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第二話「自分を不幸だと思っている人間は、いつだって他人に残酷なものだ」-4

4,「今、お前を本気で育ててみたいと思った」


 兵の息は、ぴたりと合っているようだった。

 あらためて、さすがだなとアナスタシアは思った。騎馬千、歩兵千。一兵残らず精鋭である。

 ルチアナ側の兵も同数だ。あちらも練度は変わらない上、ルチアナ麾下の兵は、特に練度が高いのだという。歴戦の猛者たちが音を上げるくらいの過酷な調練を強いているらしく、このまま続ければ潰れる者が出てきそうだとの話だ。

「いい天気じゃないか」

 アナスタシアが言うと、隣りのジュリアンが、緊張した面持ちで頷く。

「そうだ、調練で、ルチアナ殿からは、どの程度一本取れる?」

「いえ、一度も。誰も、どんな不利な条件でも、入団以来彼女から一本取った者はいません」

「それはすごいな。私など、指揮官はおろか、よく兵からも一本取られていたよ。馬から引きずり落とされたりしてな」

「まさか。いえ、どういう調練をやっていたのかは、存じ上げませんが」

「青流団と、そう変わらないよ。有利な条件でも、私が一本取られることは、そう珍しいことではなかった。そして認めるのは悔しいが、青流団の兵は、私の霹靂団よりも練度が高い。これは、身を引き締めてかからなくてはならないなあ」

「そ、そんなことは・・・」

「北で最強などと言われていても、私は霹靂団こそが、大陸最強だと思っていた。大将は、そういう気概は持たないとな。しかし今日の調練を見ただけで、この傭兵隊が最強だとわかってしまったよ。というわけで、私が一本取られても、驚かないでくれよ。旗を守り、演習を続けてくれ」

 勝敗は、互いの旗を奪い合うことでなされる取り決めになっていた。要人を守りながらの戦闘や、特定の指揮官や物品を、なんとしても守り抜くことを想定しての調練だ。大将が旗を持ってもいいことになっているが、アナスタシアは後ろにいるアニータに旗を持たせていた。旗は演習中に誰に手渡してもいいことになっているが、この調練が最も想定しているのは、要人を守り抜くというものだ。アナスタシアはアニータから旗を移すつもりはまるでなかった。本人にも、そう言ってある。

「あ、あの、私、この旗を守りきれる自信、ないんですけど」

 怯えを隠そうともせず、アニータが言う。

「剣も馬術も、基礎はできてるじゃないか。とりあえず私の後ろにぴったりと着いていれば、それでいい。反転する時だけ気をつけてくれ。とにかく、私の背中だけ見ていろ」

「は、はい・・・」

「勝てますか、アナスタシア殿?」

 アニータの不安が伝染したのか、歴戦のジュリアンまでそんなことを訊いてくる。

「どうかな。ルチアナは一言で言えば、天才だ。剣も、用兵も。あれ相手に確実に勝てると断言できるのは、それこそロサリオン殿くらいではないかな。ただ勝とうが負けようが、ルチアナには何か伝えたいと思っているよ。一応私は、この商売の先輩だからな」

 そこで、アナスタシアは噛み殺していた笑いを、隠しきれなくなった。

「どうされました?」

「いや、もう傭兵はやめたつもりだったのだがな。今後も生きる為に剣を振るうことはあっても、兵を指揮するようなことはないと思っていた。そんな、もうないと思っていた機会に、こんなに早く巡り会えた。それがおかしくて、いや、すまんな」

「は、はあ・・・」

 どういったらよいものか、ジュリアンは困り顔である。

「大陸最強の傭兵団を指揮できる機会が出来て、光栄だよ。最後に、こんなことがあってもいいと思った。神からの贈り物かな。これで私は、心おきなく傭兵をやめられる。なに、しかしただの演習だ。気楽にやろう」

 訓練用の木剣を叩き、アナスタシアは笑いかけた。

 まだ豆粒ほどの大きさの、ルチアナの隊に目をやった。両軍の間には平地が広がっているが、右手に、小さな尾根のような、長い丘が走っている。

 丘の上にいた兵が、合図を送った。演習開始である。

「歩兵は丘を目指し、そのまま丘伝いで私たちについてこい。さて、まずはこちらの動きの確認をしようか」

 アナスタシアは手だけで、騎兵に合図を送った。

 軍には戦闘語と呼ばれる、指示の出し方がある。語という言葉通り、実際に口頭で指示を出すこともあるが、大半は手や武器を使った合図である。指示の出し方は軍で共通だが、加えて、どの軍にもそこ独自のものがあった。無論青流団にも独自の動きがあったが、今回アナスタシアはそれを使おうとは思っていなかった。慣れないことは、しないものである。基本の動きの組み合わせだけで、この軍は充分精強だと思った。

 隊を二つに分け、三つに分け、また一つにまとめる。一列の縦隊を作り、それを二つに分ける。旋回し、反転。ルチアナの軍が近づいてくるまでに、ある程度の動きは確認できた。そのルチアナの軍は、歩兵を前に、騎馬がその後ろに隠れるようにして、アナスタシアの接近を待っていた。怖い用兵だな、とアナスタシアは思った。歩兵の列を突っ切れば、それを犠牲にしてでも、こちらの隊に痛撃を与えようという構えである。

 アナスタシアは動きの確認をしていただけだが、ルチアナには予想外の動きだったのか、幻惑されまいと兵を固くしてしまっているのを感じる。しかし立ち上ってくる覇気は、半端ではない。とてもただの調練とは思えないほどだ。

 方陣を組んでいた歩兵が、二つに割れた。中から騎兵が出てくるかと思ったが、その姿はなかった。歩兵と同時に、二つに分かれたようだった。何をしたいのかが読みづらいが、アナスタシアは深く考えるのをやめた。ただ、ひとつが五百となった歩兵なら、たやすく打ち破り、その後の騎兵にも対応できると思った。

 騎馬を縦隊にし、右の歩兵に突っ込んだ。アナスタシアとアニータが、並んで最後尾である。反転すれば、先頭となる。

 歩兵は、あっさりと崩れた。いや、そうと見せかけ、こちらの勢いをいなしている。やはり水のようだとアナスタシアは思った。突き抜け、アニータを自分の後ろにやって、反転する。見たところ、歩兵の中に、今回の演習の勝敗を決める旗を持った者はいない。振られているのは、通常の軍団旗のみである。

 もう一度歩兵を突き抜けたところで、左からルチアナが襲いかかってきた。ぶつかる前に、右へ曲がって突撃から逃げる。最後尾は間一髪だっただろう。

 旗。ルチアナが持っていた。

 騎馬を一つにまとめ、自軍の歩兵の方へ引き返した。そうと見せかけ、反転する。おやと思うほどの鮮やかさで、ルチアナはそれをかわした。追う。ルチアナは割れた歩兵の間を、ぶつかるぎりぎりの所で駆けていた。歩兵とぶつかるのを避け、アナスタシアはそれを軸に右へ回った。既に、ルチアナの手に旗はない。駆け抜け様に、歩兵の中へ紛れ込ませたようだ。

 左に折れ、ルチアナの騎馬隊にぶつかる。その刹那、互いに馬首をそらし、すれ違う形になった。完全にすれ違ってしまう前に、アナスタシアは騎馬隊の後部を襲った。ただ、兵は精強である。十騎ほどを突き落とすか、武器をはたき落としただけだ。

 落馬はもちろん、武器を失った兵も死亡認定である。他、強く打たれたり負傷してしまった兵も同様だ。ただ、あのルチアナの性格だ。多少強く打ったところで、落馬でもしない限り負けは認めまい。それは取り決めを破ることにもなるが、そもそもそこまでルチアナが追いつめられたことがあるのかすらわからなかった。

 憤怒の形相でアナスタシアを睨んだルチアナは、こちらに突っ込んでくるかと思ったが、素早く歩兵の裏に隠れた。それで接近しつつあるアナスタシアの歩兵に背後をさらす形になっているが、意に介した様子はない。肝が座っている。そしてその手には既に、旗竿が握られていた。分けた歩兵の一隊はルチアナの盾となり、少し離れてしまったもう一隊も、こちらに向かおうとしていた。

 アナスタシアは容赦なく、その一隊に襲いかかった。蜂矢で突っ込み、散々に蹴散らす。ルチアナの舌打ちが、ここまで聞こえてきそうだった。

 そのルチアナが、こちらに向かって突っ込んできた。背後を取られたが、アナスタシアは潰走する歩兵の中に紛れ込み、追ってくる勢いを殺した。潰走する歩兵を追い越した後、騎馬を二つに分け、一隊をジュリアンに任せる。同時に丘の上の歩兵に合図を出し、アナスタシアを追ってくるルチアナから、逃げに逃げた。ジュリアンとこちらの歩兵が、ルチアナの歩兵に襲いかかる。これで残ったもう一隊の歩兵も、詰んだ。

 驚くような速さで反転し、ルチアナはジュリアンの騎馬の背後を突いた。思わず、アナスタシアは口笛を吹いた。アニータの持つ旗まで、あと少しのところでの英断である。誘いとわかってなお旗を取りにくるかと思ったが、やはりそんなに甘い相手ではなかった。

 ルチアナはジュリアンの騎兵を半分近く討ち取り、詰んでいたはずの歩兵を助けた。やはり天才だなと、アナスタシアはつぶやいた。好機と見せかけた、しかし絶対的な危機を乗り越え、戦局をひとつの動きでひっくり返した。ルチアナはさらに反転し、こちらに向かってくる。ほとんど損害を出していないルチアナの騎馬隊と、まともにぶつかった。

 大きく隊を横に広げ、交錯させた。今の一撃だけで百騎ほどを持っていかれたが、被害は最小限だっただろう。残るジュリアンの隊と合流し、再び隊を二つに分ける。アナスタシア、ジュリアン共に、三百騎ずつ。ルチアナはまだ、最初の千騎から、数十騎ほどしか失っていない。

 さらに反転し再びこちらに向かってくるルチアナを無視し、歩兵に突っ込む。ジュリアンの隊はぶつかる寸前に避け、丘を駆け上っていた。入れ違いに逆落としをかけていた歩兵と挟み撃ちにし、残るルチアナの歩兵を打ち砕く。そのまま前進し、味方歩兵の中を通って、アナスタシアも丘に向かった。

 振り返ると、ルチアナの騎兵がこちらの歩兵にぶつかっているところだった。共に兵力は千で、大きな損害は互いになさそうだ。だがルチアナの剣だけは特別で、周囲にいる兵が次々とやられていった。なるほど、とアナスタシアは思った。ルチアナの異常なまでの強さは、彼女一人で戦局を変えうるだけの強さだ。

 アナスタシアは丘の頂で、ルチアナの騎馬隊が突き抜けてくるのを待った。味方歩兵を断ち割ったルチアナ隊が、丘の下に集結し始める。眼下のルチアナは、冷静な目でこちらを見上げていた。

 騎馬が集結し終わる前に、アナスタシアは上げていた右手を下ろした。逆落とし。これで、ルチアナの騎馬隊に痛撃を与える。旗はルチアナが持っているが、狙うのはあくまで率いる兵である。

 驚いたことに、ルチアナは兵が集まりきる前に、斜面を駆け上がってきた。とことん果断である。逡巡なくこちらへ向かってくるルチアナを見て、アナスタシアは、感嘆の声を上げた。いい目をしているじゃないか。

 ルチアナ。その姿がぐんぐんと大きくなる。そこで初めて、アナスタシアは剣を抜いた。馳せ違い様に、両者の剣が唸る。

 手応えはあった。アナスタシアは振り返った。ぐらりと大きく上体をのけぞらせながらも、ルチアナは脚の力だけで馬を制御し、こちらに向き直る。

 その背後を、丘の上からジュリアンの騎馬隊が襲った。ルチアナはともかく、その騎馬隊は混乱している。アナスタシアは残った歩兵を引き連れ、足の止まったルチアナの騎馬隊を、揉みに揉み上げた。

 不意に、ルチアナの姿が馬上から消えた。次いで、大きな歓声。どうやらジュリアンがルチアナを討ち取り、旗を奪ったようだった。

 アナスタシアは、ジュリアンに向けて手を振った。

 ジュリアンは信じられないといった顔つきで、奪った旗を見ていた。

「すごい・・・」

 すぐ後ろにいるアニータが、小さく声を洩らすのが聞こえる。



 営地に帰ってくると、歓呼の声に迎えられた。

 幕舎の脇で、一連の動きを振り返ることになった。ルチアナはほとんど喋らず、代わりに副官が話していた。アナスタシアも、説明はほとんどジュリアンに任せている。彼が何を思ったのかが重要であって、今後指揮を執る予定のないアナスタシアが何かを学ぶ必要などないからだ。

 一通り分析が終わると、ルチアナがぽつりと呟いた。

「私は、ジュリアン殿に負けたのであって、アナスタシア殿には・・・」

「まだわからんのか、アナスタシア殿の力が」

 ベルドロウが一喝した。今までは温厚な顔しか見せてこなかった老ドワーフだが、叱り方にはやはり迫力がある。横にいたルークが、びくりと身を震わせる。

 ルチアナはぷいと横を向き、頬を膨らませた。目は赤く充血している。それはアナスタシアの初めて見る、年相応の彼女だった。

「ルチアナ殿の気持ちは、わかります。確かに討ち取ったのは、私ではありません。ジュリアン殿がいつの間にか、実にいい場所にいてくれた」

 アナスタシアが言うと、ベルドロウはジュリアンに目を向ける。一度目を閉じてから、ジュリアンは言った。

「丘の下で歩兵と向かい合った時から、アナスタシア殿の指示はありませんでした。しかしその時から、アナスタシア殿の思い描いている絵図が、手に取るようにわかったのです。丘の裏に回った時にも、向こうでどんな攻防がなされているか、たやすく想像できました。そして丘の上に上がった時には、絶好の機会がそこにあったわけです」

「それだけ、ジュリアン殿が優れた指揮官だったのだ。ここに、このタイミングでいてくれたら。そう思ったら、本当にそこにいた」

 アナスタシアが言うと、ルークが、ひゅうっと口笛を吹く。ジュリアンは、じっとアナスタシアを見つめていた。

「ベルドロウ殿に、大変失礼ながら、私の感じたことを、言わせてもらいます」

 もう一度、今度は強く、ジュリアンは目を閉じた。大きく深呼吸をして、意を決したように口を開く。

「これが、本当の総大将なのだと思いました。ベルドロウ殿が常々、我々が本当の大将というものを知らないと言っていた意味が、わかった気がします。最後は私でなくとも、ルチアナを討ち取れたでしょう。私は、そして兵たちも、何故ああ動くべきだったのか、上手く説明できないと思います。ただあえて言葉にすれば、アナスタシア殿がそう望んでいたはずだ、としか申し上げられません」

「うむうむ、その通りじゃ。おぬしの言う通り、それが総大将というものなのだ」

 ベルドロウは目を細めて、満足そうに何度も頷いた。それで全て、ベルドロウの思惑通りに動いていたのだと確信した。食えない爺さんだと思うと共に、アナスタシアもこんな男が副官だったらなと思った。

 老ドワーフがこちらを見る。アナスタシアは肩をすくめた。鎧櫃と昼飯の礼は、これで充分果たしたと思いたかった。

「違う・・・私は・・・」

 ルチアナが、小さくつぶやく。

「ルチアナ殿、どうしたら気が済むのだ?」

「け、剣で・・・」

「私と、立ち合いを望まれるのか。いいだろう、鉄は熱い内に打てという」

 負けたことが頭でわかっていても、胸の内がどうしてもそれを認められない。孤独なのだなと、あらためて思った。最後は己の剣にしか頼れないところにも、それは出ている。

 本気で立ち合えば勝負は際どいところだが、死んだところでどうなのだ、という思いもまたある。あまり生死に執着しなくなっている自分を、アナスタシアは自覚していた。

 アナスタシアは、剣を抜いた。どよめく兵たちを下がらせる。ルチアナも、手渡された剣を抜き放つ。

「遠慮されることはない。ここで私を斬り伏せることができれば、ルチアナ殿の屈託も、いくらか軽くなるかもしれぬ。全力で来られよ。できなければ、私がお前を斬る」

 アナスタシアは、両手で柄を握った。ルチアナも構える。

 お互いの距離は、五歩。一歩、間合いを詰めた。ルチアナの動揺が過ぎ去るのを、じっと待つ。

 どれくらい経ったのか、ひとつ大きく息を吐いた後、ルチアナの顔から雑念が消えた。負けず嫌いの孤独な天才の顔が消え、一人の剣士のものに変わった。

 私は、あなたに負けない。

 違う。そんなことはどうでもよく、ただ私を斬ってみろ。アナスタシアは気を放ち、思いを伝えた。

 じりり、とアナスタシアは半歩下がった。誘いに乗らず、ルチアナはじっと耐えている。

 今度は一歩進み、アナスタシアは潮合を待った。頬を、汗が一筋流れる。打ち込める隙など、微塵もない。つくづく天才だな、とアナスタシアは思った。ここまでの使い手に、今後出会うことがあるだろうか。

 これからもっと、お前は強くなっていくのだろうな。アナスタシアは目で話しかけた。溢れんばかりの才能が、羨ましい。しかしそれを妬ましいと思えないほどに、今の私は何かが壊れているのだよ。だから、そんな私を斬ってほしい。

 互いの切っ先が、わずかに触れた。既に、間合いに入っている。

 ルチアナの気はすさまじく、アナスタシアは押し返されそうだった。弾き返すのではなく、ただ受け入れた。強い向かい風に吹かれているようなものである。斬らないのか。もう一度問いかける。ルチアナはまだ、何かを測っている。苦悶の表情で、じっとアナスタシアを睨みつけている。

 殺してしまうか。

 そう思い、アナスタシアは前に出た。

 ひっと声を上げ、ルチアナは尻餅をついていた。剣を落とし、泣き出しそうな顔で、アナスタシアを見上げている。

 何も考えず、剣を振り下ろした。刹那、影のようなものが横切り、アナスタシアは刃を止めた。

 アニータだった。双子の姉を庇うように、ルチアナの頭を抱えていた。止めた刃の先から、斬った毛が何筋か、風に舞った。

 アナスタシアは何よりもアニータに驚き、そして我に返った。この娘には、ある種独特の才能のようなものがある。だが、今はそれを教えてやらない方がいい気がした。強さとは、無縁のものである。剣を鞘に納め、アナスタシアはひとつ息を吐いた。

 再びどよめき始める兵をよそに、アナスタシアは馬に荷物を掛けた。いつでも出発できるよう、既にまとめてあった。

 ルチアナは、泣いていた。アニータにしがみつきながら、子供のように声を上げて泣いている。アナスタシアはもう一度、二人の傍に立った。

「ルチアナ。明日からは本気で剣を握り、兵を指揮することだ。お前は強い。そしてこれからもっと、強くなる。しかしお前の強さは、自分より強い者が現れたら、あっさり負けてしまうような強さだ。鋭く硬いが、脆過ぎる」

 もう声を上げていないルチアナだったが、アナスタシアを見上げる瞳からは、とめどなく涙が流れている。

「本気で戦い、負けてみろ。今みたいにだ。負けることを恐れて先に逃げ道を作る卑怯さは、お前をただ苦しめるだけだ。本気を出さずとも負けないほどの天稟が、お前をどこかで歪ませてしまったのだろうな。今、お前を本気で育ててみたいと思った。しかしそれも、単なる私の驕りかな」

 アナスタシアは頭を掻いた。どうも、説教臭くなってしまったようだと気づいたのだ。

「一言で言えば、もっとしなやかに生きろということさ」

 アナスタシアは踵を返し、ベルドロウに一礼した。

「ここで、失礼した方がいいでしょう。どうもここは私にとって、居心地が良過ぎる。離れがたくなってしまう前に、役目を終えることにします。楽しかったですよ。束の間ですが、いい夢を見ることができました」

 ベルドロウが、手を握ってくる。目の端に、微かに光るものがあった。策士だが、その役割を演じるのがつらいと感じることも、少なくないだろう。

「アナスタシア殿、あとほんの僅かでも、我々の大将に・・・」

「やめましょう。私とて、ここを離れるのがつらいのです。しかし旅の空が、全て良い思い出に変えてくれるでしょう。どうか、ご健勝で。さらば」

 アナスタシアは馬に跨がった。一度だけ振り返り、見送る声に応える。

 そしてもう二度と、後ろを振り返らなかった。




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