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第12話「ああ、こんな笑い方もできる娘なのだ」-2

2,「あなたは、私が守る。絶対よ」


 結局、あれから三日が経った。

 いまだにアナスタシアは、蜜蜂亭に顔を出せないでいる。青流団の兵たちがノルマランに馴染むまで面倒をみなければならないと思っていたし、何より、町に出ると町民たちに囲まれる。大浴場に行く時以外は、ほとんど城の中に籠っていた。

 その日の夜に、不意の来客があった。

 一人は、パリシからの帰り道でノルマランに立ち寄ったゲクランであり、もう一人はレザーニュ伯の妻、フローレンスだ。ゲクランの誘いで彼女はここに駆けつけたのだそうだ。レザーニュ城からここまでは、馬で半日と、近い。

 三人を中心に、晩餐が開かれた。ゲクランはパスカル、アナスタシアはアニータを連れてその席に着くことになった。

 ゲクランは紫のドレスを着ていたが、具足姿も似たようなドレスに甲冑を合わせているせいか、戦時も平時もあまり印象が変わらない。

 あまり大きくはない、ノルマラン城の広間である。場も、自然と砕けたものになっていた。

「アナスタシア様、新しく傭兵団を立ち上げるという話は本当でしょうか」

 早速、フローレンスが目を輝かせながら訊いてくる。

 パリシにいた時から何度か顔を合わせているが、この娘はアナスタシアにかなり好意を持っていてくれているらしかった。先の戦、最初の軍議の後にアナスタシアが掛けた一言を、彼女は今でも恩義に思っていてくれるらしい。元は髪が長かったと聞くが、あれ以来、おかっぱ頭と切り揃えた前髪が気に入っているようだ。

「どうでしょう。ただ、私を慕って青流団をやめてきた人間たちです。私がどこまで関わるかは別として、今後の道筋はつけてやらないといけないと思っていますが」

 聞いて、横のアニータが口を開く。

「数は少なくとも、もう立派な傭兵団ですよ」

「お前が言うな」

「今は新生霹靂団ってことにしてますけど、何か新しい名前の候補があったら、フローレンスさん、一緒に考えて下さい」

「やめておけよ。とまあ、こんな感じで団員はすっかりやる気になっているので、置いていけないという状況なのです。もっとも、私はこの町に留まるつもりでやってきたので、どうしたものかと考えているのですが」

 そこで、上座にいるゲクランが、杯を飲み干してから話に入ってきた。

「今日、あなたとフローレンスをこの場に誘ったのは、そのことなのよ」

 給仕に葡萄酒のお代わりを頼みながら、ゲクランは続けた。

「まだ戦後処理が残ってるけど、一息ついたら、私は西進しようと思ってる」

 つまりは、戦である。

 ゲクランの悲願はアッシェンの失地回復よりも、その名を冠した故郷、遥か西にある旧ゲクラン領の奪還にあるという話は、何度か聞いていた。

「そこで、アナスタシアとフローレンスの力を借りたいと思ってるんだけど」

「西の国境は、二剣の地だと存じ上げておりますが」

「そうね、旧ゲクラン領までは二剣の地になっていて、手を出せない。ただ、中にはいくつかアングルランドが直接支配している、飛び地の領土がある」

「海の中の、島のようなものですか」

 頷いたフローレンスが、言葉を続ける。

「夫の許可が必要になりますが、私個人としては、ゲクラン様に助力したいと思います。ただ、周囲を納得させられるだけのものが、ありますでしょうか」

 初々しさを残したその見た目から忘れがちになるが、無能な夫に代わってレザーニュの実質的な統治者として力を尽くしてきたフローレンスである。ゲクランに好意を寄せてはいるものの、相応の見返りも忘れていない。人の命が絡む話なので、当然でもある。

「一年か二年の、徴税権を考えているわ。戦後の状況にもよるけど、充分な利が上がらないようだったら、私の直轄地から補填したいと思ってる」

「わかりました。細かい話は、実際にどこに向かうかで後日、詰めていきましょう。その・・・まだ未熟な私を頼って頂いて、うれしく思います」

 フローレンスが、頬を染めながら言う。即決できる果断さと、はっとするほど純朴な部分を持っているのがこの娘だ。供回りの騎士の何割かは、絶対にフローレンスに惚れているなと、アナスタシアは思った。

「私は・・・まあ力を貸すのは構いませんが、わずか二十人の所帯です。そちらで集めて頂いた傭兵の指揮を執ることくらいは、できるかと思いますが」

 言ってから、しまったとアナスタシアは思った。またも、こういう場面に慣れ過ぎているからだろう、ついつい傭兵の仕事があると食いついてしまう。

「いや、今のは・・・私は、この町でやることがあります」

 ゲクランの傍の、パスカルが吹き出した。腹心を肘で小突きつつも、ゲクランは微笑んだ。

「すぐにでも、という話でもないわ。あなたがこの町に来た理由は知ってるし、本格的に傭兵団を起ち上げたとしても、兵が集まるのには時間がかかる。それともし傭兵団を旗揚げするなら、先立つものも必要じゃない?」

 団の規模にもよるが、確かに資金は必要である。

「銀行に、掛け合ってみることになるかと。スキーレ銀行とは、スラヴァルの時から取引の実績があります」

「もし、そこそこ大きい隊を考えてるなら、喜んで出資させてもらうわよ」

「でしたら株式、という形になりましょうか」

「あの、私もぜひ、力添えさせて下さい」

 やや意気込んで、フローレンスも乗ってくる。

「じゃあ私とフローレンスのところで三割三分ずつ、アナスタシアが残り三割三分と端数、みたいな感じでどうかしら」

「はい、アナスタシア様さえよろしければ、私はその形で結構です」

「しばらくは、私たちもオーナーってことになるけど、上がった利から株を買い戻してくれても構わないわ。どう?」

 株式での法人ということになれば、意見が割れた時に二人が発言権を持ちながらも、アナスタシアが決定権を持つことになる。悪い話ではないどころか、一気に資金を集められるのなら、かなり旨味があり、かつ公平な提案だった。それぞれ三分の一の資本を人質に取られているようなものだが、仮にこの地で傭兵をやるなら、ゲクランかフローレンスが雇い主になると思っていた。その意味でも問題はない。戦利品や人質から上がる利を分配することになるだろうが、そもそも設立資金を援助してもらうことになるのだ。借款の返済が三分の一で済むことを考えれば、支払いに追われる重圧は随分軽減される。

 次々と運ばれてくる料理を頬張りながら、アナスタシアはしばし黙考した。こんな話は、二度とないかもしれない。残された私財は店一軒を建てることはできても、大人数の傭兵団を経営するとなれば、一瞬で干上がる程度である。以前だったら、間違いなく即決できた話だ。

「少しだけ、考えさせて下さい」

 林檎酒で料理を腹に流し込みながら、アナスタシアは答えた。今食べたものがどんな味だったのかも思い出せない。こんなことはそうそうなかった。ひょっとしたら今の自分は、ひどく動揺しているのかもしれない。ただそういう素振りを見せればすぐに絡んでくるアニータが大人しくしているので、表にそれは出ていないのだろう。

「急な話だものね。パリシであなたを口説いた時も、やきもきさせられたわ。あの時に比べれば、事態は切迫してない。返事はいくらでも待つわ。フローレンスも、それでいい?」

「はい。でもぜひとも、アナスタシア様のお力になりたい。どうか、前向きに検討して下さいな」

 自分よりも遥かに大きなものを背負っていながらも、戦と出資という大きな決断を即決できるフローレンスは、やはり統治者の器があるのだろう。いくらか、アナスタシアはこの娘をまぶしく感じた。

「光栄です。ご期待に沿えるかわかりませんが、お気持ちは頂いておきます」

 それからは、他愛無い話となった。ゲクランが意図して、そういう流れにしたのかもしれない。

 明くる朝、午前から兵たちに稽古をつけていたが、昨夜のことがやはり、アナスタシアの思考の大半を占めていた。

 アニータが話したのだろう、兵たちは晩餐の席での話を知っているようだった。この者たちに、活躍の場を与えてやりたい。しかしそれは本当に、アナスタシアのやりたいことなのか。

「今日は、身が入りませんねえ」

 どこか呑気な様子で、アニータが顔を覗き込んでくる。

「それは、まあな」

「蜜蜂亭のことも、ありますしねえ。この後、行ってみましょうよ。私もついて行きますから」

「いや、お前はついてこなくていい。だが、今晩あそこに行ってくるよ。心配してくれているのだな。礼を言う」

「うわ、らしくないですよお」

 少し日焼けした顔で、アニータが笑う。

 陽が中天を差すとノルマラン兵たちも加わり、本格的な調練となる。といっても、城内の調練場でできる範囲のものだ。

 振り返って、今の自分は燻っているなと思う。アナスタシアは、決して高くはない城壁を見上げた。

 この町に初めて来た時、アナスタシアは夢を見つつも、同時に死のうとしていた。セシリアと戦って、散る。最後に一度、本当に強い者と立ち合えば、また生きようと思えるような気がしていた。あるいはそこで死んでしまってもいいとも。霹靂団を失って以来、生きている、という実感が希薄だったのだ。

 生き残ることがあれば、店を持とう。願掛けか、賭けか、何かどうしようもなく高い壁を乗り越えなければ、この先夢や目標を持って生きていくことはできないと感じていたのだ。

 今は、どうか。

 同じかな、とアナスタシアは思った。しかしあの時よりも、臆病になっている。何が、そうさせているのか。

 夕食を済ませた後、アナスタシアは兵舎の自室で一人になった。鏡の前で、入念に化粧をする。いや、単に時間を潰しているだけかもしれなかった。よく部屋に遊びにくるアニータも、今晩は姿を見せない。

 城を出る時に、終課の鐘(午後九時)を聞いた。あそこは遅くまでやっているが、そろそろ客の大半は帰っているだろう。

 町に、人の姿はほとんどない。明かりが灯っているのは、遅くまでやっている酒場だけだ。夜警の一団とすれ違ったので、挨拶をした。初めて見る顔だったが、向こうはこちらを知っている様子だった。

 蜜蜂亭の前に着く。入り口の向かいを流れるマロン川も、しばらく雨が降っていないせいか、せせらぎひとつ立ててはいない。店からは客と、看板娘のジジの笑い声が洩れていた。

 胃の腑がせり上がりそうになり、思わず口元に手をやる。心臓も、まさに早鐘を打っていた。緊張している自分に気づき、アナスタシアは苦笑を抑えられなかった。もはや戦場においても緊張することがなくなって久しいが、思えばこの店のことを考える度に、何か身の置き所のない、あるいは恐怖に似たような感情を抱いてきた気がする。

 店の中に入る。ジジが、すぐにこちらの姿に気がついた。

「あら、久しぶり・・・でもなかったわね。いつもの席、空いてるわよ。ほらみんな、アッシェン救国の英雄が、またこの店に来てくれたわよ!」

 ジジが手を叩くと、まだ残っていた数人の客も、拍手でアナスタシアを出迎える。厨房の方に目をやったが、主人のロズモンドの姿はなかった。ただ、鍋に火がかけられているので、少し席を外しているだけだろう。

「座らないの? 今日はあたしのおごりでいいわよ」

「今日は別件で来たんだ。その・・・以前少し、話しただろう。この店の手伝いを・・・いや、ロズモンド殿に、弟子入りできないかと」

 ジジはしばらく目を大きく開けてこちらを見つめていたが、しばらくして豪快に笑いながら、アナスタシアの肩を叩いた。

「ああ、言った言った! 最初に町を出た頃よね。え、本気で考えてたの? いや、あたしも冗談で誘ったわけじゃないけどさ、本当に一緒に働いてくれるってんなら、大歓迎よ!」

「ん、ああ、そうさせてくれると嬉しいんだが」

 胸に、熱いものが広がる。だが、これでここで働けるとも思っていなかった。主人のロズモンドが首を縦に振らない限り、つまりジジの一存で決まることはないだろう。

「いやあ、あのアナスタシア大団長様が、本当にこの店にねえ。正直、あの夜が最後かと思ってたわよ、あんたがこの店に来るの。これからアッシェンの大将軍として活躍するものだと思ってたから。この町に来たって聞いても、ここには来なかったし、そういうことなんだろうって」

 あの夜とは、パリシ包囲軍に奇襲をかける当日のことである。その日もアナスタシアは他の団員と共に窓際の、いつもの席に座り、マロン川が増水していくのを眺めていたのだった。頃合と見て、その後すぐに作戦を決行した。

「ちょっと用事があったんだ。すまない」

「まあいいけどさ、そういえば新しい傭兵団作るって噂聞いてるけど、実際どうなの?」

「その話も、進んでいる。どのくらいの話になるかは、私にもわからないのだが」

「へえ。やっぱりあんたの英雄譚はまだ終わらないんだ。あ、マスター」

 ロズモンドが、厨房に戻っていた。こちらに背を向け、鍋の中身をかき回している。

「アナスタシア、この店で働きたいって。マスターの弟子になりたいってさ。いいんじゃない?」

「駄目だ」

 即答だった。息を呑んだが、なんとなくそんな気もしていた。それでも血の気が引きかけたが、アナスタシアはなんとか両の足に力を込めた。

「ええっ、なんで」

「ちゃんと働く気がある者しか、雇わん」

「ロズモンド殿、お願いします。私を、あなたの弟子にして頂きたい」

 会話の順序がおかしくなってしまったが、今となってはどうしようもなかった。黙っているわけにもいかないのだ。

「だから、なんでよ、マスター」

 ジジが食い下がる。その伯父は、首を横に振ってこちらを見た。

「アナスタシア、この町で傭兵を続けるそうだが、それはどうなっている」

 店が、静まり返っている。逃げ出したいような気持ちに、アナスタシアはなっていた。

「まだ、話の途中です。本当に、やるのかどうかも・・・」

 やることに、なるだろう。そうだ、アナスタシアは最初から、二足の草鞋を履くような格好になっていた。

「やったとして、どうなのよ。アナスタシアには暇な時に、この店を手伝ってもらったらいいじゃない」

「お前は黙ってろ!」

 強面のロズモンドだが、実際に人を怒鳴っているところは初めて見た。

「お前の傭兵隊に、週末暇な時だけ剣を教えてくれとぬかす輩が来たとして、お前はそいつと真剣に向き合えるのか」

「いえ、追い返すと思います」

「お前がやっていることは、そういうことだぞ」

 その通りだ。わかっている。アナスタシアは一度、強く目を閉じた。

「理解しています。それでも、お頼み申し上げるしかない」

「帰れ」

「この娘は、自分の店を持つのが夢なんだよ。いいじゃん、料理くらい教えてやれば」

「料理くらいとはなんだ」

 アナスタシアにはロズモンドの言い分も、気持ちもわかった。ジジ、もういい。言いかけたが、すぐに言葉を吐き出すことができなかった。

「かわいそうだよ、マスター。自分が何言ってんのかわかってるの」

 そこでなんとか、声を絞り出す。

「いや、ジジ、いいんだ。ロズモンド殿が、完全に正しい」

「正しいって・・・あんた、これからどうするの」

「ど、どうだろう。ただ、今日のところは引き上げた方がよさそうだ」

 客の一人と、目が合った。どうしたらいいのかわからないという顔をしている。

「不快な気持ちにさせて、申し訳ない」

 客に頭を下げた後、厨房の方にも頭を下げる。

「また来ます」

 言ったが、ロズモンドはもう、鍋の様子を見に奥へ引っ込んでいた。その背中にもう一度頭を下げ、アナスタシアは店を出た。

 最初の角を曲がったところで、追いかけてきたジジに腕を掴まれた。

「ごめんね、マスターが人にあんなこと言うの、初めて聞いた」

「それだけ、こちらの言い分がひどかったということさ。ジジにも、悪いことをした」

「ああなったら、頑固だからねえ。本当、あんたもどうするの」

「明日、もう一度頼みに行く」

「はあ、あんたもあんたで、頑固そうだ」

 溜息をついたジジは腕を組んで、しばらく黒い川の方を眺めていた。

「私に、考えがある。三日後に、また来てくれる?」

「わかった。良い策があるのか」

「ないこともない。まあ、なんだかんだ言って、あの人のことは長く見てきたから。一応聞いておくけど、忙しい合間を縫って、マスターから料理を学びたい。その気持ち、本気なんだよね」

「本気だ」

「ウチを気に入ってくれてるってことは、もう充分にわかってるから。はあぁ。パリシにはウチより美味い店、たくさんあるでしょ。それに今のあんたの立場を利用すれば、客寄せで店にいてくれるだけでいいって店は、いくらでもあるでしょうに」

「蜜蜂亭の味が、一番だよ。店の雰囲気もな。ああいう店を、私はやりたい」

「そんなの、すぐに開けるだけの稼ぎはあるんでしょう?」

「開けても、同じ味を出せるとは思っていない」

「ああぁ・・・もう! とにかく、三日後ね。今日と同じくらいの時間で」

「わかった。恩に着る。でもどうして、私にそこまでしてくれるんだ」

「あんたのそんな顔見ちゃったら、放っとけないじゃない」

 思わず、顔に手をやる。あまり表情に変化がないと言われる、アナスタシアの顔である。

「それともう一つ。そこまでウチの店を買ってくれてるのなら、応えたいじゃない」

 泣き笑うような顔で、ジジは言った。

「あとさ、さっきのマスターの問いかけ、空いた時間だけでも剣を教えてくれって人が来たら、実際あんたは教えちゃうんじゃないかしら」

「そうかもしれない。まあ、私も空いた時間ならというところだが」

「元青流団の連中があんたについてきたって話は、もう町の人はみんな知ってる。どうして断らなかったの」

「私を、頼ってきた。何とかしてやらなくちゃいけないと、そう思っただけさ」

「あんたは、こう、とことん・・・」

 腰に手を当てたジジは、何か言いかけた後、盛大に溜息をついた。

「まあいいわ。三日後。いいわね」

「かたじけない。ここはもう、ジジに頼るしかない」

 頭を下げると、笑いながらジジは店に戻って行った。

 その背中を頼もしく感じながら、アナスタシアも月明かりの帰途についた。


 老王は、眠りについていた。

 ここ一、二年は、情欲を吐き出した後、そのまま寝台で眠ってしまうことが多い。老王の巨体を丹念に拭った後、アイオネも自らの身を清めた。下腹に手をやる。胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 今もその身に呪いを受けるリチャードに子種がないのか、アイオネに子を成す力がないのかは、わからない。アイオネを抱くようになってから、リチャードは他の女をほとんど抱いていない。

 子を生むのが女の務めだとは思っていないアイオネだったが、リチャードの子だけは授かりたいと、強く願っていた。リチャードの子は、多い。多くあるべきだとも思う。あるいは老王が自分を主な寝床の相手と選んだことで、本当ならもっと多くの生まれるはずの命があったかもしれないと、切迫感を覚えずにはいられない。

 今日こそは。寝台に腰掛け、祈る。今は、それしかできなかった。

 身支度を整え、具足を着けて外に出ると、天幕のすぐ傍にエティエンヌが立っていた。耳まで顔を真っ赤にしながら、それでも挑むような眼差しを向けてくる。情事の様子はここまで伝わっていたのだろう。今は彼女に小姓のようなことをさせているが、エティエンヌはリチャードが二剣の地の戦で手に入れた、有能な指揮官であった。

「ご、ご苦労様です。外からの報告は、ありません」

 もじもじとした様子で、エティエンヌは言った。他の小姓は慣れているが、まだ十七歳の、それも色恋に縁がなさそうな娘に天幕の見張りをさせたのは、多少酷なことだったのかもしれない。貴族の十七歳では縁談のいくつかもありそうなものだったが、彼女はそれを断り続けてきたとのことだった。男嫌いという部分もありそうだが、根本的に人を信用しきれない臆病さもありそうだった。

「わかりました。ここは他の者たちに任せて、私たちは調練の輪に加わりましょう」

 天幕の列を抜け、原野に向かうアイオネに、エティエンヌが子犬のようについてくる。見た感じはそうだろうが、この子犬には獰猛な牙もあった。

 リチャードはこの娘を自分のものとしたが、まだ寝台を共にしていない。彼女の若さもあるのだろうが、エティエンヌの気持ちが整うのを待っているのだろうとも思った。多くの女を抱いてきたリチャードだが、望まぬ者に襲いかかるような獣ではない。豪快な冒険王だったが、その実、アイオネなどより余程繊細な部分も持ち合わせているのだった。

 老王がエティエンヌを抱くようになるのは、いつだろうか。そうなった後、やがてリチャードの子を孕むのだろうか。その時、アイオネは何を思うのだろう。

 現時点で、アイオネはこの娘に対して、何一つ悪い感情を抱いていなかった。次の女がこの娘になるのなら、いやむしろそうなってほしいとも思う。アイオネはそのくらい、この娘のことを気に入っていた。ただ生まれてきたその子供には、多少複雑な思いを抱くことになるだろう。

 原野には、強い風が吹いていた。既に鞍の乗せてある愛馬に跨がる。横に並んだエティエンヌは、ほとんど手綱を使わずに馬を操っていた。

「どう、この部隊には馴染んできた?」

「はい。皆、素晴らしい方ばかりです。私も早く、立派な将校になって、みなさんに認められたいと思います」

 言葉の端々に生来の負けず嫌いを感じさせつつも、エティエンヌは真剣な顔で言った。

 この隊にいる者は皆、彼女のことを認めている。天稟がある、と言っている兵もいた。アイオネもそう思う。指揮にまだ未熟さはあり、調練では度々他の将校に負かされているが、この大陸最強の騎馬隊にあって、初めから結果を出せる指揮官などそうそういない。が、そういった慰めは、この娘には不要だろう。まだ先の戦で負けたのだという躓きから、立ち直ってもいない。若さからか、生来の頑さのようなものも隠し切れていなかった。

 ただ、敗軍の将として、驚く程に潔く、おかしな反抗を示したことは一度もない。武人として生きようとしてきたことの矜持か、あるいはこの娘が本来持つ素直さのようなものだろうか。ともあれ、彼女はもう、自身をこの部隊の将校の一人と思い定めているようだった。自らその長い髪を切り落とした時に、捨て去ったものは少なくなかったのだろう。そして、生まれ変わろうとしている。

「最近、腕を上げてきたわね。どうかしら、お互いに隊を率いてぶつかってみるのは」

「はい、望むところです」

 アイオネが笑うと、エティエンヌは再び挑むような眼差しを返してきた。可憐な顔立ちをしているだけに、そのような表情を余計にかわいらしく思ってしまう。

 丘の麓で調練をしている部隊に、手を上げる。それだけで、三千の騎馬がアイオネの元に集結した。

「千五百で、二隊。指揮はそれぞれ、私とエティエンヌです。勝敗は半数を失うか、どちらかの指揮官が討たれるまで。私の隊があの丘の麓に着くと同時に、調練開始としましょう」

 綺麗に別れた部隊の一つを率い、アイオネは丘に向かった。大将の位置は偽装することもあるが、リチャードの隊では特別な指示がない限り、そういったことはしていない。旗は、指揮官のすぐ傍に位置することとなる。

 麓に着き、隊を整えている間に、エティエンヌの部隊はこちらに向かって疾駆していた。彼我の距離は500m程で、ここに来るまでに突進の勢いはいくらか落ちるとわかっていても、圧力は相当なものだった。馬蹄の響きが、鞍を通しても、大地からせり上がってくるのを感じる。

 不意に、エティエンヌが部隊を二つに分けた。前進しながら、こちらを挟み撃ちにする格好である。アイオネも手を振り、隊を前進させた。エティエンヌは左の隊の先頭に立ち、こちらの出方を窺っている。

 部隊を疾駆させ、アイオネは二つの部隊の間を駆け抜けた。どちらかに襲いかかると踏んでいたエティエンヌは、いくらか面食らったことだろう。その顔を確認することはできなかったが、敵が動き出す気配を感じたアイオネは騎馬を急旋回させ、部隊の一つに襲いかかった。

 どちらかに襲いかかると見せて、突き抜ける。突き抜けると見せて、片方に襲いかかる。この辺りは知恵比べと言うよりも、戦の呼吸である。先手を取っているように見せて、本当は相手の動きに合わせているだけの、アイオネにとっては単純な用兵だった。

 前線で脚を止めていた兵の剣を二つ弾き飛ばしたところで、アイオネはこちらに向かっていたエティエンヌの部隊へ突撃した。勢いを落とさず、馳せ違う形でその部隊を突き抜ける。三人程、木剣で胴鎧を激しく打った。先の二人と合わせて、五人が敗北認定である。

 十人程がアイオネの剣の届く所にいたが、仕留められたのは半分だった。自分の隊ながら、やはりここの兵は強いなと思う。大陸のどの部隊が相手でも、同じ状況なら十人とも斬れる自信が、アイオネにはあった。

 隊をまとめて、向かい合う。エティエンヌの部隊からは、五十人程の兵が離脱していた。その内の何人かが去り際に、指揮官に向かって激励の声を上げていた。愛されているな、とアイオネは思う。これもまた、エティエンヌが持って生まれたもののひとつだった。実戦では、彼女の身代わりになって倒れる兵も少なくないだろう。だが当のエティエンヌは、顔をしかめて手綱を強く握りしめている。

 翼の様に、アイオネは隊を大きく広げた。対するエティエンヌは、部隊を小さくまとめる。こちらが包囲の輪を縮める前に、エティエンヌは一直線にアイオネに向かって突撃してきた。

 それでいい、とアイオネはつぶやく。搦め手の勝負だったら、アイオネに一日の長がある。本当は兵を信じ、ひたむきに大将を狙うような戦こそ、彼女には似合っている。

 敵を包み込むようにして、隊を広げる。移動しつつも中央を維持したアイオネと突進するエティエンヌの木剣が、鋼の刃のような硬い響きで打ち交わされた。

 いずれ、この娘は自分を超えるのだろうか。今はまだ、経験だけでこの少女を圧倒できる。いや、上回っている自分を演じ切ることができる。

 馬を退き、残った兵でエティエンヌたちを包囲させた。敵部隊の抵抗は激しい。二百騎程でその激戦の輪から外れた途端、アイオネは横から猛烈な攻撃を受けた。いつの間に。

 さすがだな、とも思う。こちらに向かって突進してくる際、死角から百騎程を離脱させていたようだ。それは確実にアイオネの不意を衝いており、先程思った、彼女にはひたむきな戦こそ似合っているという評価を、すぐに覆さざるをえなかった。いつ、こんな複雑な運用の指示を兵に出したのか。そんなことができるだけでも、やはり用兵の才は図抜けている。いや、彼女の意図を、兵が汲み取ったか。

 別働隊の数が少なかったこともあり、冷静にその隊を払いのけることができたが、次の瞬間、包囲の輪を破ったエティエンヌが、すぐ目の前にいた。

 五合、十合と剣を打ち鳴らす。少女の剣を大きく弾き飛ばした後、アイオネは返す刀でその胸甲を突いた。もんどりうって落馬したエティエンヌは、胸を押さえて激しく咳き込んでいた。

 本来なら武器を失わせた時点で敗北認定だが、実戦に近い気迫に押され、余計な一撃を加えてしまった。旗を振らせて勝負の決着を知らせると、アイオネは下馬して少女の横に跪いた。

「大丈夫?」

「は、はい。負けました。遠く、及びません」

 まだ咳き込んでいるエティエンヌの目には涙が溜まっていたが、それは悔しさの涙かもしれないと、アイオネは思った。

「もっと、周りを信頼しなさいな」

「どういう意味ですか」

「別働の百騎をあなたが率いていれば、私に痛撃を与えられたかもしれない。危険な場所に自分が立つという態度は立派だけれど、死地に立たせることで、信頼されていると感じる兵もいる」

 エティエンヌはしばし、膝をついたまま草地を睨みつけていた。伸ばした、ほっそりとした指で草を引きちぎると、背筋を伸ばして立ち上がる。

「はい。次からは、そうします」

 その様子はやはりどこか愛らしく、アイオネは笑った。何を笑われているのかわからなかったのだろう。少女はむすっとした様子でアイオネを見つめていた。

「あなた、エクレビヨンでは周りに愛されていた?」

「どうでしょうか。振り返ると、幼い時はかわいがってくれた人も、多かったような気がします。最近は、私の地位や立場、言動を利用しようとする人間も少なくありませんでしたが」

「ここでは、どうかしら」

 アイオネが馬に乗るのとほぼ同時に、エティエンヌも鞍に飛び乗っていた。馬体に揺られながら、なおも彼女は顎に手を当て、答えを探していた。

「かわいがられている、という点では、子供の頃に戻ったような気がします。実際、子供のようなものなのでしょう。私より若い兵や従者もいますが、この部隊の練度を考えれば、未熟な私が子供扱いされるのも頷けます。この部隊は、凄過ぎます。先程も百騎を別働隊で、と指示するだけで、こちらの意図を全て汲んだ動きをしてくれました」

「あれには、驚いた」

「驚いたのは、私です。もちろん、そうして欲しいと思ったのは私ですが、ああいった絶妙の機は、私自身が指揮していればありえないことでした」

 エティエンヌは、唇を噛み締めていた。悔しいが、認めざるをえない。そのことを自覚できているだけで、やはり大したものだと思う。

「先日、青流団がここを通ったでしょう」

「はい。大陸最強の傭兵団の力、しかとこの目に」

 つい数日前、アングルランドへ向かう青流団が、この地を通りかかった。元団長、エルフのロサリオンと合流すべく、ロンディウムを目指しているところだったが、今後は味方になるということで、調練の様子を披露してくれたのだ。青流団とは、南の戦線でもぶつかったことがある。やはり、惚れ惚れするような傭兵団であった。

 リチャードと副団長、ドワーフのベルドロウはすぐに意気投合し、その日は珍しく遅くまで宴が開かれたが、アイオネの目を引いたのは青流団の麒麟児と謳われる、ルチアナだ。噂はよく耳にしていたが、間近に見るのは初めてだった。

 見た目もそうだが、弱冠十四歳とは思えないくらい、完成された指揮官だった。いや、あれで剣も用兵もまだ発展途上なのだと聞く。今の時点ではわずかながら同じく大陸最強と言われる騎馬隊を指揮してきたアイオネの方が上かもしれないが、これからが最も伸びる時期だということを考えると、持って生まれたものの差に、愕然とするしかなかった。

「あなたと、あのルチアナは似てるわね」

「どの辺りがでしょうか」

 容姿は異なれど、挑むような眼光は、本当にそっくりである。

「ただ、あの麒麟児の方が、全てにおいて勝っている。年齢ですら、まだ若いあなたよりも、さらに若い」

 奥歯を噛み締め、エティエンヌは馬の首をじっと見つめた。

「これから、あなたとあの娘とは比較されるでしょうね」

「関係ありません」

「なくても、比べられる」

「全てにおいて私が劣っていると、言われ続けるでしょう」

 吐き出すように言ったエティエンヌだが、そこに卑屈な響きはない。負けている。本当にそう思っているのだろう。だから、悔しい。

「ただ一点、あなたが勝っているかもしれない要素はある」

「何でしょうか」

「その、素直さよ。負けず嫌いでどうしようもなく頑固なのに、たまらなく素直でもある」

「わかりません。ただ、勝ちたいです」

「そういうところよ。そしてあなたは兵に愛されている。まずそこを受け入れなさい」

「善処・・・します」

 柵に馬を繋ぎ、鞍を下ろす。二人並んで、それぞれの馬の世話をした。極力、自分の馬の世話は、自分でする。リチャード隊の、数少ない掟のようなものだった。

 エティエンヌは愛馬に語りかけ、その首を抱いていた。束の間、その優しげな眼差しを、アイオネは見つめた。

「な、なんでしょうか」

 こちらに気づいた少女が、顔を赤らめる。

 アイオネはその腕を取って、エティエンヌを抱き締めた。わずかに抵抗の意思を示したものの、しばらくその黒髪の頭を撫でていると、やがてその身を任せるようになった。

「あなたは、私が守る。絶対よ」

 顔を伏せたまま、少女はこくりと頷いた。



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