第29話「私が倒すまで、無事でいて頂戴ね」-3
3,「ギルフォードのクリスティーナ。承る」
日が落ちかけるのを見て、クリスティーナは全軍に後退の指示を出した。
この季節であり、やはり日は短い。日中通してほぼアッシェン軍を圧倒できたものの、やはりリッシュモンの用兵で思わぬ犠牲も出ていた。が、いくらその動きが読めないとあってなお、どこかの部隊が大損害を出すことは、かろうじて想定内であったと言える。
それがグライー軍であったことは、痛恨である。しかし、部隊の半数以上は明日の戦いに耐えられそうであるし、何よりマルトが無傷である。
本陣に戻ろうとすると、そのマルトが入り口の柵の横で頭を垂れていた。
「私の失態です。どんな処置も、受ける所存なのです」
「いえ、全ては私の責任よ。マルト、怪我がなくてよかった。あなたまで失ったら、グライー軍は立て直せない。そしてあなたはもっと、強くなる」
そういえば、今日中にもマルトの兄セブランが、ベラックで散ったグライー軍の残党を引き連れて、援軍に駆けつけるという話だった。まだ、到着の知らせはない。
自分の天幕に入り、クリスティーナは顔を洗った。久々に、返り血を浴びている。銀髪に染み込んだ赤は、よく目立つ。どこかで、髪だけでも洗っておこうと思った。
唇に薄い紅だけを差し、クリスティーナは軍議用の天幕に向かった。一度本陣に戻って兵糧を取る機会はあったのだが、妙に空腹感を覚える。思えば総大将として指揮した戦で、初めて最初の一日を大敗もせず乗り切ったのだった。その夜の軍議すら許されず、リッシュモン、アルフォンスに負けてきたのだ。
兵糧の配食に並び、兵と同じものを摂ることにした。城壁のすぐ下の本陣なので、城に戻って豪華な食事や熱い風呂に入ることはできる。が、キザイアがかつて、そして今もそうであるように、戦場では極力、兵と同じものを摂るようにしていた。総大将として初めてこれをやる自分が、情けない。キザイアの一部将であった頃は、滞陣中はいつもこうやってこれたことが、少し遠い記憶になりつつある。
ただ城が近いことで、応急処置だけでは済まない負傷兵を、速やかに城内の医療施設へ回すことはできた。ここでアングルランド南部軍を撤退させられれば御の字だが、どちらかの決定的な勝利で終わらない限り、戦はこの後も籠城という形で続く。負傷兵には一人でも多く、その時に復帰してもらいたいところだった。
目立たぬよう、麾下と並んで長椅子に座り、糧食を取る。勝っているからだろう、表情の明るい者が多い。兵たちの雑談にしばし耳を傾けた後、クリスティーナは軍議用の天幕へ向かった。
中に入ると、城から出てきたゴドフリーが、他の諸侯と地図を挟んで、何やら話し込んでいた。振り返った一同の敬礼に返礼し、クリスティーナもその輪に入る。
「東の丘に、もう少し誘い込めるような用兵はできませんか、参謀」
キザイアが言い、ゴドフリーは顎に手を当てて考え込んでいる。今日のキザイアは東の丘陵地帯に潜伏し、犠牲をほとんど出さなかったが、リッシュモンと何度か瀬踏みのような懸け合いをしただけで、大した戦果も上げられていない。潜伏することで敵本陣にその存在を警戒させてもいただろうが、こちらの本陣を守る意味合いもあった。両面に使える便利な手札によくあることだが、使い道を見失ったまま終局を迎えることもある。
「今日は概ね、こちらの優勢で終わりました。明日、犠牲の多かったアッシェン軍は、その本陣近くで防戦を主軸とすると思われます。無論、攻めて来た側なので、どこかしらで逆転の一手は打ってくるでしょう。ただその一手を打つまでは、漫然と軍を前に進めることはないかと」
ゴドフリーが言い、敵本陣、街道南の、かつ少し東に逸れた場所を指差した。
「三番の丘の裏から、敵本陣への射撃は可能ですか?」
「北風が吹いた時なら、あるいは」
二人のやり取りを、マルトが俯いたまま聞いていた。今日の戦で、唯一大きな被害を出したことを、恥じているのだろう。あの丘に潜伏し、クリスティーナも敵を釣り出せるようにとあえて孤立してみせたわけだが、作戦立案は、ゴドフリーだった。看破されるようなことがあれば自分の責任だと、戦前のゴドフリーは言っていたが、マルトは自分のせいだと思い詰めているようだ。あの場に伏せていたのがキザイアでもソーニャでも、結果は変わらなかっただろう。
細かい作戦は事前にいくつか立案されており、あの場面が訪れた場合、リッシュモンは街道を使って最速でクリスティーナを狙うか、こちらは無視し、ブルゴーニュ軍の援護に徹するか、そのどちらかだろうという考えに、事前の軍議で誰も反駁してこなかったのだ。丘を一度越えてからクリスティーナを狙うというのは、そこに埋伏を予想していなければ、まずできない。あの位置に潜む部隊を発見できる場所は、限られていた。そしてむしろリッシュモンは、死角となるそこに潜む部隊をこそ、狙い撃ちにしたわけだ。これは、相手が一枚上手だったと、認めるしかない。
あの”鋸歯”を罠にかけようとした。間違いがあったとしたら、そこだろう。
リッシュモンの部隊は、正攻法で少しずつでも削っていくことこそが、正解に思えた。徴用兵や他の諸侯の部隊を受けつけない独立した軍であることが、極めて精強であることの理由の一つだが、兵の補充が難しいという、戦略的な弱みも持っているのだ。ベラック戦、リチャード隊の奇襲で受けた損害を、いまだに補えていないのが、その証左だ。ラステレーヌでは五千いた彼女の部隊は、この戦の開戦時には、四千にまで減っていた。
細かいやり取りと反省をしている間に、伝令が一つ、朗報を寄越した。セブランが、散っていたグライー軍をまとめ、援軍に来てくれたのである。連れてきた兵はいずれも騎馬で、千騎。その練度からいっても、二、三千騎以上の、強力な助勢である。
「遅参つかまつりました、元帥」
膝を着き、顔を上げたセブランの面貌は、やはり少し痩せていた。変わらずの美男子であるものの、体調はお世辞にも良さそうだと言えない。リッシュモンに斬られた傷が、まだ癒え切っていないのだ。
「夜陰に乗じる、ともいかず。敵の斥候には、気取られたと思います」
「いえ、それよりも、またあなたの顔が見られて、本当に良かった。体調は」
「なんとか、具足姿の行軍が可能となるまでは、回復致しました。部隊指揮も、休息を挟みながらであれば、なんとか。自ら剣を振って敵を倒すまでには、至らないかと」
自分を大きく見せようとせず、出来る範囲のことだけを端的に述べる、セブランらしい誠実な物言いと言えた。
「軍議に、加わって頂戴。まだつらそうね。この椅子に座って。セブラン、あらためて、生きてくれていてよかった」
クリスティーナが言い終わるや、マルトがその胸に抱きついた。妹の頭を撫で、セブランも笑みを浮かべる。
次々と入る斥候の報告を聞きつつ、軍議は続いたが、その散会直前から、敵におかしな動きがある気配が伝わってきた。曖昧な感想を抱いたのは、おかしい、と断言するのも憚られる、実に微妙な動きなのである。
「ポワティエ周辺で、と言ってもよいのですかね」
自身の言い方すら曖昧になっていることに気づき、ゴドフリーも眉間に皺を寄せる。
「特にその南部は・・・二時間以上前の情報になるわね」
万が一、ということもあり、トゥール包囲に使われる、十万に及ぶ敵の大動員についても、斥候を飛ばして探りを入れている。愚策としか思えないが、何かの間違いとしか思えなくともその十万の、しかし素人の集まりと言っていい十万を、この緒戦で思い切って投入してくることも、ないわけではないと思っていたからだ。桁の外れた発想を駆使してくるのがリッシュモンであり、アルフォンスである。
開戦直前の情報では、ここ数日でトゥールに辿り着けそうな兵は、多くて二、三万ということだった。ようやく、徴用の告知が下された所もあると聞く。城攻めにしか使えないような弱兵十万を、一度でもどうかと思っていたところで、二、三万など余計に投入する意味がない。むしろその後の攻城戦に支障を来すはずで、つまりこの徴用兵たちは、無視していい存在である。戦場から遠い場所の徴兵で、他の部隊に先んじて移動を開始しても、おかしくはない。さらに言えば、明日の戦にはまず間に合わない。
ふと、ゴドフリーと目が合った。クリスティーナ同様、彼もまた、何か嫌な予感が胸をよぎったのだろう。
「一旦、軍議自体は解散としましょう。ですが私はここに残り、そのポワティエ周辺の徴用兵の様子は、あらためて探りを入れます。もう一度斥候を飛ばす形で、今からでは続報は、早くとも三、四時間はかかります。各自、今は英気を養って下さい。明日は、今日のようにこちらが優勢とはならないかもしれない。では、元帥」
「これで、散会とするわ」
「私、ちょっとここに残ってもいいですかね」
ソーニャが、やや日の陰ったような笑顔で言う。
「ええ。他の皆も、何か気になることがあったら、ここを訪れて頂戴。ああ、アメデーオも、少しだけ残って。聞きたいことがある」
四人と、雑事をこなす小姓だけを残して、将と副官たちが天幕を出ていく。それを見送ることなく、クリスティーナはアメデーオに聞いた。
「ポワティエ以南での、傭兵の市場はどうなってた?」
このラテン傭兵は、”ブッカーA”とあだ名される程に、人材を集め、動かすことに長ける。顔が広く、人の流れがわかる男だった。
「元々、この辺りは傭兵の数自体が少ないんです。南部戦線初期に、双方共に安く買い叩いたせいで、略奪が横行しましてね。傭兵、それも集団で戦に加担するような連中は、白眼視されてるってわけで。いても戦の経験のない、つまり戦闘語のわからない連中や、諸侯や有力商人の私兵って感じで、とても戦には使えません」
「腕っ節はあっても、兵とはなりえないと」
「戦場では、徴用兵とそう変わらないと思いますよ。周りに合わせて動き、生き残る可能性が高いくらいで。ポワティエ周辺で見ても・・・」
地図でのポワティエ近郊を、他の諸候の領地までぐるりと手で指し示し、アメデーオは続けた。
「今の地域で、五百人、なんとかかき集められればってとこですか。元帥のご心配は、お察しします。先程聞いたポワティエ南部を移動する二、三万が、実は強力な傭兵団ではないか、ということですよね」
「ええ。まさかと思うことをやってくるのが、リッシュモンだと思うし」
「傭兵、ないしは屈強な軍、という点に関しては、思い過ごしだと断言できます。大体それだけの規模の傭兵団がいたら、相当の評判になっていますし、俺たちがここらを支配していた時に、雇わないわけがない」
このポワティエはもちろん、今や遥か南東に離れているラステレーヌまでが、半年前まではアングルランドの支配領域だった。
「それも、そうね。十、二十という小さい傭兵団の寄せ集めだとしても?」
「筋がいいのは、既に雇っていますし、俺の部隊にもいます。今のアッシェン軍にも、僅かながらも混じっているでしょう。合わせて千に、届くかどうか。逆に言えばそれだけしかかき集められなかった、傭兵不毛の地なんです。俺のラテン傭兵隊にしたって、名前通りラテン諸国から連れてきた連中が大半ですしね」
「わかった。傭兵という線は捨てる。ありがとう、もう休んでいいわ」
アメデーオ自身も腑に落ちないのだろう。そこだけ生やした顎髭を擦り、何度か首を傾げながらも、天幕を出ていった。
「ソーニャ、あなたも、この動きが気がかりなようだけど」
「後でアメデーオさんに聞こうと思ってたこと、先に聞かれちゃいましたけどね。続報を待つのがより確実でしょうけど、逆にそれで気取られるような何かではないだろうって。リッシュモン様が何か企んでいるのなら、こうもたやすく捕捉できるのも、かえって不自然ですしね」
どこか彼女らしくない、いくらか定性的な物の見方であるが、言わんとしていることは、痛い程にわかる。
「その二、三万の徴用兵の動きが、何かの陽動だと?」
ゴドフリーが問うが、彼自体もそう思っていない節がある。ソーニャが目を閉じて考え込み、ゴドフリーは再び視線をこちらに向けた。
「リッシュモンの策は、初めて見る手妻のようなものだと思ってる。手品師定番の、帽子から鳩が飛び出す芸があるでしょう? 初見では、そもそも帽子から鳩が出てくると思わないので当然、どうやって帽子に鳩を入れたのかという疑問にすら辿り着かない。どうやって、は後からついてくる疑問よ。そして今はリッシュモンという手品師が何を見せてくれるのか、いえそもそも手妻を見せてくれるのかすら、わからない」
目を開けたソーニャが、軽く頭を振って言った。
「いやあ、やっぱり、ここに来ての援軍は、辻褄が合いません。明日にもそれがこちらに到着するなら、そもそもポワティエからの進発を、一日ずらせばいいんです。小出しの援軍は、最も愚策とされています。最初からその二、三万の精兵がいれば、今日私たちにあそこまで押し込まれるようなこともなく、犠牲も少なかったでしょう」
「正論ね。敵の増援、という線は捨てるべきかしら。ただ、何かの予兆を見ているような気がするのよ。ベラック攻防で、周囲の村民が、避難を求めてあの町にやってきたようにね」
あの時も、強烈な違和感があった。戦場を避ける疎開もあるが、近隣では逆に都市に避難してくる民もいて、実際あの時はそうだった。既にそれが町の中に、市のあった日が近かったとはいえ、宿が一杯になるほどに残っていたことは、明らかにおかしなことだったのだ。それが全てリッシュモンの民であったことは、およそ最悪の機で知ることとなる。
今回、トゥールからリッシュモンの民は、全て排除している。流しの忍びのような者は潜入している恐れはあるが、四人五人とそういった者たちがいたところで、城門一つ開けるのにも苦労するだろう。まして城外の野戦においては、無力である。さらにいえばそれでも何かあった時の為に、ゴドフリーが城に残っているのだ。
「引き続き、私がここで、情報収集に努めます。お二人は、もうご就寝を」
「あなた一人で、大丈夫?」
「明日も、櫓に上って指示を出すだけです。一晩くらいの徹夜でどうということもありません。これから出す斥候が戻るのに、数時間あります。ご心配をお掛けするようでしたら、その間に、私も仮眠を取っておきましょう」
ゴドフリーの、その落ち着いた声音を聞いているだけで、こちらのざわついた胸の内が、鎮まっていくようだった。
「ありがとう。じゃあ、私たちは先に休ませてもらうわ。何かあったら、すぐに」
若い作戦参謀は頷き、再び地図に目を落とした。
ゲクラン西進の話は、やはりノルマランでも話題になっている。
昨晩から蜜蜂亭でもそんな話題を持ちかけられ、都度、アナスタシアはそれに応えていた。アナスタシア個人を心配してくれる声も多いが、ノルマランの者たちにとっても今や日常の一部となりつつある、霹靂団の兵たちが一斉にいなくなることの影響を、気に掛ける者たちもまた少なくないのだ。
ハニーローストピーナッツの作り置きを二瓶仕上げてから、アナスタシアは客席の方へ戻った。冬場はやはり客の回転が悪いものの、長居する客からの注文もあるので、その客との会話は自然と多くなる。
暖炉前でパイプを咥えていると、しばらくしてジジが客の卓から戻って来た。まかないを、そこで食べていたようだ。
「これから大きな戦があるっていうのに、当の本人のあんたがここでこうしてるのも、なんか不思議よねえ」
「三日後の朝には、もう旅の空だ。明日明後日までは、ここでいつも通りにしているよ」
「事前の準備とか、もういいの?」
「済ませてあるよ。兵も、移動できる者は既にしている。まあ、二、三ヶ月後には、一度帰ってくるつもりだ。その時にどれくらいこちらに滞在できるかは戦の進展次第だが、どんな遠征になろうとも、一年の半分はここにいる予定でいる」
先月くらいからようやく、仕込みや日持ちする品以外の料理を、ロズモンドから教わる機会が出てきた。客席の仕事はあらかた覚え、ようやく料理人の修行が本格的に始まろうとしているので、アナスタシアとしては珍しく、戦に出ることに後ろ髪引かれる気分である。
傭兵を引退後、自分の店を出すのが、アナスタシアの目標である。戦で命を落とせばどうしようもないが、五体満足で引退することも、充分可能だと思っていた。
自分の強さに自信を持っているというより、もし手足を飛ばされるような相手と出会った時は、首も飛んでいるような気がするからである。大陸五強の他の者たちとかち合えばそうなってしまう気もするし、忍びのマイラのように、表の世界に名が上がらない強者も、パンゲアにはいるのだ。
将来のことは全て、生き残っていればという条件がついてしまうものの、先を見据えた生き方を送らないと、どこかであっけなく命を落とす気がする。実際、強かったはずなのに早逝してしまう者は、いくらでも見てきた。そういった連中は大抵、刹那的な生き方をしていたと思う。そもそも初めから、傭兵には死に場所を求めてやってくる者も少なくないのだが。
「遠征って、どこまで行くの?」
「まだ、知らされてない。情報が伝達過程で洩れ、相手の防備を、そこに集中させたくないからだと思う。野戦には充分な兵が集められるようだが、攻城となると、さすがに心許ない数字になりそうなんだ。現地で人を集めるにも、二剣の地だからな、徴用というわけにもいかない。その辺りは、事前に根回しができているかもしれないが」
「最初から、すごく大勢で行ったらいいんじゃない? どうせ城を攻めるんだったら。私、聞いたことあるわよ。城を落とすには、守兵の三倍から四倍の数が必要だって」
「軍人でもないのにそんなことを知っているなんて、さすがジジだな。場所によるが、二倍以下で充分だったり、五倍以上でも落ちない城もある。が、三、四倍という見立ては、正しい」
「だから、現地で人集めに苦労するんだったら、初めから大勢で移動しないのかって」
「武器を持った十万の兵が、二列縦隊でこの町から出ていくところを想像してみてくれ。先頭と、最後に門を潜る兵の間には、おそろしく距離ができる。今の数だと、先頭が最初の馬車宿に着いても、最後尾はまだノルマランを出ていないかもしれない。部隊同士の、間隔も空けなくちゃいけないしな」
「ああぁ、そうか。十万人が、横一列で一遍に移動できるわけじゃないしね」
「なので長い行軍を念頭に編成された軍は、なるべく少ない兵力で、かつ極力小分けに、しかも同時に目的地に着くよう移動する必要があるんだよ。一週間以内に辿り着けるような近隣の領地ならともかく、月を跨ぐような遠征の場合、行軍そのものが最も難しく、総大将と、その幕僚の腕が問われる」
「で、いまだにあんたは、この店で働けてるわけだ」
「今回は特に、歩兵は途中まで鉄道で移動できるしな。霹靂団だけでも、終着駅で一度集合となるだろう。今回の霹靂団は、千人ちょっとの部隊だ。今言ったような行軍の苦労は全体としての話で、霹靂団は千名と数十名の非戦闘員だけで、まとまって動けると思う。あくまで、全体の中のごく一部として行動するわけだ」
少し唸ったジジは、食器を暖炉の上に置き、紙巻き煙草に火を着けた。
「じゃあ、去年のパリシ奪還戦は、結構な規模の戦だったんだねえ」
「両軍合わせて、二十五、六万だったか。あれだけの規模の戦は、百年戦争でも数える程だろう」
「今回は、どうなの」
「ゲクラン殿、フローレンス殿、共に三万ずつくらいじゃないか。ゲクラン殿は、四万くらい出しても不思議じゃないが。パリシ奪還戦の、六、七割に抑えると思う。敵対する隣国もないのでパリシ奪還の時くらい出せる金子はあるだろうが、遠征となると、負担が大きい。現地の根回しがあるとしても、中立地帯の行軍も、遠征を難しくするだろう」
二人の話を聞いていた暖炉前の卓の客が、どうやらこの話に関心を持ったようだ。
「で、アナスタシアちゃんたちは、どこまで遠征すると予想してるんだい? ゲクラン伯が、西の果てのモン・サン・ミシェルを目指してるってのは、有名な話だけど」
この五十絡みの客は、以前に行商をやっていたと聞いた気がする。今は、倉庫街の商会の事務方だったか。話は、最初から聞いていたようだ。
「何度か遠征を繰り返すとなると、その後のことも考え、拠点となる場所が必要です。無難なのはル・マンか、その周辺の街でしょうね。アングルランドの直轄地ですので、アッシェンには奪い返すという名目が立ちます」
「結構遠いね。無難な、ということは、もしアナスタシアちゃんが総大将だったら、どこを最初に目指す?」
あまり話したことはないが、意外と戦に興味のある男なのかもしれない。まあ、商売人なら儲けられるかもそうだが、それ以上に戦によって自分の商売に損が出ないかは気にするだろう。物価が、乱高下するのも戦である。一部の商人はそれを奇貨とし大儲けできるが、経済を総じて見れば、損をする者の方が多い。
「多少無理を重ねてでも、ア・コルーニャまでは、一息に取りたいところですね。モン・サン・ミシェルまで、大体半分の行程といったところです」
「それはまた、さらに遠い。直線で横断するにしても、相当な距離だ。途中のアングルランド直轄地を占領するにしたって、補給線って言うんだろ、武器や食糧の供給路を、途中で絶たれたりはしないのかい」
「ア・コルーニャは港町です。海路が、かなりの部分、それを解消しますよ。孤立したところで、逆にアッシェンの他の領主や、同盟中のレヌブランと合力してもいい。これ以上は戦略的な話になるので、あまり面白い話になりませんが」
言ったが、その客もジジも、何故か目を光らせている。
「なんか、あんたの軍人的な話、ちょっと専門的で面白いかも。続けて」
「そうなのか? じゃあこのメモに、地図を描いて説明しようか」
一応、他の客のお代わりがないか、周囲に目はやっている。が、話が聞こえていたのか、むしろ五人程の客が、こちらの卓に寄ってきた。椅子をずらして、顔だけこちらに向いている者もいる。
二剣の地北部の大体の地図を描き、ル・マン、ア・コルーニャ、モン・サン・ミシェルの位置を示す。ル・マンのほぼ北、ア・コルーニャの海を挟んで北東が、先日アングルランドが落手したカレーである。そのさらに北が、今や独立したレヌブラン王国だ。
「ア・コルーニャを落とすことで、カレーのアングルランド軍は、こちらの道中で落とした城郭を、そのまま放棄せざるをえなくなります。カレーから遠くまで兵を出してしまうと、レヌブランにカレーを狙われることになるからです。アングルランドの狙いは、ここカレーを落とすことで、レヌブランとアッシェン、この場合はゲクラン殿の西進ですが、この合力を難しくさせることにあります。二剣の地最大の港を占拠した衝撃は諸国にあるでしょうが、あくまで戦略的には、楔を打ったに過ぎません。動かしてしまえば、楔の意味はなくなる。が、それもここ半年の話でしょう」
何人かが、音を立てて唾を飲み込む。こんな戦略的な話に何故軍属でない人間が興味を持つのか不思議ではあるが、話は続ける。
「今は楔として動かせなくとも、アングルランド劣勢と聞く南部戦線の結果次第で、そこの兵力のいくらかは、こちらに回せます。するとカレーを占拠しつつも、動かせる兵力が出てくる。この時になってようやく、ライナス殿が無理を押してカレーを占拠した意味が出てきます。逆に言うと半年以内なら、ア・コルーニャまでは落としておいた方がいいのです。カレー程でないにせよ、こちらも海を窺える拠点ができるわけですし、アングルランド海軍の寄港できる港を、一つ潰せます。ア・コルーニャ、ゲクラン殿のそこまでの補給路、レヌブラン。この三つを狙うのは、いくらカレーに南部軍の兵を呼び寄せたところで、無理な話です。なので一度ル・マンで足を止めると、この戦略は使えなくなる。カレーから見た敵の戦略目標が、ル・マンとレヌブランの、二つに限定できますからね。ル・マンはパリシ程でないにせよ、街の規模が大きく、余程の大兵力でないかぎり、守りにくい城とも聞きます。落とすのに兵力がいらなくとも、その少ない兵力では守ることもかなわない。と、話についてこれていますか」
「ああ、戦のことはよくわからなくとも、複雑な陣取り合戦だと思うと、私でもなんとなくわかる」
一応ジジは、こういった話でもわかるようだ。客の一人が、身を乗り出して訊く。
「で、ゲクラン伯は、結局どこを攻めそうなんだい?」
「ア・コルーニャとル・マン、半々といったところでしょうか。戦略的に、私はア・コルーニャを短期で落とせる好機は今しかないと思っていますが、フローレンス殿のレザーニュ軍を連れていることで、足を落とす必要が出てくるかもしれない為、ル・マンがやはり堅実であるとの見方もできます。また、レザーニュ軍に対する、それなりの見返りも必要でしょう。ル・マンの徴税権の大半を譲り渡すことで、それとするのではないでしょうか。まあ、速攻でゲクラン伯と霹靂団だけでル・マンを落とし、そのまま進軍、遅れてくるレザーニュ軍にル・マンを守ってもらうということもできますが、ル・マンを落とすのに想定外の時間がかかるようだったら、初めからレザーニュ軍の足に合わせた方が、確実な戦はできるでしょう。そこを長く占拠することで、ル・マン以東の二剣の地の領主たちが、ゲクラン殿に剣を捧げる可能性もあります。モン・サン・ミシェルは遠くとも、博打を避け地歩を固めていく戦略もまた、誤りではありません」
この辺りは、ル・マンを落とした時の状況にもよる。南部戦線がどのような決着を見せるのか、あるいは手の内がほとんど読めないレヌブランのバルタザール王の出方次第では、事態は混沌を究める。
「話をまとめますと、私が総大将なら、最悪ル・マン自体は無視してでも、一気にア・コルーニャを落とし、アングルランドに対し、楔を打ち返しますね。アングルランドがカレーから打つ手を牽制することで、その目はノースランドでの叛乱や、対レヌブランに向くかもしれない。ノースランドの叛乱は、陰でレヌブランが糸を引いていたという噂もありますが、二つの勢力が完全に力を合わせれば、アングルランドは自国に兵力を集中させなければならないでしょう。その隙にゲクラン殿は西進を完遂させ、二剣の地の南半分を、アッシェン王の力を借りつつも、再びアッシェンに帰属させることはできるかもしれない。と、地図に書き込み過ぎて、わかりづらくなってきましたね。それに、私の長話は退屈でしょう。こんなところで、お開きにできれば」
聞いていた者たちからは、拍手が起こっている。
「面白かったですか、戦の話は」
「いやあ、やっぱアナスタシアちゃんがパリシ解放の英雄だって、再認識できたよ。俺のような素人でも、今の話はわかりやすい。偉い軍人さんってのは、ここまで考えて戦ってもんをやってるんだねえ」
「いえ、私は小さな傭兵団を率いているに過ぎないので。今の話も、潤沢な資金があり、相手の妨害にこちらが対処できるとしての、いわば机上の空論ですよ。実態は多くの人間が知恵を巡らせる分、複雑です。なので私の言ったア・コルーニャ獲りは、アングルランド宰相ライナス殿も想定していると思います。今の私の立場と聞こえてくる現状では、これが最善手と言えますが、数万単位の軍を率いるとなると、思わぬ障害も出てくるものです。現地で武器の補給がままならない、小麦が急騰して兵糧が充分に用意できない、他にも様々な理由で、立てた戦略がたやすく崩れることはあります」
「あーでもこういう話、たまに聞かせてよ。私は、それなりに興味深く聞けた」
「ジジの聞き上手は、色々なことに興味を持っているからだよな。ああ、皆さん、飲み物のお代わりはどうですか。金の取れる話ではなかったと思いますが、飲み食いの手を止めてしまったので、店に損害を出してしまったかもしれない。後で、ジジとロズモンド殿に、怒られてしまいます」
客席が沸き、注文が次々と入った。今後こういう話を聞きたい客がいるのなら、多少は話してもいいかもしれない。楽士の歌や、吟遊詩人の物語のように誰でも金を出したい類の話ではないが、求められれば、語るのにやぶさかではないとも思っている。
ジジが暖炉のシチューを器に注ぎ始めたので、アナスタシアは飲み物を作りに、厨房へ入った。
「遠征とやらが長くなっても気にするな。が、大きな怪我をせずに帰ってこいよ。お前にはまだ、料理で大切なことを、何も教えられていない」
ロズモンドが言い、アナスタシアは深く頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けします。帰還の際には、またご教授頂ければ幸いです」
ロズモンドが頷き、アナスタシアは仕事に戻った。
珍しく、くしゃみをしてしまった。
ちり紙で鼻をかみつつ、リッシュモンは軍議の天幕に入った。事務方と小姓に挨拶し、やかんの乗った薪ストーブの前で屈み、両腕を擦る。
少し、風邪を引いたかもしれない。寒さだけでも、体力の消耗だけでも、そうそう風邪など引かないリッシュモンだが、その両方となると、抵抗力の低下は、自分が思っている以上なのだろう。既に陣を構えている手前、あの熱い樽風呂で身体を芯から温めることもできない。昨晩も自分の天幕で、ぬるい湯で返り血を拭い、無駄毛を軽く処理するくらいしかできなかった。具足の革の部分はよく拭き取ったにも関わらず、身体の熱が加わると、また血の嫌な匂いが沸き上がってきた。香水を多めに振りかけたが、髪もひどい匂いがしていることだろう。
しゃがんでいるリッシュモンの背中に、外套が掛けられた。振り返ると、アルフォンスが小姓と何か話していた。本人に自覚はなさそうだが、こいつは女にもてるぞと、あらためて思った。誰にでもさり気なく優しく振る舞う男は、独占欲の強い女にとっては手に余るだろうが、リッシュモンはこういう男の方が信頼できた。
「ありがとよ。風邪引いちまったかもしれない。ま、今日で野戦は終わりだからな。勝つにせよ、負けるにせよ」
「負けないよう、努めたいですねえ。例の話、思ったより早く、実行できると。つい先程、先方から連絡が」
「それはいい。使う機は、お前が慎重に見極めてくれよ」
「了解です。ぎりぎりのところで、決行します。それまでに、死なないで下さいよ」
「言うねえ。命そのものは賭けないが、命懸けでその機は作る」
やかんの湯が沸ける頃には、各将校の集合は終わっていた。軍議となるが、敵の動きや城壁からの信号、この地の特殊性等については、昨晩のそれで話し終わっている。あらためて、全体の方針としては戦場の南半分までに留まり、守りを中心とすることが確認された。最終的に全軍が一気に進軍を開始することになるが、その機の判断は、アルフォンス一人に委ねられる。
早くて昼過ぎ、遅くとも夕刻までには、この野戦の決着はつく。全てが理想通りに進めば一息でトゥール陥落まで見えてくるものの、昨日のアングルランド軍の猛攻からいって、そこまで上手く行く確率は、十に一つもないだろう。が、野戦で勝つことはできる。不測の事態が重なって撤退とあいなっても、被害は最小限に抑えられると、リッシュモンは踏んでいた。
リッシュモンが今回用意した作戦は、とりあえずこの野戦を短期で終わらせる為のものだった。一日目は、急がば回れの仕込みである。優勢なら言うことはないが、多少押されていても、最後は戦局を引っくり返せる。次善の策というわけでもないが、発動前にこちらが撤退を決断するほどの大敗となれば、本来の使い方ではないものの、追撃を鈍らせる効果は期待できた。そして両面に使える手札である分、ベラックの時のような、絶対的な威力はない。
既に見えているので策ではなく用兵だが、敵軍ではキザイアがそんな使い方をされている気がした。今回の作戦参謀兼、クリスティーナが指揮を執れない時の総司令となっている、ゴドフリーの指揮だろう。敵本陣を守る、こちらの本陣を攻める。どちらもできる位置におり、守りにも注意がいっている分、怖さはない。中途半端に感じるものの、あるいはこの戦で無駄死にすることがないよう、引退を控えた彼女への配慮か。
少しえぐい攻め方をしてくる一方、どこかでそういうものも見ているとしたら、ゴドフリーという男は、意外と繊細なのかもしれない。今までの一部将という立場では、単に犠牲を嫌う、頭の回る男としか捉えられなかった。
昨晩の取り決めを確認し、各将は天幕を出た。外では、本陣の兵たちが昨日以上に忙しく駆け回っている。事前に本陣近くの戦が想定されているので、柵に矢避けの大盾をつけたり、外周の空堀に据えられた馬防柵の杭を増やしたりと、ともかく防備を堅くしているのだ。砦程ではないが、少ない守兵でそれなりの時間稼ぎができる形には、なってきている。
鼻を啜りながら、鞍に飛び乗り、ダミアンと共に、既に配置されている兵たちと合流する。ぴんと張りつめた冬の快晴で、いつもだったら気持ちのいい朝と感じていたところだ。一晩寝て、兵たちの顔には精気が戻っているものの、すぐに昨日以上の疲労を見せ始めるだろう。それだけ、消耗を強いられた。野戦は今日一杯で終わりだと教えてやれないのが、心苦しい。が、接敵前に多少教えてやった方がいいだろう。
敵は、まだ城と砦の方から出撃してこないようだ。自部隊から離れ、他の隊を見て回っていると、風に乗って、トランペットの音色が届いてきた。ブルゴーニュ軍の中程、重裝歩兵隊の最前列で、ポーリーヌがそれを演奏しているようだった。綺麗に整った兵の列の間を抜け、そちらに近づいた。気づいた彼女が、微笑で出迎える。
「ちょっと、物悲しい曲だな」
「先に逝っちまった連中を、悼んでる」
父譲りの立派な体格をしたポーリーヌだが、感傷に浸りやすい部分も、ジョアシャンから受け継いでいた。
「結構、犠牲出したよな。千五百くらいだったっけか」
「あんたに助けられなかったら、もっとひどかった。三百人、この朝日を拝めなかったんだ」
千五百の犠牲なら、三百は死者の内訳としては、まあ妥当な数字かもしれない。もっとも、一日の戦いとしては、特に一度も潰走しなかった軍としては、かなり多い方とも言えた。
トランペットの口を軽く拭いたポーリーヌは、兜を被り、その緒を締めた。それ以上何も言わず、リッシュモンは自陣に引き返した。いつになく思い詰めた顔をした彼女が気にかかったが、景気のいい言葉を掛けるのも躊躇われた。昨日の負け方は、彼女にとって堪えるものがあったのかもしれない。これまで通り、負けるにしてもポーリーヌが上手く兵をまとめたように感じていたのだが、この戦場の視界の悪さから、度々ブルゴーニュ軍の懸け合いを見ていたわけではない。ただあの悲壮感は、少しリッシュモンを不安にさせる。
昨日と同じ、南北に真っすぐ伸びる街道を跨いだ布陣で、リッシュモンは敵の出撃を待った。アルフォンスの話を聞くまでは夕刻まで粘る必要があると思っていたが、既に先方の準備は整っているとのことだ。ならば、戦は一刻も早く始めたかった。焦れる程に敵は中々姿を現さなかったが、三本目の煙草を吸い終えたところで、トゥールの城門が開いた。遠眼鏡で覗き込むと、先頭はこれも昨日と同じく、クリスティーナである。
陣の前に出たリッシュモンは、左右に駆け、兵を鼓舞した。
「今日の戦は、ちと厳しくなるぞ。が、あたしらには秘策がある。詳細についちゃ語れねえが、見てのお楽しみって奴だ。だからよ、それまでに死ぬな。怪我した奴は、すぐに本陣に戻れ。で、止血程度で済むようだったら、すぐに部隊に戻ってこい。ここまで頑張ったお前たちに、胸のすくような光景を見せてやる。以上だ。あー、こんな鼻声で悪かったな。風邪なんざ、返り血を浴びてる内に治っちまうよな。こんなあたしに遅れを取んなよ。全軍、出撃用意!」
笑っていた兵たちが、すぐに厳しい目つきになり、槍を構える。トゥールの方から角笛の値が聞こえ、こちらの本陣もそれに応じた。音の聞こえ方を誤認しやすい戦場だが、上空は北風とみた。手前の丘の裏に布陣されると、長弓の矢が本陣にまで届くかもしれない。
この丘陵地帯の音の響き方、その乱れは、昨日一日でいくらか慣れた。それは、収穫だったろう。
剣を掲げ、馬腹を蹴る。目の前の丘は、一息に上り切った。クリスティーナは街道を西にそれ、丘を挟んで左翼のブルゴーニュ軍と当たる格好だ。東は三部隊、旗印からキザイア、アメデーオのラテン傭兵隊、そしておそらく昨日と同じくゴドフリーではなく、バッドが指揮するケンダル軍だった。ザザが後者二部隊の内どちらかを完全に足止めしてくれれば、キザイアとまともにやり合う形は作れそうだ。
思っている内に、キザイアが向かいの丘から下りてきた。歩兵を前面に出しており、しかしこの距離で射って来ないとなると、矢合わせなしでやり合おうという腹づもりか。それには乗らず、こちらの歩兵で弩の斉射を浴びせるが、大盾を構えた敵歩兵に、ほとんど損害を与えられなかった。
「ま、いいだろ。騎馬隊、あたしに続け」
剣を振り下ろすと同時に、丘を駆け下りる。敵歩兵が下がると同時に、右手からキザイアの騎兵隊が猛進してきた。旋回し、そちらへ駆ける。先頭のキザイアが、大剣を振り上げた。
刃が激しくぶつかり合い、両者の身体に火花を浴びせる。
長弓の斉射を受けても、スミサ傭兵隊は丘を動かなかった。
大盾を頭上にもかざし、その姿は亀というよりも、既に小さな砦を思わせる。
「放っておく。後は、ソーニャに任せるわ」
トゥール城壁に架けられた垂れ幕を横目に、クリスティーナは副官たちに言った。ソーニャを元帥付きの副官としているが、クリスティーナが直接指揮する部隊には、古参の副官が三人いた。
城の方から、伝令が駆けてくる。ゴドフリーからの指令かと思ったが、運んで来たのは情報だった。
「包囲を、狭めている形なの?」
敵の大動員、十万についての続報だ。この戦場だけでなく、トゥールの周囲にも絶えず斥候を送り出しているが、総じて、敵の包囲軍は動き始めたということらしい。
すぐに、丘のスミサ傭兵隊に近づきつつあったソーニャを呼び戻した。部隊は丘の中腹で、頂の長槍隊と睨み合っている。
「大動員の十万が、動き出したらしい」
「この機で。おかしいですね。兵をいくらか砦に下げ、警戒に当たらせますか?」
「ただ、各地一斉だと、ここにはばらばらに到着することになる。それなら、残した守兵で充分。明らかに、愚策よね。各個撃破してくれと言わんばかりに」
「ありえませんよね。我々に重圧をかけるにしても、まだ姿すら現していませんし」
ソーニャか、バッドあたりに別働隊を編成させ、各個撃破させることも、できなくはない。が、敵兵の第一次的な集結地点は方々に点在しており、それらを回るだけでも、何日か費やすことになる。もしこちらがそれを実行したら、包囲部隊を事前に損壊させるアッシェン軍の悪手であるが、優勢とはいえ拮抗するこの戦場で、別働隊の編成が敵に優勢な戦況を生み出してしまうとなると、今度はこちらの悪手となる。
つまり悪手につけ込もうとするとこちらも悪手となる、奇妙で珍しい状況が、形成されつつあった。
「ひとつ部隊を潰せば、あるいは他の部隊は散らばってしまうとか。武器を手放した兵は、ただの民です」
「相変わらず、こちらに考えさせるわね。振り回されているとも思う」
「ご命令とあらば、騎馬隊だけで別働隊を編成しますが。一日だけでも、それで様子は見れます」
「今日は、目の前の戦に集中する。将兵を一人でも離脱させることが、狙いかもしれない」
昨晩南であったという部隊の移動も、これに当たるのだろう。今朝、ゴドフリーが後の斥候の報告をまとめてくれたが、兵の動員として、おかしな点はないとのことだった。おかしいのは、時期だけである。アッシェンがこちらを野戦で敗り、城へと追い込んだ後、大動員を動かすのが正しい手順である。劣勢にも関わらず、この野戦を短期で勝ち切る策が、やはりリッシュモンにはあるのか。それにしても、遠からずかけられる大動員をあえて、ここで本格的に為すのは、勇み足が過ぎるだろう。長くても一週間後、ここの決着が着いてからでいいのだ。
このように、リッシュモンの策には、必ず予兆がある。鳩が出るのか、虎が出るのか。そもそも手品師の帽子には、何も入っていないのか。読みようがないが、後から振り返ると、必ず張ってある伏線。
頭を振り、ソーニャは目の前の戦に集中することを、もう一度ソーニャに伝えた。どんな策があるにせよ、ここでアッシェン軍を敗走させてしまえば意味を失くす。これまでも、そうだったはずだ。それができなかったから、罠に嵌るのだ。
クリスティーナは、再び部隊を前進させた。ソーニャも部隊と合流し、丘の攻略に向かう。
その丘の麓を迂回すると、信号通り、ブルゴーニュ軍が奮闘していた。このブルゴーニュ軍はやたらと軍楽隊の数が多く、祭のような賑やかさで、視認する前からそれとわかる。マルトのグライー軍が北西から細かく、かつ素早い攻撃を仕掛けており、ほぼ東からやってきたクリスティーナたちに、横腹を見せる格好だった。
一万と、四、五千といったところか。さすがの大軍であり、側面の部隊は慌てることなくこちらに槍を並べてきた。ジョアシャンの重騎兵、その横背を守る軽騎兵は、マルトにかかり切りのようだ。歩兵だけのブルゴーニュ軍なら、クリスティーナの七千だけで充分蹂躙できると睨んだ。
早く、この戦を終わらせたい。籠城せずに敵軍を撤退に追い込めれば、リッシュモンの策など見なくて済む公算が高い。目の前の、アッシェン南部軍のおよそ半数を占めるブルゴーニュ軍を打倒できれば、勝利の天秤はぐっとこちらに傾く。
惑わされるな。クリスティーナは自分に言い聞かせた。知恵比べに付き合うから、負けるのだ。辛抱強く、目の前の小さな勝利を積み上げる。愚直さを貫くことが、自分の強さだ。
ブルゴーニュ軍。まず歩兵を突撃させた。ともかく今は、勝利への道を切り拓くことに専念する。かなり激しいぶつかり合いになったが、押せていた。兵一人一人は、こちらの方が強い。他の部隊が近づいていないか、城壁の信号を確認し、念の為斥候も飛ばす。問題ない。いける。
戦太鼓が叩かれ、歩兵が敵と密着したまま、二つに分れた。現れた進入路を、重騎兵で駆け抜けた。馬上槍。掬い上げるようにして、先頭の敵兵を貫く。駆ける方向と反対になるようそれを引けば、深く刺さった槍も、半ば馬の足で引き抜く格好になるのだ。左右の兵たちも驀進を続け、槍で、あるいは馬甲を着けた馬で、敵を弾き飛ばしていく。三人目。深く刺さり過ぎた槍は馬の力を利用しても引き抜けそうになかったので、剣を鞘から払った。
ほとんど遮る者もなく、敵陣の中央まで来たところで、しかし何か硬い岩にぶつかったかのように、前進を阻まれた。中央に、普段はポーリーヌの近くにいるはずの重裝歩兵が潜んでいたのだ。倒すのに手間取っている間に、他の歩兵に囲まれた。
足を止めた騎兵は歩兵のいい餌食であるが、それでも重裝騎兵は、ある程度乱戦に耐えられる。しかしなお皮肉なことに、最強の兵科の一つである重騎兵が苦手とするのは、やはり群がる歩兵なのである。鉤のついた棹状武器で馬から引き摺り下ろされ、あるいは無茶な歩兵に鞍に飛び乗られ、馬上から姿を消す者が現れ始めた。
剣や戦鎚を振り下ろされ、頭を勝ち割られる敵兵も少なくないが、その半分くらいの割合で、地面へと押し倒される重騎兵もいる。突撃は半ば失敗に終わったが、クリスティーナは不思議と冷静だった。振り返って、ソーニャがこちらの救援に向かっているのが見えたからかもしれない。あるいは初めから、ブルゴーニュ軍を一撃で粉砕するのは難しいと、覚悟していたからか。
犠牲は出続けているが、引き摺り下ろされた重騎兵たちは、身代金のこともあり、そう簡単に殺されないだろうという計算もある。なんとか円陣を組み、押し寄せる敵を追い払うことに専念した。土煙に、軽く咳き込む。ソーニャは軽騎兵で敵に波状攻撃をかけており、二、三分もすれば合流は可能だろう。こちらを攻めたてるような、敵の軍楽隊の音色が不快である。囃し立てるような曲で、クリスティーナの部隊が、さらし者にされているような気さえしてくる。
作業的に敵の槍の穂先を斬り飛ばし、怯んだ相手に剣を振り下ろすことに専念していると、不意に、戦場の空気が変わった。後方で指揮していたはずのポーリーヌが、供回りと共に、味方をかき分け、こちらに近づいてくる。父譲りの体格に恵まれたこの女は、その父の拙い用兵を取り繕う立場にあり、あまり闘志を表に出さない。だが今は、殺気が陽炎のように揺らめいているのが、ほとんど視認できる程だった。
ここであなたが斬られると、この部隊をまとめるのに苦労するわよ。自ら出てきて私の首を狙うのは、釣り合うといえる行為なのかしら。
そこまで思って、クリスティーナは苦笑した。アングルランド軍元帥であり、この軍の総大将は、自分だ。たとえ刺し違えても、釣り合うどころかお釣りが出る。
ポーリーヌが無造作に戦斧を振り回し、こちらの重騎兵を蹴散らす。乱戦に近い形になっているが、クリスティーナを守ろうと前に出た二騎がさらに馬上から消えたことで、束の間、二人の間には一騎打ちが出来る程の、空隙が生じた。
この女とは何度も戦場でやり合ってきたが、ここまで接近するのは初めてかもしれない。180cm弱と聞く身長が、それよりも大きく感じる。矮躯のクリスティーナとの体重差は、倍に近いだろう。周囲の軍楽隊の音色、それと混じる阿鼻叫喚の怒号を貫き、ポーリーヌが大音声の、それでいて静かな声で言った。
「ブルゴーニュ公ジョアシャンの娘、ポーリーヌだ。私と、勝負しろ」
「キザイアが娘、ギルフォードのクリスティーナ。承る」
戦斧と長剣が、同時に唸りを上げる。攻撃は受け流したはずだが、それでも衝撃は全身を戦鎚で打ち抜かれたかのようだ。一撃で盾が破壊され、クリスティーナは剣を両手で構え直した。この愛用の長剣は柄が長く、刀身も厚い。刃の長さは違うが、片手半剣といっていい得物である。
二合、三合。馬をほとんど動かさず、打ち合う。恐ろしい程の、膂力である。が、大きい相手とは、やり慣れている。そもそも、軍にはクリスティーナより小さい人間が、ほとんどいない。むしろこの矮躯で真正面から打ち合うクリスティーナに、ポーリーヌの方が少し虚を衝かれた様子だった。
十合目。戦斧を渾身の一撃で弾き返し、がら空きになった胴を、横薙ぎに一閃した。返り血を、妙にあたたかく感じる。
「敵将ポーリーヌ、このクリスティーナが討ち取った」
怯んだ敵兵が、下がり始める。そこを、辿り着いたソーニャが、怒濤の勢いで蹴散らしていった。
一万近くいたブルゴーニュ歩兵は、中央から大きく崩され、潰走した。ブルゴーニュ公もこちらの展開に気づき、マルトから逃げるように距離を取る。後退時に、さらに犠牲を出していた。引き返してきたソーニャが、心配そうに声を掛けてくる。
「クリスティーナ様、ご無事で」
「強かった。外傷はないみたいだけど、首と背中を少しやられたわ」
その首を擦りながらクリスティーナは答え、なお野火の様に土煙を吹き上げて走り去っていく、ブルゴーニュ軍を見つめた。西の丘の裏で、再集結を図るのだろう。あれをそこで釘付けにできれば、敵本陣最大の障壁はなくなる。
「ポーリーヌの、手当てを急いで。生きていれば、高く売れる首よ」
敵将の轡を取った兵に、クリスティーナは言った。ポーリーヌは、馬の首に抱きつくように、鞍上で倒れていた。馬のたてがみが、血を吸って黒くなっていく。気の利く麾下の一人が、水を含ませた布を差し出してきた。
顔に着いた返り血を拭いながら、クリスティーナは東へと馬首を返した。




