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第7話「気をつけろ。奴は、何かの冗談みたいに強いぞ」-1

挿絵(By みてみん)


1,「まして国のこと、道半ばよ」


 辞令を携えて、その女はやってきた。

 ジルは書簡の封を切り、中の文面に目をやった。格式張った長い文章だが要約すれば、ジルをアングルランド軍少将に任ずるといったものだった。

 書斎の机越しに、ジルは使者の女を見つめた。キャシーと名乗ったその女は、数ヶ月前に会った女とは、まるで別人だった。が、本人の話によると、その時に顔を合わせたキャシーと同じ人間なのだという。以前は、きりりとした軍人風の女だった。今は、商家の娘といったような、やわらかい印象の女になっている。身長さえも、違って見えた。

 思い返せば前回、次に会う時には別人のようになっているかもしれないと言っていた。実際にそれを目の当たりにし、やはり驚きを禁じ得ない。ただ声と、すみれ色の瞳には見覚えがある。これがこの女の力なのかと、ジルは素直に感心した。

 このキャシー・スミスは、宰相付きの忍び"囀る者"の一人である。その仕事柄、様々な能力を持つ者たちの集まりなのだろうが、この女の能力は、変装である。いや、ここまでくると、変身と言ってもいい。

「どうやら正式な文書のようだが、それをわざわざお前のような高位の忍びが持ってくるということは・・・」

「指示があるまで、このことは伏せておいてほしいのです。と言っても全ての者に伏せてしまっては、ここで兵を募ることも難しいでしょう。なので、レヌブラン伯と、その信用のおける側近くらいには」

「兵?」

「パリシ包囲軍が迎撃軍を編成すると同時に、総督にはアヴァラン領を攻めてほしいのです。総督の麾下と、ここレヌブランの兵で」

「ふむ。が、私の麾下は、ご存知のように、少ない。実質レヌブランの兵だけであの要衝アヴァランを落とせるだろうか。それに、何故この時期に?」

 キャシーの話によれば、こうである。アッシェンのパリシ奪還軍がレザーニュに集結次第、ここレヌブランの軍も出撃し、アヴァランを攻める。アヴァランがいかにアッシェン屈指の要衝とはいえ、勇将ボードワン・ダヴァランは自領の防衛にそれなりの兵力を割かねばならない。パリシ奪還軍はゲクラン元帥とアヴァラン公、この二つが手強いと目されているので、その一角の力を削ぐこの戦略には、なるほどと思わされる。

 あくまで、奪還軍の力を落とすことが作戦の要諦である。よって、レヌブランは本気でアヴァランを落とす必要はない。何かの拍子に落とせるようなことがあればそれに越したことはないが、基本的には、構えだけでいいのだ。

「承知した。しかし、私が少将とは。お飾りにしても、大袈裟ではないか」

「形だけではありません。奪還軍を撃破後、総督には再びレヌブランの兵を率いて、残るアッシェンの平定にご尽力頂く予定です」

 芥子色の衣服に身を包んだキャシーは、そう言って微笑んだ。年の頃は、十八のジルと同じ年代に思える。が、ここまで容姿を自在に変えられる女だ。実際の年齢がいくつかなど、想像することもできなかった。

「わかった。その後も含め重責だが、謹んで承る」

「細かい話は、追って宰相からもあると思います」

 かつて、同じ囀る者であるマイラから聞いた話では、このキャシーは上位の忍びの中で、特に高位の忍びであるのだという。そんなキャシーが使者に立ったということは、この話はアングルランドでもごく上層部の人間しか知らないということだ。やはり周囲に洩らしていい話ではない。しかし兵を集めるには、レヌブラン諸侯たちにこの話をしなくてはならないのも事実だった。どの辺りまでの人間に話すべきか、ジルはしばし思案した。

 キャシーの香水の香りが鼻腔をくすぐった。甘さと清涼感の入り混じった、いい香りである。こちらを見ながら微笑むキャシーの魅力に、よく合っている気がした。ふっと、引き込まれそうな女である。

「質問がなければ、私はこれにて」

「よければこの後、食事でもどうだ? 少し、お前について知りたい」

 キャシーは、懐中時計に手を伸ばした。

「・・・三十分ほどで、よろしかったら。夜には、パリシに入っていなければなりませんので」

「いや、忙しいのなら、いいんだ。引き止めて、その後を急がせるのも悪い。今度ゆっくりできる時にでも、杯を交わそう。今からパリシだと、かなりの強行軍になるのではないか?」

 言われたキャシーは、困った顔で笑う。それだけで、ジルの心はまた引き込まれた。仕草だけで、人を魅了する力があるのかもしれない。

「私などに興味を持って頂いたのに、申し訳ございません。ではまたこちらの方に寄ることがあれば、もう少し時間に余裕をもって伺いたいと思います。総督、あらためて、少将に昇進、おめでとうございます。それでは、これにて」

 キャシーを扉まで見送り、ジルは書斎の机に戻った。

 午前中に執務を終わらせてしまっているので、後は午後の調練までは暇だった。あと、二時間ほどある。ジルはぼんやりと外の景色を眺めた。

 窓硝子に映った自分の姿が、ひどく子供っぽく見える。手鏡を取り出し、はっきりと自分の顔を覗き込んでみた。

 そろそろ、自分で化粧をしてもいいのかもしれない。化粧は公式の行事や会合の時にするが、全て使用人にやってもらうので、自分一人でやったことはなかった。任せている間に他のことを考えているので、やり方についても覚束ない。十八歳である。同じ年頃の町娘たちなら、皆自分でやっていることだろう。

 鏡の中の自分の顔がひどく怒っているように見えて、ジルは手鏡をしまった。自分の顔が嫌いであまり鏡を見ないというのも、ここまで化粧に興味を持てなかった一因だ。身だしなみに関心がないわけではなく、だがどんな格好をしてもこの顔が台無しにしてしまうような気がして、もうひとつ踏み込めないのであった。それでも自分なりにお洒落に気を遣っているつもりだが、周りはどう見ているのだろうか。背が低く、子供っぽい体型をしている自分は、本当はかわいらしい服が似合うのかもしれない。あくまで、首から下に限っての話だが。

 あの"掌砲"セシリアへの憧れは、今も胸の内にくすぶっている。あの、何をしていても余裕をたたえた微笑に、すらりとしているにも関わらず肉感的な肢体に、今でも憧れている。が、ジルはどう見ても、小さな癇癪持ちの子供だった。

 昔と違い、人に苛立つことはあっても、変に腹を立てるようなことはない。内面は数年に渡る流浪の旅で、随分と成長したという自負がある。それでも、外見は今でも旅に出る前の小娘だった。同じ年代の娘たちを見ると気後れのようなものを感じるのは、全てこの見た目のせいだろう。

 頬を両手で叩き、ジルは書斎を出た。

 今は、少将の件である。

 まずは領主、レヌブラン伯バルタザールに報告をするのが筋だろう。が、この件に関し、先にゲオルクとアーラインに相談したい気持ちも強い。ここに来てからすっかり、あの老騎士とケンタウロスの夫婦に頼る癖がついてしまっていた。夕刻には、立ち合うという形で鍛錬に付き合ってもらってもいる。友、なのだろうか。二人ともジルの祖父母といってもいい年齢なので、友とは少し違う気もする。

 そもそも今のジルには、友というものがいるのか、よくわからなかった。友というと真っ先に、幼かった頃、近所で遊んでいた友人たちを思い出す。今まで深く考えてこなかったが、あの時以来、ジルには友がいないのかもしれない。

 二人に頼りたい気持ちを振り払い、ジルはバルタザールの元へ向かった。が、ジルの決意に反し、城内でゲオルクとばったり出くわしてしまった。

「おう、どうしたんじゃ。何かわしに相談したいことがあると、顔に書いてあるぞ」

「そんなことはない。が、あるいはお前にも話しておいた方が良いのかもしれないな」

「そんなに怒るな。聞いてやるわい」

「怒ってなどいない。アーラインはどうした」

「兵の調練じゃ。わしは腰が痛くてのう、しばらく調練は休みよ」

 言ったゲオルクは、薄汚れた具足姿である。午前の調練で、持病の腰が痛み始めたのかもしれない。ゲオルクだけ、途中で切り上げてきたのだろう。

「そうか。では今晩の鍛錬には、付き合ってもらえないのかな」

「ま、そういうことじゃな。飯は食ったか? まだなら、食堂で話を聞こう」

 ぽんぽんと腰を叩きながら歩く老騎士に歩調を合わせ、城内の食堂に向かった。背筋を伸ばしたゲオルクの身長はジルより10cmほど高いはずだが、老騎士はひどいがに股の上に少し腰を折って歩く癖があり、こうして並んでいると、ジルより目線が低いほどである。

 食堂はまだ空いていたので、隅の席を取った。盆と器を持って並び、献立から好きなものを選ぶ。もっとも二人とも小食なので、盆の上は寂しい限りだった。席に着いて、辺りを見回す。この城で勤務する兵や役人が何人か、思い思いの席で食事を摂っていた。

 ジルはゲオルクに、少将に昇進したことと、来るパリシ攻防戦に際し、レヌブランも兵を動かすことなどを話した。ゲオルクは、指を折りながら階級を数えている。ちなみにジルの、昨日までの階級は中尉である。

「・・・一気に、六階級も昇進か。すごいことだのう」

「今までは、本国から派遣される兵を指揮する為だけに、飾りで与えられたような階級だ。その意味では、今回も飾りに近い。そうではないと言われたが、今までに実戦の軍指揮を経験していない私なのだ」

「なに、わしらやレヌブランの諸侯たちがおる。お飾りの大将とはいえ、戦場でおぬしを斬れるような兵など、まずいまい。その意味では、わしらは安心して戦えるな」

 このゲオルクもアーラインも、レヌブランの客将という立場とはいえ、アヴァランとの小競り合いに参戦し、何度も兵を指揮している。ジルは兵を率いてそのゲオルクたちと合同の演習をしているが、やはり実際に血を流す戦は、剣で言えば型と人を斬ることくらいの大きな差があるだろう。

「そういえば、ゲオルクも元は冒険者だったな。自らの力のみで戦うのと、兵を指揮するのとでは、どう違う?」

「んん、わしに関しては同じようなもんじゃな。ただ、個人ではかすり傷程度のものが、戦では何十、何百という死者になる。そういうところは、いまだに怖いと思うのう」

「なるほど。まだ実感はわかないが、そういうことだろうということは、理解できる」

「わしも生粋の軍人ではない。軍人たちに言わせれば、わしの戦は立ち合いのように感じるという。おぬしも、似たような戦をするのだろうよ」

「そうかもしれない。にしても、いきなり少将か」

「大任であることが、つらいか」

「いや、それはどうでもいい。ただ、宰相が作り上げようとしている軍制は、本来身分の上下に関係なく、軍の指揮に優れた者が、より高い位置につけるよう、それを目指しているのだろう? 私は一応王族で、総督という地位もある。これでいいのか、と思ってしまう」

 近年までのアングルランドは、大陸の他の国々と同じく、貴族としての身分、それに伴う兵力で軍の階級を決めていた。それを純粋に、指揮能力と武勲で階級を決めようというのが、ライナスの軍改革だった。その動きと、今日のジルの昇進は、矛盾する。

「おぬしは生真面目だのう。が、何でもある日突然全てが変わるということはない。まして国のこと、道半ばよ。少しずつ、そういう方向に向かえばよいのだ。ライナス宰相の軍改革の成功例など、何人もおるではないか。ほれ、ダンブリッジ卿など、いい例じゃ」

 ダンブリッジ卿は、現在ライナスに代わり、パリシ包囲軍の全権を任されている。徴兵された一兵卒から、中将にまで上りつめた男。爵位は後からついてきて、今は確か男爵だったか。が、多くの者があの男を思い浮かべる時、それが貴族としての彼であることは少ないだろう。特に現場では、ダンブリッジ男爵ではなく、ダンブリッジ中将と呼ばれることが多いはずだ。

「道半ばか。なんだかお前と話していると、肩の力が抜けるよ」

「いずれは、今よりもっと大規模な常備軍を作り、戦の度に徴兵するような無駄を省くつもりだと聞くぞ。もっともそれだと、時間や手間はかからないものの、そもそも常備軍を維持するのに多額の資金がいるという問題に直面する。今でも貴族による兵の供給なくして、軍は維持できんのだ。武勲のみでの昇進だとかは、そういうものが出来上がっていくと共に、しっかりとしていくはずじゃ」

「なるほど。常備軍二十万と口にしたところで、次の日からそれができるはずもない、ということか」

「ジル、おぬしが少将になったのは出自というより、ここレヌブランの総督だから、都合が良いだけよ。その総督職すら最初はお飾りだったかもしれんが、おぬしはよく実務をこなしておる。今アングルランドは、方々に戦線を抱えておるじゃろ? ただアヴァランの兵力を領地に留めておくだけの出兵に、歴戦の指揮官は回せないということじゃ」

「うん。その意味ではやはり、アヴァランに本気で攻め込むわけではないのだな。いや、すっきりした。お飾りはお飾りらしく、黙々と与えられた仕事に励むとするか。いずれ、そうではないと思われればいい」

 食事を終え、ゲオルクと分れ、ジルはバルタザールの私室に向かった。

 行政事項の最終的な決済は、ジルとアングルランドから派遣されてきた役人がやっているので、バルタザールの領主としての仕事は少ない。きっと昼食後にはやることも少なく、と考えて、ジルは普段のバルタザールが仕事のない時に何をやっているのか、まるで知らないことに気がついた。

 バルタザールの私室が近づいてくる。城にある何本もの尖塔の、その一つがそれである。そこへの道筋はやや複雑で、おまけに外周に壁のない廊下が多い。忍びの暗殺に備えてのものだそうだ。手すりの下で、庭師が忙しなく働いているのが見えた。

「やあ、愛しい君。僕に何か用事でも?」

 背後から声を掛けられ、ジルは仕方なく振り返った。バルタザールの不肖の息子、イポリートだった。青空を背景に、その爽やかさと真逆の嫌らしい雰囲気を身に纏っている。

「いえ、殿下ではなく、バルタザール殿に、用事が」

 顔を見るのも不快な相手である。それ以上言葉を交わさず、ジルは城内を急いだ。半ば駆け足で、イポリートが追いかけてくる。

「待ってくれ。父上は今、忙しいかもしれないぞ?」

「まだ、昼食を摂っているかもしれませんね。こちらは特に急いでいるわけでもないので、邪魔なようでしたら部屋の外で待っているつもりです」

 肩を、掴まれる。払いのけたい衝動を、ジルはぐっとこらえた。この男の一挙手一投足は、ジルの心を逆なでする。今この手を払いのければ、うっかりイポリートの手の骨を砕きかねない。

「忙しいというのはだな、父上はいつも、食後に女を抱いているのだ」

「っ・・・!!」

 心臓が、どくんと脈打つ。

「どうした? そんな真っ赤な顔をして」

 否定するのも面倒な気がして、ジルは大きく溜息をついた。

 バルタザールが今、女を抱いていても不思議ではないし、咎めることでもない。頭ではそうとわかっていても、何故かジルはあの男のことになると、冷静ではいられない自分に気がついていた。

 一体あの男の何が、ということは何度も考えていた。そしていつも、あの男が数限りない女を抱いてきたことから生ずる、性の毒気のようなものに当てられるのだろうという結論に落ち着く。

 しかしこれも根拠があるわけではなく、今の今まで男を知らないジルの、勘違いかもしれなかった。全ては憶測である。ただひとつ間違いないのは、目の前にいる不肖の息子とは違った意味で、バルタザールの存在はジルの心をかき乱すということだった。

「どうした? そんなに固くなって・・・」

 いつの間にか、イポリートがジルの髪を撫でている。子供に対する扱いを受けているようで、ひどく不快だ。その指が髪の中に分け入り、ジルの頬に触れる。

「ん? その反応、ひょっとしてジル殿は、まだ男を知らな・・・」

「それ以上は、やめて頂きたい」

 イポリートは一瞬びくりとしたが、すぐに気を持ち直したようだ。そして凝りもせず、その汚らわしい指先をジルの顎や唇の上で這い回らせた。鳥肌が立つ。これに比べれば、蛇が顔の上を這い回ることすら心地いいだろう。

「愛しい君よ。急いでいないのなら、今から私の部屋で・・・」

「旅の間、私は自分の怒りを飼いならす術を身につけました。今も、この程度の嫌がらせをいくら受けようとも、私の怒りが爆発することはない。ただ、その怒りの雫がほんの一滴、瓶から零れ落ちても・・・」

 ジルは、イポリートを睨みつけた。普段から激怒していると思われる、ジルの悪相である。実際に怒りの火が灯りつつある今では、それなりに迫力のある形相になっていることだろう。

「あなたを殺してしまうには充分でしょう。ほら、少し押しただけで・・・」

 ジルは、男の胸に手を置いた。指先で、イポリートの身体を押していく。背中が、手すりについた。

「その手すりを飛び越えて、中庭に落ちてしまうでしょうね。この高さで助かるかどうか、神に聞いてみましょうか」

 イポリートは、ぞくりとするような顔で笑った。ねじ曲がった本性が、表に出てきたような笑い方だ。

「そこまでして、俺を拒むか。アングルランドの総督という地位を、後ろ盾にして。王の娘だからといい気になって」

「私は自分を、あの王の娘だと思ったことはない。あの男は、父親じゃない。それに、地位を利用しているのはあなたの方でしょう。あなたに近づく女が、何を思って股を開いているのか、一度考えてみた方がいい。下衆な女どもだ。いや、次期伯爵の不興を買うのが恐ろしくて、仕方なくという娘も少なくはないのかな。私は、その娘たちに心から同情する」

「貴様ッ!」

 イポリートは、指の関節が白くなる程に、ジルの手首を握りしめている。それに反して、その顔はどす黒く変色していた。盛り上がったこめかみの血管から、今にも血を吹き出しそうだ。

 怒りは、伝染する。ジルははっきりと、今の自分が怒りに興奮しているのを感じていた。

「何を言われているのかがわかる程度には、知恵のある生き物のようだ。私は、私の立場を利用しない。文句があるのなら、そしてわずかでも度胸があるのなら、私の寝込みでも襲ってみるがいい。それなら、私がお前を斬る大義もできる。お前にこびへつらう愚鈍な手下を何百人使っても構わない。それができないのなら、へこへこと腰を振って、そこらにでもいる犬にでも求愛していろ。お前は不愉快だ。次に私を不快にさせたなら、股ぐらからぶら下がっているその汚いものを握りつぶす。いいか。二度と私を怒らせるなよ」

 イポリートの顔面は、赤くなったり青くなったりを繰り返していた。手を払い、ジルは急いでその場を後にした。これ以上関わっていると、本当にあの男を殺しかねない。今も、手を払う際には細心の注意と忍耐を要した。

 何かに、負けたような気持ちになっていた。冷静になるにつれ、自分を惨めな存在に感じる。両親に、愛されなかった娘。憧れの人に、拒絶された小娘。イポリートと立ち位置は違うが、自分も充分にくだらない人間だと、ジルは思った。

 胃の腑に冷たいものを感じながら、バルタザールに訪いを告げた。扉を開ける前に、何度も深呼吸をする。

「ほう、こんな時間に、珍しい。何か、問題がありましたかな」

 バルタザールは、既に食事を終えたところのようだった。熊のような巨体を丸めて、露台に用意された椅子に腰掛けている。女を抱いていたという気配はない。なぜかそのことに、ほっとしていた。

「本国より、辞令と作戦を頂戴しました。それに伴い、伯にはいくつかお願いをしなくてはなりません」

「その話に移る前に、少し気を鎮められるがよろしかろう。今、食後の茶を用意させております。さあ、そこで楽になさって下さい」

「気が立っているように見えますか。お恥ずかしい。では、お言葉に甘えて」

 茶が運ばれてくるまでの間、何を話すでもなく、二人でぼんやりと外の景色を眺めていた。北を向いたこの露台からは、眼下の街並と、城壁の向こうに光り輝く海が見える。

 いつもは、この男といると胸が騒ぐ。

 何故か今は、波が引くように、胸の潮騒は急速に鎮まっていった。


 男は。気を失っていた。

 念のため、マイラは鞄の中から薬品を染み込ませた布を取り出し、男の顔に当てた。充分に、薬剤を吸い込ませる。これでしばらくは、目を覚まさないだろう。

 外から、野犬の遠吠えが聞こえる。パリシの月に、何を吠えているのか。

 指先で四度、扉を叩いた。外で一度、小さないらえがあり、マイラは扉の鍵を開けた。今宵のマイラは変装をしているが、開いた扉の先にいたのは、自分と同じ顔をした女だった。

「ごめんね、マイラ。私がヘマをしたばっかりに」

 女は、ほとんど口を動かさずに喋る。そしてその声は、マイラにしか聞こえない。通りに人はいないようだったが、この声を聞き取ることができる者はいないだろう。

「それより、身体はどう?」

「もう少し、かかるみたい。でも、体調そのものはいいわ」

 部屋に入ってきたのは、囀る者の一人、"魅惑の"キャシーだった。変身といっていいほどの、変装の腕前を持つ。

 その特技から、キャシーは房術を駆使した諜報に当たることが多い。今回の任務も、本当は初めからキャシーが受け持つはずだった。

 が、彼女は前回の任務で寝た男から、病をうつされていた。幸い梅毒のように重いものではなく、しばらく薬を使えば治る程度のものだ。とはいえあまり無理もさせられず、空いた時間で、途中までマイラが代わりをやることにしたのだった。

 今回は急な代役となったが、マイラとキャシーはこれまで何度か、こうした任務に共同で当たることがあった。二人は目の色と乳首、そして手の形が似ている。この辺りは、変装でもごまかしづらい。逆を言えばこの辺りさえよく似ていれば、互いを入れ替えられるくらいに、容貌を似せることができるのだった。もっとも、マイラの変装に、キャシーが合わせる形となる。それくらい、キャシーの変装の腕は図抜けていた。

「本当、ごめんね。マイラの代わりじゃなくて、マイラに代わってもらうなんて」

「気にしないで。というより、思ったより楽しめた。この男、何度も続けてできるくらいに、タフよ」

「やだ、この男がうらやましいわ。マイラと、そんなにできるなんて」

 言いながらも、キャシーは手鏡を取り出し、化粧を直し始めた。事前に互いに示し合わせた顔を作っているが、マイラにはわからないごくわずかな違いが、彼女には見えているのだろう。

 その間に、男と話したこと、食事は何を食べたか等の情報を伝えた。化粧を直しながら、キャシーは同じ声でそれを反芻した。耳の長さに違いがあったのか、キャシーは片手でさかんに耳たぶを引っ張っている。それで耳の形がいくらか変わるのだから、特異体質という他ない。

 蝋燭の明かりにぼんやりと浮かび上がるその顔はやがて、はっとするほど今のマイラと同じ顔になった。鏡の中で二つの顔を並べると、双子としか思えない。

 確認したマイラは亜麻色の鬘をはずし、化粧を落とす。部屋では、キャシーが暖炉の中や衣装棚を探っていた。

 今寝台に横たわっている男と接触した理由。それはこの男がアッシェン側の間諜であるかを調べる為だった。

 アングルランド、というよりマイラたちが密かに煽動している暴動が、二度続けて事前に密告され、集会所が鎮圧された。いずれもこの男が現場におり、通報された可能性がある。ただの密告屋なら消すだけだが、アッシェン側の忍びなら、対処の仕方は慎重にならなければならない。簡単に消してしまうと、後の火種が大きくなる。可能なら、自分が探られたと認識させずに、この男を調べたい。

 まだ状況証拠のようなものしかなく、はっきりとこの男の正体を決めつけることはできない。何度か手の者が忍び込み、男の家を家捜ししてきたが、今に至るまで、この男が忍びである、ないしはただの密告屋であるという確証を得るには至っていない。

 が、今晩、何度か接触を図っていたマイラが誘うと、男はこれまでこちら側が把握していなかったこの場所に、マイラを連れ込んだ。隠れ家のようなものか。愛人を囲う必要も無い未婚の男がこんな場所を持っていることは、明らかに不自然だ。やはり、この男には何かがある。しかし忍びとは思えないくらいの、どうしようもない隙もあった。

「見て、これ」

 キャシーが机の引き出しから、一枚の紙片を取り出す。マイラは目を通した。日記とも恋文とも取れる、曖昧な文章だった。長い間連絡を取り合っている、遠方の恋人への手紙か。これが届けられたものなのか、これから送るものだったかの判別もできない。ぱっと見はいたって平易な文章だが、それだけに充分きなくさい。

 蝋燭の火で、透かして見てみる。あぶり出しのような仕掛けもない様子で、何の変哲もない手紙である。しかしやはりこんなものがここにあるのは、不自然でもある。

「符丁か・・・素人を、監視や連絡役に使ってるってとこね」

 言いながらマイラは、手紙の文章を写し取った。囀る者の中には、暗号の解読に長けた者たちがいる。その者たちなら、何か掴むだろう。

「この男、どうする?」

 キャシーが聞く。少し困ったような顔をしているのは、キャシーがあまり殺しを好まないからだ。ただ組織の命令とあれば、彼女がそれをためらうことはない。

「しばらく、泳がせておこう。この男と別れた後は、接触する必要はないかもね。ただいずれこちらから、この男を利用するようなことがあるかもしれない」

 言って、マイラはキャシーが持ってきた、隠密用の黒革の衣装に着替えた。夜のパリシとはいえさすがにこの格好は目立つため、上から頭巾のついた外套を羽織る。黒革の衣装はあくまで不意の暗闘や潜伏に備えてのもので、夜のマイラは、この格好をすることが多い。それに、パリシはまだ敵地である。いつアッシェン側の忍びに襲われても不思議ではない。

「そういえば私がいない間、何か変わったことは聞いた?」

 キャシーに聞く。軽く肩をすくめて、彼女は答えた。

「さっき、アジトに着いたばかりなのよ。ああ、でも、二つばかり小耳に挟んだかしら。一つは、夕方、アナスタシアがパリシに入ったみたい。"陥陣覇王"のアナスタシアよ」

 アナスタシア。ロンディウムでマイラたちと別れた後、西に向かった所までの足取りは掴んでいた。大陸鉄道で聞いた話から、セシリアに会いに行ったのだろうと推測していた。以降、後を尾けさせることはしなかったので、彼女が今、何の為にパリシにやってきたのかはわからない。

「マイラ、あの人のこと好きなんでしょ? 会ってみたら」

「機会が、あればね。ただ、ここで会えば話がややこしくなる。こんなところで何をしているのかと訊かれたら、なんて答えればいい?」

「忍び故、敵地に忍び込んでいるのでござる」

 おどけて答えたキャシーの肩を、マイラは軽く小突いた。

「で、もう一つは」

「ひょっとしたら、マグゼがパリシに入ったかもしれないって。彼女のことだから、確証はないみたいだけど」

 マグゼとは、ゲクランの使う忍び"鴉たち"の頭領である。変装の得意なハーフリングの忍びで、人間の子供に化けてあらゆるところに出入りする。キャシーほどではないにせよ、変装した彼女の正体を見破ることは難しく、鴉たちと目される他の忍びの出入りから、それを推測するしかない。マグゼの特徴として、彼女自身が恐ろしく武術に長けているにも関わらず、いつも五人前後の忍びたちと共に行動するというのがあった。

「アナスタシアとマグゼに、繋がりは?」

「わからないわ。詳しいことは、アジトで聞いて」

「そうね。じゃ、後はお願い」

 荷物をまとめ、扉に向かった。振り返ると服を脱いだキャシーが、手をひらひらと振って別れの挨拶をしていた。

 マイラは頷き、外に出た。

 アナスタシアのことは、少し調べてみてもいいいだろう。しかしその思いには、マイラの感情が色濃く滲んでいることは自覚している。栄光に彩られた、光り輝く道を歩いてきた、憧れの人。しばらくは人を使わず、自分で調べてみてもいいかもしれない。

 暖かくなり始めた夜風を浴びながら、マイラは暗い路地へと入った。

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