ヴィヴィアンは病院に行った
黒い虫がすっかり消えた病院のなかは、気味が悪いほど静まり返っていた。
「人の気配が少ないわね」
「今日は光の日だもの」
「それにしてもよ。入院患者がいるのだし、休日のお昼なら、見舞客が多いはずなんだけど」
無人の広いロビーを抜けて、医局のほうに行ってみても、人の姿は見えなかった。
「やっぱり変だわ。サポゲニン病院長の執務室に行ってみましょう。休日でも出勤している方だから、きっといるわ」
サポゲニンの執務室は病院の最上階の十階だった。
魔導昇降機は、なぜかどれも動かなかった。
ヴィヴィアンたちは階段を登りながら、途中の階を覗いたけれども、病室のドアが全て閉まっていて、人の気配は奇妙なほど薄かった。
「人がいることは、いるみたいなんだけど…」
「患者さん、全員、寝てる?」
「ありえないわ。普通ならね」
「うん。昼間に全員寝てるのは、普通じゃない」
十階に着いた途端、ノラゴが叫んだ。
「あるじ、なんか臭うぞ!」
「え、私、くさい?」
「そうじゃない! これは」
──人が、死につつある臭いじゃな。
「えっ?!」
「臭いは分からないけど、強い呪いの気配がするわね。それと、強烈な殺意。下の階では何も感じなかったのに」
「屍人の臭いだけじゃねーぞ。もう一つ、変に甘い匂いが……なんだこれ、やべぇ、身体が保たねえ」
床に崩れ落ちるように座り込むノラゴを、ヴィヴィアンは慌てて支えた。
「ノラゴ! どうしよう、お腹がすきすぎた? ご飯食べる!? サンドイッチと謎肉シチューあるよ!」
「食いてぇけど、いま、無理…」
──甘い匂いは、魔導虫をたぶらかす魅惑のフェロモンのようじゃな。わしらみたいな百戦錬磨の老虫には効かんが、本来なら幼虫にも効かんはずなのじゃ。おそらくは、何か邪悪な処理でもしたものだろうの。
──ノラゴや、変化を解いて虫に戻れ。少しはマシなはずじゃ。
「そうするよ。うう…気持ちわりぃ」
ヴィヴィアンは、幼体に戻ってぽとりと床に落ちたノラゴを拾って、そっと帆布カバンに入れ、謎肉ガムをそばに置いた。
「食べれるようになったら、食べて」
──ありがと、あるじ。ちくしょー、すぐ元気になって、匂い出してる奴をぶっ飛ばしてやるからな…
病院長の執務室は、階段からずっと離れた、廊下の突き当たりにあった。
「ドアが少しだけ開いているみたいね」
「変な匂いを流すために、わざと開けてたのかも」
「きっとそうね。部屋の中に病院長と、殺意のヌシがいるみたい」
「ぶっ飛ばす?」
ヴィヴィアンがゲンコツを握って構えると、親虫たちが前に出てきた。
──わしらが先に中の様子を見てこよう。姫様と姐様は、ここでお待ちくだされ。
「オヤジさんたち、危なくない?」
──大丈夫じゃよ姫様。わしら、こう見えて、結構強いんじゃ。
──久々の捕食じゃな! ほほほ、腕が鳴るわい!
──百年ぶりに踊り食いを楽しもうぞ!
「あー、あなたたち、病院長は食べないであげてね」
──捕食不可なのは、活きがよいほうか、死にかけてるほうか。
「ほとんど死にかけてるほうよ。間違って齧っちゃうと、病院長の奥様があなたたちを死ぬまで追いかけて、殺虫管に放り込むまで許さないだろうから、気をつけなさいね」
──番がそれほどの剛の者とは、病院長とやら、羨ましき男じゃの。
──番といえば、わしらの番は、どうしておるかのう。
──ほれ、爺ども、とっとと荒事を片付けようぞ! 姫様を待たせてはいかん。
──誰がジジイじゃ! わしゃお主より若いわい! わしの番もな!
──覚えとらんくせに、よく言うわ。
親虫たちは、触覚を細かく震わせながら飛び上がり、暗い廊下へ向かった。
後ろ姿を見送りながら、ヴィヴィアンはつぶやいた。
「オヤジさんたち、奥さん、いたんだ…」
「そうみたいね」
帆布カバンの中から、ノラゴのか細い声が聞こえた。
──かーちゃんたち、マジ、こえーんだよ…




