湖上千花 3
式終了後、僕は裏庭へと向かった。片付けまでまだ時間がある。長丁場になることは分かっていたから、少し気分転換に裏庭のサルスベリを見るために向かった。今は9月でまだ暑さは残るが、もうすぐ夏が終わる。
別に花が好きという訳ではないが、外の空気を吸うついでだ。ピンクの花は遠くからでも見えた。
先客がいた。僕ははっとした。
梨怜さんだった。
ツルツルの樹の幹に手をおいて、花を見上げている。遠目からでもすぐに分かる。
声をかけるか迷った。
声をかけることでこの空間を壊してしまうことを恐れた。
ふと彼女の目線が僕を捉えた。
「あっ」
そう声を漏らしたが、言葉が続かない。僕たちはお互いに見つめ合っていた。
不思議な気持ちだった。
今この世界には僕たち2人しか居ない。だけれども、けしてお互いの空間が交わることはない。少しでも歩み寄ろうと近づくとこの世界はすぐに消えてしまうような気がする。
永遠に続けばいいと思った。が、それはあっという間に終わった。
「梨怜さん。探しましたよ。」
僕の後ろから、声が聞こえた。
会長の秘書のラスカだ。ラスカは、焦げ茶の色素の薄い髪をしていて、瞳も少し緑かかっている。イギリス人の母を持つためか見た目は外人だ。真偽は分からないが、前会長の隠し子だと噂されている。ラスカは僕を無視して梨怜さんの所へと向かった。
「会長がお探しです。直ぐに戻りましょう。」
ラスカは梨怜さんの返事を待たずに彼女の手を引く。梨怜さんはなされるがままに歩きだした。僕は意を決して彼女に声をかけた。
「本家の庭には、サルスベリの他にも沢山の花があります。花は人を癒すと云いますから、本家に滞在の間は好きなだけ見ていかれると良いかと思います。」
梨怜さんは足を止めた。そして、僕を真っ直ぐに見て微笑んだ。
「ありがとうございます。また見に来ます。」
ラスカが強く梨怜さんの手を引く。梨怜さんは再び歩きだした。僕を横切る際にラスカは僕を無言で睨み付けた。ラスカの嫉妬を滲ませたような僕に対する嫌悪感を込めた目は不快だったが、特には気にならない。僕の頭は、父親を亡くしたばかりで不安であろう梨怜さんのことでいっぱいだった。
片付けを終え、帰宅したあとも僕は梨怜さんのことを考えた。
彼女は今、どんな気持ちなのだろうか。
いくら親戚とはいえ、見ず知らずの他人の家で暮らすことはどんなに辛いことだろうか。
もう0時を回っていて体は疲れていたはずなのに、僕は梨怜さんのことを考え続けていた。
翌日、梨怜さんは本家のしきたりに乗っ取って、当主様と夕馬さんと共に静馬さんの遺骨を持って聖山へと登っていった。聖山がどうなっているのか僕は知らない。山の頂上なのか麓なのか、どこに埋めに行くのかも知らない。彼女達が山を下ってきたのは、7時間後だった。全員疲れた様子で、外は暗くなっている。締めの挨拶を終え、解散となる。昨日と異なり、後片付けはないので、僕たちもサラッと帰宅できる。
帰り際、僕はサルスベリのある裏庭に寄った。だが、梨怜さんはいなかった。
それから何日も何日も通った。梨怜さんに会うことはなく、サルスベリもそろそろ終わりの頃になってきた。
梨怜さん、夕馬さん兄弟が本家に滞在して半月がたった。来月、梨怜さんは元々静馬さんと夕馬さんの3人で暮らしていたアパートに戻ることとなり、夕馬さんは当主様の養子として引き取られる事が決まっていた。
梨怜さんにはもう会えないかもしれない。
そう思うと何となく残念な気がした。別にちゃんと言葉を交わしたことがあるわけでも、ましてや一目惚れした訳でもない。ただ、もっと彼女の事を知りたいとは思ってはいた。
彼女は僕にとっては非日常の存在だったからだ。
そんな彼女が、もう僕と関わる機会がないとなると、僕は以前のつまらない日常を送らなくてはならなくなる。
ゾッとした。
梨怜さんが本家に来てからのこの半月は、彼女に会うことを楽しみにして過ごしていた。彼女と会って話すこと、それが特別に思えたから。その日、僕は学校をサボって昼に本家の裏庭へと向かった。
その日は空気としての役割を全うする気になれなかった。
今年のサルスベリはもう見納めだ。
平日の昼ということもあり、本家には人がほとんどいない。
裏庭に着いて、僕は胸が高鳴った。
梨怜さんが半月前と同じようにサルスベリの樹の幹に手を置いて、花を見ていた。
梨怜さんが気づくまで、声はかけなかった。僕は、梨怜さんを見ていた。
それは別の世界を見ているような感覚だった。
彼女が僕に気づく。僕たちは目があった。
そして、梨怜さんは僕に微笑みかけた。
「もうすぐ、夏も終わりですね。」
「そうですね。秋になれば、紅葉が赤く染まります。紅葉も綺麗ですよ。」
「それは楽しみです。またいつか、見に来れたら良いですけど。」
サルスベリの幹を撫でながら、梨怜さんは言う。どこか寂しそうに、悲しそうに。
「いつ、アパートに帰られるんですか?」
「まだはっきりとは分かりません。今、特殊清掃をお願いしているので、それ次第です。
多分、再来週になりそうですね。」
「夕馬さんのように本家には残らないんですか?」
ずいぶんと踏み込んだ質問をしてしまった。
そう思ったが、今さら撤回するのもなぁと考え、僕は罰が悪く頭を掻いた。
「父と過ごした最後の場所ですから。つらい場所ではありますが、今はまだ父との思い出に浸っていたいんです。」
僕は何も言えなくなった。梨怜さんの瞳はガラス細工のように美しい。だが、その瞳の奥深くには悲しみが込められている気がした。
「サルスベリの漢字って知っていますか?」
話を変えようと梨怜さんが尋ねる。
「百日と紅という字ですよね?」
「そうです。漢字の由来も知っていますか?」
「約100日間ピンクの花が咲き続け、一度咲いた枝先から新芽が出て花が次々と咲く様子からつけられた、でしたかね?」
「詳しいですね。でも、もう1つあるんです。これは元々朝鮮半島に伝わる伝説らしいですが…。
昔、ある王子様が、旅をしていた途中で、竜神の生贄にされていた娘を助け出しました。
その後、恋中となった2人は100日後の再会を約束するのですが、娘は約束の前の日に亡くなってしまいました。その娘の墓から紅色の花が咲く木が生えてきたから百日紅と書くんだそうです。」
僕はへーっと相槌をしながら、よくある話だと思った。
日本では深草少将の百夜通いがあるし。
「不思議ですよね。何故、娘は死んだのでしょうね。」
梨怜さんは微笑んだまま続けた。
「病気で死んだのか、事故で死んだのか、自ら命をたったのか、もしくは殺されたのか。」
僕は何も答えなかった。
何故彼女は死因を気にするのか。そういう伝説なのだから死因は別に重要ではないのではないか。
「竜神を殺しておいて、ただ幸せになれるはずないのに。」
風が吹いた。生暖かい風が気持ち悪い。
梨怜さんは、その後この話について何も言わなかった。
「すみません。変な話をして。私はそろそろ中に戻るので失礼します。」
僕の横を通りすぎていく。ごく自然に、ゆっくりと。僕はその様子を静かに見送った。
それ以降、僕は梨怜さんと2人で話すことはなかった。