第27話「お前と会えて、良かったよ」-3
3,「女の子ってのは、もっと自分を主張してもいいもんだぜ」
ライナスの直接の来訪は、まさに突然の出来事だった。
しばしロンディウムの宮殿に籠っていると思ったら、動き出した時には二剣の地、カレーを実質的に占領していた。が、元々は宰相の身でありながら、各地を飛び回り戦場で指揮を執る、”戦闘宰相”とあだ名された男でもあるのだ。
ここ、クリスティーナが南部戦線最後の砦と定めたトゥールにこうして足を運ぶことも、本来なら不思議ではなかった。母キザイアの幕僚として戦場にあった時も、こうした彼の不意の来訪は、何度もあった。一国の宰相であるがゆえに、その移動は敵の忍びに気取られぬよう、現地の最高指揮官にも、直前まで伏せられていた。
「噂には聞いていましたが、ここに来て以来、日中はいつもその具足姿なのだとか」
城の応接間へと招いたライナスは、茶を待つ間、クリスティーナの姿を見てそう口を開いた。
「引き締まる思いが、するのです。恐れも、あるのかもしれません。ただこの姿でいると安心するというよりは、闘志が湧いてくるという部分が、一番大きなことだと感じています」
給仕が茶を淹れる間、しばし二人は互いを見つめ合った。かつては遠い存在と思っていたライナスだが、今は南部軍元帥の自分に、直接訪いを入れてきた。軍人としての階級は自分がかなり上、政治を預かる職としてはライナスがはるかに上と、立場が異なることが却って、二人を対等な立ち位置につけているように感じる。
「今日は、我が国の現状と、南部戦線への支援について、話をしに伺いました」
「はい。本国からの増援は望み薄と、覚悟しています」
「よく、ご存知です。こちらに兵を回す余裕が、今の所はない、というのが本当のところです」
「心得ております。援軍なき籠城が、無意味であるということも」
「来年中、という約束はできます。それも、三、四万程度の増援に過ぎませんが」
トゥールの防衛には心強いが、南部戦線を再び押し返して行くのには心許ない。ここを訪れる前に、ライナスはずっと北のカレーを落としている。つまり、南部戦線はもはや戦略上重要ではないと、その行動で暗に告げられているわけだ。
「しかし、撤退を薦めに来られたのではありませんよね。でしたら、今後の増援予定なく、速やかに撤退せよと、宰相府から書簡を出せばいい話です」
「正直、迷っています。元帥には、どうお伝えすべきか・・・」
言って、ライナスは紙巻き煙草に火を着け、天井を睨んだ。即断即決の印象があるこの名宰相からは考えづらいが、ゆえに本当に迷っているのだろう。クリスティーナに何か不利な返答を語らせて、言質を取るような、卑怯な男ではないことも知っている。なので、クリスティーナは自分から話を進めた。
「南部戦線最後の拠点となった、ここトゥールを一日でも長く守り通すことは、本国にそれだけ北で動く時間を作ることに繋がると、私は考えております。最悪で一ヶ月、私の希望としては三ヶ月以上。農閑期が終わるまで持ち堪えれば、アッシェン包囲軍は解散を選ばざるを得ません。トゥール包囲時におそらく十万以上の大動員をかけてくるでしょうが、それだけの民を、農閑期を超えて維持し続けることは、理論上は可能でも、この土地の今後を考えれば、やってこないと考えています」
「つまり、援軍なしでも三ヶ月持ち堪えれば、当面アッシェン南部軍は、ここに手を出せないということですな」
クリスティーナがあらためて言わなくともわかっていたことだろうが、ライナスの見解とずれがないかは、確認しておく必要がある。
「次の大動員は、さらに一年後となるでしょう。軍資金も兵糧も、全てここにかき集めました。来年中、そして以後の増援、支援が期待できるなら、年始の三ヶ月を持ち堪えることを繰り返せば、トゥールは何年でも耐え続けることができます。元より長期と伝えてある徴用兵の入れ替えは、それでも暖かい季節になればできるでしょう」
そこで一つ、クリスティーナは溜息をついた。継続的な支援は、期待できないだろう。そして相手があのアルフォンスと、リッシュモンである。最初の三ヶ月を乗り越えるのは至難であるし、そこを乗り切ったとて、毎年同じ手では攻めてこないはずだ。
「机上の空論であることは、自覚しています。実際は、そんなに上手くいくはずありませんね。敵の運用がほぼほぼ常識的であることが、今の私の見立ての前提でした」
「見殺しにしている、という自覚が、私にもあるのです。犠牲を出す前の撤退か、元帥の仰る通り、少しでも時間稼ぎとしてここに留まってもらうか。どちらにも利があり、損失があります」
ライナスの立場に立ってみれば、その葛藤も理解できる。あるいは立場が逆だったら、その天秤は撤退に大きく傾いていたかもしれない。
窓際を背に座るライナスの輪郭は逆光もあって、はっきりとしない。クリスティーナはカップに手を伸ばし、渋めの紅茶を口にした。
「確かに、取り残されたという感覚はあります。しかし私が指揮した二度の敗戦が、この窮状を招いています。そしてその責を、私はまだ負っていない」
この辺りの判断を軍務省、ひいては宰相府が保留にしている事情は、わからないでもない。その責任は、それを任命した軍務省、宰相府、そして王にもあるのだ。
単にライナスが責任逃れを繰り返すような男だったら、話は難しくない。クリスティーナを降格させ、誰かに代わりを勤めさせればいい。が、ライナスは先のパリシ包囲戦の失敗をもって、自らと幕僚の、階級的な降格を行っている。後からあの戦の話を聞いても、ライナスそのものに落ち度は少ないのだが、あの包囲軍の総大将として負けたという責は、躊躇なく負った形になる。
「耳の痛い話です。私も、宰相職を誰かに譲れたらと思いますが」
「いえ、私の責を論ずるのは、この地位に私を置いた方々の責にも関わる話でした。私が、自らたやすく切り出していい話ではないと、たった今気づきました。そう考えると、元帥や宰相という地位の頂に立ってしまった者は、一つ二つの失策で、たやすく責任などとは口にできないのかもしれませんね」
「そこより下は、比較的責任を取りやすいのです。降格させても、功績一つでまた上げることができますからな。ただ、頂点に立つ者は、自らの失策にすら、たやすく責任を取らせてもらえない。人一人が負うには、あまりにも大きなものを背負ってしまっているのかもしれません」
王であるリチャード、宰相ライナス、そして元帥であるエドナとクリスティーナ。なるほど、複雑に見えていたアングルランドの権力構造も、この四人の下で物事が動いているのだと考えると、実情はいくらか単純に見ることが出来る。そして、この四人は失策を重ねても、たやすく責を負うことができない。
不意に、この不世出の名宰相を、クリスティーナはこれまでになく身近に感じた。
「腹を割って、ライナス様と話せる。今初めて、それがわかりました」
この四人は、アングルランドで最も、頂の孤独を味わっている人間だろう。
「わずか数ヶ月で、本当に立派になられた。ようこそ、というにはこちらの世界は過酷ではありますが」
「母が、そして宰相が、私はその任に耐えうると判断された。あらためて、そのことは重く受け止めます」
残りの紅茶を一息に飲み干し、クリスティーナは追加の茶を命じた。一口目で今日の茶は渋過ぎると感じたが、今はその後味が心地よい。
具足を鳴らしながら居ずまいを正し、ライナスを正面から見据えた。
「ライナス様におかれましてはこの戦線に最低何ヶ月、持ち堪えてほしいと考えていますか」
「二ヶ月です。ここの犠牲が、二割程度に抑えられるとして」
「ここを失えば、アルフォンスとリッシュモンが、来年中にも北の指揮官として本国に牙を剥くかもしれません。本当に、二ヶ月だけで」
「そこも、織り込み済みです。ただ、一ヶ月では体勢を整えられる自信はありません。レヌブランの独立は、私の手を早めることになってしまった。アッシェンとレヌブランにしてもカレー占拠は不意打ちだったでしょうが、私も温存していた手を、数年早く切らざるを得なくなったのです。せめてノースランドの叛乱を鎮めてからと考えていましたが、相手のあること、やはり甘くはないようです」
「南部を維持し続けることは、長い目で見れば既に重要ではない。さりとてすぐに手放せば、南の虎を、北に放つ結果となる。いずれそうなるとしても、少しでも時間は稼ぎたい。それが単なる私の意地ではなく、戦略に沿った動きであると、理解しました。できる、と思います」
「犠牲を抑え、最低二ヶ月。楽な戦ではないと思っています」
「元々、三ヶ月を目標としていました。欲を言えば、そこから一年弱。ただそこまで欲を出さなくていいのなら、やってみせます。できなければ・・・」
言い掛けて、思わずクリスティーナは笑ってしまった。
「すみません。できなければどうという、立場ではありませんでしたね。責任すら取れないというのなら、どうか私は使い潰して下さい。潰れるまでがどこなのか、私自身見てみたいと思っているのです」
ライナスはしばし憂いを含んだ眼差しで、クリスティーナを見つめた。口元は、それを隠すように煙草をやっているので、わからない。
「あらためて、厳しい立場に就かせてしまった。いずれは良い将になられると、一目見た時から感じていましたが、同時に時間が掛かるはずだとも。それがこの短期間でここまで大きく、そして苦しい将になられるとは思わなかった。一人の男として、うら若い娘を死地に追い込んでしまったことは、痛恨の極みです」
「優しいのですね。しかし若さも、女であることも、この立場には関係のないことでしょう。ここまでの経験をさせて下さった。そのことには、感謝しております。私は、父というものを知りません。ただあなたをどこかで、そのように感じていたのかもしれない。見上げるべき男が、私の周りにはいなかったので、そう感じていたのでしょう。宰相とこうして話しているだけで、様々なことに理解が及びます」
「理解できるだけのものを、あなたは身に着けた。つまるところ、それは人として並び立ったということです。まだ十八歳という若年で、そこまで辿り着かれた。アングルランドの未来はクリスティーナ元帥の双肩にかかっていると、私も知るに至りました」
どちらからともなく、手を差し出した。ライナスよりも強く、クリスティーナはその手を握った。
それからしばらく、戦の展開とクリスティーナ、ゴドフリーが考えている用兵について、つまり少し細かい話になった。都度、助言を求めるとライナスは適切な修正案を提示した。軍人としてもやはり傑出しているなと、クリスティーナは思った。いつか、この男と轡を並べたい。学ぶべきものは、いくらでもある。明晰な頭脳と豊富な経験は、総大将としても作戦参謀としても、並び立つ者はいないように感じた。
が、この男を完敗させた将がいた。いずれ戦うことがあるのだろうか、あの”陥陣覇王”アナスタシアである。時間稼ぎが戦略目標というのなら、今回も結局リッシュモンには、少なくとも表向きは負ける格好になるだろう。この負けが、きっとさらに、クリスティーナを強くする。行き着く果てに、霹靂団のアナスタシアが、待っていることもあるだろう。
負け続ける。それがクリスティーナの、元帥として生きる道と、思い定めることができた。本国に戻った後、自分を嘲る者たちもいるだろう。その恥を耐え忍ぶことが、クリスティーナの責の負い方であり、誇りとなる。
「ここより北、二剣の地に、退路は確保しておきます。一ヶ月以内に。それと、クリスティーナ殿の元帥というお立場も、私が守り通します」
「逃げ道と、逃げることが許されない道を、同時に用意なさって頂けるのですね。皮肉ではなく、今は私らしい道という気がします」
「ウォーレス殿を失った今、エドナ元帥こそがアングルランド軍人の頂点であると、感じていました。ですが今日、それに並び立つ人間を見出せたことが、私の、そしてアングルランドの大きな収穫です」
「そのことに、私自身も気づかされた。宰相、いえライナス様、あらためて御礼申し上げます」
席を立ったライナスを、扉まで送る。
クリスティーナはいつになく、黒い具足を軽いと感じていた。
マグゼの鼻歌を聞いて、リュゼは顔をしかめた。
「なんだ、あたしの歌が気に食わないか? 明後日には、クリスマスイヴだ。ジングルベールジングルベールって、いい加減そんな気分だろ」
「あたしは、そこまで肩の力を抜けない。マグゼは多分経験が長いから、そういう態度でいられるんだろう」
リュゼは厚い唇をすぼめて、暖炉の火に目をやった。ひどく、落ち込んでいるように見える。マグゼは葉巻をくゆらせながら、しばらくリュゼの横顔を見つめていた。
「また、雪が降ってきたぞ。おいリュゼ、何を拗ねてるんだ」
「拗ねてなんかない。けど、これから人がたくさん死ぬんだぞ。笑ってなんか、いられるか」
マグゼは、思い切り肩をすくめた。この小娘に、暗闘、それも直接人を殺すような任に就いているとは思えないくらいの、純朴さが残っていることは知っている。つまるところ、それが敵だとしても殺すことに強い抵抗感を抱く、真っ当さである。人を殺した分、自らも傷ついてきたんだろう。この少女がどこかで潰れるか、あるいは重くなり続ける荷をどこまでも背負い続けるのか、今のマグゼにはわからない。
大抵の人間は、人一人殺したところで、自分がそれを続けていけるのかを見極める。あるいは本人が気づかなくとも、周りが判断できる。
マグゼはこれまで多くの、敵味方問わない死と立ち合ってきたが、リュゼがどちらに転ぶのか、というより今も初めて人を殺すかのように苛立ちに、それを予測することができずにいる。
「リュゼ、今まで何人殺してきた?」
「直接なら、三十二人。作戦指揮としてなら、今のと合わせて六十五人」
暗殺、暗闘はあくまで忍びの仕事の一つであり、そのこととリュゼの若さを掛け合わせても、短期間に随分と修羅場を潜っていることはわかった。加えて、二人に一人はリュゼ自身が片付けているというのは、割合として高過ぎる。殺しを嫌う分、部下にそれをできるだけさせたくないという意図なのだろうか。
そもそも無名団は存在自体が知られていなかっただけに、レヌブラン内、ないしは周辺で起きる殺人や失踪に、この組織がどれだけ関わってきたのかがわからない。バルタザールの独立宣言後、あれだけレヌブランの統率が取れていることに、無関係ではないだろう。汚れ仕事である。
「マグゼは嫌じゃないのか? 人が死ぬのは」
「嫌だね。ただ、やる時は徹底的にやる」
「あたしも同じだ。なのに、マグゼは強いんだな」
お前の方が、内面でも強い。言い掛けて、マグゼは葉巻を咥えた。今のこいつに必要なのは、慰めや励ましではないだろう。特に、作戦前である。今それを必要とするようだったら、指揮官は務まらない。慰めは、作戦終了後でいい。リュゼはかわいいものが好きだという話だったな、とぼんやり考えたマグゼは、再び窓の外に目をやった。
通りを挟んだ、向かいの一室。明かりが灯っている。マグゼは、懐中時計を取り出した。午後十一時五十分。娼婦と夜警以外は、皆寝静まった頃合だ。
「リュゼ、合図が来たぞ。出るか」
頷いたリュゼは、黒革の忍び衣装の上に、外套を羽織った。
窓から飛び降り、旅籠の裏に音もなく着地する。リュゼは二階からの落下の衝撃を、接地と同時に転がることで逃がしていた。頭巾の雪を払って駆け出したリュゼに、マグゼも続いた。
クリスマス直前だからなのか、大通りは松明の外套で照らし出されており、横断は最短距離を選んでいる。おそらく十分程前に、囀る者たちは男爵に近づき、用心棒のゾエに気づいて、逃走を始めたと思われた。逃げ道は、全て鴉たちと無名団が塞いでいる。囀る者たちが人数を均等に分けて逃走したなら、今頃全滅しているだろう。が、多少散らしはしただろうが、半数は固まり、一点突破を狙うはずだ。
脇道から飛び出してきた背の高い男が、マグゼたちと併走を始める。
「頭領、C地点です。敵十人が、向かっています」
「一番薄いところを狙ってくるなんて、勘がいいな。あたしたちが行く。他からも回し、一人も逃すな」
言った、リュゼの顔。先程までの弱気な小娘の面影は、既になくなっている。忍びの、それを殺しを主戦場とする者の顔つきだ。
リュゼが、さらに加速する。ハーフリングのマグゼでも追いつくのが精一杯の、思わぬ駿足だった。五人。いつの間にか、リュゼを先導するように駆けていた。
微かに、暗闘の鈍く、くぐもった戦いの音が聞こえてくる。市壁近くの、裏通り。行き止まりに七人の忍びが、守りを固めて集結していた。囀る者たちだ。脇に三つ、死体が転がっている。屋根の上から、矢柄を黒く塗った短い矢が放たれる。一人が、悲鳴をこらえて呻いた。ここの守りは元々二人だけだったが、上手く機先を制することができたようだ。C地点ということは一番上の序列の者たちではないが、無名団はそもそも、腕が立つのだろう。
ここらの住民は、まだ眠りの中にあるようだ。戦いの物音は最小限で、目を覚ましている住人がいても、外で酔っぱらい二、三人が殴り合っているようにしか聞こえないだろう。月明かりのない夜に黒ずくめの集団がやり合っているとわかる程に、夜目が利く住民もいないはずだ。
リュゼと駆けていた五人が、猿の様に壁面の取っ掛かりをよじ上り、行き止まりの道を、忍びでも超えられない防壁へと変えて行く。敵の何人かが、絶望の溜息を吐くのが聞こえた。矢を受け、壁をよじ登りながら斬られる方に希望があるのか、マグゼとリュゼの方へ向かうのが得策か、計りかねているようだ。
ハーフリングのマグゼはともかく、リュゼも人間としてはかなりの矮躯である。それ以上矢を受けるよりかと、七人が小剣を構えつつ、こちらへ歩を進めた。ぱらぱらと降り注いでいた矢が、ぴたりと止まる。
マグゼは外套を投げ捨て、両の短刀を抜いた。実戦は、パリシでアンリ王とゲクランを脱出させた時以来である。腕が鈍ってないか、試すのにいい頃合だろう。
「マグゼ、何人残す?」
「一番後ろの、背中に矢を受けている奴。後は、皆殺しでいい」
言い終える前に、マグゼは地を滑った。マグゼがどんな技を使うのか、少なくとも手前の二人は知らないらしい。身を極限まで低くして突進してくるマグゼに、腰を落とし、つまり両脚を大きく開いた姿勢で待ち構えている。
敵の刃が振り下ろされる直前に、マグゼはさらに加速した。股の間を潜りざま、二本の短刀を一閃させる。男は、一瞬何が起きたかわからないというように、両の太腿に手をやった。小さな悲鳴を聞いて、敵が実は女だったことに気がつく。が、既に死に行く運命には変わりがない。両の太腿の、内側を斬ったのだ。殺しを生業とする者なら、そこが実は頸動脈以上の急所だということは知っている。履いているのがスカートだったら、しばらく飯が不味くなるくらいには、血が噴き出していただろう。女が、血だまりの中にへたり込んだ。二度と、立ち上がることはない。
雪の積もっていない石畳の隙間に爪先を引っかけ、マグゼはもう一人に、弾丸よろしく突進した。刃が閃き、この男も、目を大きく見開いて腰を抜かす。次の獲物。残った五人の輪に、リュゼが奇妙な構えで近づいていた。
身体の前に、見えない盆か丸盾でも持ち、それを右へ左へと回すような、初めて見る動きである。まっすぐに突き出し、握るか握らないかという拳を、交互に上下させながら、リュゼは右足を前に、敵との距離を詰めていく。
リュゼ、お前がどんな技を使うか、特等席から観察させてもらおうか。投げが得意と言っていたが、そりゃ一体どんな体術だ?
手前の忍び。リュゼがどう仕掛けてくるのかわからず、戸惑っている。頭部の防御が一切なく、隙だらけに見えるが、そこにどんな罠が仕掛けられているのか、敵はおろかマグゼにも見当がつかない。
敵の刃の、間合い。動こうとした忍びに、一瞬速くリュゼが前蹴りを放った。反射的に腰を引く忍びを見て、マグゼはこの構えの意味するところを理解した。前蹴りと見えた右足は、既に敵の股の下に着地している。それは同時に、敵の身体と正面から密着している状態である。
次の瞬間、男は地面に頭から突き刺さっていた。地から伝わる衝撃が、マグゼの足裏から脳天にまで突き抜ける。地に突き刺さったように見える男は、しかし人の頭の固さで石畳を貫通できるわけもなく、つまり肩から上は、完全に潰されていた。
過程が全く見えなかったが、結果だけを見ると、反り投げだったのか?
投げ技の多くは、相手を持ち上げ、地面に叩き落とす。浮き上がったものが、落ちる力を利用するのだ。が、今のはそういった投げとは次元が違う。物が落ちる速度は重さに依らず一定で、視認できなかったということはつまり、リュゼは自分の背筋が収縮する力、その速さだけで、男を地面に突き刺してみせたのだ。死体の位置から察するに、抱き合った姿勢からリュゼの頭を超え、大きく弧を描いて後方に男は投げられたはずだが、その決して小さくないはずの軌道が、歴戦のマグゼでも目で追えなかったことになる。速い、どころではない。
マイラの拳、ゾエの蹴り。岩をも砕くこの二人の技が、格闘では最高峰とマグゼは思っていたが、リュゼの投げも、それに匹敵する。いや、全身の力を余す所なく使う分、威力はそれより上なのか。
二人目。掴んだと思った時には、投げ終わっている。ずしん、と二人分の体重とは思えない衝撃が、またも地を揺らす。
これで、残り三人。二人が、同時にリュゼに小剣を突き出してきた。躱しざま、一人の足を払って、宙を舞わせる。もう一人の襟を掴み、リュゼは渾身の頭突きをかました。陥没した顔面から血まみれの額を引き抜き、逃げようとするもう一人の首に腕を絡める。ごぼり、という嫌な音を残して、忍びは崩れ落ちた。
最後の一人を見て、マグゼは舌打ちした。首を搔っ切り、自害している。吹き出した血が、薄く積もった雪を、赤く染め上げていった。
「うわ、時間を掛け過ぎたか。マグゼ、あいつはもう、助かりそうにない」
「ああ、あたしもお前の技に見惚れちまった。すまん、あたしのミスでもある」
「強かった。組み合った瞬間に、わかる。一人一人、すごく強かった」
言ったリュゼは、部下たちが死体を片付ける前に、それぞれの亡骸に十字を切っていった。瞳に、わずかだが光るものがあった。
なんとなく、運命を呪いたい気分である。リュゼは、こういう世界で暮らす人間ではない。優し過ぎる。そして強過ぎることで、その優しさを保ち続けていた。リュゼにとって、忍びの日常は、特に殺しが絡んだ時は、地獄だろう。地獄を耐え忍んでしまえるだけの強さを持って生まれたことは、この娘の呪いである。
「マグゼ、怖い技を使うな。あんな殺し方は、初めて見た」
「見た奴は、大抵死んでる。お前は、幸運だったかもな」
「そうだなあ。マグゼと敵にならなくて、あたしはうれしい」
それはこっちの台詞だ、と内心毒づきながら、マグゼたちは城へ向かった。ゾエたちが話をつけていたのだろう、マグゼたちの姿が見えただけで潜り戸が開けられ、真夜中の城を、男爵の待つ広間まで進んだ。
部下たちが担いできた死体を、広間に並べる。まだ若い男爵が、ひっと情けない声を上げた。
「あんたのことは、守った。当面、身の危険はないだろうよ。ゲクラン様への協力、ここであらためて約束できるよな」
「そ、それはもちろん。私はずっと、アッシェンがこの地を再び統べるべきだと思っていたのだ」
「そこだけ聞いたら、ただの日和見だと思っていたかもしれないな。ただあんたは、二剣の地で立場が悪くなるのも厭わず、早々にアッシェンへの帰属を表明した。血を見るのは苦手みたいだが、肝は据わってるんだと思う。この地を併合後、ゲクラン様に剣を捧げたいのなら、間を取り持ってやるぜ? 二剣も三剣も、似たようなもんだろうよ」
それだけ言い、マグゼたちは広間を後にした。
「リュゼ、この後の予定は?」
「一度、レヌブラントへ帰る。次の仕事があるまで、鍛錬を続けるつもりだよ」
「急ぎじゃないなら、もう半日ここへ残れ。あたしの部下は、一度東に帰す。ゾエだけ手元に残すが、お前とこの町をぶらつきたい」
「わかった。あたしの部下は、このまま帰す。日中か。ゾエを母親役に、二人はその子供に化けるってのはどうかな」
「いや、もう正体は隠さなくていいだろう。今回の件は無名団主導と喧伝したかったが、お前たちだけ矢面に立たせるのは、悪い気がしてきた」
「そんなこと、気にするな。汚れ役は、慣れてるんだ」
「あたしが、気にする。特に、お前を見てるとな」
三人だけで根城にしていた旅籠へ帰り、返り血を拭って一夜を過ごした。
下の酒場で朝食を摂った後、中庭にあった風呂を用意してもらい、順番に入った。一番に入浴したマグゼが部屋で黒革の衣装の手入れをしていると、風呂上がりのリュゼが戻って来た。髪を拭きながら、リュゼが問う。
「で、町をぶらつくって、何をするんだ?」
「文字通りさ。お前普段、町でどんなことしてる?」
「道を覚えたり、拠点にできるところを探したりかな」
「忍びだったら、習慣みたいなもんだな。けど聞きたいのは、一般人の振りをしてる時は、何をしてるかってことだよ」
髪を下ろした娘は多少大人びて見えるものだが、リュゼに関しては、その姿の方が幼く見えた。暖炉の前で短い髪を乾かしながら、しばし少女は思案する。
「なんだろう。腹が減ったらご飯にする、くらいかな」
「つまんねえ生き方してんな。ぶらつき方を教えてやるよ。お前、趣味とかないの?」
「あ、いや、出店でかわいいものを見つけたら、買うこともあるよ。ただ、あたしは気配を消してないと目立つみたいだから、滅多にしないけど」
「クリスマスだ。何か買ってやるよ。ぬいぐるみとか玩具とか、まあそういう店はいつもより出てるだろ。囀る者の連中は排除したし、今日一日だけは、日中でも堂々としてろ。あたしとゾエは、正体を隠さない。お前がどうするかは任せるが、せめてお天道様に顔を向けてろよ」
いつの間にか帰ってきたゾエが、いつもの格好に着替える。この女は黒革の忍び衣装は身に着けず、地味だが動きやすい格好と、灰色の上着に袖を通すだけだ。大きな身を屈めて、鏡台の前で薄い化粧を始めた。
「リュゼ、変装の時以外に、化粧はするか?」
「いや、子供っぽくか、男っぽくか、変装を前提としたもの以外、する機会がないよ。頭巾を被ることが多いんで、そもそもあまり顔をさらさない」
「お前の年頃じゃ、すっぴんでも充分だけどな、出かける前に、あたしが化粧を施してやるよ」
「うぅ、本当に、町で買い物とか、そういうのするんだな」
「そういうのも、たまにはしとけ」
リュゼには、つい世話を焼いてやりたくなる。種族の違いはあるが人として、この娘はもっと面倒を見なくてはという気持ちになるのだ。こいつは、暗闘を主とする忍びとしては超一流だが、欠落した部分が多過ぎる。つくづく、無名団はこいつをどう育ててきたのかと、責めてやりたい気分だった。
化粧をしてやると、リュゼはいつまでも鏡を見つめていた。かわいいものが好きだという話なので、腕を振るってリュゼ自身をかわいくしてやった。角度を何度も変え、リュゼは初めて見る自分の顔を、不思議そうに見入っていた。
「ほら、行くぞ。まずは服を買おう。その体型を隠すだけの服も、忍びの潜入用としちゃあ悪くないが、旅慣れた感じがし過ぎて、普段着って代物じゃない。町に、溶け込み過ぎる。女の子ってのは、もっと自分を主張してもいいもんだぜ」
借りてきた猫のように大人しくマグゼたちについてくるリュゼは、初めてのものを見るように、あちこちに視線を走らせていた。
リュゼの体型はやや特殊なので、普通の女性用服飾店では、身体に合うものが見つけづらい。古着屋に入り、ゾエと共に積み上げられた服の山から、リュゼに合いそうな組み合わせを探す。リュゼはここでも店内をきょろきょろと見回すばかりで、何を選んだらいいかわからないようだった。
結局、白と水色を基調とした組み合わせで、無難に締めた。店主に裾を上げてもらい、ボタンもいくつか付け直してもらう。大分着膨れてはいるが、まずまずかわいらしく見える格好になっただろう。リュゼは先程の鏡台と同じく、姿見の前で自分の姿を、まじまじと見つめていた。
晴天に粉雪をまぶしたような町並みは、多少ひなびているが、これはこれで悪くない。出店が多く、この町なりに洒落たカフェに入って、この三人組の取り合わせに好奇の視点を集めるよりは、外の席に座ってコーヒーとケーキを食べる方がいい。リュゼは屋台で買ってくるクレープやパンケーキを隅々まで見回しては、大きな口を開けて二口、三口程度で飲み込んでしまう。もっと味わってから食べろと注意すると、今度は必要以上に咀嚼して、それで味を堪能している様子だった。
「リュゼ、あたしらと町をぶらつくのは、つまらないか?」
「いや、すごく、楽しんでるんだと思う。こんな・・・普通の娘のようなことを仕事でもないのにしてるってのは違和感があるけど、楽しめてると思う。あたしも、潜入の仕方ってのは、引き出しを増やしたいと思ってたし」
「今は、仕事のことは忘れろ。休みみたいなもんだろ。なあ、ゾエ?」
「ここらの屋台のものは、甘過ぎます。砂糖の値が、暴落してるんですかね。口直しに、コーヒーをブラックで頼んできます」
「ちっ、お前はリュゼとは違った意味で、抜けてるよな。ただ、ここらのもんは甘過ぎるってのには同感だ。コーヒー、あたしの分も買って来てくれ」
「リュゼ、あなたは?」
「あ、あたしは、紅茶がいい。砂糖多めで。ここの食べ物、あたしにはちょうどいいよ」
飲み物の屋台に向かったゾエを見ながら、リュゼはぽつりと呟いた。
「なあ、あたし、こういう幸せ感じてもいいのかな。大勢、人を殺してきた。だからあたしは、幸せを感じちゃいけないんだって思ってる」
「忍び同士の暗闘か、必要があって暗殺してきた奴らだろ? 後者は一概に言えないが、前者はお前のことを恨んじゃいないよ」
「けど、無念だったとは思う」
「そりゃ無念だろうが、お前は忍び同士の戦いに敗れて命を落としたら、そいつのこと恨むか?」
「いや、私自身なら、ないと思う。どんな卑怯な手を使われても、それは忍びとして向こうが上だったってことだ」
「だよな。忍び同士の殺し合いに、恨みっこなしだ」
「けど仲間が無惨に殺されたら、そいつを恨むかもしれない。あたしは先日、マイラに仲間の多くを殺された。彼女を恨んでないって言ったら、嘘になる」
「そいつらは、マイラのこと恨んでるかな。勝てなかった、取り逃がしたという無念はあっても、誰もマイラや、ましてお前のことなんて恨んじゃいないと思うがね」
我ながら、どの口が言っているのかと、マグゼは思う。マグゼがマイラを狙うのに、私情がないと言ったら嘘になるのだ。しかしリュゼには、それを見せるべきではなかった。
ゾエが運んできたコーヒーに息を吹きかけながら、リュゼの次の言葉を待つ。
「マグゼの、言う通りかもしれない。それより今日はどうして、あたしを日の当たる場所に連れ出したんだ?」
「お前は、上手く言えないが、たまには年頃の娘らしくするべきだと思ったんだよ」
リュゼが、特に精神面でもっと弱ければ、怒りや悲しみのはけ口を、どんな形であれ見つけていたかもしれない。が、この娘はただ耐え忍ぶことができる程に強過ぎ、周りもそれが必要ないと判断してきた。幼い頃に拾われた時から、殺しの道具としてしか扱われなかったのだろうか。いや、リュゼの純朴さは周囲に優しい人間がいたことを示唆しているが、誰も、この娘の望みには目を向けてこなかった気がする。
「ゾエ、このコーヒー、砂糖入ってるじゃないか」
「いつも、そうしてますので。私のブラックと、取り替えますか? 半分しか残ってませんが」
「甘過ぎるもんの、口直しだろう? まあ、ちゃんと言わなかったあたしが悪いな。すまん、忘れてくれ」
「マグゼとゾエは、ずっとそんなに仲がいいのか?」
思わず、ゾエと顔を見合わせる。目で、そのゾエの答えを促した。
「マグゼ様と仲がどうとか、考えたこともありませんでした。師である、そう思っています。私を荒んだ生活から抜け出させてくれた、恩人でもある。棒給も、弟たちを食わせていくのに、余りあるものです」
二人の視線がこちらに向いたので、マグゼも答えることにした。
「あたしは、誰とでも仲がいい。特に、忍びになってからはな。ぶっちゃけ、マイラとも仲がいいと思ってる。まああいつとは、敵ながら認め合ってるって感じだが」
何か思うところがあったのか、リュゼは黙って頷くのみだった。
「なんか、土産買ってくか。リュゼの好きなかわいいもんって、あそこら辺の出店にあるようなもんでいいのか?」
「あ、ああ。ちょっとあそこは、さっきから気になってた」
「あたしの奢りだ。好きなもん買っていいぞ」
「あ、あたしだって、あのくらい買えるだけの持ち合わせはある」
「バカ。こういう時こそ、素直に受け取るもんだ。クリスマスだぞ」
やけに背の高い女とハーフリング、そして雪だるまのように着膨れた小娘。この組み合わせは普段ならもっと奇異の目で見られるだろうとカフェには入らなかったが、よく見ると広場にはサンタクロースやそれをモチーフにした仮装の人間が多く、さほど周りの注意を引いていないことに気がついた。
出店の一つ、ぬいぐるみがぎっしりと棚に詰め込まれた店に立ち寄る。
「お、まさかここでこれを見つめるなんてなあ。ゾエ、見てみろよ。男爵、意外とゲクラン様来たら、剣を捧げるかもしれないぞ。あとそれ、取ってくれ」
ゾエですら背伸びして取ることになったそのぬいぐるみは、ゲクランを模したものだった。
「なんだ、それは。かわいいな。でもなんで、胸だけこんなに大きくしてるんだ?」
「これ、ゲクラン様のぬいぐるみだよ。新ゲクラン城で売ってるのと、同じ奴だ。偽物じゃない。こんな所まで、流れてきてるとはなあ。親父、これいくらだ?」
「それを手にするとは、お目が高い。銀貨二十枚でございます」
「うげ、新ゲクラン城では、銀貨四枚だぞ。まあ、ここまで流れてきた割には、状態もいい」
「マグゼの、主だな。巨乳だってことは知ってる。にしても胸だけ別の詰め物してるけど、こんなに大きいのか?」
「でかいな。本人も開き直って、そこを売りにしてる部分もある。幼かった頃は、まさかそういう身体になるとは思わなかったんだけどなあ。それはともかく、これはお前にくれてやるよ。親父、銀貨十八枚でいいよな?」
「え、ええ、即お買い上げ頂くのなら」
「ゾエ、支払い頼む。ほらリュゼ、大切にしろよ」
「あ、ああ。でもこれ、私たちいずれ敵になるかもしれないんだぞ?」
「その時は、それに頭突きかましてやれ」
「そんなことできるわけないだろう? その、かわいそうじゃないか」
「だよな。本人監修だ。モン・サン・ミシェルに住んでた時は、父親のベルトラン様のぬいぐるみもあった。”鎧を着た豚”ってあだ名は、父親譲りだ。まあ、その伝統を受け継いだってわけだ」
ぬいぐるみを手にしたリュゼは、しばしそれと向かい合っていた。
「他にも、何か欲しいものはあるか? あの辺の、動物の一連なんて、好みなんじゃないか?」
「いや、これだけでいい」
胸元にぎゅっとぬいぐるみを抱き締め、リュゼは瞳を閉じた。
「そうかい。さてと、引き止めといて言うのも何だが、あたしらも忙しくてね。そろそろ、ここを出る」
「ま、待ってくれ。まだマグゼたちに、お返しができてない」
「それは、来年に取っておく。お互い、生きてたらの話だがな。それと、無名団との共闘は、ここで正式に受け入れる。スピールとビスキュイに、土産話として持ってきな」
「わ、わかった。伝えておく」
「それじゃあな。メリークリスマス。そしてよいお年を、だ」
ゾエと二人、その場を離れようとすると、リュゼが少しだけ声を震わせて言った。
「あ、ありがとう。これ、大切にする」
手を振って応えると、リュゼはその姿が雑踏にかき消されるまで、小さく手を振っていた。




