第3話「始まり始まり」
この一ヶ月、家を出……。と云うよりは追い出されてからミューズが過ごした日々は本当に苦労の連続であった。
何もかもが不慣れ……、と云うよりも一人で炊事洗濯などやった事も無い彼女は幾度も失敗を重ね。
漸く一人で生きて行く事に慣れ始めた。
と言いたいのも山々だったが、残念ながら彼女はこの一ヶ月何の進歩もしていなかった。
料理は作れない、洗濯も出来ない、掃除など勿論しない。
食事はと言えば家主の家族、つまりは同級生の親に一方的にたかる始末。
着た服は脱ぎっぱなし。部屋は洗濯物と日常生活で出るゴミで溢れている……。
事は辛うじて無かった。
洗濯も、掃除もしない彼女の部屋はある程度整頓されてはいた。
その双方を頑なにしない彼女の部屋が何故整頓されているのか?
それは彼の存在が大きかった。
「もう、お姉ちゃんいつまで寝てるの? あー、又服散らかしっぱなしだし……。ちゃんと洗濯篭に入れてって言ってるでしょ!」
昼日中、悠々自適に遅寝している彼女を見つけ。そんな小姑染みたぼやきを溢す少年が一人居た。
名をワイズ・アイザック。彼女の一つ下の弟であり、家族の中で唯一彼女を親族として扱ってくれる可愛い弟だった。
親族として扱ってくれるだけならまだしも、少々口煩い所はあったが。定期的に彼女の家を訪れ、身の回りの世話までしてくれる。
それはそれは、良く出来た弟だ。
「んー……、おはようワイズ。今日もう土曜だっけ?」
弟の呼び掛けで目を覚ましたミューズはワイズが居る事実から現在の曜日を悟り、もう一週間が経ったのかと驚嘆するようにそう告げた。
彼女の一つ下と云う事は、ワイズはまだ学生であり。
学校が休みの日にしか来れない彼の来訪によって、ミューズは曜日を確認するようになっていた。
「もう、そうだよ今日は土曜だよ。何で曜日の感覚を失うの? 又今週も何もやらずに家に引きこもっていたの?」
そんな姉の呆けた問い掛けを聞くと、ワイズは呆れたようにそう言った。
「んー! 別に引きこもってた訳じゃ無いわよ。外にだってちゃんと出てるわ。何てったって私にはやらなきゃいけない事があるもの」
ベッドから体を起こし、眠気を払うように背伸びをした後ミューズはワイズにそう告げた。
勿論嘘である。この一週間ほぼ家にひきこもっていた。
やらなければいけない事は確かにある。両親や兄共を見返さなければならない。
しかし、一人暮らしの自由気ままで怠惰な時間が彼女の目的意識を薄らがせ。
自堕落な日々を過ごさせていた。
「そうだよね……、父さんと母さんと、兄さん達に認めて貰わないといけないんだもんね。口煩く言ってごめんね」
だと云うのに、ミューズの言葉を鵜呑みにしたワイズは彼女が何もしていなかったとも知らず。
自分の浅はかだった言動を謝罪した。
謝罪する価値などない、ほぼニートと化した姉だとも云うのに……。
正直に言ってワイズは一族の中で浮いた存在だった。
落ちこぼれだ、魔王の再来だのと日頃から貶される姉を彼は心底尊敬していた。
ワイズは幼少児病弱であり。召喚士として多忙な両親に代わってミューズが世話をしていた。
上二人の兄も確かに面倒は見てくれたが。
三人の男兄弟の中で唯一の弟であるワイズに対するミューズの溺愛振りは凄まじく、何をするにも何処に行くにも常に一緒。
まるでぬいぐるみを持ち歩くようにワイズを連れて歩いた。
ワイズが風邪でも引いて寝込もうものなら寝ずの看病を行い。親以上にワイズを可愛がり尽くした。
その結果見事にワイズはお姉ちゃん子に成長し、現在では幼少児が嘘のように健やかに育った彼が、だらしなく成長した姉の世話を逆にするようになってしまった。
姉はまだ本来の才能を開花させていないだけ。周りはその事に気付かず好き放題貶すけど、本来の彼女は誰にも負けないくらいの召喚士としての才能を持っている。
子供の頃世話になった事も起因して、彼はそう頑なに信じていた。
その姉本人に開花させるだけの才能が無いとも知らず……。
「それよりもお姉ちゃん、前言ってた聖霊の事だけど……。良い子は見つかった?」
そんな騙されているとも知らないワイズは、先程とは打って変わって実に聞きづらそうにそう問い掛けた。
聖霊=召喚士が契約し呼び出す異世界に住まう召喚獣の事であり。
召喚士一人につき最低1体。高名な召喚士なら複数体契約しているのが当たり前であり。
召喚士として名乗る者ならば先ず始めに聖霊と契約するのが絶対条件だった。
通常の召喚士ならば最低でも召喚学校に通う頃には1体は契約した聖霊を持っているものだが。
最低の落ちこぼれと呼ばれる彼女の最も特異な所はそこだった。
既に召喚士としての教育を終えているのに未だに契約している聖霊は0。
しない、のでは無く今まで何度試みても出来なかったのが現実なのだが。
「そう、それよね! ホント嫌になっちゃう! 私に相応しい子が見つからないのよ。最近の聖霊は主を選ぶセンスが無くて困るわ……」
そう彼女は主張して憚らなかった。
聖霊にセンスが無いんじゃなくてお前に才能が無いんだ!
彼女の弁を聞いた者は漏れなくそんな突っ込みを心の中でしてしまうが。実際に口に出す者は今では皆無だった。
口に出して言ったらどんな酷い目に合わされるか分かったものではなかったから……。
それで良く落第せずに召喚学校を卒業できたなと突っ込みを入れたくなる所だが。
残念ながら筆記と召喚術以外の他の科目は全てオール満点。
特に前述のように格闘術においてはこの年で既にマイスタークラス。
名だたる格闘道場から未だに誘いの声がひっきりなしに掛かる程であり。
本当に彼女は目指すべき職業を間違っていた。
召喚士の道を諦め、それ相応の学校に通っていれば今頃王国騎士団に入っているのが当たり前な程の実力を有していると云うのに……。
才能の無駄遣いとは正にこの事だった。
「でもねワイズ、この間その辺りの文献を読み漁ってたら面白い話を見つけたのよ! 聖霊の卵って知ってる?」
格闘家としては100点、召喚士としては0点のミューズだったが。
そんな彼女もこの一ヶ月ただ惰眠を貪っていた訳では無かった。
正攻法で聖霊を呼び出す事が出来ないのなら違う方法は無いのかを必死に探していた。
「聖霊の卵……? うん、勿論知ってるけど……」
この一ヶ月、食っちゃ寝、食っちゃ寝を繰り返し。たまに王立図書館に出向いて自身で調べ上げた聖霊の呼び出し方を自慢げに告げると。
ワイズは実に気まずそうに答えた。
「え、嘘知ってたの? ならもっと早く教えてくれても良いじゃないのよ」
そんなワイズの返答にミューズはそう愚痴を溢したのだが。
ワイズはどう突っ込みを入れて良いのか分からず困惑した。
聖霊の卵、それはまだ魔力を使いこなす事が出来ない子供が用いる聖霊との契約方であり。
召喚士の才覚を持った子供の間では幼少期に流行る遊びの一つだった。
無論ワイズも召喚学校の初等部の頃に一つ孵化させた事がある。
聖霊の卵から孵化させた聖霊は魔力も低く、おまけに契約寿命も短い為既にワイズの手元にはその時の聖霊は居なかったが。
流石のワイズも何故そんな常識を知らないんだと困惑する事しか出来なかった。
「まぁ、良いわ! 今までどんなに試みても私に合った聖霊が見つからなかったけど。今度こそ聖霊と契約する事が出来るのよ! こんな悠長な事してられないわ。善は急げ、支度して聖霊の卵を買いに行くわよ!」
そんな困惑する弟を尻目に、火の付いたミューズは床の中から即座に飛び出すと。着替えの為隣の部屋へと駆けて行った。
寝室に残されたワイズはただただ呆然と姉の消えた部屋を見つめる事しか出来なかった。
聖霊の卵で契約してもまともな聖霊は召喚出来ないけど……。
そう教えてやりたかったのだが、喜び勇む姉を傷付ける事が出来ず。
彼はただ、黙って彼女の支度が終わるのを待つ事しか出来なかった。