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第7話「気をつけろ。奴は、何かの冗談みたいに強いぞ」-3

3,「一度くらいは、こんなとぼけた大将に指揮されるのも、悪くないと思いました」


 村の酒場は、広い。

 街のそれと、比べてである。こうした小さな村落では、酒場は集会所を兼ねる。加えて、行商人が運んできた品々も、ここに置かれる。なので客そのものがあまり来なくても、広くある必要があるのだった。

 ロサリオンは隅の席で、早めの昼食を取っていた。食事を取りに来た客は自分しかいないので、おかみが自分の為だけに作ってくれた料理である。ここに来てから日々痩せていくロサリオンを心配してか、適当に何か作ってくれと言うと、大抵多めの肉料理が出てくる。

 大分痴呆が進んでしまった妻の世話をするのは、体力勝負である。武術で培ってきたものとは、まるで違う体力を消耗した。

 身体は、時折動かしている。腕が落ちているかどうかは、長い間実戦から遠ざかっているのでわからない。新世界秩序崩壊後、人を斬ってはいないのだ。

 護身術ということで、村の者たちに武術を教えたりもしていた。しかしそれは素人が暴漢に襲われた時を想定しての技術で、武を修めた者や、怪物相手の戦い方ではない。が、今でも大陸五強に数えられるロサリオンに教われるということで、村の者たちは喜んでいた。時折訪れる吟遊詩人の語る物語、その主人公の一人が今ここにいるのだ。

 稀に外から、ロサリオンに剣を学びにくる者もいる。しかしそれらは、全て断っていた。武術を教えるのはあくまで、エルフの自分を受け入れてもらい、自分たち夫婦に親切にしてくれる村人たちへの、御礼だった。

 品の入った袋や木箱を並べ終えた行商が、外にいる者たちを呼んでいる。大半は、村民がここの酒場を通じて商会に注文していたものだ。

 決まった販路で商いをする商会の行商は大抵、村の酒場に商品の目録を置いていく。それを見た村人たちは注文書を書き、あるいは代筆してもらい、まとめた注文票を、次にやってきた同じ商会の行商に渡す。その行商は、前回の注文票にあった品を持って来ているわけだが、新たに受け取った注文票を、商会に届ける。そしてまた次の行商がその品を持って来て、次の注文票を受け取る。

 いわゆる、通信販売と呼ばれるものだった。

 このやり方なら物流は一人の商人に託すよりも遥かに早く、運ぶ方も無駄がない。加えて商会が売りたい新商品も多く荷馬車に積める。

 以前までは旅暮らしだったロサリオンには実感できなかったが、今はその便利さに頼っていた。目録表にある品であれば、町まで馬を飛ばす必要もない。特に今のロサリオンは、長く家を空けられない身である。

 酒場に入ってきた村人たち相手に、行商が代金を受け取ったり、新しい品を紹介したりしている。ロサリオンも頼んでいたものがあるので、代金を支払った。いずれも、日用品である。注文とは別の品も見てみたが、特に必要なものはなかった。並んだ木箱には、ユイル商会の焼き印がある。確かパリシの商会で、主はハンザ同盟の有力者であったと思う。アングルランドのこんな辺鄙な村にまで、その勢力は及んでいるらしい。商会の、物流の力は、たやすく国境を越える。この商会も、ユイル商会に吸収されたか、提携関係にあるのだろう。

 大分人が集まって来たので、おかみに食事代を払い、酒場を出ることにした。

「あら、いいのかい? もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「娘さんたちにも迷惑をかけている。そろそろ帰るよ。いつも、ありがとう」

 このおかみの娘や他の村娘数人は週に一度、ジネットの面倒を見てくれている。四六時中妻の介護ばかりしていては、気が塞ぐこともあるだろうと、善意でやってくれていることだった。ありがたい。いくら礼をしても足りないくらいだ。

 ロサリオンの家は、村から少し離れた所にある。その家も、長く打ち捨てられていた炭焼き小屋を、村人たちが共同で住みやすくしてくれたものだ。増設し、今は立派な家になっている。

 青流団の長を辞め、ジネットと二人で旅するようになってからは、感謝されることには慣れていた。ほとんど無償で行く先々の村の人たちの傷や病を癒し、厄介事を解決してきた。傭兵時代と違い、時折稼げる仕事にありつけることはあっても、概ね質素な暮らしだったといえる。

 妻の容態には心を蝕まれる思いだが、感謝されるよりすることの多い今の生活は、ひょっとしたら幸せなのかもしれないと、ロサリオンは思った。ジネットが、もう少し元気でいてくれたら。また二人で、誰もいない原野を歩けたら。欲を出せばきりがないが、まだ妻は傍にいて、村人は皆、二人に良くしてくれている。これはきっと、幸せなことなのだろう。

 ジネットはもう、八十八歳である。人間として、かなりの長寿に恵まれた。エルフの自分と老いが重ならないのは、愛した時から覚悟していたことだ。

 家に向かう途中、二人の村娘と会った。二人とも、ジネットの世話をしてくれている娘たちだ。ただ、ロサリオンが帰る前にここで出会うことは、今までになかった。

「いつもありがとう。おや? 今日は、二人とも・・・」

「今日のジネットさん、すごく体調がいいんです。久しぶりに立って、家の中を歩かれて・・・」

 胸が、ざわついた。ここ一ヶ月のジネットは、かなり容態が悪かった。もう、ロサリオンのことが誰かもわからないのだ。

「他には?」

「天気がいいから、裏手の東屋に行きたいって。もうロサリオンさんが帰ってくるから、私たちは帰っていいって・・・」

 最後まで聞かず、ロサリオンは駆けだした。

「ジネット!」

 扉を開け放ち、叫んだ。寝台に、妻の姿はない。聞いた通り、裏の東屋か。

 家にはポーチに隣接する形で、東屋を建ててある。湧き水の、小さな池があり、それを眺めたい時もあるからと、ここに来た時に建てたものだ。日陰だが、暑い季節にはそこで二人で涼を取った。池の水で冷やした果物が、また格別に美味かったのだ。そんな思い出が、頭の中を駆け巡る。

 裏に回ると、そこにジネットの姿があった。肩に、厚手のケープがかけてある。娘たちが、かけてくれたのか。ジネットは、東屋の長椅子に腰掛けて、卓を見つめていた。

「ジネット。少し、心配したよ。君が・・・」

 ふと、ジネットが見つめているものに気がついた。一枚の紙。そこには、こう書かれていた。

「ありがとう。あなたのおかげで、私の人生はただただ幸せだった。これからは、あなたの人生を生きて」

 いきなり、視界がぼやけた。文面の意味が頭に入るより早く、身体が状況を理解していた。

 ロサリオンは妻の傍に座り、その身体を抱き締めた。もう、何も見ていない目を閉じさせる。まだ、その身体は温かい。

「ありがとう。僕は君に出会えて、幸運だった。君と同じくらい、僕も幸せだった。いや、今も幸せだ。これからも、ずっと・・・」

 幸せだ。そう、言い続けた。

 そしていくら幸せだと言い続けても、涙は止まらなかった。


 再びマグゼの案内で入った酒場は、どこか物々しかった。

 昨晩と違い、人は少ない。おまけにどの人間も、恐ろしく腕が立つ。いずれもアナスタシアに向けたものではないが、殺気立っていた。

 アナスタシアが入ると同時に、ゲクランが垂れ幕を上げて個室から出てきた。その腰には、剣が差してある。

「軽口のひとつや二つ叩きたいところだけど、時間がないの。ごめんなさいね。返事だけでも、聞かせてくれる?」

「やりましょう」

 店内がざわつく。全ての視線が、アナスタシアに注がれていた。

「本当に? こんな状況じゃ警戒されるかもと思ったけど、断ったところで、あなたには手を出さないと約束する。我が父、ベルトランの名にかけて」

「考えました。しかしいくら考えても、断る理由など大したものではありませんでした。お二人の・・・」

 個室からは、アンリも出てきた。こうして平民の服を着ていると、ただの徒弟の小僧だった。ただ、目の光だけが違う。

「誠意を足蹴にするだけのものは、何も。面倒だな、厄介だなと、そんなくだらない理由しかありませんでしたな」

 聞いて、ゲクランは大口を開けて笑った。ひとしきり笑った後、目尻の涙を拭う。

「感謝するわ、アナスタシア。それでこそ、私の友人よ」

「僕からも、感謝する。アナスタシア、よろしく頼む」

 差し出された手は、ほっそりとして頼りない。アナスタシアがその手を握ると、包み込んでしまうようだった。

「時間がないけど・・・せっかくよ。一杯だけ乾杯しましょう。マスター、一番いいワインを出して。ほら、急いで急いで」

 ゲクランが急かし、酒場の主人は慌てて地下へ向かった。二階から入れ替わるように、ベルドロウが軋む階段を下りて来た。

「アナスタシア殿が来たようだと顔を出してみましたが・・・ふむ、この様子では」

「受けることにしましたよ。なに、アッシェンの臣になるわけではない。一人の傭兵として、一度くらいは、最強の傭兵隊とやらを指揮してみたくなったのです」

 差し出された、節くれ立った老ドワーフの手を、しっかりと握った。昨晩とまったく同じ行為だが、意味合いはまるで違う。

 主人が、ワインを抱えて戻って来た。ゲクランが豪快に指で栓を抜き、それぞれの杯に注ぐ。

「アナスタシア。私たちはあなたを歓迎するわ。乾杯!」

 一息で飲み干す。いい葡萄酒だった。あるいは、今のこの空気がそう思わせるのか。

「時間がないと、言っていましたが」

 アナスタシアの問いに、マグゼが答えた。

「アングルランドの連中が、ここをかぎつけた気配がある。そして増援を呼んだ。一刻も早く、陛下とゲクラン様には、ここを出てもらわなくちゃいけない」

 なるほど、ここに入った時の妙に緊迫した空気の理由は、これだったか。

「夜更けまでぐずぐずせず、早く返事をすればよかったかな」

「いや、どうせ深夜までは動けなかった。こちらの準備もある。そういえば、アングルランド、いや宰相ライナスの忍び、"囀る者"は知ってるか?」

「初めて聞いた。忍びがいることは知っている。一人、心当たりもある。アングルランドに向かう旅の途上、宰相の娘のマイラという娘と知り合ったが」

「へ、へえぇ・・・」

 口をぽかんと開けたマグゼだが、肩をすくめて話を続けた。

「顔が広いな。マイラは、囀る者の頭領だ。奴と会ったなら、その強さに驚いただろう?」

「いや、まるで実力が読めなかった。そのことには、驚かされたな」

「気をつけろ。奴は、何かの冗談みたいに強いぞ。大陸五強のあんたより、強いかもしれない。ウチらの世界じゃ、"打骨鬼"って呼ばれてる。その拳で打たれた者は、必ず死ぬってな。もしも敵として出会っちまったら、覚悟しな」

「そうするよ」

 マグゼの手下たちが、次々と報告にやって来た。話を聞き、ハーフリングの忍びは、その度に頷いた。

「手筈通り行く。第一班は陛下の護衛、第二班はゲクラン様に。残った者は、今振り分ける。一班、二班、行け」

 酒場にいた数人が、外にいる者たちと話している。二階から、十人程が下りて来た。実際は、今見えているよりさらに多くの人間が動いているのだろう。

「しばしのお別れね。じゃ、また後ほど」

「アナスタシア殿、どうかご無事で」

 ゲクラン、アンリが酒場を出て行く。二人が出て行った後も、マグゼは報告を聞いては、矢継ぎ早に指示を出していた。ベルドロウはカウンターの丸椅子に腰掛け、優雅にパイプをくゆらせている。

「私たちは、どうするのでしょうね。てっきり、二人のどちらかに、付いていくのだと」

「わしに関しては、実はさほど問題ないのです。他にも青流団の者を十人程、連れて来ております」

 ベルドロウが、天井を指差す。二階にいるのだろう。

「暗闘に、長けた者たちですか?」

「そういうわけでもござらんが、青流団として動いていれば、アングルランドの連中に、そうちょっかいは受けんのですよ」

 老ドワーフの話によれば、青流団がアッシェン側に付いて戦うのは、あと一度きりという契約らしい。次の戦が終われば、青流団は自由となる。水面下では、アングルランドが幾度となく次の契約を迫っているとのことだ。要は、パリシ攻防戦が終わった後、青流団はアングルランドに付くという可能性も、あるわけである。

「わし個人として動いていれば、手を出してくることもあるかもしれません。が、青流団副団長のわし相手では、手を出しづらいことでしょう。襲ったのがアングルランドということになれば、残った団員はアングルランドとの契約を肯んじないでしょうからな」

「なるほど。私はどうなんでしょうか」

「この場で正式に団員となってくれれば、身の安全は保証できそうですぞ?」

 片目を閉じて、ベルドロウは笑った。アナスタシアは肩をすくめる。

「まだ、完全にどこかに付こうという気は起きないのです。あくまで、一度きり。その後は、また自由な暮らしに戻ります」

「ホッホッホ。相変わらず、苦労しそうですな。そんなわけで、わしらについては心配なく。密談ゆえ、入る時はマグゼ殿の力を借りて潜入しましたが、出る時は堂々と出てやろうかと思っています。わしらが命の危険を感じるのは、戦場だけとなりましょう」

「戦場では、容赦なく?」

「そこも、ご心配なく。アングルランドの連中を殺せば殺す程、彼らもわしらを高く買ってくれましょう。その意味でも、アナスタシア殿には期待しておりますぞ」

 歯を剥き出して笑うその顔は、やはり歴戦の傭兵団を率いてきた貫禄に満ちている。当たり前だが、ただの好々爺ではない。

「まあ、この戦の後は、わしらも自由の身です。ごく短い契約で、辺境伯領か、グランツ帝国に行くのも良いでしょう。団長が帰ってくるまでは、大所帯の放浪を続けます」

「ロサリオン殿を、待っているのでしたね」

「団長の奥方の、病は篤いと聞いております。そう遠くない未来に、わしらの進路も決まりましょう。今後は、あくまで団長に従う。団長がどの戦場を望むかはわかりませんので、選択肢だけは広く取っておこうと思っています。アッシェンに残るもよし、アングルランドにつくもよし、と」

「アナスタシア、あんただけど」

 マグゼが、隣りにやってきて言った。

「一度、宿に戻ってもらえるか。明朝、何事もなかったかのように、パリシを出てくれ」

「わかった」

「念のため、腕が立つ奴を四人つける。陛下とゲクラン様に狙いをつけるだろうし、多分あんたに手が回ることはないだろうが、万が一だ。もし何かあったら、すぐに街を出てくれ。その時の合流場所は、ここだ」

 マグゼが、広げた地図の一点を指す。

 アナスタシアは、酒場を出た。

 遠くで、悲鳴のような声が聞こえた気がした。


 街は、静まり返っている。

 月が雲に隠れ、大通りに出ても、それがだだっ広い闇への入り口にしか思えない程だった。

 アナスタシアの宿は、入り組んだ路地にある小さな旅籠である。朝食は出すが、昼食以降は食堂を閉めてしまっている。老夫婦が営んでいるのだが、この時間だともう寝てしまっていることだろう。

 老夫婦と他の客を起こさないよう、アナスタシアは慎重に入り口の扉を開けた。

 何か、おかしな感じがした。

「どう思う?」

 傍にいる、マグゼの手下の一人に声を掛ける。壮年で、短く刈り込んだ黒髭が、顔の下半分を覆っていた。ついてきた四人の中で、この男が一番腕が立つ。

「何かあったと思って、間違いないかと」

 男が指示し、物陰にいた他の三人が散った。職人や行商といった、平民の服を着ているが、一度暗がりに入ってしまうと、途端に姿が見えなくなる。

 ここに来る時も、四人は固まらず、一定の距離を置いていた。消えたと思ったら路地の向こうから現れ、すれ違い、それでいてこの宿の前では、四人は集結しているのだった。これが、忍びの技か。

 一階には、誰もいない。男は足音もなく階段を駆け上がり、安全を確認すると、アナスタシアを手招きした。明かりは灯されていないので、ほとんど暗闇である。目が闇に慣れるのを待って、アナスタシアも階段を上った。さすがに自分では、足音を立てずにというわけにはいかない。

「誰もいません」

 忍びの男は、既に部屋を見て回ったらしい。

「消されたか」

「連れて行ったのでしょう。消えたことには変わりませんが」

「無事でいてくれればいいが」

「忍びは、無駄な殺しはやらないものです。しかし、ここは危険です。すぐに出た方がいいでしょう」

 アナスタシアは、部屋に戻った。荷物は、すぐに出発できるようまとめてある。受け取ってくれるかわからないが、宿代は寝台に置いておいた。

 厩に向かう。馬は、無事なようだった。鞍を載せ、轡を掴む。大通りに出たら、すぐに乗れる形にしておいた。

 門の所で、たった今まで話をしていた、忍びの男が座り込んでいた。壁に背を預け、足を投げ出している。確認するまでもなく、絶命していることだろう。敵は、恐ろしく仕事が速い。他の三人も、無事ではないとみた。

 通りに出た。逃げ切れるか。大通りに出る前に、馬に乗るべきかもしれない。

 路地の、陰。そこから影そのものが浮かび上がるように、黒革の服に身を包んだ女が、そろりと姿を現した。雲の隙間からわずかに洩れ出た光が、束の間、女の顔を照らす。

 マイラ。大陸鉄道で話した時と、同じ顔である。しかし、別人のようでもあった。あの時と違い、ここにいるという存在感がしっかりある。仮面を脱いだ、いわば本物のマイラが、これか。

「アッシェンに、付かれますか」

「耳が早いな。手も、早そうだ」

「残念です。とても」

「私も、残念だよ。誰かの味方になれば、誰かの敵になる。面倒なことだと思わないか」

「同感です。私の、敵になってしまった」

 マイラが、ゆっくりと構えた。アナスタシアも、剣の柄に手を伸ばす。

「なんだ、抜かないのか」

 マイラの両脚に差してある、小剣を指して言う。

「はい。最初から、全力で仕留めなくてはならない相手だと心得ておりますので」

 半身の構えは、体術に近い。いや、拳闘か。少し引いた、右の拳。どんな名剣よりも、斬れ味は鋭そうだ。

 じりり、と間合いを詰めていく。マイラの身体が、強い気を発し始める。心臓を、直接鷲掴みにされるような気だった。押し返す。あと三歩の距離で、互いの足が止まった。

 そのまま、膠着する。こちらの様子を窺っていた野良猫たちが、嫌な声を上げて逃げて行った。アナスタシアの馬は、いななくことも忘れて、壁に身を寄せている。共に戦場を駆け抜け、怪物にすら立ち向かった愛馬である。逃げ出したりはしなかったが、乗り手のいない今、足がすくんで動けなくなってしまっているのがわかる。

 ああ、これは強いなと、アナスタシアは思った。毛一筋くらいかもしれないが、確実に自分よりは強い。セシリアと立ち合った時も、強さそのものは互角だと感じていた。娘のセリーナがいた分、刃を交わらせていれば斬られるのは自分だったことだろう。

 マイラは、違う。強さそのものが、わずかといえど、それでも確実にアナスタシアより一段上である。この大陸に、こんなにも強い者がいたのか。

 そのマイラの、遥か後方。明かりの灯る大通りには、わずかに人の行き交う姿がある。それが救いのように思えて、アナスタシアは苦笑した。人の多い場所に駆け込んでも、今のアナスタシアの助けにはならない。むしろ通行人を盾にされ、不利になるのは自分の方だろう。大勢がいる所がより安全に見えるのは、人の本能か。

 これは、負ける。はっきりとそう悟り、アナスタシアは抜き放った剣を、片手で中段に構えた。

 マイラからほとばしる圧倒的な気を受け流し、自分の気は剣先だけに集中させた。防御は考えない。どうせ、あの拳に打たれれば、確実に死ぬ。

 マイラが、わずかに動揺した。アナスタシアの狙いが、わかったのだろう。

「死ぬ気、ですか」

「そうだな。だが、刺し違えるくらいは、できそうだと思った」

 打たれる直前に、マイラの胴を貫き通す。拳は止められないが、マイラも無事には済まないだろう。剣先は、マイラの鳩尾を指している。多少狙いがそれようとも、その辺りを完全に貫いてしまえば、人は死ぬ。即死か、長く苦しんで死ぬかの違いである。マイラが自分より強いのは確実だが、絶対に刺し違えてやろうと思えば、それが可能な程度の実力差だ。

「なるほど。考えましたね。生き延びたいとは思いませんでしたか」

「死ぬとわかったら、死に方を考える。武に生きる者なら、皆そうじゃないか?」

「考えるのと、それができるのとは違う」

「お互い、死にたくないよな。生き延びる為に、生きることを捨ててみた」

「果断です。セシリア殿と会って、変わられましたか。届くところに命を差し出しながら、不思議と、死に向かっているように見えない。怖いな。やはりあなたは、アングルランドにとって、脅威となる」

 馬の、いななき。不意に、後方から聞こえてくる。一騎。疾駆する馬蹄の響きが、凄まじい殺気を放ちながら、こちらに迫っていた。粘ってみたが、ここまでか。さすがに、この状況で、背後からの一撃には対処できない。剣が、鞘走る金属音。頭上から、必殺の一撃が振り下ろされるのを感じた。

 一瞬、セシリアの脚にしがみついて泣いている、セリーナの顔が思い浮かんだ。アナスタシアが死んだことを聞いたら、きっとまた、泣くだろう。戦って、死んだ。戦士には悔いのない死に方もあるのだと、あの子がわかってくれればいいが。

 光が、目の前を一閃した。

 大きく飛び退ったのは、マイラの方である。

「アナスタシア殿」

 馬上の、睫毛の長い、ぎらりとした目。青流団の麒麟児、ルチアナだった。

「お前か。何故、ここに」

 言ってしかし、ベルドロウが何人か連れてここに来たという話を思い出した。

 マイラ。既に、路地の陰に消えていた。

「あなたはどこか、危なっかしい」

「お前に言われるとは、私も焼きが回ったな」

「すぐに、ここを出ます。ついてきて下さい」

 馬に飛び乗り、既に駆け出しているルチアナを追った。狭い路地を抜け、大通りに出る。この娘の馬の扱いには、やはり惚れ惚れとするものがある。

 抜き身の剣を握っている二人を見て、人々が悲鳴を上げながら道を空けた。

「どこに向かっている」

「東門に。パリシが包囲される前は、門のすぐ近くに住んでいました。門兵たちは、私の顔を知っています。潜り戸を使わせてもらいましょう」

「親しい者たちなのか」

 言うと、ルチアナは顔をしかめた。期せずして、意地の悪い質問をしてしまったらしい。この狷介な少女と親しい者など、そうはいないことだろう。

 東門までは、すぐだった。門兵に向かって、ルチアナが声を上げる。

「青流団の、ルチアナです。潜り戸を使わせて頂きたい」

 言った通り、門兵はルチアナの顔を知っているようだった。すぐに潜り戸が開けられ、二人は街の外に出た。

 目の前に広がっていたのは、無数の篝火である。アングルランド、パリシ包囲軍。見渡す限りの大軍だった。

「さて、どうする」

「突っ切りましょう」

「度胸があるな」

「たった二騎です。それに、ほとんどの兵は寝ています。向こうも、何が何だかわからないことでしょう」

「道理だ」

 ゆっくりと進めていた馬を、陣に近づくにつれ、駆けさせる。こちらに気づき、不審に思っていただろうアングルランド兵たちが、慌て始めた。

 駆けた。突き出された槍を、ルチアナの稲妻のような剣が払いのける。駆け抜ける二人を見て、他の見張りの兵たちは、あんぐりと口を開けていた。

 陣を抜けた。振り返っても、追ってくる兵たちはいなかった。数十人の護衛をつけて、陣を通ったわけではない。ルチアナが言った通り、何が何だかわからないというのが正直なところだろう。風を受け、ルチアナの長く黒い髪が、外套のように翻った。

 そのまま、馬を疾駆させる。街道に入り、足を落とした。軍馬である。疾駆させ続けなければ、多少の距離で馬が潰れることはない。

 合流地点と言われた場所を目指す。そろそろかというところで、ルチアナが一軒の小屋を指差した。辺りには、小麦の畑が広がっている。

「あそこでしょう。明かりがついています」

 夜が、明け始めていた。微かな朝日に照らされたルチアナの横顔を見て、ふと、こんな副官がいればいいなと思った。そしてそれは、一度だけ現実となる。

「お前は、私を憎んでいると思っていた。いいのか、私が大将を務めて」

「憎んでいますよ、今でも。ただ」

 ルチアナの顔が、赤く染まっている。朝焼けの悪戯とは、少し違うようだ。

「一度くらいは、こんなとぼけた大将に指揮されるのも、悪くないと思いました」

「お前は、少し、丸くなったな」

 ルチアナは頬に手を当て、わからないという顔をした。

「大きくなったということさ」

 小屋から、ゲクランとアンリが出てきた。こちらに気づき、手を振っている。手を上げて、アナスタシアもそれに応える。

「どういう意味でしょう」

「それくらい、自分で考えろよ」

「わかりません」

「お前は、面白い。そうか、時折団員たちが私の言動を笑っていたのは、こんな感じなのかもしれないな」

「それこそ、どういう意味ですか。私は、兵に笑われてなどいません。それに、私とアナスタシア殿は、似ても似つかない」

「確かに、似ていない。それでも、共通している部分がある」

「どこですか」

「どうしようもないところかな」

 聞いて、ルチアナは思い切り、口をへの字に曲げた。

 それを見て、アナスタシアは久しぶりに、大口を開けて笑った。



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