだ先だと考えていただけに、もう追手がかかったことに皆焦りを隠せない。
ともかく動き続けるしかないと、ピクシーがアメリアの腕を引いた瞬間、彼の体が目の前から吹き飛んで行った。
「ぎゃ!」
「ピクシー!」
それを皮切りに、次々とこちらに向かって攻撃が繰り出される。ドンという音と共に雷が魔物たちに降り注ぐ。
避けるのが精いっぱいで、アメリアは魔物たちから離れてしまう。土煙があがり、衝撃音だけが響くなか、皆の名を呼ぶが、誰が何処にいるのか分からない状態で立ちすくんでいるうちに土煙が風で飛ばされ視界が晴れてきた。
アメリアの目に飛び込んできたのは、自分の頭上をホウキに乗った兄姉たちがぐるりと取り囲んでいるという光景だった。
モノリス、ジレ、テューリ、テレサ、ペチュニア、ヘレックが勢ぞろいで、全員怒りを湛えた瞳でアメリアを見下ろしている。
「母上から、アメリアが逃げないように見張りをつけろと仰ったが、まさか本当に逃げ出すとはな……おかげで母上は大層ご立腹だ。兄弟全員で捕獲に迎えと命じられて、本当にいい迷惑だ」
モノリスが心底疲れたようなため息をつく。兄姉たちが揃って行動するなど普段あり得ないことなのだが、どうやらメディオラ直々に命じられたため、全員で出動する事態になった彼らは、出来損ないのせいでと怒り心頭である。
ひどく苛ついた六つの顔に見降ろされ、アメリアは昔に皆から折檻された時の記憶が蘇ってきて足が震えて動くことができない。
縋るように周囲を見回しても魔物たちの姿がどこにも見当たらない。
もしかして魔法で攻撃を受けてもう消滅してしまったのかと青くなるが、使い魔としての契約が切れた感覚はないのでどこかで生きているはずだと、目だけ動かし必死に周囲を探る。
「アンタが連れていた奴等なら、邪魔だから気絶させておいたわよ。男を何人も侍らして、気持ち悪いったらないわ。まさか男を惑わす力がアンタの恩寵だったとか?」
「只人と犬だけじゃ護衛にもならないけどね」
「うっかり子どもなんて作らないでよ。契約違反だわ」
姉たちから酷い言葉をぶつけられるが、アメリアはそれを聞くどころではなく、ようやく土埃がおさまって地面に累々と倒れる魔物たちが目に入り、どっと冷や汗が噴き出す。
一番近くに倒れていたケット・シーに駆け寄ると、声をかける前に頭のなかに『喋らないで』と直接念話で話しかけられた。
『僕らが魔物だとバレてないみたいだから、このまま大人しく従ったほうがいい。魔女の集落に連行されるなら好都合。彼らもアメリアには危害を加えるつもりはないようだから、様子を見よう』
使い魔契約をしてから、魔物たちとは離れていてもつながっているのを感じていたから、ここで引き離されてもお互い居場所を探れるはずだ。この六人を相手に戦うより、本家で様子を窺いながら契約書を探すほうが得策だとケット・シーは伝えてきた。
『大丈夫。予知は変化し続けているよ。僕らが必ずアメリアを守るから』
気を失ったふりをするケット・シーから伝わってくる言葉に、アメリアは涙をこらえきれなくなって、彼を抱きしめながら声を上げて泣いた。
「気絶させただけで、殺してはいない。お前が母上の指示に従わず逃げたりするから、我々も強硬手段に出なくてはならなくなったんだ。その男たちが怪我をしたのも、全てお前の自業自得だ」
泣きじゃくるアメリアを見たモノリスが、冷たく言い放ってくる。それをとりなすように次兄のジレが口を挟んできた。
「まあまあ、アメリアも実家に戻れと言われて怖気づいたんでしょう。ねえアメリア、君がきちんと母上の言うことに従うなら、僕たちもこれ以上彼らに攻撃するつもりはないよ」
優しい口調だが、従わないなら彼らの身の安全は保証しないぞという脅迫だ。コクコクと頷くと、腕を出すように言われ、そのまま拘束魔法をかけられた。
「気絶している奴等もひとまず連行する。アメリアが母上のことなどをベラベラ喋っているかもしれないからな。取り調べして、場合によっては口外しない契約をする必要がある」
拘束して連れていけ、とモノリスが三姉妹に指示を出す。女たちは兄から顎で使われることにいら立ってブツブツ言っていたが、当主に一番近い長兄には面と向かって抗議できないらしく、命令に従っていた。
かくしてアメリアたちは全員拘束された状態でホウキにぶら下げられ、本家へと連行されて行く。魔物たちはまだ気絶しているように振る舞っている。
……本家に戻れば死ぬ、といったケット・シーの予知は、今も変わらないままなのだろうか。
一体何が待ち受けているのか、全く想像がつかない。メディオラがわざわざアメリアを呼び出し、絶縁した娘をまた本家に戻そうとする理由も正直見当がつかない。
なんの恩寵もない自分が必要になるとも思えないが、こうしてわざわざ兄姉を全員出動させているのだから、そこまでしてアメリアを本家に留めたい理由があるはずだ。
その『理由』こそが、予知した死につながる事柄に違いない。
逃げられないと分かった以上、ケット・シーのいうとおりここは素直に従って、本家で契約書を探すほうが死ぬ運命を変えられるかもしれない。
幸い、連行というかたちで魔物たちも一緒に行ける。アメリアひとりでは無理でも、彼らがいればなんとかなるはずだ。
数時間かけて魔物たちが走ってくれた距離が、兄姉たちのホウキで空を飛んでいけば、ものの一時間で魔女の集落に連れ戻されてしまった。
集落に降り立つと、魔物たちは待機していた兄姉たちの部下に引き渡され、それぞれ別棟へ連れていかれた。犬の姿のままだったヘルハウンドは、縄でつながれる。
ただの犬みたいな顔をしてしっぽを丸めているヘルハウンドに目配せをして、アメリアは本家の屋敷の中へ連れていかれた。
アメリアが使い魔契約をしている犬だから、一緒に連れてきてくれたところを見ると、一応は配慮してくれているように感じる。
(兄さんたちが私を殺すつもりなら、使い魔なんて連れてきてくれないよね……? じゃあ、兄さんたちが私を殺す計画をしているわけではない……?)
兄姉たちは怒り心頭だが、それはアメリアが勝手に逃亡したことと、わざわざ捕獲に駆り出されたことに対する怒りで、殺意までは感じられない。少なくとも、ケット・シーが本家に行くことを勧めたのだから、今すぐ殺されたりはしないだろう。
「ねえ、モノリス兄さん。母上はコイツを連れてこいって言っただけ? この後どうするんだよ。僕ら行かなきゃダメなの?」
末兄のヘレックが不満げに声を上げる。メディオラの命令だから従ったが、元々アメリアを本家に連れてくる意味も聞かされていないし、家から除名した出来損ないに自分たちがここまで労力をかけたことが非常に不満だと言う。
「母上からこのあとお言葉があるから、それまで我慢しろ。最近お会いしていないお前たちは知らないだろうが、母上のご容体はあまりよろしくないのだ。もしかすると……死期を悟られて、相続についてお話されるのかもしれない」
モノリスを除く兄姉たちが息を呑む。メディオラの後継に誰が指名されるのか、一代で築いた莫大な資産はどのように振り分けられるのか。皆、自分の配分を気にして口数がすくなくなる。




