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第3話「部隊の指揮なんてしたことありません。一人の兵士として、お願いします」-2

2,「優雅な筆致で、そこにはこう記されていた」


 町を出て、二時間ほど小道を進んだ。

 レザーニュ伯領東部は森が多く、今ドナルドたちが歩いている道の両脇も、鬱蒼とした森である。

「この辺りのはずだが・・・旅人なら、誰でも襲うというわけでもないのかな」

 向かいから続く轍の跡はここで途切れ、土は踏み荒らされている。賊に襲われることを期待しているのだが、ここでただ佇んでいてもかえって怪しいだろう。

「賊になってしまえば、朝早く起きる必要もない。連中、今頃隠れ家でごろごろしてるんじゃないですかね」

 頭巾を目深に被り直し、シャルルが言う。ドナルドと二人、大きめの外套を頭から被っていた。武装した騎士が二人で歩いていれば、賊もこちらを襲うのを躊躇するだろう。なので具足は隠し、甲冑も鎖帷子を脱いだ胴鎧と腕甲のみで、さらにあまり音が出ないよう工夫してある。三人の衛兵も軽装で、はるか後方、見えるか見えないかの位置からついてきている。

「いや、賊に成り立ての者であれば、朝は早いはずだよ。現に、行商が襲われたのも午前中だったと聞く。傭兵崩れの手慣れた連中なら、時間も場所も、違っていたはずだ。ここの賊は、元は働き者の村人だな」

「やれやれ、働き者の賊は勘弁してほしいものです」

「働き者が、賊にならなければならない。それが今のこの地の現状だろう」

「アッシェンが疲弊しているのは、外地に出た時によくわかりました。まあいつものことですが、叔父上の言いたいことは、わからんでもないです」

「ん、あれを見てみろ。やはり森の中で荷車を引くのは無理だったようだ」

 森、南の方角に、荷馬車が打ち捨てられている。木々に隠れて見えづらいが、そうだと確信した。

 振り返り、後方の衛兵たちに合図を送ろうとして、しかしドナルドの手は止まった。目の前のものが唐突過ぎて状況が飲み込めず、ドナルドはしばし言葉を失った。

「・・・なんだお前は。どうしてここにいる」

 代わりに声を発したのは、シャルルだった。動揺が怒声となって出るのは、この甥の癖のようなものだった。

 振り返った先にいたのは、ジャンヌだった。あの、アルク村に行く途中で、ドナルドたちをさえぎった娘だ。

「ついてきちゃいました。ていうか最初はこっそり後をつけてたんですけど、おじさんたち、全然気がつかないんだもん」

 どこかばつが悪そうに、少女は言った。

「まさか一人で、我々の後についてきていたのか。一週間も」

「はい。おじさんたちが外で天幕張って眠っている時に、私はひとつ前の村で、誰かしらの家に泊めてもらったりしてましたけど。お金持ってないって正直に言ったら、どの村の人も親切にしてくれて」

 ちろりと桃色の舌を出し、ジャンヌは微笑んだ。

「その話は、追々聞こう。しかし・・・困ったな。おじさんたちは今、手が離せないんだ。ここで待っていてくれるかな。仕事を済ませたらとりあえず、君を近くの町まで送り届けよう」

「あ、それですけど、私、ついていきますから。ほら、おじさんたちに私の実力、示せてないでしょう? おじさんたちが私と戦ってくれるなら、また話は別ですけど」

「そうだな。こんな小さな子相手に剣を振り上げるなど、例え調練用の木剣でも、おじさんにはできそうにないな」

「それなら叔父上、アネットと合流したら、こいつが口だけかどうか、試してもらうというのはどうです? 女同士なら、少しは話も違ってきます」

 シャルルが提案する。それはいいかもしれないと、ドナルドは頷いた。

「シャルルさん、そのアネットさんって人、強いんですか?」

「ああ、強いぞ。特に体術がな。組み伏せられてぴいぴい泣きわめくお前の姿が目に浮かぶ」

 ジャンヌはその軽口には反応せず、こちらを見た。ドナルドが後を継ぐ。

「私の部下で、勤め先の砦や駐屯地では、よく武術の教官を任される。私が知っている人間の中では、一番強いことは確かだよ。人格も、申し分ない。下手な技術で、君を怪我させるようなことは・・・」

「ふぅん」

 急に興味を失ったように、ジャンヌは森の中に入っていった。二人も慌てて続く。

「それ以上は危険だ。この辺りには、賊がいる」

「聞いてますって。それよりおじさん、私たち、見られてますよ。話の賊の人かどうか、ちょっと確かめてきますね」

 言い終わるや、少女は姿を消していた。いや、狼のように木々を縫って走り、その姿が森の奥に吸い込まれる。しばらくして馬車の方角から、くぐもった悲鳴が聞こえた。ドナルドたちは、そちらに向かって駆けた。

 大木の裏で男が一人、うつぶせに倒れていた。両手を後ろに、じたばたと足を泳がせていたが、それでも男は起き上がれないようだった。ジャンヌが白くほっそりした手で、男の両手首を押さえている。

「当たりでした。この人、賊の一味みたいです。この先の山小屋が隠れ家だって、教えてくれました」

「そうか。それより怪我はないのか」

「大丈夫。軽く投げ飛ばしただけですから。怯えちゃってやりづらかったですけど、骨を折ったりさせないよう、気をつけましたよ」

「いや、君のことだよ、ジャンヌ。君に怪我がないか心配してるんだ」

 はっと何かに気づいたように顔を上げたジャンヌは、空いた手でうなじの辺りを掻きながら、恥ずかしそうに笑った。

「あっ・・・だ、大丈夫です。あの、その、ありがとうございます」

 ジャンヌから引き継ぎ、ドナルドは男の手を後ろ手に縛った。若い男で、目に純朴な者を残している。すまないな。つぶやきながらドナルドは、遅れてついてきた衛兵たちに、男を引き渡した。

「じゃ、急ぎましょ。多分、こっちだと思いますよ。足跡が残ってる」

 辺りは弱々しくも草が生い茂っており、土の地面のように足跡を探ることは難しかったが、この少女には踏みつけられた草から何かを見つけられるらしい。獣道すらない斜面を、ジャンヌは兎のように跳んで駆けて行った。

「叔父上、何が・・・」

「本当に、武術の達人みたいだぞ、あの子は。大の大人を投げ飛ばしたみたいだ」

「へえぇ。にわかには信じられませんが、親が武術をやってるってのは、本当かもしれませんね。それなりに練習も一生懸命やってたのかも。まあ、大人相手とはいえ、素人と組み合って勝てる程度には」

「そうみたいだな。が、あの子の武術の腕前はどうあれ、一人で行かせては危険だ」

 ジャンヌの足は、速い。時折こちらを振り返っては、じれったそうにドナルドたちが合流するのを待っていた。

 斜面を登りきると、少し森が開けた場所に出た。隅に、小屋が一件建っている。小屋と言い切るには少し大きいが、それでも大きな家ではない。三つか四つの部屋で構成された小屋だろう。しばらく放置されていたのか、柵や鎧戸は壊れかけていたが、煙突からは白い煙が一筋、風に巻かれて揺れていた。小屋の脇の木に、馬が一頭繋がれている。軍馬ではない。持っていかれたという荷馬だろう。

 賊を捕らえている一人を除き、四人で小屋を包囲しようと、ドナルドは指示を出す構えを取った。ジャンヌは既に小屋の扉に張り付いており、耳を当てて中の様子を探ったのか、こちらに向けて合図を送っている。

 指を広げてこちらに手の平を見せた後、親指を折って手首を返す。中にいるのは九人、ということだろう。

 ドナルドはシャルルの方を見た。ジャンヌの様子に憎まれ口の一つでも叩くかと思ったが、震える指先を抑えるべく、剣の柄を握っただけである。頭巾は既に、はね上げられている。

 ジャンヌから、裏口へ回るよう指示が出た。三人を行かせ、ドナルドはジャンヌの方へ向かおうとしたが、少女は何の前触れもなく中に飛び込んだ。中から、大勢の男たちの怒声が聞こえる。

 立ち止まりかけたシャルルたちをそのまま裏手に向かわせ、ドナルドは剣を抜いて中に飛び込んだ。

「ふぅ」

 最初に聞こえたのは、少女の吐息だった。重い物を棚から持ち上げ、卓の上に置いたかのような、何の深刻さもない声音だ。が、中の様子を見て、ドナルドは息を呑んだ。

 小屋の方々で、男たちが横たわっていた。何人かは、呻き声を上げている。しかしほとんどの男たちは、眠るように倒れていた。

「ちょっと、緊張しちゃいました。でもこれで、全員ですね」

「無事だったのか。この数を、相手に」

「はい!」

 頬を上気させ、ジャンヌはにっこりと微笑んだ。

「叔父上!」

 勝手口から、シャルルたちが飛び込んでくる。そして中の様子を見て、あんぐりと口を開けた。甥の目はやがて、ジャンヌ、そしてドナルドを見つめた。

「いや、私にもわからんのだよ」

 ドナルドは、甥の肩に手を置いた。

「目の前で見ていても、きっとわからなかったと思う」


 この町の男爵と、初めて顔を合わせた。

 鷹のような印象の、神経質そうな男である。初老で、枯れ枝のような、戦とは無縁の身体つきをしていた。広間の奥、少し高くなった場所に置かれた椅子の肘掛けに頬杖をつき、男爵は捕らえられた賊たちと一行を、気怠そうに眺めていた。空いた手に持った杯を傾け、男爵は舌を湿らせて言った。

「この者たちを、縛り首とせよ」

 剣などまともに握れないであろう男の一言は、それゆえにか、慈悲の欠片もなかった。ドナルドは顔を上げた。

「失礼ながら」

「申してみよ」

「伯領では、被害者に傷害のない盗みは、鞭打ちか棒打ちと定められております。幸い、脅された行商に、怪我はありませんでした」

 この男爵は、レザーニュ伯から賜った土地で爵位についている。法も、レザーニュ伯領のものに準じているはずだ。

「何が言いたい?」

「奪われた品には、まだ手がつけられていませんでした。荷馬も、荷車も、無事なようです。どうか、この者たちに慈悲ある裁定を」

「脱走兵であろう」

「まだ、正式に兵としての登録がなされる前の話です」

 この者たちが賊になった背景に関しては、あえて触れなかった。男爵を、責める形になりかねないからだ。

「殺してはいないか。ふぅむ・・・何か、きなくさいな。この子供が、おぬしたちに手を貸したとも聞く。なんだその子供は。魔女か何かか」

「そんな、滅相もない・・・」

 ジャンヌのことは伏せておきたかったが、衛兵たちに姿を見られている。かなりぼかして、ドナルドたちの手伝いをしたということにしていたが、男爵はそれをおかしな方向に取っているようだった。

 広間の窓から斜めに差す光が、男爵の顔半分を照らしていた。それがかえって残り半分を、暗い影の中に沈めている。

 どうしたものかと思案している内に、当のジャンヌが口を開いた。

「この人たちは悪いことをしました。そのことは裁かれて当然だと思います。でも、殺して奪おうとするほど、悪い人たちじゃありませんでした。そう、本当は悪い人たちじゃないんです。ただ、どうしても兵隊さんになりたくなくて、部隊から逃げ出して、でも、この先どうしたらいいかわからなくて・・・!」

 止めようと思ったが、既に遅いようだった。ジャンヌの言葉には、熱が籠り始めている。あのどこか飄々とした少女のものとは、違っていた。横のシャルルでさえ、驚いた顔でジャンヌを見つめている。

「こうなったのも、男爵様が無理に兵を集めようとしすぎたからじゃないんですか? この人たちの村からは五人という告知だったのに、十人が徴集されたと聞きます。男爵様が悪くないというのなら、そこに向かった騎士様が悪いのかもしれません。でもそれも、責任者は男爵様ですよね? みんながみんな、悪いことをした。だからみんなが少しずつでも許してあげてもいいんじゃないかと思います。男爵様が許してくれれば、きっとこの人たちだって、部隊に戻って一生懸命働いて・・・」

 言い終わる前に、男爵の投げた杯が、ジャンヌの頭を直撃した。咄嗟にドナルドは、ジャンヌを庇う形で立ち上がった。大丈夫か。囁くと、ジャンヌはしっかりと頷いた。ただ、こめかみには血がにじんでいる。髪の先から、葡萄酒が滴っていた。

「餓鬼の戯れ言に、今回だけは目を瞑ろう。怒りに任せ子供に手をかけたと、伯爵に告げ口されてもかなわんのでな」

 男爵はゆっくりと立ち上がり、広間を出て行った。

 振り返り、衛兵を見る。申し訳なさそうに、退出を促された。

「おいジャンヌ。せっかくのきれいな髪が、酒臭くなっちまったなあ。宿に風呂を用意させておくか。傷の手当もしなくちゃな。ちったあその減らず口も直るかもしれないぞ」

 けなしているのか気遣っているのか、シャルルの物言いは支離滅裂としていたが、甥の動揺だけはしっかりと伝わってきた。

「傷は痛むか? 傷口に触れないよう、給仕の娘に手伝ってもらおう。掛け合ってみるよ」

「え? あ、このくらい平気ですよう。でも、シャルルさんの言う通り、お酒臭くなっちゃいました。やだなあ。服についた匂いは、すぐに落ちないかも・・・」

 明るく振る舞っているが、ジャンヌの口振りには、沈んだものが漂っていた。

「それより、もう宿は取ってあるのか? 一銭も持たず、我々の後をついてきたようだが・・・」

「この町では、まだです。昨晩は、隣りの村の人にお世話になって。あ、ただねだって泊めてもらったわけじゃないですよ。力仕事とか困ってることで手助けして、それで家に泊めてもらってきたんです。あとこの町に入る税もちゃんと支払いました。途中でお小遣いもらっちゃったので」

「本当に、一人でついてきたのか。危険だっただろう」

「ああ、私、強いですから、いざという時も安心です」

「私が、心配する」

「えへへ、おじさん、優しいですね。シャルルさんとは大違い」

 言って、ジャンヌはシャルルに舌を出した。シャルルが手を振り上げると、大笑いしながらドナルドの背中に隠れる。

 全てが突然でゆっくり考える暇もなかったが、あらためて、不思議な子だった。どこか、現実離れしている。森のあやかしが、ここまでついてきたのか。

「あっ、そういえば!」

 いきなり、ジャンヌが大きな声を上げた。通りを行く人々が、驚いて振り返る。

「賊を捕らえたんです。ちゃんと報賞金出るんですか? なんか、追い出されたって感じだったんですけど」

「うぅむ、どうだろうなあ」

「追い返されたから、そんなこと言い出せる様子じゃなかったろうが。ジャンヌ、お前のせいだぞ」

「へえぇ、じゃあシャルルさん一人で捕らえれば良かったじゃないですか。結局、私一人で全員捕らえたんですけど」

「叔父上、何か言ってやって下さい」

「全員無事だった。今はそれでよしとしよう」

 宿に戻り、ジャンヌの為にひとつ部屋を取った。一番高い部屋がその値段故に空いており、宿の女将は嬉しそうに部屋を用意した。ジャンヌの風呂の準備なのか、何故かシャルルが金だらいを運ぶのを手伝わされている。

 子供とはいえ、娘である。その晩はかなり華やいだ晩餐となった。ジャンヌとシャルルがじゃれ合っているのを見るだけで、ドナルドには微笑ましい。ジャンヌをこれからどうすべきかについては、明るい会話の中で曖昧に流れて行った。

 翌朝、ドナルドは厩の脇で剣を振っていた。朝の散歩に出ていたのか、ジャンヌが通りの方から宿に戻ってくる。うつむいたまま、ジャンヌはドナルドの胸に頭を預けた。泣いているのかもしれない。肩が、小刻みに震えている。

「どうしたんだい。何か、嫌なことが・・・」

「あの人たちが・・・わ、私のせいで・・・」

 声を上げまいとしているが、今ではジャンヌが泣いていることが、はっきりとわかった。頭を撫でてやる度に、鼻をすすり上げる音が聞こえる。

「ごめんなさい・・・少し、一人にして下さい」

 顔を上げず、ジャンヌは宿の中へ駆けていった。

 何を見たのだろう。ドナルドは剣を納め、通りに出た。

 町の様子は変わらない。ただしばらく歩くと、広場に人だかりができていた。近づかなくても、ドナルドは人々が何を見ているのかがわかった。

 賊になった十人の若者たちが、全員縛り首となって、晒されていた。


 アネットが残り五十人の兵を連れてやってきたのは、それからさらに三日後のことだった。

 伝言にあった日付より、さらに一日遅れたことになる。兵舎にいたドナルドたちは、知らせを聞いて町の広場に向かった。

「おいおい、いつも俺のことを遅刻魔って批難してたアネットが、俺たちを四日も待たせるなんてよう」

「よさないか、シャルル」

「いや、本当に申し訳ない。シャルルはともかく、叔父上をここまで待たせてしまったことに対して、弁解はしないつもりです。ただ、頭を下げるしかない」

「私も、責めるつもりはない。それに私たちにも不備があった。三人、足りないのだ」

 アネットは顔を上げた。少し日焼けした顔と精悍な瞳、そして一族の証と言っても良い、太く凛々しい眉が特徴的な姪である。外見そのままの、利発で勇気ある家士だった。あらためて、自分よりもずっと騎士にふさわしいと、ドナルドは思う。

「全員で、二百四十七。三名足りないというのなら、私たちも含めて二百五十ということで、上と掛け合ってみましょう。なに、その辺りはお任せ下さい」

 悪戯っぽく、アネットは微笑む。生真面目だが、真面目一辺倒ではなく、こうした融通の効く面も持ち合わせている。それが、彼女を一層魅力的な指揮官にしていた。

「不足分の三名は、傭兵で補おうと思っていたのだが」

「それは、最後の手段で。上がどうしても兵だけで二百五十必要だと言うのなら、その時に資金の上乗せを具申できるかもしれませんし」

「なるほど。それにしても、大変だったようだな。ご苦労であった。初めての村が多くて、難儀したことだろう」

「まさしく、それで。兵など出したことのない村がほとんどで、説得に思いのほか、時間を取られました」

「忍耐強いな。あらためて、ご苦労だった。積もる話は、後で酒でも飲みながら聞こう」

「は。すみません。いつも私の愚痴に付き合って頂いて・・・」

 少し顔を赤らめ、アネットは頭を下げた。

「あ、この人ですね。アネットさんって」

 いつの間についてきていたのか、ジャンヌがひょっこりと顔を出した。

「この子は?」

「ジャンヌという。実に不思議な子でな・・・」

 兵舎に向かう間、アネットに、ジャンヌとのこれまでを話した。すぐ後ろでは、そのジャンヌがシャルルをからかっている。

「なるほど・・・しかしあの子の出自、あるいはということもあるかもしれません」

「その辺りは、どうも疎くてな。しかし、アルク山というのは引っかかる。頭では、まさかと思っている。しかしあの子の目は嘘をついているようには見えない。胸の内では最初から、あの子のことを疑っていない自分もいるのだ」

「賊の話を聞く限り、間違いなく武術の嗜みはあると思います。それも相当の。ジャンヌ、私と立ち合いたいそうだな」

 振り返り、アネットは言った。ジャンヌはぜひぜひと頷く。

「では、練兵場で立ち合ってみよう。体術で良いかな」

「アネットさんは得意の武器でいいですよ。私は、素手で充分です」

「言うな、こいつ。よし、私も素手でいくぞ。もっとも、私は体術を得意としている」

「いいですよう。じゃ、私が勝ったら、約束通りおじさんの部隊に加えて下さいね」

「叔父上、そんな約束をしたのですか」

「いや、していないが、この子の中ではそういうことになっているようだ」

 アネットの兵たちの手続きを済ませ、四人は練兵場の隅に向かった。兵舎に入りきらない兵が次々と天幕を張って暮らし始めるので、ここも大分手狭になってきている。

 ジャンヌとアネットの姿を見て、兵たちが大勢集まってきた。

「ジャンヌちゃん、頑張れよ!」

 方々で声が上がっている。ジャンヌがアネットと腕試しをするという話は何故か、既に広まっているようだった。飯の時間以外は行動の読めない娘だったが、この様子では兵舎の方に度々足を運んでいたようだ。

 馬の調教をする囲いの中で、二人は、向き合った。柵に囲まれた一帯は、さながら闘技場である。兵たちの熱狂が、それに拍車をかける。

「では早速始めるか。いいぞ。かかってこい」

 気息を整え、アネットは構えを取った。

 対して十歩離れた所に位置したジャンヌは、構えることもなく、ただ立っているだけだった。

 どのくらい、そうして向かい合っていただろうか。ドナルドは不意に、歓声が遠くなったのを感じた。いや、場は静まり返っている。革の手袋の中を、冷たいと感じた。いつの間にか、文字通り手の汗を握っていたのだ。

 アネットの顎の先から、汗が滴り落ちた。呼吸が、段々と荒くなる。アネットが気合いを入れ直そうとした刹那、ジャンヌが一歩だけ前に出た。ほとんど同時に、アネットが膝をつく。

「・・・勝てません」

 つぶやいたアネットの声は、しかし誰の耳にも届いただろう。

 ジャンヌは構えを解いた。いや、姿勢はまるで変わらないが、そうだということが、ドナルドにもはっきりと感じられた。

「いやあ、驚きました。父さんと母さん以外で、こんなに強い人が地元にいたなんて。アネットさん、おじさんたちが思ってるより、ずっとお強いですよ」

「な、何だその・・・お互い、組み合ってすら・・・」

 口をぱくぱくとさせながら言ったシャルルの言葉は、この場ではひどく場違いなものに聞こえる。

「拳を交えなくても、私の強さがわかった。それがわかるくらい、アネットさんが強かったってことですよ。シャルルさん、わかります?」

 指を立て、おどけた調子で続けようとするジャンヌの声を、怒号のような歓声が打ち消した。

 達人同士の戦いが、こんなものだと聞いたことはある。戦に携わる身ながら、それを目にする機会は、生涯ないとも思っていた。まだ、少し頭が混乱している。だが、確かに目にした。

 知らず、ドナルドは胸に手をやった。

 こんなことがあるのだ。

 ドナルドは、胸の内でつぶやいた。


 軍装と言うには可憐過ぎる装いで、ジャンヌは兵舎から出てきた。

 短いスカートに革のベスト、革の長靴に、二本の小剣。軽装である。

「見て見て。似合います?」

「うむ、かわいらしいな。しかしそのような格好は・・・」

「へっへー。おじさんに褒められちゃった」

 最後まで話を聞かず、ジャンヌは練兵場の方に駆けて行った。

「本物でしょう。剣聖も、"反射の"ヴィヴィアンヌの話も」

 着付けを手伝っていたアネットが、奥から姿を現した。

「兵舎にいた者たちはほぼ全員、一度はジャンヌに組み伏せられていたようです。皆既に、あいつの図抜けた強さを知っていたようですね」

 練兵場から入れ違いにやってきたシャルルが、口の端を歪めて言った。

「そうか。アルク村で、私はとんでもないことをしてしまったのかもしれない」

「運命でしょう。叔父上が気に病むことではありません」

「強さは、わかった。しかしあの子に、人を殺めてほしくはないな」

 ドナルドには、賊の捕縛に関わらせてしまったことで、既にあの少女の手を汚してしまったという悔悟がある。今はすっかり明るく振る舞っているジャンヌだが、いまだ深く傷ついていることだろう。これ以上は、という思いは、まだ捨てきれない。

「まだ、手続きが済んでないんだ。シャルル、ジャンヌを連れて来てくれ」

 言われたシャルルはほどなくして、襟首を掴んでジャンヌを引っ張ってきた。たくさんの声が、その姿を追いかける。この少女は、すっかり兵たちの人気者になっていた。

「話を聞く限りでは、ジャンヌ、君は私たちについてくるつもりなんだろう?」

 アネットが名簿を片手に、ジャンヌに問いかける。

「はい。追い返そうとしたって、無駄ですよ?」

「そうみたいだな。君のような年端もいかぬ子を、兵の名簿に記載すべきか、迷う。その桁違いの強さを知った今では、一兵士として登録していいかさえ、迷う」

 ジャンヌは、まっすぐにアネットを見つめている。

「部隊の指揮なんてしたことありません。一人の兵士として、お願いします」

「わかった・・・そういえば、もう初潮は迎えたか?」

「え、あ、はい。先日・・・」

 顔を真っ赤にして、少女は俯いた。近くで聞いてしまったのは、いくらか酷だったかもしれないと、ドナルドは思った。幼いとはいえ、年頃の娘でもある。しかし物資の管理をしているアネットからすると、至極当然の問いだったのだろう。

「この部隊では、女は私とお前だけだ。入り用の物も多かろう。その時は、遠慮なく言ってくれ」

「は、はい。ありがとうございます・・・あ、その話は、後で・・・」

 シャルルには同じ年頃の娘がいるし、かつてのドナルドにも娘がいた。こちらにとっては特に構えるような話でもないのだが、本人にとってはそうもいかない話はある。

 身をよじって俯くジャンヌの様子を気にかけることもなく、アネットは再び名簿に目を落とした。

「ジャンヌか・・・姓はあるのかな? ジャンヌという名前は、珍しいものではないのでな」

 名簿をまとめた書類には、道中で関わった者たちの名も記載される。補給物資の受け渡しは女性が関わることも少なくないので、ただのジャンヌだと名前が被ることも度々出てくるだろう。

「姓は、特に。私の村では、他にジャンヌって名前はありませんでしたので」

「親や先祖の職か、出身地とかで即席の姓を作ることになるな」

 町のように人口の多い所だと、大抵誰でも姓は持っている。が、人の少ない所では、まだまだ姓を持っていない者は多い。シャルルが、意地の悪い笑みを浮かべながら言った。

「親の職か・・・"剣聖"ジャンヌ、ないしは"反射の"ジャンヌ・・・んー、"神に選ばれし生意気な子"ジャンヌ、なんてのもどうだ?」

「もうー、それって通り名じゃないですか。最後のなんか悪意しかありませんよ。からかわないで下さい!」

 言って、ジャンヌはつま先でシャルルの尻を小突いた。いや、少し強く蹴っていたのかもしれない。シャルルは尻を抑えたまま、突っ伏して動けなくなっている。

「あ、思い出しました。母さんが旅に出ていた当初、"アルク"って名乗ってたんだっけ。"アルクの"だったかな」

「"アルクの"でいいかもしれないな。少し貴族っぽい響きになるが、そちらの方が言いやすいし、似合っているような気がする。出世した時にも、箔がつきそうだ。よし、それでいこう」

 冗談で言っているようではなかった。アネットには、この子の未来が見えているのかもしれない。

 羽ペンを滑らせ、アネットはジャンヌの名を記載した。確認の為、それをドナルドに手渡す。

 名簿の一番下。優雅な筆致で、そこにはこう記されていた。

 ジャンヌ・ダルクと。


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