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第29話「私が倒すまで、無事でいて頂戴ね」-4

4,「確かに、生き切ったって感じだった」


 ポーリーヌが討たれたとの報を聞き、リッシュモンは舌打ちした。

 たった今、バッドの率いるケンダル軍を敗走させたところである。正面からやり合ってみると思わぬ戦上手で、敵は大きく下がったものの、見た目程の損害を与えたようには思えなかった。北からの風が、西に変わる。この風なら、本陣がこの丘の裏から長弓で攻撃されることは、しばらくないだろう。城壁近くの丘でケンダル軍は再集結したが、あそこからここへの射撃も、無理だとみた。

 下馬し、煙草に火を着ける。兵というより馬を休ませる為の小休止だが、麾下の者たちも水袋に口を着けていた。北東、見える位置にキザイアはいる。あれの動向次第では、本陣に替え馬を取りに行った方がいいかもしれない。

 街道を挟んだ丘の、さらに西の窪地。ブルゴーニュ軍の最後尾が先程まで見えていたが、今は土煙が舞っているだけだ。

 次の斥候の報告で、ブルゴーニュ軍は丘陵地帯の西の端で、再集結を試みているとのことだった。追撃は厳しくなく、派手にやられた割には損害も大きくないようだったが、ポーリーヌが討たれたのは痛過ぎる。

 捕えられ、敵本陣へと連れて行かれたそうだが、生き残ってくれることを祈るしかなかった。今朝の彼女に、危ういものは感じていた。

 手前の西の丘の向こうから、クリスティーナの部隊が姿を現した。丘の中腹を併走する形でやってくるのは、ソーニャの部隊か。ザザの部隊ひとつであれを相手にするのは、用兵的にも兵力的にも、厳しいだろう。本陣からの指示か、スミサ傭兵隊がそちらへ援護に向かう。なお彼岸の兵力差はあるが、あれだけで敵騎兵の動きはそうとう制限される。勝てはしないが、かなりの時間稼ぎはできるはずだと、リッシュモンは思った。

 もう一度北に目をやると、ケンダル軍に続き、敵本陣近くにいたラテン傭兵隊も、西へ向かっていた。あの二部隊にマルトのグライー軍を加えれば、ブルゴーニュ軍を再度の敗走へ追い込める。特に、ポーリーヌを失ったブルゴーニュ軍は、指揮系統に大きな影響が出ているだろう。

 まだ目視はしていないが、昨晩グライー軍の残党と思しき敵部隊の移動が報告され、そのグライー軍は増員されたらしいと聞いた。昨日、リッシュモンが散々に蹴散らしたものの、失った以上の兵力を補充され、マルトは雪辱に燃えていることだろう。リッシュモンが近づけば、釣り出せる可能性はあった。

 東のキザイア軍が、どう出るか。リッシュモンがここを空ければ、本陣の攻撃へやってくることだろう。朝一番に瀬踏みのような駆け合いをしたことを除けば、今日のキザイアにあまり大きな動きはなかった。その朝の戦闘では妙にキザイアが前に出てくる傾向があったが、馳せ違ったのは一度、後は互いの刃だけが届く範囲で、剣を打ち交わし続けただけだ。まるで別れの挨拶をするように、キザイアの顔は、どこかに笑みを含んでいた気がする。

「この戦が終わったら、キザイアは軍人を辞めるんだってな。この後あたしらが勝っても、攻城戦になる。直接刃を打ち交わすのは、今朝が最後だったかもしれないなあ」

 副官の、ダミアンに言う。この男もキザイアよりは若いが、充分に老将の類である。

「惜しい、とは思いますが、大領主としての務めもありましょう。ですが私もあと四年は戦場に立てそうだと、かの将を見て思いました」

 キザイアとダミアンは、四つ違いだったか。ダミアンは今年六十になるので、キザイアは六十四となる。

「あと四年以内に、お前に代わる副官を見つけなくちゃならないなあ。一族に、候補はいるか」

「何人か、そろそろ私と並び立つ感じで、この軍の指揮を執らせた方が、いいかもしれませんな」

 従兄弟たちの顔を、何人か思い浮かべた。リッシュモンに兄弟はいないので、その内の誰かが、リッシュモン軍の後継となるかもしれない。リッシュモンが結婚すれば話は別だが、アルフォンスを諦めた今、婿の目処は立っていないし、考えたくもない。

「キザイアが引退するのは、やっぱ少し寂しい気がする。あたしが初めて戦場に立った時から、ずっと大将だったからな。手本にも、反面教師にもしてきた」

「あらためて聞くのもおかしいですが、どういう点を」

「細かい用兵は、多分キザイアを参考にしてる。が、あいつの戦いは、どこか真っ当過ぎる。奇策を必要としないくらい、自領の兵に恵まれ、練度も高かったからだろう。ウチも練度じゃ負けてないが、兵の補充が難しい分、いかに犠牲少なく、かつ完膚なきまでに相手を叩き潰すか、次やる時にどれだけ苦手意識を植え付けられるか、あるいは戦えなくなるようにできるかを、常に考えざるをえなかった。あいつの戦は虚実に溢れながら、根底には騎士道精神が横たわっていて、勝っても負けても、また気持ちよくやり合おうって感じだ。眩しいと、感じていた時期もあったよ。それだけに、何か根本的なとこで、合わないとも思った」

 駆けている時は止まっていたが、丘の上の寒風にさらされたせいか、また鼻を啜る羽目になった。ただ、今朝に比べて、体調は良くなっている気がする。

「戦ってのは、殺し合いだ。生き残ったとこで、片目を潰されたり、片腕を切断することになった奴が、負けたけど正々堂々戦えたって、胸を張って本来の生活に戻れるかよ。負けてもいいから、受ける傷は少なく故郷へ帰れた方が、絶対いいよな。キザイアは名家の当主だ、もっと高い所から物事見てんだろうが、足を引きずりながら流浪を続ける民を束ねる身としちゃあ、苛っとくるもんはあるよな」

「人を大切にする、キザイア殿は、そういう領主だとも聞きますが」

「なら、そもそも戦を止める側に回りゃいい。あいつの祖父が、ウチのご先祖さんとダチだったって、ポワティエの城門前で、あいつは言ったっけか。”正義の人”リッシュモンと、どうして行動を共にしなかったんだって、アングルランド王がアッシェンを侵略するのを諌める側に、一緒に回ってくれなかったんだってさ。名門が並んで王に反駁すりゃあ、百年戦争自体、止められたかもしれない。まあ孫のあいつに言っても仕方ねえが、結果として今もキザイアはアングルランドの名門で、こっちは民草食わす為に、生きる為にその命を差し出すような、皮肉な矛盾に追い込まれてる。あいつ個人は嫌いじゃないが、ああいう存在を、その生き方に乗ってきたあいつにも、負けちゃいけないって思ってる。正義を貫いた結果として、その領主に土地を捨ててまでついて来た民たちが、そして故郷を捨てたことで虐げられてきた人間たちが、最後に負けるってのは、夢見が悪過ぎるだろう」

 そこまで言って、リッシュモンはひとつ、大きく息を吐いた。

「言い過ぎたかな。ま、キザイアにはキザイアの言い分があんだろ。引退したあいつと、いつかゆっくり話したいもんだ。刃を交わす会話なら、もう話すこともないくらい、充分やり合ってきた」

 そのキザイアは、北東の丘付近を移動していた。こちらを窺う形だが、長弓の射程にも程遠い。

「好き嫌いだけで言えば、あいつのことは好きなんだと思う。湿っぽくなる。話の続きは、戦が終わった後にしようぜ」

 ふと目をやると、こちらの本陣に動きがあった。なんと、アルフォンス自身が兵を率いて、本陣から出てきている。見張り台の上ではフェリシテが戦場を見回し、部下に伝令の指示を出していた。全体の指揮は、彼女に任せる格好か。確かに、ブルゴーニュ軍が痛手を負った今、ザザとモーニカだけに本陣の守備を任せるのは酷だろう。が、総大将が、本陣に残っていた三千程度の兵で、ブルゴーニュ軍の代わりが務まるわけでもない。あの男なりに、何か事を起こそうという腹づもりか。

「そろそろ、あれを使うつもりか。っと、もう昼過ぎなんだな。日が落ちるのも早いし、頃合と言えば頃合か。もう、先方に指示は飛ばしてるんだろう」

 その本陣から、伝令が飛んでくる。

「リッシュモン軍、至急戦場南西の、ブルゴーニュ軍の救援に向かわれたしとのこと」

「お前らだけで、本陣守れんのか? あ、お前に言っても仕方ないよな。リッシュモン軍、至急ブルゴーニュ軍の救援に向かう」

「将軍のご懸念を、お伝え致しますか」

「いや、独り言みたいなもんだ。忘れてくれ」

 馬に飛び乗り、すぐに西への移動を開始した。遠回りになるが、街道を跨ぐ前に北西に向かい、クリスティーナとソーニャのいる丘の、すぐ裏を回ってもいいと思った。あの二人は、こちらを相当に警戒するだろう。それが短時間でも、ザザとモーニカの援護になる。丘を下りる前に、リッシュモンは振り返った。

「あばよ、キザイア。いつかあんたと、いい酒が飲めたらいいな」

 小さくなっていくキザイアの軍に、リッシュモンは大きく手を振った。



 リッシュモン軍が来てから、ほとんど膠着に近い形になった。

 革手袋の親指を口元にやっては、我に返る事を、マルトは繰り返していた。手袋をしていなかったら、爪を噛んでいたに違いない。

 ポーリーヌを失い、ブルゴーニュ軍はジョアシャンの稚拙な用兵ですぐに瓦解に追い込めると思っていたが、駆けつけたリッシュモンが半ば両軍の指揮を執る形になると、両者ほとんど押し合い、睨み合うだけの、膠着に持っていかれてしまった。あれだけあったブルゴーニュ軍の隙が、今はほとんどないのだ。その僅かな隙もリッシュモンの罠かと疑うと、アメデーオもバッドも、大きく兵を動かせないのも仕方なかった。マルトは二度、本陣へ替え馬を取りに戻ったが、急いで戦場に復帰してもまるで同じ光景が繰り広げられていることに、逆に動揺する有様だった。

 日が、弱くなっている。クリスティーナの軍も本陣前で優勢な展開を続けているものの、あと一押しに欠けるらしい。

 ブルゴーニュ軍はなお、一万三千程の兵力を維持していた。これにリッシュモンの四千が加わり、一万七千程度か。マルトのグライー軍、ケンダル軍、ラテン傭兵隊の三部隊合わせて、こちらは二万一千弱である。押し潰すには兵力が拮抗しており、兵力を活かして優勢を保つのがやっとという有様だ。特に、マルトの部隊を、リッシュモンが完封してしまっているのが痛い。まともなぶつかり合いはなく、押せば引き、引けば押すの繰り返しである。駆け合いの際に幾度か出し抜かれてもおり、あちらの騎馬隊にも一度、替え馬を取りに行かせる失態を演じている。

 ここで是が非でもリッシュモンの首を獲っておきたいが、昨日の雪辱を晴らしたいという、ただの下らぬ自尊心であると、マルトは自分を律し続けた。あるいは兄の存在がなければ、とっくに釣り出されていたかもしれない。リッシュモンの動きは、明らかにマルトを挑発していた。

 後方に控える、セブランの方に目をやる。まだ剣を振るうに心許ない兄は、歩兵を指揮していた。グライー軍の主将は今もマルトであり、セブランはいつものマルトの位置で、部隊を補佐している。セブランが、兄様が大将でいてくれたら。その兄の副官として完璧であろうと努めてきたため、指揮能力で兄に劣るとは、実のところマルトは思ってはいなかった。完璧な副官は、大将の戦を完璧に熟知していなければならないからだ。

 一族、美男美女が揃うグライー家において、ほぼ唯一容姿に恵まれなかったマルトは、器量も才能も、グライー家の最高傑作と謳われる兄を、支え続ける事を生き甲斐にしてきた。セブランが光り輝く道を、何の憂いもなく歩み続けられるよう、それだけを考えて生きてきた。

 優し過ぎる兄に代わって、兵の調練を過酷にし、部下には厳しく接してきた。時に、陰口も叩かれてきた。容姿の劣等感から下の者をいじめ抜いている陰険な小娘と、見た目も性格も悪過ぎると、天幕の裏でマルトを罵る者は少なくなかった。全て、耐え忍んできた。兄弟たちは見た目以外に何の素質もないくせに、マルトを一族の出来損ないと罵ってきたが、セブランだけがマルトをずっと庇い続け、また労いの言葉をかけ続けてくれたからだ。

 セブランだけが自分の理解者で、マルトの理想の顕れだった。セブランの為だったら、マルトはいつだって自分を捨てられる。

 かろうじて見えるトゥール城壁の垂れ幕から、視認できない敵の位置を把握する。もう一時間以上、両軍に目立った動きはなかった。

 日が、さらに陰り始める。今日の決着はなさそうだ、と思っていたところで、斥候がちょっと驚くような知らせを上げてきた。各軍、全体とは異なる独自の斥候も放っており、この斥候もグライー軍のものだった。

「元帥が・・・押されているのですか?」

 クリスティーナ、ソーニャ、キザイアの軍で、本陣付近の敵を攻撃している。あちらも膠着だが、兵力差もありじわじわと押しているという話だった。敵総大将アルフォンス自ら本陣を出ることで、攻めきれない戦にはなっているとのことだったが、押し返してきたとなると、想定外である。あの丘の向こうで、何が起きているのか。

 大きな仕掛けがあって、あるいは敵の奇策で、戦局が動いたわけでもなさそうだった。細かい用兵の積み重ねだけで、クリスティーナたち相手に勝機を握り、反転攻勢を展開しているらしい。

 続く斥候の報告は戦局の悪化を知らせており、敵軍は決死の勢いであるとのことだった。何だ。今日中に勝ち切る必要が、アッシェン軍にはあるのか。にしては目の前のリッシュモン、ブルゴーニュ軍の動きは小さい。ちぐはぐである。自分がリッシュモンなら、まだ図体の大きいブルゴーニュ軍にひたすら守りを命じ、すぐにクリスティーナの首を獲りに行くところだ。丘一つ向こうの戦況を、リッシュモンが知らないとも思えない。両軍の斥候と伝令は、蠅のようにそこら中を飛び回っている。

 クリスティーナの首を獲り、一発逆転の好機があるとしたら、ここしかないんだぞ。そう思って、マルトは一つの作戦を思いついた。リッシュモンとの距離がまだあるのを確認して、マルトは単騎、後方のセブランの元へ向かった。

「兄様、アルフォンスの首が、獲れるかもしれないです」

 敵総大将は、今も最後方に位置していると聞いている。馬上でつらそうに、それでも気丈に背筋を伸ばしているセブランは、こちらを勇気づけるような笑顔で言った。

「私も、同じ事を考えていた」

 勝てる。この時マルトは、はっきりと確信した。

「ここは、私に任せろ。日暮れまでなら、必ず持ち堪えられる」

 持ち堪えてみせる、という覚悟ではなく、それができるという冷静な判断に、マルトは今度こそ勇気づけられた。

「精鋭百騎で、アルフォンスを急襲するです」

 いくら敵が押しているとはいえ、あちらは乱戦に近いだろう。そして百騎という少数なら、敵の斥候に捕捉されずに後背を襲うことが出来る。特に名馬揃いの精鋭なら、見つかったところで斥候の知らせより速く、移動できるのだ。

「私のマルト、武勲を上げてこい。今のお前は、私の負傷がなくとも、この軍で一番の将だ。お前なら、できる」

 マルトの身体は一度、激しく震えた。これが、武者震いというものなのだろう。セブランの確信に満ちた目にさらに励まされ、マルトはすぐに百騎を編成した。不意に、視界がぼやける。自分がそう思い定めるだけでなく、セブランに、グライー家最高の人間に、認められた。半ば激励とわかっていても、涙が止まらない。

 何故ならマルト自身も、この瞬間、用兵うんぬんという細かい部分だけでなく、軍人として間違いなくセブランと肩を並べたことを、自覚したからだ。人生最良の日といっていいだろう。

 矢のような速さで、目の前の戦場を離脱する。やや南に迂回した後、北東を目指した。敵本陣。その少し北で、土煙を激しく吹き上げながら、両軍が激しくぶつかり合っている。最後方、さらに本陣近くの、孤立した部隊。いた。麾下と思われる五十騎程と共に、兜も被らずに軍の指揮を執っている男。まだ顔までは見えないが、何度か戦場で、遠目ながらもその容姿は確認している。すらりとしているが、目の細い男で、起きているのか寝ているのかわからない、掴み所のなさそうな男だった。

 もう、涙は止まっている。アルフォンス。どこかのんびりした様子で、こちらを振り返った。指示を出し、軽騎兵の一部隊が、こちらに馬首を回した。二百騎ほどか。が、こちらがアルフォンスに辿り着く方が早い。討てる。確実に、その首をもらう。

 不意に、肌が粟立つ。

 振り返ったマルトは一瞬、遥か後方に見えたものが何なのか、理解できなかった。丘陵地帯の、さらに西。マルトたちが布陣していた場所よりも、ずっと西。戦場を避ける形で、北へと向かう部隊。速い。それも大きい。五千前後か。どこの軍だ。あれだけの規模が、一体どこから?

 先程までと意味合いの違う涙が、こみ上げてくる。ここで振り返ることができたのは、勘だけではない。敵の配置を見て、リッシュモンが動かなかったことの意味を理解し、どこかでこの戦の全貌を俯瞰できていたのだ。

 悔しいという思いと、今まさにセブランですら気づかなかったアッシェン軍の戦の狙いに、マルトだけがアングルランド軍で唯一この戦を理解できた誇りに、感情が追いつかない。

 なのでなおさら、悔悟の念は強い。この百騎で、背後に見えるあれを止めることはできない。負けた。盤面を引っくり返すにはもう、その一縷の望みを託すにはもう、アルフォンスの首を何としても獲るしかない。

 大動員の十万の、速過ぎる動き。傭兵を見つけることのできない土地での、大規模な援軍。リッシュモンが、いつからこの手を使おうと思っていたかは定かではない。が、二、三週間で、ここに駆けつけられる、敵の勢力はいたではないか。少なくともパリシ解放にも参戦した、あの勢力だけは。アッシェン南部だ。何故あれが、絶対にこの戦に介入しないと、思い込んでいたのか。あれが近づくことを、大動員の動きは隠していたのだ。小分けにして、ここに集まる雑魚の中に、あれを隠して移動させていたのだ。

 今まさに、マルトは南部軍最高の将として、覚醒した。そのことと、たった今手許にある戦力の落差は、運命の皮肉としか言い様がない。この世に生を受けた時から、そうだ。神はどこまでも、マルトに意地の悪いことをする。

 急速に近づいてくる、アルフォンスの姿。あちらも、迎え撃つ構えを取った。アルフォンスが長剣、そして左手に小剣を抜く様を見て、マルトは今度こそ驚愕した。

 “白い手の”アルフォンス。ブルゴーニュ公に取り立てられ、身分不相応にもその作戦参謀を務めてきた、冴えない田舎の小領主。白い手袋をしているから、またその手袋が汚れないことから、そんなあだ名がついたことは知っている。犠牲の少ない作戦を立案し、負け続けた戦の、殿軍を務めていた男。思えば、この男は武勲と階級が、まるで釣り合っていない。頭は切れるのだろうが、なぜそれだけの男がアッシェン南部軍の元帥に?

 全ては、今思っても仕方のないことだった。ただマルトは将として高みに立ったと自覚してなお、アルフォンスという男のことは何も知らないのだと、痛感したのだった。長剣と小剣の、二刀。この男が戦場でそんな得物で戦うのだと、今初めて知ったのだ。アングルランド軍は皆、印象だけで、この男を語ってきたのではないか。一体誰が、たった一言の雑談でも、アルフォンスがどういう剣を遣うのだと、話題にしてきた?

 この男のことを、理解できていない。戦略眼も、剣の腕も、何も知らずに南部軍は戦ってきた。

 だから、ことごとく負けるのだ。リッシュモンという悪目立ちする存在に目が行き過ぎ、誰もがそちらばかり気にしていた。リッシュモンの添え物の様に、アルフォンスという男を捉えていた。たった今マルトだけが、この南部戦線の深淵を見ている。田舎貴族が、一夜にして元帥にまで昇りつめたのに、アッシェン軍の誰もがそれを認めたというのは、つまりそういうことなのだ。リッシュモンでもザザでもなく、この男が最も長く、激しい戦が続いている、アングルランド南部軍最高司令官だ。

 アルフォンス。もう目の前にいる。槍を、突き出した。

 目の前を、光が交錯した。



 キザイアの軍だけが反転し、猛烈な勢いで北に引き返した。

 それを見て、クリスティーナは潮目が変わったことを、はっきりと感じ取った。現状認識が追いつく前に、トゥールの方から全軍撤退の角笛が鳴り響く。思わず、声を上げそうになった。敗北? 負けたのか? 確かに、今はアッシェン軍の思わぬ反転攻勢に、押されてはいる。ただ、それもいずれは盛り返せるはずだ。トゥールを振り返っても、城門は閉ざされている。ベラックとは真逆の光景だが、城は、まだ無事だ。

 が、キザイアがクリスティーナ、ゴドフリーの命令を無視し、歩兵が遅れるのも構わず、自ら先頭に立って全速力で城を目指しているのを見て、視界の外で、何か尋常ならざることが起きているのを、悟らないわけにもいかない。

「ともかく、撤退を開始する。追撃に備えて」

 言い終わると同時に、ソーニャが麾下だけを連れて、こちらにやって来た。顎の下から、汗が滴り落ちている。

「歩兵を二千、預けてもらえませんか。それで、殿軍はこなせます」

「すぐに編成させる。どうか、生き延びて」

 敵本陣の方からさざ波のような歓声が広がり、こちらまで伝わってきていた。少しして、斥候が状況を伝えてくる。

「マ、マルト様が、敵将アルフォンスに討たれたようです」

「マルトが? なぜあそこに? どういう状況なの?」

 何かおかしなことが、方々で起きている。西。ブルゴーニュ軍の援護に回っていたリッシュモンが、北に駆けて行くのが見えた。こちらも騎馬隊だけで、歩兵は置き去りにしている。キザイアとリッシュモンの騎馬隊が、街道を挟んで鏡合わせのように駆けて行った。

 落ち着け。自分に言い聞かせ、北へと引き返す。城門に、見覚えのない部隊が取り付こうとしているのを見て、ようやくクリスティーナは、現状を理解しつつあった。

 敵の、別働隊。騎馬が半数以上だが、五千程か。しかし、一体どこから。動きの良さは、こんな遠目でもわかる程だ。大動員の中の、精鋭部隊か? いや、それならその部隊だけ先行して、初めから配置しておけばいい。あんな部隊が最初からいれば、アッシェン軍も犠牲を少なくできた。たった今、あるいは数時間前にようやく、あの部隊はこの戦場に駆けつけてきたのだ。

 リッシュモンよりもわずかに先に動いていたキザイアが、その敵軍の騎馬隊と馳せ違う。落馬したのは、こちらの兵の方が多い。敵もここに急行してきたのだろうが、朝から戦っていたこちらとの疲労度の差は、はっきりと出ていた。もう一度両軍がぶつかり合い、今度こそ間違いなく、キザイアの軍は大きな損害を出した。

「重騎兵だけで、先行する」

 叫ぶように言い、クリスティーナは馬腹を蹴った。キザイアに遅れて、ケンダル軍も城門前に辿り着いたが、リッシュモンの騎馬隊に横腹を衝かれ、バッドはなんとか自軍が潰走しないよう努めるので精一杯だ。

 敵将。橙色の長髪をなびかせる、赤備えの猛者。身の丈に迫ろうかという長柄の戦斧を、振り回している。相当に大きいが、女だろうか。兜ではなく頭に鉢金を巻いているが、初めて見る将だ。

 旗印が、見えてきた。赤地に、下部に砦、上部は、かぎ爪か何か。赤地に砦だけでも、所属はわかった。あれは、辺境伯領の軍だ。

 完全に、その存在を失念していた。一応、アッシェン王に剣を捧げた勢力であるが、この南部戦線には、関与してこなかった勢力なのだ。

 何故今頃、そしてこの機に。謎が多過ぎるが、これこそリッシュモンの策という気がした。五千と見られる軍の急襲に、ベラック攻防との、奇妙な相似を感じる。リチャード隊五千騎の、誰も予想しえなかった急襲に、あの時クリスティーナは助けられた。その意趣返しだろうか。アングルランドの誰もが思いつかなかった五千の軍が今、トゥールの城門に迫っている。敵後方の歩兵隊から、組み上げられたばかりの破城鎚が運ばれている。城門前をアッシェン軍に固められ、あれが城門に取り付いたら、トゥールへの侵入を許すことになる。

 後方を振り返ると、両軍の部隊はそれまでの戦をかなぐり捨て、トゥールの門を目指していた。どこの部隊か、軽騎兵が陣形もまとまらぬまま、城門へと駆けて行く。

 ここでようやく、クリスティーナはリッシュモンの作戦を理解した。あの五千を隠す為に、大動員の兵を動かしていたのか。五十、百と小分けにすれば、事前に発見することは至難であり、そもそも行軍も速い。ポワティエ南部までは斥候を出していたが、さらにその南、実は意外と近い辺境伯領の傍までは、斥候を出すという発想自体が、こちらになかった。

 出す機といい、その強さといい、これぞ伏兵だった。じっとどこかに潜んでいるのではなく、遥か遠方から駆けつけてきた伏兵というところが、いかにもリッシュモンらしい、常識破りの作戦である。そこにいなかったのだから、いくら周囲を警戒したところで、発見のしようがなかったのだ。

 しかしあの精強さは、一体どういうことだ。なるほどあれなら、最初から出さなかったのも頷ける。隠し玉というには、強烈過ぎる部隊でもある。初めから戦場に出していたら、真っ先に狙われていただろう。

 いきなり、全ての用兵が意味を成さなくなっていた。破城鎚の到着前に、城門が開かれる。多少の敵兵の侵入もやむなし、今は一人でも多く自軍を中に招き入れようということか。中からはゴドフリー自らが率いる守備隊が、門の両脇を固めていた。指示があったのだろう、一番近くにいたケンダル軍が、城内へと一目散に駆け出していた。次いで、ラテン傭兵隊。撤退の角笛が、戦場の、赤く染まった空を振るわせ続けている。辺境伯とリッシュモンの軍が、ゴドフリーの軍に猛攻を掛けづけている。キザイアが敵軍の中で、大剣を振り回していた。

「早く、中へ」

 自らも馬上で剣を振るうゴドフリーの声が、駆け抜け様に聞こえてきた。

 馬に最後の力を振り絞らせ、クリスティーナは一気に城門を駆け抜けた。

 まだ、中へ逃げ込んでくる兵たちは多い。それを邪魔しないよう、半ば凍りついた意識で、大通りから城内の練兵場を目指す。負けた。通りのあちこちでへたり込む兵たちを見て、そう思う。

 今回も、実にあっさりと、負けたのだ。



 クリスティーナを逃がしたが、それにこだわる必要もなかった。

 破城鎚は見せ札であり、本気でこれ一基で城門を破ろうとしていたわけではない。というより、破城鎚はこれ一基しか用意していなかったのだ。当然、これ一つで城を落とせるはずもない。が、効果は絶大で、破城鎚を見て慌てた敵兵を、城に逃げ込まれる前に、一人でも多く倒すのが狙いであった。

 思わぬ伏兵に、アングルランド軍は状況を見誤った。大体、大動員の兵がまだ集結していないのに、こちらが寡兵なのに、城を落とせるはずもないのだ。が、この伏兵が現れたことで、実はこちらに思いも寄らぬ援軍があるかもしれないと誤解するのも理解できる。援軍五千に、まるで気づかなかったのだ。さらに五万が隠れていないと、どうして断言できる? 全軍撤退の命令は司令部のゴドフリーからだろうが、万が一を考えて撤退を命じたのは、理屈から言って正解である。

 真っ先にこちらの動きを察知したキザイアが、今も鬼神のごとき奮闘を見せている。長く血の尾を引いた大剣がうなりを上げる度、こちらの兵の首が飛び、あるいは頭が砕かれた。

 既に、ブルゴーニュ軍も、この乱戦に加わっている。用兵云々の戦でなくなった分、ジョアシャンの剣は活きる。咆哮を上げ、馬上で大斧を振り回すこの男を、今ほど頼もしいと感じたことはない。生死は不明だが、捕縛された愛娘ポーリーヌ奪還の決意も、その奮戦に拍車をかけているのだろう。

 ここまで全速力で駆け、続けて全力で戦い続けた。乱戦から少し兵を下げ、リッシュモンは兵たちに三分の小休止を命じる。供回りだけを連れ、長身の女戦士がこちらにやってきた。右目の上から左の頬にかけて、酷い傷痕を刻まれた女だ。

「申し遅れたな。辺境伯のラシェル、ここに参上した。その特徴的な出立ち、貴殿がアルベルティーヌ・リッシュモンでよいのだな」

「”辺境の槍”ラシェル。定刻通りの助力、感謝するぜ。何度か書簡のやり取りはしたが、こうして会うのは初めてだよな?」

「いや、お前がまだ三つの時に、辺境伯領を訪れている。さすがに、覚えていないか。黒い髪でやせた、こんな小さな娘だった頃のお前を、私は覚えている」

 辺境伯領、ジョーヌプレリー領にいたことがあると父に聞いたことはあるが、それ自体の記憶はない。しかしいくらか歳上のラシェルは、幼いリッシュモンを記憶していたらしい。

「書簡ではそのことに触れなかったが、あの時の小娘が辺境伯領に助力を求めていると知って、不思議な気持ちになったよ。まず私に書簡を出したのも、正解だったよな」

「アッシェンの危機にだんまりを決め込んでいる辺境伯の中で、あんただけがパリシ奪還に駆けつけた。脈はあると、思ったよ」

 辺境伯、ラシェル・デ・ジョーヌプレリー。女丈夫だとは聞いていたが、身長は同じくらいでも、ポーリーヌを遥かに凌ぐ威圧感だった。日々、南のデルニエールより押し寄せる怪物から、アッシェンはおろか、ユーロ地方全域を守っているだけはある。そしてパリシ奪還戦において最も不利とされた戦線で、ライナスの娘エイダを倒し、まさかの勝利をあげた勇将でもあった。

「あれが辺境伯の首領格であるドゥーソレイユ伯に届いていたら、この話も揉み消されていたかもしれないぞ。辺境伯領の総意としては今なお、百年戦争に関わることを、良しとはしていないのだ。お目付役も、ついて来ているしな」

 ラシェルの軍は、今なお逃げてくるアングルランド軍に攻撃を続けている。後方で指揮を執る女の肌が黒いが、あれがエイダを直接斬ったダークエルフ、ブランチャなのだろう。

 もう、大半の部隊がトゥールへと逃げ込んでいる。殿軍は、ソーニャだったようだ。軽騎兵と共に果敢に駆けて、近づく兵を寄せ付けず、歩兵を、あるいは馬を失った騎兵を、一人でも多く城内に導いていた。ザザの軍がそれを追っていたが、ソーニャの部隊には近づくことすら難しそうだ。そのソーニャがしばし脚を止め、城門近くの部隊に敬礼をした。まだそこにいて大剣を振るい続ける将に、感謝と惜別を、この混乱の中では長過ぎると思う程に、その念を送っていた。

「もう、この戦も終わりが近い。あれを、どうする?」

 ラシェルが親指で差したのは、そして先程までソーニャが別れを告げていたのは、今も血刀を振り回し、アングルランド軍の退路を確保している、キザイアである。

「あれはもう、助からない気がする。あの傷で剣を握っているのが、信じられないくらいだ。私が、とどめを刺してきてもいいが」

「いや、あいつの介錯は、あたしがやる。長い、付き合いなんだ」

 騎兵だけを集め、乱戦の中に突っ込む。全身血に塗れた老将は、しかし全てが返り血ではないことが、すぐにわかった。

 馬体がぶつかるほどに近づき、振り下ろされたキザイアの大剣を、鋸の刃で斬り飛ばした。飛んで行った刀身が地に着く前に、もう一太刀浴びせる。返り血が、雨のように降り注いだ。

 馬上から落ちたキザイアを見て、残りの兵も潰走した。狭い城門に兵が殺到し、押し潰された者もいるかもしれない。くぐもった悲鳴が、何度も聞こえてきたのだ。

 下馬したリッシュモンは、キザイアの傍で膝を着いた。辺りにはもう、敵兵の姿はない。城門が、慟哭のような軋みを上げながら、閉じられていく。

「あたしが、幕を下ろしてやることになった。キザイア、何か言い残すことはあるか」

 傷口を押さえ、苦しそうに胸を上下させる老将だったが、その顔は微かに笑っている。

「やり残したことはありますが、やり切ったという充足もあります。だから、言い残すことはありませんよ」

「クリスティーナに、何かないのか」

「何も。あの子なら、立派にやり遂げるでしょう」

 大きく息を吐いたキザイアは、それで息を引き取ったようだった。瞼を閉じさせ、リッシュモンは立ち上がった。

「誰か、顔を拭いてやってくれ。後で、城の奴らが引き取りにくる」

 それだけ言い残し、リッシュモンは自陣へ戻ろうとした。アルフォンスが、麾下と共にこちらに駆けてくるのが見える。白い手袋に、血がついていた。無論、この男のものではないだろう。

「マルトを斬ったって? やるじゃん」

「どこか、御心を乱している様子でしたね。それがなければ、私が斬られていたかもしれません。おそらく、命を取り留めると思います。本陣で、手当てに当たらせています。意識も、あるそうで」

「互角くらいかと思ってたけどな。ま、勝つ時はそんなもんだろう。ラシェルを出す機は、お前に任せてよかったよ」

「まだかまだかと、散々催促されましたよ。あ、これはこれは、ラシェル殿」

「アルフォンス元帥だったな。いや、苦戦しているなら早く出させてくれと、所詮猪武者の戯れ言と思っていい」

 ラシェルに何度も頭を下げるアルフォンスの姿は、どちらが総大将かと疑いたくもなる。

 城壁から矢が飛んでくる気配はなかったが、それでも全軍、それが届かない距離まで下がった。

 胸壁に兵が立っているのが見えなかったら、無人かと思う程に、城は静かだった。頃合を見て、リッシュモンは白旗を掲げて城門へ向かった。白い旗は交渉の旗であるが、負けている側が出せば、降伏を意味している。今は、勝ったリッシュモンが、白旗を掲げている。交渉があれば応じてやるという、勝利の旗である。

 城門がわずかに開き、クリスティーナが単騎で出てきた。西陽が、その影を長く伸ばしている。二つに結い上げ、巻いた銀髪に、人形のように整った顔つき。半年前の彼女と一緒だが、その表情は同じ人間とは思えないくらいに、大人びていた。十七歳、今年で十八歳か。多感で、最も伸びる時期の最後に、この若過ぎる大将を負かし続けたことになる。

「アングルランド南部軍元帥、クリスティーナよ。あなたの方から白旗を揚げてくれて、助かる。緒戦ではあるけれど、負けた身。譲歩できるところは、そうさせてもらうわ」

「今更だが、リッシュモンだ。面倒くさい話は、なしにするか。数、階級問わず、捕虜は全て交換する。それでどうだ」

「こちらの方が、多く捕虜を取っていたんだけどね。まだ、あの本陣にいる者も多い。ポーリーヌは、しばらく動かさない方がいいと聞いた」

「助かりそうか? お前が、斬ったらしいが」

「ブルゴーニュ公の甲冑は、通常のそれと比べて、分厚いそうね。彼女のも、そうだったと思う。骨まで斬ったけど、その下までという手応えではなかったわ。まだ意識は戻ってないけど、出血は収まったそうだし、多分生き残るでしょう。マルトの容態は?」

「意識は、あるそうだ。助かるだろ」

「よかった。母さんの、遺体は」

 クリスティーナの紫の瞳は、微塵も揺れることはない。その彼女の心中を、慮ることはできなかった。

「すぐに、出せるようにしてある」

「何か、言い残した?」

「お前なら、やり遂げるってさ」

 その言葉を聞いた時だけ、クリスティーナは一度、強く、強く目を閉じた。彼女に向けられた言葉ではなかったが、残された言葉を伝え、不器用な親子の橋渡しにはなったと思う。

「大動員まで、一週間くらいかしら。その間に、捕虜の交換は済ませる。これでいい? それと、原野に散らばった遺体は、身許に応じ、各軍が引き取り、埋葬する。一週間、休戦というわけにはいかないかしら」

「それでいい。お前とこうして、向かい合って話すのは初めてだが、それでもなお、軍人として成長しているのかもしれないと、そう感じる。キザイアも、天国で見てるだろうよ。気丈なその振る舞いに、敬意を表するぜ」

「ベラックに、撤退した辺りからかしら・・・」

 形のいい唇に指先を当て、しばしクリスティーナは遠くの空を見つめた。横顔はまだ、充分に少女の面影を残している。

「母さんとは話す度に、別れを告げられてきたような気がする。口では早く自領に帰って、やることがあると言っていたけど、もう、母さんとの時間は、あまり残されていないような気もしてた。怖かったのね、私も、ずっとそれに気づかない振りをして。だから勝っても負けても、母さんはここで命を落としていたような気がする」

「予兆は、感じてたのか。病でも、得ていたのか?」

 静かな時間だった。二人の馬すら、嘶きを忘れて沈む夕陽を見つめている。

「いえ、生き切った、そんな顔をしてた。息を引き取る前に、母さんと話したんでしょう?」

「笑ってたな。確かに、生き切ったって感じだった」

 その母と同じような顔で、クリスティーナは笑った。が、この娘はまだ生き切っちゃいない。というより、こんな小娘に、そんな顔をさせるべきではなかった。

「思っていたより、ずっと話しやすい。あなたのことが好きになりかけてきたわ、リッシュモン」

「老成してるな。あたしは、肉親を斬られて、そこまで達観できる自信はない」

「ラステレーヌでは、恋人もあなたに斬られた。あの時は取り乱したけど、もうずっと、昔のことのような気がする。いつかあなたと、ゆっくり話ができる気もするのよ」

「あたしはキザイアに、そんな思いを抱いていたな。斬るならあたし以外にないと、そうも思ってた」

「私も同じよ、リッシュモン」

 はっとするような笑みで、クリスティーナは言った。

「私が倒すまで、無事でいて頂戴ね」

「言いやがる。一週間後に、包囲戦を開始する。お前らが降伏する際には、またこうやって話せるだろうよ。ま、一、二ヶ月後ってとこだな」

 それには応えず、クリスティーナは馬首を返した。黒い甲冑の背中を見せたまま、こちらに手だけを振って、彼女は城門を潜った。

 アルフォンスの元へ戻り、交渉の内容について話した。

「ラシェル、あんたはいつまで残れる?」

「一ヶ月といったところか。が、辺境伯領から帰還の命令が出次第、おいとまさせてさせて頂く」

「充分だ。もう少し、付き合ってもらうよ。一週間は、互いの死者の弔いに費やす格好だけどな。遠方はるばるってやつだ。あんたらは、休息に当ててくれ」

 自陣に引き返しながら、リッシュモンはもう一度、トゥールの城門を振り返った。見張り台の上、そこにただ一人立っている人影が、夕闇でよく見えもしないのに、クリスティーナだとわかった。

 それに一度だけ手を振って、リッシュモンは手綱を握り直した。




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