「さいくろぷす」を胸に抱き
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一つしか目を持たない少女、「一つ目の少女」をぼくは夜になるたび、胸に抱いていた。一つ目の少女。文字どおり、目が一つしかない。フツウのニンゲンでいうところの眉間――そこにたった一つ、大きな目がある感じだ。単にそれだけのことなのに、彼女はヒトとして認定されず、ただ気持ちの悪いものとしてしか認められなかった。そのへんを哀れに思ってぼくは彼女を自らのもとへと迎え入れた――わけではない。彼女の思考に触れ、彼女の人格と接し、ぼくは彼女の思念が、美しいと感じさせられたんだ。
「小十郎さま、あなたは私を醜いとお思いです。そうに違いありません」
彼女――一つしか目がない恵という十五の少女はそうのたまうのだけれど、馬鹿な、なんてことを言うんだ、親に「恵」という美しい名を与えられた女子になんの罪があるというのか。
そう思うからこそ、ぼくはいつも、夕方、仕事から帰ってくるたびに、恵のことを抱き締める。
恵は、やはり泣く。
まだ少女にしかすぎない女子が、やはり泣く。
「申し訳ございません、申し訳ございません。小十郎さまはいついかなるときでも私など捨て置き、栄転をされるに違いありませんのに」
そんなことを言われるたび、ぼくは笑う。
「ぼくの才能なんて大したものじゃあない。ぼくはね、恵、きみと一緒の時間さえ得ることができれば、それでいいんだ。ああ、ほんとうに、きみはぼくの心を殺してしまうほどに愛らしいんだ」
「あ、愛らしい?」
「愛らしいよ」
「では、では、た、たとえば……」
「うん。たとえば?」
「は、はいっ、たとえば、私よりも先に小十郎さまが亡くなってしまったら、私にはどうしろと――」
「その答えについては、我慢して、待っていてごらん」
「そんな、一つ目にしかすぎない私がなにを期待しろと……っ」
「悪いようにはしないから」
ぼくは今日も布団に入り、眠ろうとする。
「小十郎さま」
「うん?」
「恐れ多いことです。ほんとうに恐れ多いことでございます」
「言ってごらん?」
「今日も……今夜も、隣で、眠りについてもようございますか?」
ぼくは笑った。
「なにを遠慮しているの。来なさい。ぼくはきみを拒んだりしない」
恵はえぐえぐと泣きながら、布団に入ってきて、ぼくの背にはりついた。
だからすぐに身を転じて胸に抱いてやる。
キラキラと光を放つ黒髪は美しい。
甘い匂いもまた得難いものだ。
「ほんとうに申し訳ありません、申し訳ありません」
「だから、なにが申し訳ないの?」
「ですから、それは――っ」
「ぼくがいるうちは、ぼくに甘えなさい。命令だよ」
恵がしくしく泣くその振動が、胸から全身へと伝わってくる。
「大切なのは前向きさだよ」
「でも、私は――」
「きみを差別するような奴がいるなら、ぼくはそれを片っ端から遠ざける」
「そ、そんな、うれしい、うれしいですが、それは、小十郎さま――」
「どうあれ、そんな連中を、ぼくはゆるさない」
ぼくは全身を脱力させ、恵の温かさと柔らかさを胸に感じながら、今夜もまた、眠りにつく。
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難しいなぁ。
ぼくが執務机を前にして首をかしげると、すぐにわかるくらい、恵は目を白黒させた。一つしかない瞳を白黒させた。
「ど、どうかなさいましたか、小十郎さま、い、いえ、ご主人様っ」
「きみは時折そんなふうに言うけれど、ぼくの呼び名なんてどうでもいいよ。ぼくの愛おしいヒトがそこにいる。これほどの喜びはないのだから」
恵は目をぱちくりさせ、それからかあぁっと頬を桃色に染め。
「小十郎さまは意地悪ですっ」
「自覚しているよ」
「それで、難しい……とは?」
「戦況が良くない。ウチは戦争に強いことだけがウリだったんだけれど」
「であれば、誤報では?」
「そうだね。ぼくがいま読んでいた新聞だって、左翼的なメディアだ」
「でしたら――」
次の瞬間、ぼくは――血を吐いた。
恵が目を大きくしたことはもちろんわかった。
「小十郎さまっ!」
「大きな声を出さないでほしい。バレないようにしているんだから」
「で、でも――っ」
「癌と呼ばれる病らしい。これまでぼくの身体はよく踏ん張ってくれた」
「し、死んでしまわれるのですか?」
「どうにもそうらしいよ」
「そんな……」
恵が口元を両手で覆う。
嗚咽が漏れてしょうがないのか、咳込むようにして息を吐く。
「私は、私は、あなたが、小十郎さまがいらっしゃるからこそ、生きていて――」
「なんとかするよ。きみが不自由をしないように、ぼくはなんとかする」
「そんな、そんな……っ」
「まずは兄上と会わないとね。ずっと毛嫌いしてきたんだけど」
むしろこちらを打算的に扱うようになったのは、兄のほうが先だ。
ぼくが兄を嫌う理由は、そこにあった。
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最近、父が亡くなった。なにせ国王だ。多くの国民に愛されていたというわけでもなかったけれど、まるっきりそうとも言えない人物だった。――否、違う。大きな国の王だから、それなりに慕う国民もいたというだけだ、人気があった王だとは思えない。むしろ――むしろ、そうだ。のちの王となった兄上のほうが立派だろう。
ぼくが朝っぱらから王に謁見できたのは、そこに兄弟という関係があったからだ。それ以外の、それ以上の理由なんてない。
ぼくは高い位置で玉座に座る兄の眼前で片膝をつき、頭を垂れた。
「おひさしゅうございます、兄上」
「俺は高い位置にいて、おまえは低い位置にいる。だからといって、勘違いするな。俺はおまえの兄だ。おまえは俺の弟だ。話くらいは聞く」
「ご相談したいことが――」
「わかっている。さいくろぷすの女のことだろう?」
さいくろぷすの女。
他人事のように言われてしまうと頭にきたけれど、そういう問題でもない。
「おまえはなにを望む、小十郎」
「恵にも似た、ある種の人外は、数多おります。彼らの、彼女らの権利を保障していただきたいのです」
「言おう。阿呆か、おまえは。人外を食わせるくらいなら、その税金、犬猫に食わせてやったほうが十二分に有効だ」
「ああ、やはり、兄上はそのようにお考えだったのですね」
「なにが言いたい?」
訝しむように眉根を寄せた兄に対し、ぼくはにやりと笑みを返した。
「兄上、私のすぐそばには幾万の兵がいます」
「どういうことだ?」
「兄上が言う人外のすべてが、世界中にいるそのすべてが、私の配下にいるということです」
兄は「まさか」と言って、鼻を鳴らすようにして笑った。
「仮に私が申し上げたことが嘘だとして、その場合、軽々だったと悔やむことになるでしょう。しかし、彼らと手を打つことができた場合、どちらにとっても悪い結果にはならないはずです」
ぼくの咳は止まらなくなった。
胸を押さえ、しかしおさまらず、幾度も幾度も吐血した。
「小十郎、おまえは……」
「兄上、お願いいたします。誰にも寛容である国をお作りくださいませ」
私が血を吐くことすらつらくなり、前のめりに突っ伏した時、まったくどこで見ていたのか、恵が「わあああん」と泣きわめきながら駆け寄ってきた。
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それから十年経っても、ぼくは生きている。
誰とも婚約せず、だから結婚すらせず、さいくろぷすの恵はぼくのそばを離れないでいてくれている。ぼくの身体の調子がすぐれず、頭ばかりが痛くてどうしようもないときは、ずっとそばにいてくれて、ひたいのタオルを交換してくれる。好きな物書きを始めても、咳をし始めるとはんてんを羽織らせてくれたうえで、すぐさま脇に控えてくれる。申し訳ないとは思わない。ぼくと恵が望んだ結果だ。至極静かな人生。ぼくが理想としていたところでもある。
恵も年をとった。それでもまだまだ乙女だ、全然若い。ぼくの目にはまだ幼かった頃の恵の姿がすぐにでも浮かぶ。きみは苦労をしてきた。なにせ目が一つしかないわけだ。一度外に出れば、ぼくには想像もつかないほどつらい目に遭ってきたはずだ。ぼくと出会えたことは、幸せだっただろうか? もしそうだと言ってくれるのなら、ぼくはその言葉を信じたい。一つ目。さいくろぷす。そもそも、目は二つないといけないって、誰が決めたんだ?
ぼくは一つでもいいと思う。
見つめ合うと、素敵な気持ちに陥ることは、できるのだから。