ヴィヴィアンは宿題をやった
「お弁当を失くした日に、メアリーに甘くておいしいパンをもらったのを思い出した。あの時は、ありがとう」
良き思い出に向かって深々と頭を下げるヴィヴィアンを、メアリーはあわてて止めた。
「お礼なんて、そんな…あの時はユアンたちが、ヴィヴィアン様のお弁当にひどいことをするのを、私、止められなくて、ずっと申し訳なくて」
それを聞いて、踏みしだかれて泥まみれになった弁当という、この上なく悲しい映像が、ヴィヴィアンの脳内に蘇ってしまった。
ごごごごご…という地鳴りが再び始まった。
「ユアン・グリッド、私のお弁当の仇でもあったのか……許せん」
「ヴィヴィアン待って! それ以上消すと、ユアン・グリッドがちょっと不味いことになる!」
「そう? スカーレットが言うなら、やめる」
地鳴りは、すっとおさまった。
「あの、ヴィヴィアン様は、学院のころのことは…」
メアリーの遠慮がちな質問に、スカーレットが答えた。
「ろくでもない出来事と、それに関連した人物は、ほぼ忘却してる。今日になってあんたのことを思い出したのは、ほとんど奇跡よ」
「そうなんですね…」
二人の話を聞いていたヴィヴィアンは、細かなものをより分けるような目つきで虚空を睨んでいたかと思うと、唐突に言った。
「あ、宿題!」
「何よヴィヴィアン。学院のことを他にも思い出しちゃったの?」
「うん。メアリーの宿題があったのを思い出した」
「私の宿題、ですか?」
「ずっと忘れてて、ごめん。いまからやる」
ヴィヴィアンは、肩に掛けていた布製の大きなカバンの中から、ユアン・グリッドからもらった髪飾りや手紙などを取り出すと、メアリーの寝ていたベッドの上に並べていった。
「そんなもんで、何をするのよ」
「いまから、メアリーの病気を治す」
「えっ?」
驚いて目を見張るメアリーに、ヴィヴィアンは言った。
「その病気、自分の中で生まれた魔力が、自分の身体を傷つけて、どんどん壊していってる。あの時すぐに治せたらよかったんだけど、いまからでも、まだ間に合うから」
学院でメアリーにパンをもらった時、ヴィヴィアンは、メアリーの身体に、自己魔力不全という難治性の病気が潜んでいることに気づいた。
まだ発病の初期段階だったけれども、そのまま進行すれば致死的なものになると、ヴィヴィアンは直感していた。
おいしいパンのお礼に治療を申し出ようと思い立ったヴィヴィアンは、放課後にメアリーを呼び出そうとしたけれども、ユアンをはじめとしたクラスの者たちに執拗に妨害されて、二人きりで会うことができないまま、卒業を迎えてしまった。
その件があったために、ユアンはヴィヴィアンがメアリーに害をなしたと勝手に誤解して、逆恨みをしていたのだろう。
ヴィヴィアンはヴィヴィアンで、ユアンたちの不愉快な記憶を消し去った勢いで、メアリーの病気のことまで、うっかり忘れてしまっていた。
「そっか、あんたなら治せるのね」
「うん。学院のときに、方法は思いついてた。さっきまで全部忘れてたけど」
自己魔力不全は、スカーレットのような有能な魔導医師でも、進行を遅らせる対症療法を続けることしか出来ない難病だった。
「それもこれも、このクソ馬鹿どものせいだわね。寝てる間に蹴飛ばしてやりたいわ。で、どうやるの?」
「不具合のある魔力を調教して身体に適合させるための道具を作る」
「魔力を調教って……何をどうするのか見当もつかないわ」
ヴィヴィアンは、まずベッドの上に並べた手紙をビリビリと引き裂いてから、ギチギチに握って丸めた。髪飾りは半分にへし折り、ブレスレットは鎖を引きちぎってから、手紙とまとめてスカーフで包み込んだ。
「ねえメアリー、木刀と鞭、どっちが好みかな」
「え?」
「ちっとも聞く耳持たないダメな夫とか、馬鹿なことをしでかすトンチキな夫とかを、物理でまともにしようと思うときに、何でぶっ飛ばしたいかな」
「ええと……どちらかというと、む、鞭、かも」
「わかった。鞭で行く」
ヴィヴィアンは、スカーフで包んだ廃棄物に右手の人差し指を当てながら、低い声で詠唱を始めた。
「廃棄されし哀れなる物たちに、新たなる命を我は与えん。我が愛で慈しむこの世界に満ちる輝かしき力よ、ここに巡り、これを潤し、よき人を生かすしなやかなる至上の鞭と成せ」
詠唱に合わせるように、ヴィヴィアンの人差し指から虹のような光が出て、廃棄物を包み込んだ。
やがて光が消え去ると、丸めたゴミだったものは、とぐろを巻いて鎌首を持ち上げる、暗緑色の細長い物体に変わっていた。
「鞭、できた」
ヴィヴィアンの声を喜ぶかのように、裂けた口元から飛び出した赤い舌が、ぴろぴろと揺れている。
「ヴィヴィアン、それ、鞭じゃないと思うわ」
「え? 鞭だよね」
「鞭は自力で蠢いたりしないわよ」
「あの、鞭には目とか口とか、舌とかもないように思います、たぶん」
「ほら、メアリーもそう言ってるし、どう見てもこれは」
「鞭だよ。ねえ、君は鞭で間違いないよね」
鞭と呼ばれた物体は、鎌首をヴィヴィアンの方に向けて、抑揚のない声で、たどたどしく返事をした。
「ハイ、ワタクシハ、ムチ、デス」
「ほら、やっぱり鞭だよ」
「鞭は返事なんかしないわよ!」
「でも、それを言うなら、蛇も返事はしませんよね…」
「うーんそれなら、ちょっと蛇っぽいところがある鞭っていうことで、いいかなメアリー」
スカーレットは納得いかないという顔だけれども、メアリーに異存はないようだった。
「はい。ちょっと蛇っぽい鞭、でございますね。そう思うと、なんだか愛らしい気がしてきました。赤くてつぶらな目とか、真っ赤な舌とか、つやつやした深緑色の鱗とか」
嬉しそうに語るメアリーと、うんうんと頷くヴィヴィアンに、スカーレットは「あんたら正気か」と言いたそうな目を向けていたけれども、蛇にこだわっていては埒が開かないと思い直して話を進めた。
「で、その『鞭』で、どう治療するのよ」
「毎日しばく」
「は? 何をよ」
「自分の中で、これじゃないって感じたものを狙って、心の中で、心ゆくまでしばきたおす。それだけ」
「心のなかでしばくっていうことは、実際にその蛇を手に持って振り回さなくてもいいっていうこと?」
「うん。蛇じゃなくて鞭だけど。身近に置いといて、やさしく愛玩するだけで大丈夫。懐いてくれると、それだけ病気の回復も早まるから」
「カワイガッテ、クダサイマセ、メアリーサマ」
「蛇が会話に入ってきたわ!」
床に座ったまま、ベッドの上でとぐろを巻いている蛇の鎌首をちょこちょこと指で撫でていたメアリーは、何かに気づいたように勢いよく立ち上がった。
「あの、なんだか急に、身体がすごく楽になったみたいなんですけど」
「えっ、まさか、もう効いてきたっていうの?」
「頭の中で、『しばく』っていうのを、自分なりにやってみてたんですけど」
ヴィヴィアンはメアリーの前に立ち、全身を確認するように見てから、言った。
「うん、体内の魔力は、もうほとんど適合してる。毎日続けていれば、そのうちしばく必要もなくなると思う」
「ねえヴィヴィアン、それって、つまり完治するってこと?」
「うん。長くてもだいたい三年くらいかな。たぶん、他の病気にもかかりにくくなると思うから、メアリー、きっと長生きできるよ」
「信じられないわ……いや、ヴィヴィアンだもの。なんでもアリか」
納得したいような、したくないような顔のスカーレットをよそに、メアリーは姿勢を正して心からの感謝の言葉を述べた。
「ヴィヴィアン様、スカーレット様、この度は、ユアンのしでかした不始末にも関わらず、命を救って下さいましたこと、どれほど感謝しても足りません。ユアンが目覚めましたら、改めてお詫びをして、二人でお礼と償いをいたします。この蛇ちゃま、いえ鞭様のお代金も、必ずお支払いします」
深々と頭を下げるメアリーに、ヴィヴィアンは言った。
「鞭の代金は、間に合ってるからいらない。お礼は、もしくれるなら、あの甘いパンがいいな」
「パンでしたら、退院しましたら、すぐにでも家で焼いてお持ちしますけど、そんなものでいいのでしょうか」
「うん、パンがいい。えへへ、宿題のご褒美だ」
「ヴィヴィアン様…」
黒い虫の大群が消え去り、元凶のユアン・グリッドが白目を剥いて倒れている病室で生まれた、あたたかくも美しい友愛に、ヴィヴィアンは大いなる幸せを感じていた。
(ああ、これぞ「普通」で「無難」な人生の醍醐味…)
よく考えれば、結婚詐欺師の妻と、その詐欺師に殺されかけた被害者が、詐欺師そっちのけで熱い友情を結ぶという、この上なく異常で奇妙な状況なのだけれど、ヴィヴィアンがそれに気づくことはなかった。




