人生(2度目)の転機
遅くなって本当に申し訳ありません。
だらだら書いていたらこんなことに……
あの出来事があったあと、僕はすぐに入部届けを取りに走った。少しの不安とそれを塗りつぶすほどの期待を胸に。
職員室に着くと服装を整えるのすら忘れて僕は扉を開けこう言っていた。
「入部届けください!」
そこからの1年間はあっという間だった。
入団してしばらくは筋トレ漬けの毎日。なぜそんなに毎日を送っていたかというと『体ができてないと舞も旗振りも太鼓も教えても意味ないからね』と団長に言われたからだ。3人の扱きは相当辛いものだった。乗り切れたのは彼らからの期待と僕の中の炎を裏切りたくなかったからだろう。
体が出来上がると次は技を教わった。その特訓は非常に困難を極めた。理由は単純……入ってきた1年が僕しかいないということで、舞も旗振りも太鼓も全部を教えこまれたからだ。はっきり言ってしまうと筋トレよりも遥かに地獄だった。初めてのことを3ついっぺんに教えこまれているのだから当たり前っていったら当たり前なのだが……なんだか、この地獄は僕にとって楽しくもあった。出来ないことが出来るようになるのは楽しいし、なにより彼らに近づいているという実感が得れたからだ。
だけど、彼らのような才能がなかった僕が合格を貰えたのはあの出会いから約1年後──3人が卒業する日だった。
憎たらしいほど晴天の下、舞から始まり旗振り最後に太鼓、僕のここで1年を披露した。終始団長たちは静かな眼差しで僕を見ていた。
「はぁッ!」
太鼓の演奏が終わりポーズをとった背中を落ちゆく日の光が赤々と照らしてくれる。
数秒後、僕は大の字なって仰向けに倒れた。
春一番の風や達成感はもちろん、脱力感や口の乾燥、ハチマキに染み付く汗、酸素不足による息切れ……それすら今は心地よく感じた。
(全力を出した後の心地よさってこういうことか)
そんな快感に浸っているうちに3人の姿が目に入る。先程の真剣な表情とは打って変わって3人ともその表情はにこやかだった。
『……いい笑顔。合格!あとは頼んだよ、火野"団長"』
いつもの屋上で団長たちはそう言い残し、この学校を去った。
1人になった屋上で僕は叫ぶ。
──歓喜の声を。
「や、やったぁぁぁぁぁ!」
嬉しかった。あの人たちに認められたことが、どうしようもなく嬉しかった。突然、目元から水滴が落ちる。──涙だ。
(嬉し涙なんて生まれて初めてだ)
この日、僕は華南団の団長になった。
それから1年が……つまり華南団に入部してから2年が過ぎ、僕も当時の彼らと同じ最上級生の3年生になっていた。いつもの屋上は押し寄せた僕の演舞に魅了された後輩たちで溢れかえり、とともに汗を流し、あの炎に近付こうと練習に励んで……
"などいなかった"
「も…もう少しだけお願いします」
僕がいるのはいつも屋上じゃないし、していることも後輩との練習じゃない。
「これ以上は無理です。"1年間の猶予"これが華南高校の校則ですので。それに──」
"1年間の猶予"
ちょうど1年前にもこの言葉を目の前の彼女──華南高校執行部生徒会長"西園寺涼花に言われた。
『"1年間の猶予"を与えます。その間に部員を最低3人にしてください。出来なければ廃部を視野に入れさせていただきます』
だから、僕は2年生になったとともに団員集めに励んだ。最初の方は僕と同じく先輩たちの演舞に魅了され、ここに来てくれた人はいた。しかし、3人とも卒業したと聞くなり全員蜘蛛の子を散らすように部室から消えていった。
団員が増えなかった華南団は部活として認められず同好会扱い。
チラシ配りやクラスへの勧誘も何度も行ったが効果はなかった。
(もう時間が……)
そうした日々が早々と過ぎていくうちに約束の日を迎えた。
「……でも!ぼくは彼らの意志を途切れさせられないんです。西園寺さんも知ってるでしょ。あの人たちの演舞を。あれはここで終わらせていいものじゃない!」
(あぁ…そうだ。ぼくがここで折れたら華南団は誰が守るんだ)
焦燥感に駆られた僕の言葉は彼女へ襲いかかっていた。
「それともなんですか。あなたはあの演舞が潰れてもいいとでも言うつもりなんですか?」
ここ数ヶ月溜まっていた不満を吐露した。
そんな脅迫のような言葉を一通り聞き終えてから彼女は口を開く。
「わたしもあなたと同じ学年なので、あの方々の演舞が素晴らしかったのは覚えています。そしてあなたの努力も存じています。ですが、わたしは立場上平等でいないといけない。華南応援団だけを特別視する訳にはいかないのです」
開かれた口からできた言葉は悲しいくらいの正論だった。
そう、彼女は十分な時間を与えてくれていた。無茶な要求をしてきた訳でもない。
(むしろ無茶な要求をしているのはぼくの方だ)
いたたまれなくなり僕は彼女へ謝罪した。
「……そうですよね。自己中心的な態度を取ってしまい、すみませんでした」
「分かっていただけたのであれば、問題はありません。部室の退去にはどれくらいで済みそうですか?」
「もともとあまりものはないので今日中に済ませれます」
活動場所がほとんど屋上で部室は荷物置き場としてしか使っていなかったため、衣装と太鼓、旗ぐらいしかそこには存在していなかった。
「では──」
日は暮れ、街灯が辺りを照らしている。そんな中を僕はとぼとぼ歩いて帰っていた。腕時計は18時を表示している。部室の片付けを完全に終える前に帰宅しているのは西園寺さんの厚意からである。
『では3日差し上げるのでその間に部室の片付けを終わらせてください』
『えっ、3日ですか?少し遅くまで残れば、今日中に終わるのでそんなに長くは……』
『あなたにも気持ちを落ち着ける時間が必要でしょう。そのための3日です』
度量の差を見せつけられた。
(なんというか先輩たちとは違う意味で尊敬できる人だった)
そんな思考にふけっているうちに、いつも通る十字路に来た。
「……ん?」
僕が住んでいるところは大阪と言えど、まだ発展しきっていないところなので、こんな時間でもかなり暗くなる。この辺りに住んでいる人もかなり少なく、唯一の救いの電気屋も今日は定休日でシャッターが閉まっている。
だから大体いつも通りのこの道に違和感を覚えたのは偶然だった。
閉まっている電気屋の駐車場に止まってるトラックの左側に小学校1年生ぐらいと思われる女の子が震えながら、体を丸め座り込んでいた。
(迷子かな?)
このまま放置しておくのはあまりに非情すぎるという考えに至ったので、僕は少女に話しかけるため近づく。
少女もこちらに気づいたのか、こちらを見た。少女の目はどこか怯えたようなものだった。
「大丈夫?」
「お…お兄ちゃん誰?」
案の定というべきかこの質問をされる。
「えっとぼくはね……」
ここで下手なことを言うと不審者と勘違いされてしまう。僕の返答を待つ前に少女は涙を浮かべ、震えた声で話し出した。
「お兄ちゃんはわたしのこと助けてくれるの?」
「うん…そうだよ。何があったか教えてくれる?」
相当心細かったのか初対面の僕をすぐ信用して事情を話し出してくれた。
「えっとね、わたしね、ゆうくんと一緒に猫ちゃん見てたの」
「テレビでね…知らない猫ちゃんに触ると危ないって言ってたからわたしもゆうくんもただ見てただけだったの。けど途中で倒れちゃって……」
空気が重たい。嫌な予感がする。
もしかしてその猫は──。
「だからわたし大人の人を呼びに行こうとしたの。そしたら後ろからゆうくんの大きな声が聞こえて、後ろを見たら猫ちゃん……ゆうくんを噛んでた」
よくある話だ。ただ寝転んだ動物を倒れたと勘違いして近づき噛まれる。
猫も結局死んでいなかった。
ただちょっとその…ゆうくんという男の子が怪我をしただけの話だ。
そんなたわいもない話で終わるはずだ。なのに……
(なのにどうして嫌な予感が続くんだ?)
僕は少し恐怖に取り憑かれた。
少女の話を…というかこの場所にこれ以上ここにいては行けないと本能が告げる。
だが「警告は無意味だ」と言わんばかりに少女の口は開かれる。
「その猫ちゃんが噛んだら今度はゆうくんが倒れちゃってねん。それで猫ちゃん…どんどん大きくなったの」
「えっ?大きくってどうい──!?」
僕の中で渦巻く、この一知半解な疑問への答え合わせは案外すぐやってきた。
「にゃー」
──猫の鳴き声
驚いて振り返る。いたのは黒猫だった。
僕は少しの安堵を感じる……前に少女が叫ぶ。
「お兄ちゃん離れて!
その子ゆうくんを噛んで大きくなった猫ちゃんなの!」
その言葉を聞き、迅速に距離をとる。そして正視するために急いで黒猫の方へと振り返る。すると、この黒猫が"ただの猫"でないことを理解する。
「──」
さっきまで2リットルペットボトルぐらいのサイズ感だったのに、目を離したほんの一瞬で車の大きさと同等程度までになっている。
「ニャアァ」
黒猫の鳴き、口の中が露になる。するとやつの犬歯が赤黒く染まっているのを目視する。それは人の本能を刺激するには十分すぎる情報だった。
──逃げろ!!殺される!死にたくない!
悲痛な叫びが心の中で反響する。
反射的に身体は逃走を始める……はずだった。始めれていたらどれほどよかっだろう。しかし見てしまった。恐怖に取り憑かれた僕の瞳から見えたのは……少女の目だ。恐怖の感情すらのも飲み込まれた絶望に満ちているその目を見て、僕はハッとした。
思い起こされるはほんの5、6分前の記憶。
『お兄ちゃんはわたしのこと助けてくれるの?』
名も知らなぬ少女からのSOS。
(……そうだ、約束したんだろ。あの子と)
思い起こされるのは2刻前の記憶。
『今日をもって華南応援団を廃部とします』
自らの誓いと炎の意志の奈落化。
(さっき後悔したばかりだろ!)
思考はさらに深まる。
思い起こされるのは──
『春。例えばなんだが……』
『はぁっ……な、なんですか?』
それは赤旗の練習中の出来事。
『スポーツをやっていると仮定する。その試合中に1番に諦めたらダメな人って誰だと思う?』
海城先輩は僕にそう話しかける。
『……それはやっぱり競技を実際に行ってる選手だと思います』
『それだけじゃダメだな』
『そうなんですか?』
『あぁ、俺が思うに選手を応援する奴ら。そいつらが先に諦めたらダメだ』
『……』
『窮地に陥ったとき、諦めそうなとき。そいつらを信じ、外から全力で支えるのが華南団の役目だ。
だから俺らが中のやつより先に折れてる暇なんてない』
『……団則第1条【我らが心に浮かべるは彼、彼女等の勝利のみ】』
『そういうこった。
だからお前もそう簡単に折れるなよ?まぁ…俺の認めた後輩だ。いらない心配だな!』
"赤旗の彼"から学んだ挫けぬ心と勝利への執着。
(ぼくは……)
消えかけていた炎は微かだが火力を増す。薪もくべられた。
──覚悟は決まった。
(あの子を勝利を応援する。
あの子を勝たせてみせる!!
今回の勝利条件。この子にとっての勝ちは──)
「お…お兄ちゃん」
「今更だけど……きみ名前はなんて言うの?」
(ぎこちなくてもいい。今は無理にでも口角を上げて、笑顔作れ……あの子の不安を少しでも取り除いておくために)
「えっ……と。ほなみかのんです」
「じゃあ…かのんちゃん。ぼくがこのリュックをあいつに向かって投げるから。そしたらかのんちゃんは全力で後ろに走って」
「お兄ちゃんはどうするの?」
根から優しい子なんだろう。今すぐ逃げ出したいくらい怖いはずなのに、僕の心配までしてくれている。
「大丈夫!ぼくも少し時間を稼いだらすぐ逃げる…だから絶対に戻ってきちゃダメだよ」
「…………うん。わかった」
一瞬不安そうな顔をして下を向いた。だがその後すぐに発せられた返答に僕は首を縦に振り答える。
「ニャアァ?」
「もういいか?」とでも言っているようだ。
空気がさらに重くなる。最期の会話の時間を与えるぐらいの心がこいつにあったのか。それとも単に腹が空いていなかったのか。真意は分かるはずもないが、この化け猫が待てをする時間は終わったらしい。
「ニャアァァァァァァァ」
もはやそれは鳴くというより吠える。
同時背負っているリュックをやつの口の中に向かって投げる。先んじてリュックを開けておいたため教科書や筆箱などがやつの口の中で散乱し、ゴホゴホと吐き出している。
「行って!」
「うん!」
横目でかのんちゃんが僕の後ろへ走り出すのを確認する。次の曲がり角までは100メートル弱ぐらいだ。
(猫の嗅覚は人間の約2倍とテレビで聞いたことがある。かのんちゃんが隠れる時間があったことを考えると、こいつの嗅覚は犬並に発達はしていない……つまり、ある程度離れることが出来たら少なくともあの子が見つかることは無い。──最低でもこの直線いなくなるまでの稼ぐ)
「ニャア"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"」
口の中のものを全て吐き出し終えた化け猫は再び吠える。先程より荒々しい声から察するにどうやらこいつを怒らせてしまったようだ。
(それがどうした。ここまで来たらそんな些細なことは関係ない!!)
──身体が熱い。
空気を肺いっぱい吸い込む、吐き出す。
しばらく部員探しで忙しく、近頃集中して出来ていなかった発声練習を思い出す。
吐き終わり共に開戦の合図を叫ぶ!
「来い!!」
「ニャア"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"」
僕の……華南団の最後の応援が始まった。
開始直後。飛んできたのは怒りに身を任せた右の大振り──それをバックステップで回避する。
次は高く挙げられた左での叩き潰し──地面を蹴り、右へ移動で回避する。
振り下ろされた左足は容易に舗装されたコンクリートの道路に痕をつけていた。
そんな攻撃が断続的行われる。しかし、化け猫の爪は空を切り、前足も僕を叩き潰すことは出来ていなかった。
(先輩達に教わったメニューはずっと継続していたんだ。ダメージなんて与えられないけど…躱すだけなら身体は動く!)
「ニャアァァァァ」
攻撃に変化が現れる。大振りでは当たらないと理解したのか、振りの小さい猫パンチ……いや化け猫パンチに方法を変えてきた。
「──ッ!」
速度はさっきまでと比較するまでもない。
服の袖が爪によって裂かれる。
(不味い!躱しきれない)
そう思ったときには時すでに遅く、やつの爪が僕の右腕を掻く。
「いっっ!?」
初めて体感する切られる感覚。あまりの痛さに怯み、俯く。
そんな大きな隙を見逃してくれるほど、この猫は優しくはずもなく、次の瞬間腹部に強烈な打撃を感じた後、僕の身体は後方へぶっ飛んでいた。
どうやら尻尾で突き飛ばされたらしい。
「う"ぁぁ…………」
仰向けに道路に叩きつけられた。
(は…早く立たなきゃ……来る!)
意識を朦朧としながらも立ち上がるが……
「ニャアァァァァァ!!」
──化け猫の突進。
「がぁぁ…………!?」
車と同等の大きさ、重量のものに体当たりされた僕の身体は再び宙を舞い、先程の攻撃と合わせて50メートル近く吹き飛ばされていた。
「はぁっ、はぁっ…………」
右腕は恐らく最初に攻撃を受けたのと、今の衝撃で折れてもう使い物にならない。逆に他の部位が折れていないのが奇跡だ。
視界が半分赤い。頬に生暖かい液体が着いていることから、頭から出血をしていることが分かる。
「ニャア」
あいつの足音がどんどん近くなっていく。僕がもう何も出来ないことでも察したのか、その歩みはゆっくりなものである。
そんな絶望的な状況で僕は少し安堵を感じていた。
(……勝利は達成できたはず)
僕が戦う直前に考えていたこと。今回の勝利条件はあの子を逃がすこと。
僕が稼げた時間はおおよそ1分。それだけの時間があれば少女の足でも曲がり角まで行って、そこから先へ逃げれるはずだ。
視界にやつの足が入り、死の気配が濃厚になっていく。うつ伏せの状態でやつの顔をおがむ。相打ち覚悟で最期になにか出来ないか探すためだ。しかし、やつの目線は僕を捉えていなかった。その目は少し遠い場所を見ているよう。そして口は──
「ニャアァ」
──にやけている。
化け猫は僕を放置し、先へ歩んでいく。
背筋が凍る。悪感が止まらない。最悪の考えしか浮かんでこない。
「ま、まさか」
首だけを動かし、後方へ目線を移す。
「─────────」
ほんの数十メートル先に見えるのはさっきまで僕が勝利を確信した少女の姿。
心臓が過去最高速度で鼓動する。
(なんでまだそんなところにいるんだ!?)
時間は十分にあったはずなのに何故。
「早く逃げ───ッ!」
言葉を飛ばそうと上体を起こしたときに気づく。
──歩き方がおかしい。
まるで右足を庇いながら進んでいるように見える。そして僕は理解する。
あの子が足に怪我を負っていることを……
(あのとき下を向いて不安そうにしてたのは、それが原因だったのか)
「ニャアァァ」
あいつは瀕死の僕より逃げる可能性が高いあの子を先に襲うことにしたらしい。そしてそんな非情な現実に……必死で逃げているあの子は気づけていない。
「はぁあぁぁぁ!」
血を流しすぎたのか身体は言うことを聞かず、いくら力を入れても立ち上がることが出来ない。その間にもあの猫はあの子を喰らおうと進んでいる。距離──残り30メートル。
脳内では僕の弱さが甘い言葉をかけてくる。
どうせ間に合わない──うるさい。
「はぁあぁぁぁ!!」
左手が強く地面を押す……立ち上がれない。
──残り29メートル。
あいつの目があの子に向いているうちに逃げろ──黙れ。
「はぁあぁぁぁ!!!」
右足が地面を蹴る……前に進めない。
──残り20メートル。
「はぁあぁぁぁあぁぁぁ!!!」
ボロボロな身体で何が出来る?──分かってる。
左足の力を入れる……すぐに力が抜け転ける。
──残り10メートル。
あの子はもう死んだんだ──違う!あの子は死んでないし、僕が……華南団が応援する以上あの子は死なない!!!
──身体が熱い。
──身体が熱い。
熱を感じた直後、身体が軽くなる。
──残り5メートル。
「はぁ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ーーーーー!!!」
心と身体は立ち上がり、気づいた時にはあの子の元へ走り出していた。
化け猫との差──残り3メートル。
僕との差──残り30メートル。
(間に合え)
──身体が熱い。
──身体が熱い。
──身体が熱い。
熱が身体に募るたび、僕の身体は加速する。
化け猫との差──残り1メートル。
(間に合えぇぇぇえぇぇぇ!!!)
──身体が熱い。
──身体が熱い。
──身体が熱い。
──身体が熱い。
まるで"炎"のように。
化け猫は少女を喰らうため、口を開く。
化け猫と差──0メートル。
肉薄した瞬間、口を勢いよく閉じる。
しかしこいつが喰らえたのものは空気のみであった。
僕との差──"0"メートル。
腕の中には少女を抱えられていた。
「お…お兄ちゃん!?なんで?」
少女は混乱しているが、構っている時間がない。少女を降ろし次の攻撃に備える。
(今のは攻撃を避けただけ。やつはまだ目の前にいる)
「かのんちゃん。逃げ──ッ!………あ"ぁ"ぁ"ぁ"」
右腕を抑え、膝から崩れ落ちる。
(……う、動けない)
謎の熱に引き起こされた力によって僕の身体が人間ではありえない加速をした。
しかしその熱は冷めていき、痛みも鮮明になっていく。何より先程の疾走でさらに血を流したことが痛手となった。
「ニャア"ァ"ァ"」
食事の邪魔をされた影響。少女が隣にいる以上さっきみたいなことも起こりえない。
狙われているのは僕のようだ。邪魔をしないよう先に始末しておこうという考えなのだろう。口が開かれ、牙が迫る。
(ちっくしょう……!)
死を覚悟し、目を瞑る。
「──ッ!」
しかし、やつの牙は僕の身体を噛み砕きはしなかった。
疑問を感じ、目を開ける。すると目の前には化け猫ではなく、黒髪を高い位置で纏めている制服を着た女の子が立っていた。
「シャアァァァァ」
問題の化け猫は後方へ15メートル近くも下がり毛を全身で逆立て、鳴き声も僕たちの前では1度も聞かせなかったようなものになっている。
(あいつが警戒してるこの子何者…って、この制服うちの──)
──プルルルルル
張り詰めたこの空間に、無機質な音が波打つ。あんな化け物が少し距離があるとはいえ眼前にいるというのになんの躊躇もなく、彼女は携帯をポケットから取り出す。
「到着しました」
第1声で僕はこの人が誰かが分かった。理由は僕がうちの学校の女生徒全員の声をもれなく完璧に覚えている変態だから………とかでは毛頭ない。ほんの数時間前、散々聞いた声だったからだ。
(この声……西園寺さん!?)
目の前に立っている彼女は華南高校執行部生徒会長──西園寺涼花…その人だった。
「受肉先は黒猫。悪食も1度しか行っていないように見えます。保護できた被害者2人……うち1人がかなりの重症なので、副長に出動要請を願います。それであとの──」
痛みと状況の変化で軽いパニックに陥っている僕とは対称的に、彼女は簡潔に電話の向こうの相手へ指示を送っている。
そうなると黙ってないのが1匹。
「シャ…シャア"ァ"ァ"ァ"ァ"」
「──ッ!」
彼女の態度があまりにやつを警戒していないというか、意識していないものだったのが原因であろう。本日3度目のお怒り──本気怒涛ある。
──ドスンドスン
自分が置いた距離を自分で詰めていく。
選択した技は体当たり。僕を50メートル近くも吹っ飛ばしたアレの15メートル助走が着いたバージョン。
(まずい…)
アレを受けた身としては否が応でも焦燥にかられる。しかしこれまた対称的に彼女は、まだほんのわずかの焦りも見せない口調で指示を送り続けている。
「シャア"ァ"ァ"ァ"ア"ァ"ァ"ァ"」
やつの巨躯が西園寺さんに迫っくる。
「西園寺さんッ!!」
突如──桜吹雪。
「───」
暗くなったこの場所を彩るかのように。
「きれい…」
隣にいる少女はそう呟く。先程までの絶望を忘れてしまったかのように。
「………ではわたしはこれで」
彼女が電話を切ると、その携帯を高く空へ投げた。これも相当変な行動だが、そんなことが気にならないくらいに、奇天烈なことが眼前で起きている。
吹雪いた花弁が彼女の手元に集まっていくのだ。まるで何かを形成するように。
「シャア"ァ"ァ"ア"ァ"ァ"ア"ァ"ァ"ァ"」
「………ふぅーー」
彼女の立ち姿も変わる。右足を前に出し姿勢を低く…右手を上、左手を下に地面と水平に構える。
「『武想』」
彼女の言葉に呼応するように桜が飛び散る。
そこから現れたのは刀身が薄桃色に染められた日本刀。
「シャ…シャアァ…………」
そこからは何が起きたか分からなかった。
化け猫と西園寺さんが衝突したと思ったら、彼女はやつの後ろにいて…あの刀切られたと思われる化け猫はただの黒猫に戻って倒れている。
(狐につままれるというのは、こういうことを言うのかな?)
そんな馬鹿なことを考えていると西園寺さんが、こちらにやって来て……一言。
「大丈夫ですか?火野くん」
「は……ぃ」
「ちょっと火野くん?火野くん!?」
名前を呼ばれたのが安堵する引き金になり、そこで僕の意識を手放した。