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第4話「国に支配された時、人は片目を失う」-1

挿絵(By みてみん)


1,「国が土地を支配したいというのなら、好きにするといい。私はその上を走る車輪を支配する」


 街の大門が、仰々しい音を立てて開かれていく。

 四十台の荷馬車と、それを取り巻く傭兵たち。それ以外にシュザンヌの率いている集団はいない。しかし振り返ると、背後には丘の向こうまで続く、長蛇の列があった。

 驢馬に引かせた小さな荷馬車に乗っている者や、大きな頭陀袋を背負っている者たち。その姿は、数えきれないほどであった。

 今、パリシ市内の物価は、唖然とするほど上がっている。アングルランド軍に包囲され、外からの物資がほとんど届かないのだ。商機と見たのだろう、様々な者、時に商人ですらない者たちまで、こうしてパリシに物資を売りに集まっている。

 が、このパリシに入る前に、アングルランド軍によって高額の税を払わされると、ちゃんと聞いてなかった者たちも少なくはないのだろう。あるいは、本来足一本、車輪一つにつきアッシェン銀貨一枚の、通称足一本税が、金貨一枚になっていることを知らなかったのか。おそらくは荷馬の背一杯に積んだ荷物のほとんどが、アングルランド軍によって税の代わりに接収された様子の行商は、今にも泣き出しそうな顔をしている。普段は行商等やったこともないであろう、袋を背負った者たちは、その頭陀袋の大きさが滑稽に見えるくらいだ。さらにこの後、市内で物を売るには、そこを牛耳る商会に許可料を払わなければならない。

「あれではまるで遠路はるばる、袋そのものを売りに来たみたい」

 シュザンヌは呟いた。すると傍にいたエンマが、葉巻の煙を春の風に流しながら応える。

「やめなよ。ま、袋一つとちょっぴりの荷物でも、帰りの旅費くらいにはなるかもね。それより、あんたは大丈夫なの」

 シュザンヌの背は低い方ではないが、眼鏡の縁を上げながら話すエンマの身長は、女としてはかなり高い。そしてシュザンヌの七歳下、わずか十六歳のこの娘は、主人のシュザンヌに対して友人か、姉のような口をきく。

「元より、儲けに来たんじゃないわ。あなたはそんな心配はしなくていい。あなたが気にするのは、私の商売じゃなくて、私自身よ」

「へいへい。ほら、もう入れるよ。じゃ、みんな。そのまま列を崩さないで、入って入って」

 ぱんばんと大きな手を叩き、エンマが荷車の列を先導していく。

 シュザンヌはため息をついた。シュザンヌ付きの用心棒として雇っているエンマだが、驚くくらいに人の言うことを聞かない。今も勝手に、隊商の指揮を執っている。

 仕方なく彼女の傍につき、シュザンヌもパリシの大門を潜った。

 久しぶりの故郷パリシは、荒廃の兆しが見え始めていた。

 道端の物乞いが、頭を垂れたまま動かなくなっている。土産物や食料、雑貨を売る店が立ち並ぶこの大通りには、店の外に商品をずらりと並べた露店が出ていたものだが、今はそれもない。一応営業はしているのか、それぞれの店内に人の気配はあるが、時折見かける人影も、商売をしているというより、近所の者同士で雑談をしているといった様子だ。

 わずかだが、人の往来はある。が、どの顔も沈んでいた。物資を満載したシュザンヌの隊商を見て目をぎらつかせる集団とすれ違うが、武装した傭兵たちに守られた荷を襲おうとは、さすがに思えなかったようだ。

「通行証持ってるだけでも危ないんだからさ、一応気をつけなよ」

 エンマが、振り向いて言った。

「わかってるわよ」

 パリシの出入りには税と称した通行料の他に、アングルランド軍の発行する通行証も必要である。これがないと、街の中に追い返される。要はパリシから人を出さないようにして、この街を徐々に干上がらせていくのが目的だ。しかしながら完全な兵糧攻めではない。わずかだが、このように人や物資の出入りはある。しかしこの状況は、一度この街の経済を混乱の渦に叩き落とし、パリシ市民の大半がアングルランドによる支配を望むまで続く。

 パリシには、三部会という街の統治機関があった。貴族、聖職者、市民それぞれの代表が、街の重要事項を決める仕組みである。

 それは初め、時に王族以上の権勢を振るう教会と、革命の意志を持つパリシ市民を飼いならす為の、半ば建前上の組織だった。が、時を経ずそれは実質的なものとなり、やがてパリシの政界はそれぞれの実力者による三すくみの睨み合いとなった。

 現在、王とその息子たちが次々と不審な死を遂げ、非嫡子であった現王がなし崩し的に即位したものの、その幼い王も、正式な戴冠式すら経ず、パリシから逃亡している。アッシェンの光とまで呼ばれる宰相のポンパドゥール夫人が貴族側の代表として三部会を取り仕切っているが、発言力は王のそれより格段に落ちるだろう。何より、下級貴族の彼女の台頭を、不満に思う貴族たちも少なくない。今の所その鋭い舌鋒で議場を支配することに成功し続けてはいるが、この籠城体勢も、いつまで保つのか不透明である。

 そして間違いなく、三部会の均衡は崩れ始めていた。

 今回のパリシ包囲の絵図を描いているのは、アングルランドの"戦闘宰相"ライナスということだが、シュザンヌはその戦略眼に、素直に拍手を送りたい気持ちだった。

 現貴族の支配に納得できない市民側の心は、既に経済大国となったアングルランドに、大きく傾いていることだろう。現アッシェン貴族を追い払い、アングルランドが支配層につくことに大きな不満を持つ者は、いまや少数派かもしれない。言語こそ違いがあるものの、歴史を紐解けば、民族的にはほぼ同じなのだ。そこにあるのは支配層、王朝の違いでしかない。そしてアングルランドが勝てば、しばらくはライナス自身がこの街を支配し、以前より豊かなパリシにすることも予想できる。

 聖職者たちとは、同じセイヴィア教でもレムルサから距離を置き、ゼーレ派に近いアングルランド国教会はアモーレ派の現教会との摩擦が予想されるが、三部会の内、二部を民に求められる形で手に入れられれば、時間をかけて懐柔することは可能だろう。アングルランドの戦は宗教戦争ではなく、無理にゼーレ派への改宗を迫ることは、まず考えられない。

 町や砦を落とすのではない。ユーロ地方有数の大都市を落とすということは、こういうことなのだ。武力で落としても、反撥した市民の抵抗にあってしまえば、アッシェン侵攻はここで大きな足止めをくらってしまう。反乱を抑えて統治するのに、金も兵力も使ってしまうことになるだろう。ここを落とし、速やかなアッシェン侵攻を続けるには、少し回り道となる、今のやり方が最上だ。アングルランドは北部の領土、ノースランドの叛乱を抱えていることを考えると、一刻も早くパリシを手に入れたいところだろうが、忍耐強く、パリシ陥落の機を待っている。

 ライナスという男は、戦というものをよくわかっていた。いや、とシュザンヌは思い直す。ことこうした戦略的な考えに関して、自分に匹敵する者が現れたということは、はっきりと認めなければなるまい。こうした絵図を描けるのは、この大陸に自分を置いて一人しかいないと思っていた。ライナスは、二人目である。

 一度、この男と会ってみても良いかなという気分になっている。が、今は表面的には敵対する立場となってしまった。この後もそうあり続けるかは、今後の展開次第である。

「ねえ、例の戦闘宰相とやらが、この戦の指揮を執ってるんでしょ? あんたの立場でこの街の惨状、何とかならないの」

 思索に割り込むかのように、エンマが言う。

「簡単に言うわね。立場的に、今はまずいわよ」

「どうして」

「ハンザ大使の、仮にも流通の女王とまで言われてる私が、主な担当地域であるパリシの流通を止められてるのよ。いや、支配されてると言ってもいい。どんな顔してあの男に会えばいいわけ? こちらから出向いたら、頭を垂れて陳情してるみたいに思われるじゃない」

「へえ。面子の問題?」

「そんなに簡単なものじゃないわ。交渉の前に、すすんで不利な立場に立つのは、避けなきゃいけないってこと」

 シュザンヌはユーロ北部の商業都市同盟、ハンザの大使であり、パリシを中心としたこの地域の統轄でもある。ハンザ同盟は領土こそそれぞれの街の市壁の中に限られるものの、物資の行き交う経路、その全てが実質的な領地といってもいい。大陸中に広がる教会の領土が、それぞれの教会の立つ土地しか所有していないにも関わらず、周辺の土地に住む人間に多大な影響力を持っているという構図に近い。

 当然、パリシはシュザンヌの担当地域のみならず、ハンザにとっても最重要都市の一つだ。それを武力で抑えたアングルランドとは、やはり極めて難しい立場となっている。

 あらためてそれを説明してやると、エンマは淡い金髪のほつれ毛を指で掻き上げながら言った。

「ああ、なるほどねえ。ま、お返しにアングルランドに続く経路を閉じてやるっていうのも、そこに住む人間にとっちゃ、迷惑なだけの話だしねえ。だからここまで出向いて、周辺にああいう通商路を開いたってわけね」

 エンマは、一歩先んじた感想をもらした。元々、頭のいい娘である。いくつか知らないことを教えてやるだけで、いきなり核心に近いやり取りができる。

 このいうことを聞かない用心棒には多くの不満を抱いているが、こういった部分は買っていた。

 頭のいい人間は、シュザンヌの好みである。

「あ、あっちは人が多いみたいね。兵隊もいる」

 葉巻を挟んだ指で、エンマが前方を指し示す。

 シュザンヌたちが目指している中心街には彼女の言う通り、大勢の人たちの行き交う姿があった。そこだけ、以前からのパリシである。

 そこかしこに目につく、人波をかき分けて進む警備兵の集団は、しかし通常の警邏の兵ではなく、どうやら軍の兵士のようだった。兵たちが目を光らせているせいで、中心街の秩序はかろうじて保たれている気配である。

「うっそー。ジョッキ一杯のビールで、銀貨二枚だってさ。こりゃ飲み歩きはできないわ」

 エンマが顔をしかめている。物価は、通常の三倍程度か。少し前に仕入れた情報では四倍から五倍と聞いていたので、多少アングルランド側で締め付けを弱めたのだろう。

 生かさず、殺さずといったところか。この状況は、市民の不満だけを高め続ける。そしてアッシェンだろうがアングルランドだろうが、この不満を解消させてくれる側に、喜んでつくに違いない。

「荷を下ろしたら、好きなだけ飲みなさいな。何杯か、おごってあげるから」

「太っ腹じゃない。ぺったんこなお腹してさ」

「一言多いのよ。ほら、行くわよ」

 他の店も覗こうとしていたエンマを引っ張り、シュザンヌは隊商の元に戻った。


 一通り帳面を眺めた後、シュザンヌは顔を上げた。

 シュザンヌのかつての本拠、ユイル商会の大きな倉庫の中である。

 エンマが、重い荷を軽々と荷馬車から下し、運んでいる。初めてそういった様子を見る者たちは、一様に目を見開いていた。

 この背の高い用心棒は、桁の外れた怪力の持ち主だった。

 彼女の母は、かつてあの冒険者集団セシリア・ファミリーに籍を置いていた、"掴みの"ニコールである。ニコールは、その手の中に収まるものであればどんな物でも握りつぶせる、とんでもない握力の持ち主だったという。

 それは吟遊詩人特有の誇張表現だと思っていたが、エンマと出会って、それは本当のことだったのだろうと思い直した。

 そのエンマはあっという間に荷下ろしを終え、壁にもたれかかって葉巻をくわえている。右手には、人の拳ほどの黒い金属の塊を持っていた。それを粘土のように握りつぶしては、もう片方の手も使って球形に戻したりしている。周囲が気づいている様子はないが、手でこね回しているそれがアダマンタイトの鋳塊だと知れば、全員が腰を抜かすことだろう。

 アダマンタイトはドワーフの名匠にしか加工できない、この世で最も硬く、加えて圧力に強い金属である。それをあの用心棒は、パンの生地でもこねるように扱っていた。

 母のニコールがあんなやり方で鍛錬していたそうだが、娘のエンマにも、同様のことが可能だった。拳の威力は握力に直結するものだと聞いたことがある。あの拳で殴られたら、どんな生き物でも即死だろう。

 そのエンマが、こちらに近づいてくる。

「そっちは終わったの?」

「・・・そうね。後は今晩にでも、この荷を市場に流すつもり」

 シュザンヌは再び、帳面に目を落とす。

 パリシに来た目的は、いくつかある。その一つを実行するにあたって、今のところ大きな障害はなさそうだった。

「本来の卸値で、これらを流すんだよね」

「そう」

 運んできた物資のほとんどは小麦粉で、後は生活雑貨と薬草、ないしは薬品である。総じて、生活必需品といったところか。

 人の多い時間に、これらをかつての値で売り捌く。他の者がやれば咎めを受ける行為も、シュザンヌ自身が指揮を執る分には何の問題もない。そもそもこういった行為の許可を出す商会の主が、シュザンヌ自身なのである。

「いいね。シュザンヌの優しいところだね」

「は? そういった意味合いでやるわけじゃないんだけど」

 商いの規模を考えれば、アングルランドに対する、ちょっとした悪戯のようなものである。これをやる為に高額の通行料を払っている為、大幅な赤字でもある。ゆえに今回の件では、全て私費を投じている。

 ここでひとつ、アッシェンとアングルランドに対して、ハンザはそれらの支配する市壁の中であっても独立した組織であるということを知らしめておこうというのがあった。両国がどんな争いを繰り広げようと、ハンザは、少なくともシュザンヌは、それらとは関係なく好きなように商売をする。そしてそれは、自分が望んだ時にいつでもできる。今回は小規模だが、大規模にやれば、少なくとも今のアングルランドにとっては無視できない話だろう。

 が、シュザンヌのみならずハンザ同盟の総意として、両国どちらにも与するつもりはなかった。

 もう少し詰めて言えば、仮にハンザがどちらかに肩入れするようなことがあっても、シュザンヌはそれからも独立して、自分の商売をする。

 国が土地を支配したいというのなら、好きにするといい。私はその上を走る車輪を支配する。

「でもさ、ここ以外でも、シュザンヌの力があれば、アングルランドに痛撃を与えることはできるんじゃない?」

「まあね。でも何度か言ってる通り、私はどちらの国にも付かないし、いきなり大きなことをやると、市場が混乱する。一度乱れてしまうと、綻びを繕うのに莫大なコストがかかる。見返りがありそうならどんなリスクも厭わないけど、今は博打を打つ意味がないわ」

「それもそうだ。けど今回のやり方は、やっぱりあんたの優しさが見えるよ」

「どういう意味よ」

 優しさという言葉は、好きではない。シュザンヌがそれを考える時、そこにはどうしても打算が働くからだ。人に優しくしようとする時、シュザンヌは相手に見返りを求める。それが本当の優しさではないことくらい、誰でもわかることだ。

「あんたがやろうとしてることで、助かる人たちがいるよ。今回は、この区画の人たちが助かる」

「一時しのぎでね。今日私の売る物が手に入らない人は、いい顔をしないだろうけど」

「たくさん買うのは、店をやってる人がほとんどだよ。ここには食事を出す店も多いし。その人たちが昔の値段にちょっと上乗せしたくらいで、いい料理を出せるかもしれない。何日かはね」

「そう。いいことが起きても、ほんの数日よ。長い目で見れば、何の意味もない行為ね」

「意味は、あるよ」

「どういう?」

「ちょっぴりだけど、希望が持てるじゃない」

「何の希望よ。まさか、アッシェンが勝つっていう?」

「違うよ。でも、一息ついて、昔はこんな感じでお腹いっぱいになれたって、思い出せる」

 エンマは微笑みながら、次の葉巻に火をつけた。

「感傷に浸ることが、希望とどう繋がるのよ」

「それを忘れちゃったら、いつか暮らし向きがよくなっても、取り戻せないじゃない。今の自分がこんなにささくれ立ってるんだって気づけたら、また貧しくなっても、みんなで助け合おうって思える。それで、いつか余裕ができた時は、みんな前より優しくなってるんじゃないかな」

「・・・ああ、それが最初の、優しさって話と繋がるのね。でも優しくなるのは、私じゃなくて、ここの人たちみたいね」

「みんなを優しくできるのは、本当に優しい人だけだよ」

「はあ? ちょっと話が飛躍してない?」

 エンマは笑った。眉尻を下げた、少し悲しげな笑い方である。

「ま、言うだけ野暮だったかな。いいよ、私の言ったことは忘れて」

 何か、煙に巻かれた気分である。実際に煙が飛んできたので、手で払う。外の風に当たりたくなって、シュザンヌは倉庫を出た。

「ちょっと、ここはもういいの?」

 追う声に応えず、シュザンヌは通りの方へ出る。

 後ろから長身の用心棒の、少し慌てた足音が聞こえた。


 広場の周りには、人が多い。

 水を止められた噴水を囲むようにたくさんの露店が出ており、人の行き来は少なくない。が、活気には欠けていた。人々の目は不安と苛立ちに沈んでおり、時折聞こえる露天商の大きな呼び声も、空元気といった感じが否めない。

 二人で露店の一つに並べられたしなびた果物を眺めている時、エンマのがっしりとした手が、シュザンヌの肩を少し乱暴に掴んだ。もたれかかるように顔を近づけ、シュザンヌに笑いかける。

 端から見れば、仲のいい友人が肩を抱いたように見えるかもしれない。が、ぬっと、さらに近づいたエンマの顔からは、いつもの飄々とした表情が消えていた。

「できるだけ、何気なく振り向いて」

「な、何よ・・・」

「噴水の近く、黒いショールを羽織ったおばさんに、見覚えある? 小さな台車を押してる」

 ただ事ではないことは、エンマの様子からわかる。シュザンヌは恐る恐る、後ろを振り返った。

 枯れた噴水の近く。人の流れに逆らわずゆっくりと歩く、女の姿を見つけた。顔はよく見えないが、おそらく初老だろう。被り物からはみ出した黒い髪に数本、白髪の筋が混ざっている。少し、足を引きずるような歩き方をしていた。

 女が、顔を上げた。こちらを見てはいないのに、何故か目が合った気がした。横顔。初めて見る女だった。

「おばちゃん、じゃあこれ包んで。あ、いや、すぐ食べるからいいや。このままで」

 エンマは隠しにオレンジをいくつか放り込み、露天商に代金を払っていた。その袖を、軽く引っ張る。

「・・・知らない女よ」

「もう、何気なくって言ったじゃん。まあいいや。あんたが使ってる忍びは何人か知ってるけど、見たことない人だから、どうなんだろうって思って」

「今、周りに張り付かせてる人間はいないわ。用心棒は、あなただけ」

 大分厚めのオレンジの皮を指で剥きながら、エンマは何か考え込んでいるようだった。

「食べる?」

「いや、今はいい」

「一応、話を聞いてみようか」

「気にしなくて、いいんじゃない? アッシェンかアングルランドの密偵かなにかでしょ。ハンザ大使の私が何をしにきたのか、探っていても不思議じゃない」

 こんなことは、エンマにもわかっているはずである。が、口にしたことで、かえって疑問は深まった。

「・・・何が、気になったの?」

「強いよ、あの女は」

 武術をある程度極めた者は、一目見ただけで相手の強さを見抜くことができるのだという。シュザンヌには、理解できない感覚だ。

「強いって、どのくらい」

「身内以外で、あそこまでの人間に、初めて出会った」

 身内とは、エンマがかつて所属していた、セシリアファミリーの面々のことだろう。あるいは彼女が子供の頃に触れ合ってきた、母のニコールや、リーダーだった"掌砲"セシリアのことかもしれない。

 ともあれ、そうした面子以外では、あの初老の女は相当な武術の使い手だということだろう。

「よし、ちょっと話をしてこよう」

「どうして」

「敵対してないってんなら、挨拶くらいはできるでしょ? 敵として現れたなら、あれは相当厄介だよ。どちらにせよ、今の内に、ね」

 少し目を離した隙に、女はこの区画から出ようとしているところだった。エンマと二人、人混みをかき分けてそちらに向かう。

 区画の隅に来た時には、女の姿は消えていた。

「そこ曲がったんでしょ。ここからは狭い路地が続く。追いかけっこは、私に土地勘のある所で終わらせたいね。パリシは、何度か来たことがある程度だから。じゃ、背中に乗って」

 そう言うとエンマはこちらに背を向けて、身を屈めた。

「え、何やってるの」

「おんぶしてあげるから。ほら、早く」

「嫌よ。恥ずかしい」

「この辺りはもう人通りないじゃん。誰も見てないよ。それにあんたの手を引きながらだと、あの女に追いつけない」

「そういう問題じゃないの」

「もう。シュザンヌは子供だなあ」

「はあ? いい歳しておんぶしてもらう方が、よっぽど子供に見えるじゃない」

「仕方ない。お姫様だっこで勘弁してよね」

 抵抗する間もなく、シュザンヌはふわりと抱きかかえられた。目の前には、エンマの大きな乳房が二つ並んでいる。

「ちょっと、何やってんのよ。下ろしなさい」

「ほら、喋ると舌噛むよ」

 言い終わるより早く、エンマは駆けだした。シュザンヌは小さく悲鳴を上げたが、この用心棒に聞く耳はない。

 角を二つ曲がると、あの女の姿が見えた。少し見失っている間に全力で駆けてこちらとの距離を取ったのかと思ったが、あの様子では、違う。女は台車を押しながらゆっくりと、足を引きずるように歩いているのだが、その見た目に反し、何故か女の足は速い。こうして見ていても全力で駆けるエンマと同程度の早さで、まるで手妻を見せられているかのようだった。

 裏路地に入った。空の台車はもう、打ち捨てられている。あの女の姿。角を曲がる度、わずかに翻ったスカートの端が見え隠れするが、段々と距離を空けられているのがシュザンヌにもわかった。

「駄目だ。追いつけない。どっかで近道できないかな」

 既に、中央の市場があった区画からは大きく離れている。エンマにとって未知の地域に入っているのも、速度の差になっているようだった。

 エンマの腕の中、シュザンヌは頭の中で地図を思い浮かべた。パリシの道は、ごく一部を除いてほとんど自分の足で歩いたことがある。

「そこ、右に曲がって」

 何故とは聞かず、エンマはほぼ直角に角を曲がった。裏路地。左右に窓と扉が並ぶが、視線の先は高い壁の行き止まりである。それでもシュザンヌを信じているのか、エンマは速度を落とさない。通行人が、慌てて壁に横のへばりつき、道をあける。

「あの壁の先は、屋敷の庭になってる。直進して庭を横切り、さらにもう一枚壁を乗り越えれば、多分奴は左の路地から駆けてくるところのはずよ。ギリギリだけど、間に合う。ここで私を下ろして、あなただけでもあの壁をよじ登って」

「オーケー。修理代はあんた持ちで頼むわね。あと舌噛まないように、歯くいしばって。行くよ」

「え、何を」

 すぐにエンマの考えていることがわかり、シュザンヌは奥歯を噛み締めた。

 壁。さらに速度を上げたエンマは直前で向きを変え、背中からその壁にぶち当たった。

 わずかな衝撃と大音響と共に、荒れた庭園に出る。エンマは土埃で咳き込むシュザンヌをベンチに下ろすと、庭を横切り、奥の壁に耳を当てた。

 エンマはしばらくしてからおもむろに拳を引き、右の一撃で壁をぶち抜いた。右腕を壁の向こうに残したまま、左手で壁石を崩していく。人一人通れるほどの穴が開くと、奥にはあの女の姿があった。女の左手首は、先のエンマの右手によって、がっちりと握られていた。

 シュザンヌが近づくと、女は怯えた声を上げた。既に壁の向こう側にいるエンマに続き、シュザンヌも開けられた穴を潜った。

「ごめんなさいね。この子がどうしてもあなたと話がしたいって。以前、どこかで会ったことがあるかしら」

 女が首を振る。エンマが少し力を入れたのか、女は掴まれた手首を引き離そうと、弱々しい抵抗をする。

「私が聞くよ。ねえ、これ以上手荒な真似はしたくないんだ。捕まったってのは密偵として格好のつかないことだと思うけどさ、悪いようにはしない。話してくれないかな」

「な、何のことだか・・・お、お願いです。離して・・・」

 めくれたままの、女の袖。そこから露出した腕は、はっとするほど肌理が細かく、綺麗である。女の顔に刻まれた皺や日焼けの痕とはそぐわない。巧みな変装をしているのだろう。女の腕の不自然な若さに気づかなければ決して見破ることはできなかったであろう、優れた技術である。

 不意に、女の目に光が宿った。弾かれたように、エンマが手を離す。そのエンマの顔には、これまでに見たことのない、獰猛な笑みが広がっていた。いつも飄々とした様子の彼女からは、想像できないような凄みのある表情だ。鳥肌が立つ。

 女も、不敵な笑みを返した。それとなく身を屈めていたのか、シュザンヌより低いと思っていた女の目線は、既に高い位置にある。

 息が詰まる。恐怖か、他の何かか。シュザンヌは知らず、胸を押さえた。

「敵じゃないんだったら、あんたのこと少し話してくれないかな。シュザンヌのことは知ってるけど、私のことは知ってるかな。エンマっていうんだ。あんたは?」

「エンマ。あの・・・」

 わずかに顔を傾け、女はエンマを見やる。怖い目をしているなと、シュザンヌは思った。

「母の名を、汚すなよ」

「へえ。母さんのことは知ってるんだ。で、どういう意味よ、それ」

「今は、意味を持たない。意味を持つようなことがあれば、私が自ら手を下すようなことも、あるかもしれないな」

「オーケー。あんたにどう思われようと、母さんの名を汚すようなことは、私もしたくないよ。で、あんたは私たちの敵なの、味方なの? あるいは」

「どちらでもないよ。珍しい客が来たので、様子を見ようと思っただけさ。そこでお前を見かけ、少し試したくなった。お前は、合格だよ」

 つまりは捕まえられるか、試していたということだ。逆に言えば、本当に逃げようと思えば、それができたということでもある。

「敵にはしたくないね。できれば、あんたのとことは仲良くやりたいもんだ。ね、シュザンヌもそう思うでしょ?」

「え、ええ。その通りね」

 エンマが葉巻の先をオイルライターで炙り始める。その顔からはもう、あの猛々しいものは消えていた。

「あんたの名前は? いや、今後あんたと顔を合わせるようなことがあれば、なんて呼べばいい?」

「マイラ」

「あんたが、打骨鬼か」

「よく知っている」

「ちょっと、ホッとしたよ。あんたみたいな使い手が無名だったら、こっちの世界も相当ヤバいと思ってたところだから」

 マイラが、微かに笑った。素の笑顔に近いのか、やはりこの女は相当若いのだろうという思いを強くした。もっとも、この忍びがこの顔で現れることは、二度とないだろう。

 騒ぎを聞きつけ、人が集まってきた。

「シュザンヌ」

 マイラが言った。声が、若くなっている。

「エンマは、あなたが思っているよりも、ずっと可能性を秘めている。あなたもその世界では、並ぶ者のない、いわば巨人なのだろう? 世界は違えど、武の世界で言えば、エンマはあなたと並ぶような格の存在になるかもしれない。例えば、大陸五強と言われるような。どうか、おかしな使い方はしないでやってほしい」

「・・・言いたいことは、わかるわ」

「こりゃどうも」

 肩をすくめて笑う用心棒に、マイラも笑顔を返した。

「私も、あんたみたいな使い手とやり合う機会が増えるのかな」

「さあ。できれば、お前を殺したくはないな」

 言って、マイラはさりげなく人の輪の中に入る。

 次の瞬間には、もうどこにいるのかわからなくなった。


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