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第10話「一歩、踏み出してみろ。自分に足があったことを、思い出せるかもしれないぞ」-3

3,「人は自分を信頼している人間から、決して逃げてはいけないのだ」


 まだまだ、片付いていない仕事は多かった。

 背中を大きく伸ばした後、アナスタシアは冷め切った紅茶に口をつけた。部屋の中ではただ一人残ったベルドロウが、書類の束をより分けている。

 パリシ城内、練兵場の一室だった。窓の外、城壁に囲まれた草地では、兵たちが人型相手に木剣を振ったり、基礎体力の運動をしている。

「今日は、この辺りでいかがですかな。あのような軍議もありましたことですし、お疲れでしょう」

「いや、もう少しやっておこう。明日はアングルランド側の特使たちと、身代金の話もしなくちゃいけない。それに私はさっさと、自由の身に戻りたいのだ」

「まあまあ、そんなことを仰らずに。我々としては一日でも多く、アナスタシア殿に団長でいてもらいたいのです」

「何を言う。それこそ一日でも早く、ロサリオン殿のところに戻りたいのではないのか」

 かつての青流団団長、"青の円舞"ロサリオンがアングルランド宮廷に出仕したという噂は、数日前からここパリシでも耳にする。ゲクランとの契約は終わり、いよいよ青流団はアッシェンの敵として立ちはだかることになる。

「それにしても、ああいう場は敵わんな。まだ、肩が凝っている。緊張したよ」

 今日の昼、湖畔の間で開かれた軍議のことである。

「ホッホ。アナスタシア殿でも緊張することが。とてもそうとは思えませんでしたが」

「べらべらと、余計なことを喋った気がする。苦手なんだ、ああいう場は。質問など受け付けなければよかった。的確な質疑が飛んできたので、ついつい大きな話までしてしまった」

「我々とてあの町で、団長からそんな先のことまで考えていると聞いた時は、驚きましたよ。きっと、あそこにいた将校たちのような顔をしていたのでしょうなあ」

「でもそんな優れた軍人が多そうで、あの場は少し私には、まぶしい気がしたよ」

「場を得た、という気がしたものですがな」

「私が本当にそう思えるのは、自分の店を持った時だよ」

 ベルドロウが、好々爺然とした調子で笑った。

「では、やはりあの店に?」

「そのつもりだよ。受け入れてくれるかわからないが、一から始めようと思う。駄目だったら、また旅の空さ」

「もったいない、という気がしますな。いや、あの店に熱を上げることがそうなのではなく、アナスタシア殿は軍人として燃え尽きるべきだ、と思ってしまうのです」

「ベルドロウ殿にそう思ってもらえるだけで、充分だ。そして私は、燃え尽きることなど、きっとないのだと思う。一つ達すれば次、と際限がないからなあ。今回団長代理を引き受けて、私は最後にこんな戦に参戦できて、思い残すことはないと思っていた。だがどうだ。今はルチアナのような天稟の塊を、本気で育てたいと、そんなことを思ってしまう」

「あれはやはり、アナスタシア殿の目から見ても傑物ですか」

「ルチアナは青流団がノルマランに向かった時から、私の考えていることがわかっていたぞ。早く雨が降るといいですね、などと言ってきたのだ。パリシから脱出する際にも、あれの力を借りた。今回は困難な任務をあれに任せることになったが、共に轡を並べてみたかった、という思いは、今もある。思えばパリシから出た時に、ルチアナの背中を見ていて、こんな副官がいればいいなどと思ってしまったのだ。形だけは、そうなった。ともあれ、私は青流団の団長で居続けることはできないよ。ロサリオン殿が、きっといい鍛え方をするだろう。厳しい育て方をした方が、あれは伸びるな。それだけでも、大変なことだ。私も含めてほとんどの人間は、褒められた方がよく伸びる」

「惜しいですなあ。そこまで熱を上げられているのです」

「だからさ。終わりはないよ、きっと。ロサリオン殿の復帰に、少し胸を撫で下ろしている。あの方が指揮するのであれば、こんな優れた傭兵団を手放すことにも、あきらめがつく」

「ふうむ、わしとしましては、力ずくでもアナスタシア殿に指揮官でいてほしいところですぞ。それこそ、二人で轡を並べて頂きたい」

「やめておこう。これは、ロサリオン殿の隊だ。実戦をこなして、私はそれを痛い程に思い知ったよ」

 それからしばらく、他愛無いやりとりが続いた。わずか一ヶ月程だが、既に青流団に家族のような居心地の良さを感じている。別れは惜しいが、こんな形で出会ったのも宿運だろう。

 空が茜色に染まり始める頃、老ドワーフは宿舎へと帰っていった。

 一服して、椅子に座り直す。ベルドロウがまとめてくれた書類に手を伸ばしかけたところで、扉を叩く音があった。

 開けると、そこにはルチアナの妹、アニータが立っていた。ちょっと、思い詰めたような顔をしている。きちんと会うのは、パリシ解放時以来だった。

「なんだ」

「ええと、あのう・・・」

 アナスタシアは残った紅茶を飲み干すと、パイプを手に取り、外に出た。

「話したいことがあるんだろう。ついてこい」

 兵の集まっている場所を避け、城壁沿いを歩いた。西日を背に受け、二人の影が長い。

「少しは、立ち直ったか?」

 顔を上げたアニータは、この娘には珍しい、作り笑いを浮かべた。

 これまでアニータと特に親しく接してきたわけではないが、初めて青流団と接触したあの酒場に、指揮官たちに混じってその姿はあった。アナスタシアはルチアナを気にかけており、大抵はそのすぐ傍にいたアニータとも、そこそこ交流があったといえる。調練でルチアナを叩きのめした際、旗を任せたのは彼女だし、その後の立ち合いでルチアナを庇った姿も、よく覚えている。パリシ解放時、戦場で我を失いかけていた彼女に気づいたことからも、この娘とは少し縁が深いのかもしれない。

「その・・・大丈夫です。まだ気持ちに整理がついていない部分もありますけど」

「整理なんて、つけなくていいさ。人を殺したことの意味や重さは、その人間によって違う。私にできるのは、話を聞いてやることだけだな」

「私、姉さんについていこうって、それだけ決めて家を出てきたんで・・・」

「ルチアナが、好きなのか」

「もちろん。その、双子ですし。似てないですけど。でも、自慢の姉さんです」

 わざわざ自慢の、とつけ加えるところに、アニータの微妙な屈託を感じる。

「そのままついていくとしたら、次はアングルランドか」

「そのことなんですけど・・・」

 普段はもっとはきはきと喋る娘のはずだ。姉に関して、相当複雑なものがあるのだろう。

「このままついて行こうか、ちょっと迷ってて」

「何故だ? いやそもそも、なんでついていこうと思ったんだ?」

 ルチアナが十四歳で傭兵になった経緯は、以前少し聞いた。どうしようもないほど狷介で、あきれるほどの天才で、目を背けたくなる程の屈託を抱えている。普通に生きることなど、到底できなかったであろう。悪人ではないが、道を外れずには生きられない娘だ。

 一方のアニータは、正反対とは言わないまでも、姉とはかけ離れた存在である。

「姉さん、危なっかしいでしょう? 私、家を出ると聞いて、ついていかなくちゃって思ったんですよ。自分のことは何でもできる姉さんなんですけど、とにかく人とぶつかるんです」

「わかる。私と出会った時も、初めから敵意を持っていたようだしな」

 だが一度叩きのめすことで、ルチアナは何かを得た。その後の態度は素直とはいえなくとも、指示には忠実であった。むしろアナスタシアの考えを先回りしていた感すらある。

 しかし、何故彼女がアナスタシアに敵意を持っていたかは、いまだに謎である。

「昔からあんな調子でしたから。でも私、この前、初めて、人を・・・」

「殺した時に?」

「ええ、うん。殺めてしまった時に、なんなんだろうって思っちゃったんですよ。あれ、これが私のしたかったことなのかって」

「良心の呵責に苛まれたか?」

「いえ、なんかそれとも違う・・・なんだろう、殺されなくて良かったとか、やっつけてやったぞって思っちゃって。青流団に入った時は、人を殺すことになるかもしれないのが、すっごく怖くて、しばらくまともに眠ることもできなかったのに・・・私、おかしいですかね」

「ちょっと、話があちこちに飛んでいる気がするがな。それはともかく、どうだろう。その辺りの感覚は、人それぞれという気がする。人を殺めたことがきっかけで、やめてしまう兵も多く見てきた。大体は血に酔うことで、なんとかごまかしていくものだと思うのだが」

「ああ、団長はどうだったんです? その、初めて人を殺めた時」

 狭い練兵場を、一周してしまった。行く当てもなく、二人はもう一度城壁沿いを歩く。

「私の場合、はっきりしないんだよ。いつ最初に、人を殺したのかが」

「え。まさか正気を失ったとか?」

「違う。冷静だったぞ。ただ、少し乱戦気味になってな。騎馬の駆け合いから、最初の一人を、馬から突き落としたんだ。戟の穂先が肩口に入り、その兵は落馬した。傷は浅かったので、大した怪我ではなかったかもしれない。段々と実戦に慣れてきて、五、六人目はかなり深い傷を与えた。即死ではないものの、助かる見込みは少なかったと思う。七人目は、剣で首を斬り飛ばした。これは、確実に殺した。けれどこれが最初の一人だったのか、確信がないんだ。ひょっとしたら、最初の一人は打ち所が悪く、首の骨を折って死んだかもしれない。二、三、四人目もそうだ。五、六人目は仕留めたと思ったが、奇跡的に命を取り留めたかもしれない。結局、初めの六人の、誰が最初の死者だかわからないんだよ。初めて人を殺した戦場は昨日のことのように思い出せるが、私にとって最初の一人は、今になってもわからない」

「ああ、そういうこともあるんですねえ。それで、どう感じました?」

「特に、何も。これが、人を斬る感覚かと。父に、傭兵隊に入れてくれと言う前の晩が、一番怖かった気がする。人殺しになってもいいのか、と何度も自問したよ。入隊してからは、覚悟を決めた。確かに、人を殺めた日は、特別な日だった。しかし、それ以上の意味もなかった気がする。覚悟なら、ずっと昔に済ませていたからな」

「ええと、良心の呵責みたいなものは」

「人の善悪なんて、その時代の流れだろう。小賢しい子供だったんで、そんなことを考えていたよ。大義や正義を引っさげて人を殺せば、それで善良なままでいられるのか。そしてそれを誰かに肩代わりさせる人間は? 意味がないわけじゃない。善悪は大事だよ。それはきっと、何よりも尊い。しかしこの世界の人の営みを測るには、その物差しは、あまりにも小さいな。善悪だけで測れないものが、人の世には多過ぎる」

「ああ・・・なるほど、わかるような気がします」

 アニータが、足を止めた。眉根をひそめ、アナスタシアを見つめる。

「私、誰かの為って思い過ぎちゃったのかな。それで正しくいられるんだって。なんだろう、私、姉さんの為に手を汚したのに、これは一体なんだろうって。そんな私の勝手で死んじゃったこの人は、一体なんなんだろうって。どこで間違っちゃったのかな」

 間違ってはいない。この娘は、人の世の理をほんの少し、垣間見てしまっただけだ。

「本当は、私が頼ってたんですよね。卑怯なんです。この人を守るとか言いながら、私、姉さんの、あのルチアナの妹なんだって、彼女にも周りにも、認めてもらいたかったんですよ。姉さんがどれだけ凄い人でも、私のことも忘れないでね、私のことも見てって」

「卑怯かどうか、私にはわからないな。敬愛できる誰かに尽くすというのも、私にはまぶしい生き方に思える。だが、お前が自分でそう思ったのなら、きっとそうなんだろうさ。で、どうしたいんだ?」

「それが、その・・・わかんなくなっちゃって。私、どうしたらいいんでしょうねえ」

「考えろよ」

「考えますよ。もう、冷たいですねえ。何かいいアドバイスないかって、ちょっとは期待してたんですよ」

「聞いてほしいだけじゃないのか。そう思って、話の先を促したんだがな。まあいい。それに冷たくもなるぞ。お前がアングルランド軍になって私の住む町に襲いかかってきたら、私も守兵として剣を取らなくちゃいけないからな。お前は弱いから、安心しろ。綺麗に殺してやれる」

「ひどいなあ。ああ、でも、団長・・・アナスタシアさんのこと、ちょっとわかった気もします。そうかあ、どうしよう。私、そんなに強くなれませんよ。ここまで引きずられてきてしまいましたけど、姉さんに、必死になってしがみつくだけの人生でしたから。本当に、どうしたらいいんだろう」

 そう言ってアニータは笑ったが、今にも泣き出しそうである。どうすべきかわからない心情そのままに、足は止まったままだ。ここで見捨てると、そのまま大地に根を張ってしまいそうな雰囲気でもある。

「もうなんだっていいさ。投げ槍でも、その時思いついたことをやってみるといい。とにかく今は」

 アナスタシアはアニータの尻を、思い切り叩いた。

 悲鳴を上げたアニータが、二、三歩とたたらを踏む。

「一歩、踏み出してみろ。自分に足があったことを、思い出せるかもしれないぞ」

 振り返ったアニータは、はっとするような笑顔で頷いた。



 森を抜けると、ジャンヌが嬌声を上げた。

 まだ遠方だが、収穫の終わった小麦畑の向こうに、ドナルドの村、ブリーザがあった。山の麓の貧しい集落だが、木立を透かして小さな家々を確認できる。

 戦は、終わった。

 ドナルドたちは徴兵された兵たちをそれぞれの村に帰し、最後に自分たちの村へと帰ってきたところだった。

 シャルルとアネットも村を見て、疲れていた顔を輝かせた。シャルルの村はさらに奥、山の反対側だが、帰ってきたという感慨は似たようなものだろう。

 この後、ドナルドはジャンヌをアルク村に帰そうと思っているが、本人はしばらく村を見て回りたいと言っていた。なのでアルク村だけは最後の最後に取っておいた。ジャンヌはシャルルとアネットに、すっかり懐いている。別れを惜しむ気持ちはドナルドも同じで、ジャンヌには二、三日村に滞在してもらうのもいいかと思っていた。

 今回の戦、彼女の力がなかったら、半数近くが命を落としていても不思議ではない、激戦だった。ドナルドは、命を救ってもらったと思っている。村を上げてもてなしたいという気持ちは強い。

 しかし、気にかかることはあった。ジャンヌの故郷、アルク村には何度か手紙を書いた。戦地ではまともに返信を受け取れないことが予想できた為、手紙には帰りに立ち寄る予定の町、そこでの連絡先についても記した。が、ここに至るまでジャンヌの両親とは接触できなかった。出した手紙が届いていないか、ジャンヌの両親に迎えにこられない事情があったかの、どちらかであろう。

 そんなことを考えての帰郷だったが、疑問はすぐに解けた。畑で作業をしていた村の者によると、数日前からヴィヴィアンヌという女性が村に滞在しているというのだ。ジャンヌの母である。

 聞いて、ジャンヌは途端に、外で遊んでいる町の子供が、晩課の鐘(午後六時)を聞いた時のような、寂しそうな顔をした。その表情に胸を痛めながら、ドナルドは同時にほっとしていた。無事、親元に帰せるのだ。娘を連れ回す、よりにもよってそれが戦地となってしまったことへの叱責は、いくらでも受けるつもりでいた。騎士として許されざる失態だが、ジャンヌを無事に帰せたことは、何にも増して幸運なことでもあった。

 他にもドナルドたちに気づいた者はいて、畑や農場から、次々と村人たちが集まってきた。既に村の方でも、十人程が出迎えの準備をしている。残った兵を近隣の農場へ帰し、ドナルドたちは村に向かった。シャルルと彼が連れている数人の兵たちとも、ここで別れる。山一つ越えるだけの隣村なので、明日にでもこちらから出向く予定だった。既にシャルルとも話したが、戦死した兵の家族について、その死を詫び、今後のことについて話し合わなければならない。死の間際に、一人の男から思いを託されたのだ。

「ジャンヌ、まずは母上にこってり絞られろよ」

 シャルルが、別れ際に言う。ジャンヌはおどけた様子で手を振った。

 村の柵の前、集まった村人たちに帰還を告げる。集まった中には、ジャコもいた。ドナルドより一つ年下だが、年齢より大分老けて見えるやせぎすの男だ。

「みんな、無事でよかった。その子が、噂のジャンヌちゃんかい」

「なんだ、噂になってるのか? ジャンヌ、紹介しよう。彼はこの村の村長をやってもらっている、ジャコだ」

「ジャンヌです。よろしくお願いします!」

 元気一杯にジャンヌがお辞儀をし、差し出された手を握る。

「君の母さんが、村に来てるんだ。帰ってきたと知って、喜ぶだろう。早速知らせてくるよ」

 腰を庇うような格好で、ジャコが酒場に向かった。彼を見ていると、ドナルドは自分の老化が心配になる。

「叔父上、私は先に家に戻り、馬を繋いで来ます」

 アネットが言い、轡を取って家の方へと向かった。

 しばらく村の者たちと談笑していると、酒場の方からその主、ギュスターヴがやってくる。ドナルドの幼馴染みで、同い年でもある。禿頭に口髭、筋骨隆々という言葉がぴったりの身体つきをしているが、足を引きずっている。かつての戦で追った傷だ。この男は長く、徴兵された兵のまとめ役だった。もう駆けることはできないので、今は徴兵の対象とはなっていない。ただ、腕っ節は今も、ドナルドよりも強いはずだ。

「おう、君がジャンヌちゃんか。すぐにわかった。お母さん、カンカンに怒ってるぞ」

「え、ええっ!?」

「ハッハッハ。冗談だ。すぐに来るよ」

 ギュスターヴが古びた酒場を指差す。この村唯一の酒場で、二階が宿になっていた。ジャンヌは落ち着かない様子で、そちらをじっと見つめている。

 扉を開けてやってきた女性を見て、ドナルドは少し驚いた。若い。そしてジャンヌによく似ている。直接尋ねることはできないので推測だが、歳は三十前後だったと思う。なので若いのは当然だが、いくらか童顔なのだろう。ジャンヌと並ぶと、姉妹の様に見えそうだ。

 駆け出してその胸に飛び込むかと思いきや、ジャンヌはどこかばつの悪そうな顔をしていた。よく考えれば家出同然の出奔だったと思われ、感動の再会というわけでもなさそうだ。

「お初にお目にかかります。この村を治めている、騎士ドナルドです。まずはレディ、ご息女をすぐにお返しできなかったこと、その不備をお詫び申し上げます」

 ドナルドが片膝をついて言うと、ヴィヴィアンヌはスカートの裾を軽く上げて返礼した後、ドナルドの手を取って言った。

「こちらこそ、うちのじゃじゃ馬を預かって頂き、感謝の言葉もございません。素敵な騎士殿、どうか面を上げて下さいな」

 その目が、悪戯っぽく輝いている。あらためて、よく似ていると思った。髪はジャンヌと違い艶やかな焦げ茶色で、目と口もジャンヌほど大きいわけではないが、形は似ている。ジャンヌが成長すればこんな女性になるのだろう、そう思わせるに充分だった。

「ふふ、堅苦しいのは、ちょっと苦手なんです。でも本当に、うちの娘が迷惑じゃありませんでした?」

「迷惑だなんて、とんでもない。命を救ってもらいました。私だけでなく、大勢の命です」

 ドナルドの背中に隠れていたジャンヌが、つぶやくように言った。

「・・・ただいま、でいいのかな。でもここ、私の村じゃないし」

「おかえりなさい」

「うわ、やめて。は、恥ずかしい・・・!」

 娘を力一杯抱き締めているヴィヴィアンヌを見て、ようやくドナルドは肩の荷を下ろせた気がした。

「旅の疲れもありましょう。しばらくはこの村でお世話させて下さい。何かありましたら、私はあの家にいます。いつでもご用命を」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

 ヴィヴィアンヌは娘の手を取り、酒場の方へ向かった。ジャンヌが名残惜しそうに、こちらを何度も振り返っていた。

 家に戻ると、厩でアネットが馬の世話をしているところだった。

「どうでした?」

「母君には、許して頂いたよ。内心はわからないが、穏やかな様子だった。きっと、強い女性なのだろう」

 言っていて、ドナルドは笑ってしまった。アネットも同様だ。

「そもそも、かつての大陸五強の一角なのだったな、あの人は。いや、その意味ではとてもそうとは思えない。よし、後は私がやるよ。具足を脱いで、楽にしていてくれ」

「では先に戻って、お茶でも淹れておきますね。あの町で買った、例のヤツです」

「楽しみにしていたな。ヴィヴィアンヌ殿は宿にいる。落ち着いたら、顔を出すといいだろう」

「ええ。かなり恐縮ですが、またとない機会です。楽しみにしています」

 微笑むアネットからブラシを受け取り、ドナルドは愛馬の汗を拭った。お前も無事に帰ってこれて良かったな。そう語りかける。

 馬の世話を終え、具足を脱ぐ。楽な格好に着替えたところで、ようやく家に帰ってきたという実感が沸いてきた。

 ドナルドの家は平屋で、町の建物に比べると随分小さい。居間、食堂、厨房は大きな部屋がその全てを兼ねており、奥には細い廊下に沿って四つ、小さな部屋があるだけだ。

 かつて妻と娘がいた頃にはやや手狭に感じていたこの家も、姪との二人暮らしでは広いとすら感じる。そのアネットも一年の半分は砦の警護等で家を空けており、やはり独り身には広過ぎると感じてしまうのだった。ドナルドの両親は、若い時に他界している。

 アネットが薪ストーブの上のやかんを取り上げ、ポットに湯を注ぐ。二人は言葉少なく、紅茶を楽しんだ。村に帰ってきたらきたでやることは山積みなのだが、今日一日はゆっくり過ごそうと思った。旅の疲れもあるが、ドナルドが忙しくしていると、この姪はそれ以上に働こうとしてしまうのだ。

 やはり、アネットを自分などの家士にしておくのはもったいない。家士を何人も召し抱えられるだけの大騎士に仕えてくれれば良いのだが。もっとも、次の戦で自分が死んでしまえば、全て丸く収まる。ドナルドの領地を引き継ぎ、アネットは晴れて騎士になることができる。いや、やはり大騎士に仕えた方が得か。家士に馬一頭も用意できない騎士の土地を継いでも、嬉しくはないのかもしれない。

「おや、誰か来ましたね」

 アネットの声で、扉が叩かれていることに気づく。やってきたのはヴィヴィアンヌで、アネットが宣言通り恐縮した様子で挨拶を交わしていた。武術に優れた者は戦わずして相手の実力がわかるという話だが、珍しく緊張した様子の姪を見て、ドナルドは少し微笑ましく思った。ジャンヌと拳を交えずにその実力を認めたアネットには、ヴィヴィアンヌはどのように映っているのだろう。

「叔父上、お話があるそうです」

「どうぞお上がり下さい。ここでは、あまりおもてなしらしいことはできませんが」

「いえ、差し支えなければ、少し二人でお散歩でも」

 ジャンヌのことで、聞かれたくない話があるのだろうか。とりあえず、誘われるままに外に出た。

「いい村です」

「これはこれは。何もない村でのご滞在は、さぞ退屈だったろうと申し訳なく思っていたのですが」

「豊かですよ。収穫云々とはまた別に、満ち足りた村です」

 井戸の横で、ジャンヌが幼い子供たちを集めて何か話していた。道中一番の年下だったので、どこかお姉さんぶっているジャンヌを見るのは、新鮮である。

「私もかつては旅暮らしでしたから、色んな村を見てきました」

「では、あなたはやはり」

「娘から聞きましたか。"反射の"ヴィヴィアンヌ。そんな通り名もありましたね」

 ジャンヌを疑っていたわけではないが、実際に本人の口から聞くと、やはり圧倒される。吟遊詩人の物語の主人公と、今こうしてのんびりと散歩している。どこか地に足が着かないような、不思議な感覚である。

「この村に滞在して、見えてくるものがありました。お話も窺って、ここなら大丈夫だと思ってもいます」

「何がです」

「あの子は、ここに残りたいと言っています」

「なんと」

 それとなく、ジャンヌとはすぐに別れないような気もしていた。しかし一体、何故そう思ってしまっていたのか。しかしあらためてジャンヌがここに残りたいという話は、ドナルドを狼狽させた。

「それは、一体何故です?」

「さあ。多くは、語りませんでした。けれど、やっと見つけたと」

「見つけた」

「何を、見つけたのでしょうね。ふふ、サー・ドナルドにはわかりませんか」

 瞳をきらきらとさせて言うヴィウセィアンヌは、さらにドナルドをうろたえさせる。

「何でしょう。ちょっと、わかりませんな」

「私には、わかる気もします。そういえばあの子、ドナルドさんの家士になりたいとも言っていましたよ。まずは、従者からですかね」

「そんな、幼過ぎます」

「あら、従者はそれこそ、小さな子供の頃から修行が始まるものでしょう? あの子は十一歳になります。早過ぎるということはないでしょう」

「家士までと考えると、いずれ戦場に連れて行くことになります」

「もう、戦場は経験しています」

「まあ、それもそうですが」

「私があのくらいの年頃には、師であった剣聖を除いて、私より強い人間はいないと思っていました。実際その通りで、あの武闘会まで、私は負けというものを知らなかったんですよ」

 ヴィヴィアンヌは片目を閉じ、ぐぐっと力こぶを作る真似をした。

「どんな戦場でも、あの子が不覚を取ることはないでしょう。成長すれば、なおのことです」

「しかし」

「まだ、子供だからですか? でしたらどうか、あの子を立派な大人にしてあげて下さい。勝手な話だとは、百も承知です。人の子一人、それも他人の子を預かる重さもわかっているつもりです。それでも、どうか」

 深く、ヴィヴィアンヌは頭を下げる。ドナルドはしばし、黙考した。簡単に、はいと言える話ではない。そのことは、彼女自身もわかっている。そしてその上での頼みなのである。やがてヴィヴィアンヌは顔を上げ、ドナルドの家の傍の岩を見つめた。

「あの子の強さは、少しわかりづらいかもしれませんね。私たちの武術は、もうひとつ周りに伝わりづらいものですから。ええと、あの岩」

 巨岩を指差す。数年前の雨の夜、山から転がり落ちてきた岩だ。高さは3mを超え、馬を使っても動かせず、仕方なく放置している。山に続く道を塞いでしまっており、仕方なく迂回する道まで作った。

「村の人に聞いたら、あれは壊していいものなんですよね? 何かこう、この村に言い伝えがあるようなものではなく」

「ええ。恥ずかしながら、動かすこともできず。今、壊すと仰いましたか」

 巨岩の近くまで来た。ヴィヴィアンヌはそっと、岩に掌を添える。

「ええ。数日前、これが邪魔だと聞いて、壊そうかと思ったんです。でも一応領主様に確認と、あとひょっとしたらこんな話になったらと思って、取っておきました」

 ヴィヴィアンヌはちろりと桃色の舌を出した。こうしておどけた顔も、娘にそっくりだ。

「東洋で、合気と呼ばれる武術と似ています。信じられないかもしれませんが、あの子は、強い。そう、この程度の岩なら」

 わずかに、掌に力が籠った。思う間もなく、巨岩は砕け散っていた。

「こ、これは・・・何か、魔法の力なのでしょうか」

「いいえ。原理は、体術と同じです。今のあの子なら」

 そう言って、人の頭ほどの岩の一つに触れる。

「これを、拳くらいの大きさにできるでしょうね。もう、私たち夫婦が教えられることはなくなりました。こういった技なら、既に私より上です。剣は、これからさらに伸びるでしょう。ああ見えて、あの子は大陸五強と剣聖の娘ですよ。素質は、保証します」

 岩が崩れる音が聞こえたのか、村人が何人か、こちらを見ている。

「・・・初めてなんです。あの子がはっきりと、自分から何かをしたいと言ったのは」

 思い詰めた顔で、ヴィヴィアンヌはこちらを振り返った。

「もう教えることがなくなってから、あの子は笑わなくなってしまった。いえ、いつもにこにこしていたけれど、心の底から笑うようなことは決して。極めてしまったのですね。実戦か、あるいは全く新しい世界か、それとも身を焦がすほどの夢か。それらを得ないことには越えられない壁の前まで、あの子は来てしまった。あまりにも早く辿り着いてしまって、私も夫も戸惑ったものです。何の為に身につけた力かもわからず、そしてその力のあまりの大きさに、あの子も途方に暮れたのでしょう。それから笑えなくなったあの子がつい先程、満面の笑みで言ったのです。あなたについていきたいと」

 何なのだ。これは何かの冗談だろうか。何故こんなうだつの上がらない田舎騎士と共にいたいと思ったのか。ドナルド自身には見当もつかない。ただ、何か途方もないものに直面している。そのことだけはわかった。

 ヴィヴィアンヌは再び頭を下げた。

「私は、あの子があなたに見たものを、信じます。どうか、あの子の面倒を見てやって下さい」

 なんと返すか迷っていたドナルドの耳に、ジャンヌが駆けてくる音が聞こえた。もう、足音だけでそんなことがわかるようになっている。

 伝説と呼ばれた人間が、自分に頭を下げている。その意味は決して軽くはない。いや、親が子を他人に託す。それこそが、とてつもなく重い。肚を決める時があるとすれば、今なのだろう。

「わかりました。ではしばらくご息女は、このドナルドが責任を持ってお預かりします」

「おじさん!」

 ジャンヌが、二人の間に立つ。ヴィヴィアンヌの顔を見て理解したのか、ジャンヌは力強く頷いた。

「おじさん、私、この村に残ります。私を、おじさんの従者にして下さい」

 それでもなお目の前にあるものはあまりに大きく、思わず天を仰ぎたくなる。しかしドナルドはしっかりと、ジャンヌの大きな瞳を見つめて言った。

「私の下にいても、一生家士止まりかもしれない。君には、無限の可能性がある。それを潰すようなことがあっても、本当にいいのか」

「潰れませんよ。私ならおじさんの可能性だって、大きくしてみせるんですから」

 立ち合いに似た気に、ドナルドは圧倒されかけた。しかし今この時だけは、逃げるわけにはいかない。

 人は自分を信頼している人間から、決して逃げてはいけないのだ。

「わかった。しかし今の私では、やはり君の期待には応えられない。それでもなおジャンヌ、君を受け入れよう。私も私自身に残された、わずかな可能性に賭けてみることにする。君の期待に応えられるよう、誠心誠意尽くすと誓おう」

 ジャンヌが、口を思い切りへの字に曲げた。一瞬怒ったのかと思ったが、唇の端が震えている。目をいっぱいに広げ、あふれる涙が零れないようにしていた。

「良かった。本当に、良かった」

 ヴィヴィアンヌが言う。やはり何か途方もないものを背負ったと思ったが、不思議とそれを重たいとは感じなかった。

「今晩にでも、歓迎の宴を開こう。ジャンヌ、君はもうこの村の一員だ。従者の仕事は、明日からにしよう。日が暮れるまで、母君にこれまでのことを話しておきなさい」

「はい! おじさん、ありがとう!」

 二人が酒場へ向かうのを横目に、ドナルドは家に向かった。戸口のところに、アネットが立っている。

「こんなことになるだろうと、思っていました」

「見ていたのか。ジャンヌを、従者として迎え入れることになってしまったよ」

「従者というのは、ちょっと意外でした。でも、みんなにはわかっていたことだと思いますよ」

「みんな?」

「シャルルが、ジャンヌに別れの言葉を言いましたか。明日にでも会おう、そんな調子だったでしょう」

「言われてみれば、そうだ。しかし何故」

「それがわからないのが、叔父上だなあという気がします。まあ、だからこその叔父上なのでしょうが」

「何か以前にも、ジャンヌに似たようなことを言われた気がする」

「ともあれ、早く歓迎の準備をしましょう。幸い、この村の犠牲は出ませんでした。みんな心おきなくあの子を歓迎してくれるでしょう」

「それにしても、わからないな。どうしてジャンヌは、私の従者になどになりたいと思ったのだろう。お前にも苦労ばかりかけている、貧乏騎士だぞ」

「わかりませんか」

「わからないな」

「それは、さすがに失点ですよ。でもいいです。けどみんな、こう思っていたはずですよ。ジャンヌが叔父上から離れることは、まずないだろうって」

「そうなのか」

「そうなんです」

 そう言ってアネットは、おどけた顔で肩をすくめてみせた。




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