表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/107

第29話「私が倒すまで、無事でいて頂戴ね」-2

2,「お前を庇って、部隊を皆殺しにされてるぞ」


 城から続く隠し洞穴の存在は、今日初めて知った。

 元より、地下に今はほとんど使われていない、牢や拷問部屋があるとは聞いている。増改築を繰り返され、今は海岸線の美しい景観に花を添えているレヌブラント城ではあるが、その歴史は古く、元は海沿いの砦であったという。ただ、今から向かっているのは城の者でも存在自体をほとんど知られていない、秘密の通路だった。

 暗く狭い、かつ階段と言うには心許ない段差を先導しているのは、”無名団”の忍び、スピールである。続いてバルタザール、そしてアドリアンだった。バルタザールは大きな身を屈め、高さの一定しない天井に気をつけていた。この隠し通路には蝋燭を置ける壁龕もなく、先頭のスピールの持つ松明の明かりも、そのほとんどがバルタザールの巨軀によって遮られていた。

 おそらく、まだ正味五分といったところだろう。しかしアドリアンは岩をくり抜いただけの、苔生した壁で手袋を汚し、曲がりながら下がっていく通路に何度か膝をぶつけ、外套すらもおそらく、駄目にしてしまっているだろうことを惜しんだ。次にここを使う時があったら、自ら燭台を持って先頭を切ろうと決める。宮殿に出仕する為の一張羅が、たった数分で使い物にならなくなってしまったのだ。

 突き当たりの扉が開かれ、その眩しさにアドリアンは目を細めた。潮の香りが、一気に強くなる。海沿いの洞穴の入り口、青い海と空を眺めていた娘がこちらを振り返り、一礼する。先日一度紹介された、リュゼという忍びで、腹などはよく締まっているにも関わらず、丸顔に丸い目、丸みを帯びた身体つきと、どこか球体を連想させる娘だった。

「ここを使うのは、初めてでしたか」

 そのリュゼが、ぽってりとした唇を開いて言った。

「存在自体、先程初めて知ってね。宰相になりさえしなければずっと知らずに済んだし、服を台無しにすることもなかったよ」

「帰りは、外の岩壁を使いますか? あたしが、背負っていきます。今日も、上から降りてきました。第二厨房の外に、手足を掛けられる窪みがあるんですよ」

「厨房の下は、海まで続く、絶壁じゃなかったかな。いや、高い所は苦手でね。余程のことがない限り、遠慮させてもらうよ」

 何かの冗談で言ったのかと思ってそう返したのだが、その口調から察するに、どうやらリュゼは本気で言っていたようだった。スピールが口元に手を当て、笑いを堪えている。

「ビスキュイという者は、まだのようですな、陛下」

「すぐに来る。忍びは、時間を守るものだ」

 バルタザールが、腹に響くような重たい声で応えた。それに洞穴内は狭く、音はよく響く。ぽっかりと開いた穴から綺麗な海と空が見える様は、ここが異界の入り口であるとさえ錯覚した。迷い込み、岩壁に打ちつける波が、光を反射して砕け散っていく。

「一服されますか。アドリアン様は煙草を持ち歩かないと聞いて、街でいくつか買ってきました。味と香りについては頭に叩き込んでいますが、あたしは普段吸わないので、どういったものが好みか、もうひとつわからなくて」

 大きな背負い袋の中からいくつか、リュゼが紙巻き煙草の入った包みを取り出す。礼を言ってその中から一つ選び、マッチで火を着けてもらった。この煙草を選んだことに深い意味はなく、単に初めて見る銘柄だったからだ。

「ふう、美味い。幾らくらいした? 倍の値を出すよ」

「いえ、活動費の中から出ていますので、お構いなく。あたしたちの潤沢な活動費も、宰相が予算を振り分けたものですし」

「先日開かれた大議会に、私は間に合わなくてね。辞令とともに受け取った稟議書に、内容も精査できずに署名してしまったのだ。私の本格的な仕事は、これからだよ」

「それでも早速、大きな仕事をして頂きました。”GG”パール、既に初陣を飾ったとか」

 話を継いだスピールが、妖艶な笑みを添えて言った。この忍びとだけは、以前から面識がある。少し前までは幹部の一人と聞いていたが、今は無名団の三頭領の、一人となっている。

「四半期ごとの予算編制という、宰相として最も大事な仕事が、いきなり終わった後だったからな。暇を持て余して、バイキング島に顔を出したのさ。宰相としての職務ではないが、ちょうどアングルランドとの通商条約もあったし、ついでに前から進んでいた話を、まとめてきただけだ。まあ、アングルランドと事を構えるのだったら、真っ先に海軍力を何とかしなくちゃいけないとも思った」

「それでも、パール様を陣営に引き込めたのは、大きかったのでは?」

「船団の一隻、その船長くらいにはなっているかもしれないと、思っていた。船団を率いる提督など、さすがに予想もしなかったさ。パールはまだ十五歳だ。今年で、十六か。船乗りは職人と同じで、経験こそが能力といっていい」

「そういった経験の壁を、一足飛びに超えてしまうのが、天才というものなのでしょう」

「お前は娘を、前々から知っていたのだろうな」

「バイキング島は近いですし、よく足も運んでいます。陛下があの島から有能な提督を招く時があればと、目録も作ってありました。宰相が先に動いたことで一手成りましたが、今後も必要とあらば、私どもにもご相談下さい」

 この忍びと初めて会ったのは、十五年程前だろうか。スピールの容貌は、その頃と全く変わらない。以前は年齢よりも年嵩に見せ、今は逆といったところだろう。変装を得意としていると、聞いた記憶もある。その外見は、当時から二十代半ばくらいといった感じだ。

「来たぞ」

 バルタザールが言うと、海沿いの入り口から一艘、小舟が洞穴に入ってくるところだった。船を舫い、こちらにやってきた忍び。黒い頭巾を目深に被っているにも関わらず、青白い肌と白い髪、そしてぎょろりとした大きな目を持つ、一目見たら忘れられない異形の娘である。

「ああ、あなたがぁ、宰相となられました、アドリアン様でずがぁ。ビスキュイと申しますぅ。よろしく、お願いしまずぅ」

 やたらと濁った声で、娘は言った。年齢不詳だが、まだ若いという気がする。この女の声も、洞穴ではやたらと耳に響いた。

 スピール、リュゼ、ビスキュイという、無名団の三頭領が、一同に会した。レヌブラン王バルタザール、そして自分、宰相アドリアンの五人は、いわばこの国の裏表を問わない、頭脳である。

「あ、あのぉ、陛下ぁ。私はすぐにノースランドに戻りまずので、ご挨拶抜きで、始めさせて頂きたいのでずがぁ」

 バルタザール程の巨体が相手でなくとも、万人を下から睨め上げるような話し方だ。ビスキュイは目の大きさに対して瞳が妙に小さく、それがぎょろりとした目の印象を与えているのだと、この時気づいた。

「クックッ。呼び出したお前の勝手であろう。お前の言に、従うぞ」

 常に周囲を圧するような気を放つバルタザールだが、家臣相手でも意外と偉ぶるところはなく、話を聞く耳は持っている。それはこの王の美徳というより、器の大きさだろう。

「ああ、では早速。ノースランド宮廷では陛下・・・ハイランド公ティア様ですが、そのティア様の戴冠式がいつになるのかと、気を揉んでおられまずぅ。当初の予定ではバルタザール陛下の戴冠式後、ティア様のそれもすぐに執り行われる予定と聞いておりまじだがぁ」

「俺の要請とはいえ、先方としては教皇の独断ではあったのでな。教皇庁の他の坊主や、各地の枢機卿から、相当の反発があったらしい。またハイランドで戦があったこともあり、回りの連中がいらんことを吹き込み、急遽レムルサへ、帰国の途についた」

「あ、あぁ、順序が逆では。私たちがハイランドを守り抜き、エドナ元帥を一日で撤退に追い込んだ隙を衝いて、陛下の戴冠とあいなった次第のはずでずぅ」

「その通りだ。しかし、教皇庁はしばし戦は続くと踏んだのだろうな。俺も帰国を止めはしたが、命令できる立場でもない。が、案ずるな。この冬の間に、もう一度ノースランドへ向かってもらう手筈になっている」

「それは、いつ頃でしょうがぁ?」

「わからぬ。なるべく急がせよう。スピールも、今はそのことに尽力している。なに、ノースランドに、再びアモーレ派の火が灯る。それは奴らにとっても、甘い果実なのだ」

 アングルランドはリチャードの即位とほぼ同時期に、アモーレ派から離脱し、アングルランド国教会という独自の宗教機関を立ち上げている。ユーロ北部に広がるゼーレ派と教義は似ている部分があり、同じセイヴィア教徒でありながら、アモーレ派とは敵対関係に近い。ノースランドの教区もアングルランド国教会に組み入れられたが、宗旨替えの強要が、以前より燻っていたアングルランドからの独立、それを目指す叛乱に、背中を押す形になったのは事実だろう。同じ国の、されど民族の異なるノースランドの人間たちが、さらなる虐げに憤るのも無理はない。そして今、ノースランドの独立とアモーレ派への復帰は、期せずして同じ意味を持つこととなる。

 今気づいたが、ビスキュイのみならず、忍びたちはいずれも、バルタザール相手にあまり畏まった様子がない。レヌブラン独立までは、相当に腹を割ってその計画を練ってきたのだろう。血の繋がりはなくとも、バルタザールと三人の娘、と見えなくもなかった。

 あるいは、彼相手に呑まれないからこそ、この地位にいるのか。アドリアンこそがそうなので、その見方もできた。他の諸侯や側近に比べると、アドリアンにはバルタザールをただ仰ぎ見るような崇拝の念はない。むしろそのことで、若い時は彼の相談に忌憚ない意見をすることもできた。

「ともあれ、わがりましたぁ。ティア様には、必ずこの冬の間にとぉ」

「ビスキュイ、お前には苦労を掛けるな」

「い、いえぇ、あちらでもその、楽しく、その、仲間に入れて頂いているみたいでぇ。それが、嬉しかったりもしまずぅ」

 ビスキュイは顔を上気させ、手を何度か擦り合わせた。

「良い人間に、恵まれたのだな。お前を取られないか、心配になってきたぞ。いずれ、ノースランドとは正式な同盟を結ぼう。まずは王国として、教皇に認めてもらわねばならない」

「同盟。そ、そうなったら、嬉しいですねぇ。ティア様やアナベル様、そしてウォーレス様と陛下がお会いになられる日を、心待ちにしておりまずぅ」

 バルタザールの言葉にビスキュイは胸を撫で下ろしたり、高鳴らせたりといった様子である。感情は、表に出やすい忍びなのだろう。

「追って、使いを出す。ハイランドでの戴冠が難しいようだったら、ノースランド本島のオーガスタスでも良かろう。手間になるが、いずれでも戴冠を執り行えるよう、計らっておいてくれ」

「ぎょ、御意にぃ」

 片膝を着き、ビスキュイは頭を下げる。その頭巾に大きな手をぽんと乗せ、バルタザールは忍びの頭を撫でた。

 リチャード王に敗れ、レヌブランがアングルランドの属国とされていた間、バルタザールは隠居の好々爺を演じていたわけだが、今の穏やかな横顔を見るに、いつの間にかそういった振る舞いも、板につき始めているのかもしれない。丸くなったという感じは、やはりあった。

 が、佇まいこそどこか柔らかいものが醸し出しつつも、人使いの荒さは変わらない。そしてアッシェンの一勢力であった頃と違い、今は一国の主である。レヌブラン自体が責任を持ってやらなくてはならない政も、やはり一国の規模である。そしてその多くの責任を、アドリアンは押しつけられていた。権限が大きいということは、そういうことである。

「久し振りに、共に飯でも食らうか」

「い、いえぇ、この知らせを持って、すぐにでもノースランドへとんぼ返り致しますのでぇ。陛下のお誘いをお断りするなど、恐悦至極なのでずがぁ」

「そんな言葉を覚えても、結局お前のそういうところは昔から変わらんなぁ。俺は、少し傷ついたぞ」

「ひ、ひえぇ、お許しをぉ」

「そうだビスキュイ、あなたに渡したいものがあったのよ」

 スピールが助け舟を出し、荷物の中から小袋を取り出した。袋の口を開けると、バターの芳醇な香りが、洞穴の中に漂う。

「上の厨房で焼いてきたの。持っていって」

「う、うぅわぁ。スピール、ありがとうございまずぅ」

 取り出したビスケットを一枚、早速ビスキュイは口の中に放り込んだ。青白い頬にはっきりと朱が差し、忍びはうっとりと目を閉じた。

「スピールのビスケットは、本当に美味しいですねぇ。幸せですぅ。ああ、次にここに来る時は、ノースランドのショートブレッドを持ってきまずぅ。あれも、本当に舌が蕩けてしまうんですよぉ。皆さんにも、ぜひ味わって頂きたくぅ」

 無名団の忍びたちは、忍びになった際に、生来の名を捨てる。このビスキュイは、ビスケットが大好物であったことから、この名を名乗ることになったと、先日聞いた。

「それでは、陛下、宰相閣下、私は、これにてぇ。現地の情報についてはこれまで通り、他の忍びを使って運ばせますゆえぇ」

 二人に頭を垂れたビスキュイが、スピールとリュゼに、軽く目配せして、洞穴の入り口へ向かう。腰を僅かに落としたまま、頭の位置を全く動かさない歩き方は、どこか虫の類を思わせた。舫い綱を解くと、もう一度だけこちらに頭を下げ、忍びは外の海へと小舟を漕ぎ出していった。

「せっかく三人で顔を合わせたんだ。もう少し、ゆっくりしていけばいいのにな」

 リュゼが、誰に言うでもなく口にした。

「言われてみれば、そうね。私は二人とはよく会ってるから、気づかなかったわ」

 スピールが返すが、リュゼは丸顔をさらに丸くしてむくれていた。ビスキュイ同様、この忍びも感情が表に出やすいようである。もっとも、任務の時は二人とも、別の顔になるのだろう。

「今日は、アドリアンに対する、顔見せの意味合いもあった。アドリアン、ビスキュイについては、あれで充分だな? 俺やスピールを通さず、宰相のお前の元に、あいつが直接話を持ってくることも、今後はあろう。それだけの力を、あいつには与えている」

「ええ。一度見たら、忘れられない娘です。ノースランドとの橋渡しとあらば、実際私の元に直接持ってくる話の方が、多いかもしれませんな」

 ビスキュイはノースランドの宮廷に早くから接触を持っていたものの、その存在をあまり隠して来なかったというのも、頷ける。目立ち過ぎる娘である。なので、彼女の所属、真の主の存在だけは、伏せられてきた。

 が、あの身のこなしから見ても、例えば夜陰に乗じた作戦などでは、発見困難な忍びかもしれない。日の当たる所では、存在を消せない忍びだというだけだ。

「ビスキュイは、どれ程の頻度で、ここへ帰ってくるのですか」

「二、三ヶ月に一度といったところか。俺の知る限りではな」

 言ったバルタザールは、スピールに顎をしゃくる。彼が把握していないところでも、忍び同士の接触はあるはずだった。

「実際に、その程度ですよ。ただ私がノースランドへ赴くことがありますので、会うだけの頻度なら、もう少し高いかと」

「ふむ。では戻ろうか。お前のそれは、どうしたものかな」

 バルタザールは、アドリアンのぼろぼろの服を見て言った。この時間のアドリアンは、バルタザールの私室で、ちょっとした会談を持ったという体裁になっていた。このまま宮殿に戻れば、どこで泥遊びをしてきたのかと、疑いの目をかけられることは必定である。

「あたしが先回りして、服を取ってきます。陛下のお部屋に置いておけばいいのですよね」

 バルタザールの私室も、アドリアンの宮殿内の私室も、海沿いの一室である。そして会談前に何故か海に面した窓のひとつを開けておいてほしいと言われた意味が、わかった気がした。アドリアンの服が汚れるかどうかの予想ではなく、何かあった際に、忍びがすぐに駆けつけられる形になっているのだろう。

「あなただけじゃ、心配ね。同じような服を選ばなくちゃ。閣下、衣装箱を開けるご無礼を、お許し下さいませ。リュゼ、私も背負っていってくれる?」

「わかった」

 二人のやり取りから、リュゼはスピールを背負ったまま、洞穴の外の岩壁を登っていくということなのだろうか。疑問に思う間もなく、スピールはリュゼが持っていた重そうな背負い袋を担いだ。それを、小さなリュゼが苦もなくおぶる。その格好がどこか滑稽で、気づいたスピールが、こちらに向けて舌を出し、片目を閉じた。妖艶な娘の、茶目っ気ある表情である。

「そろそろ時間だ。戻るぞ」

 バルタザールが言い、松明に再び火を着けた。こうしたちょっとしたことを、バルタザールは自らの手で、かつ器用にこなす。余談だが、バルタザールはこの巨体と風格に似合わず、細々とした作業が得意だった。先代の言いつけで従者の修業時代、各所で厳しく躾けられたらしい。まだ二人とも若い頃、戦場で彼のそんな姿は、幾度も見て来た。あの熊のような大きな手で、鎧の小さな金具や、服のほつれなどを、自分で直してしまうのだ。

「では十分後に。失礼します」

 リュゼはスピールと、同じくらい大きな荷物を抱えたまま、洞穴の外に出た。半身がこちらから見えていたが、波を被る間もなく、その姿は入り口の上へと消えていった。

「松明は、お前が持て。服だけでなく、おかしな怪我をされてもかなわん」

「あの滑りやすい階段もどきを、また上っていくのかと思うと気が滅入りますな。まあ、鍛え直すにはちょうどいい、そう思うことにしますか」

 アドリアンは溜息をつき、王から松明を受け取った。



 刃から伝わる衝撃に、手首が悲鳴を上げていた。

 キザイアとは、もう何度打ち合ったかわからない。馳せ違う度に、必殺の刃を放っていた。鋸の歯が何本か、欠けているのがわかる。

 リッシュモンとキザイアの駆け合いは、ほぼ互角だった。こちらが四千、キザイアが率いる兵は五千程か。なのでわずかな兵力差と戦場での違和感が、徐々に決定的なものになりつつある。互角の攻防では、いずれ追い詰められる。

 外見こそ見る度に老いていくが、キザイアの用兵は、今まで幾度となくやり合ってきたどの彼女よりも、激しいものに感じる。この戦で、全て出し切る。そう考えての全力だろうが、二人の距離が出来た際には、ちゃっかり休んでもいるようだった。老練ここに極まれりといった戦で、この戦場で最も年老いているキザイアこそ、一番首を獲るのが難しいだろうと、リッシュモンは思った。

 騎馬隊を反転させ、再びキザイアの騎馬とぶつかる。部隊を二つに分けたキザイアはその突撃をやり過ごし、こちらにその歩兵の横腹をさらす格好になった。が、あのキザイアがそんな雑な用兵をするはずがない。案の定、丘の上に騎馬隊が現れた。ソーニャかと思ったが、ここから見える旗印は、キザイア同様、ギルフォード家のものである。クリスティーナか。このまま歩兵に突っ込んでも、突き抜けた先の重騎兵の逆落としをぎりぎりかわせると判断したが、それをやってしまうとこちらの歩兵を見殺しにしてしまうことになる。丘の中腹に陣取るこちらの歩兵は、麓の敵に対して優勢を保っているものの、クリスティーナに半ば背中をさらす形になっている。が、そもそも目の前の歩兵を突き破ったとて、確実にクリスティーナの追撃をかわせるかは、何かしらの罠があった際には当てが外れる。

 歩兵を突破するなら、クリスティーナは出てきたリッシュモンを叩く。来ないなら、こちらの歩兵に。

 一瞬だが、逡巡した。しかし、ダミアンを信じて、リッシュモンは再び騎馬隊を反転させた。重騎兵の逆落としは、さすがにリッシュモンの軽騎兵では、止めるのに骨が折れる。その態勢に入ってしまったなら、側面を突き破ろうとしたところで、鋼の人馬の奔流に飲み込まれてしまうだろう。やはりここは、ダミアンに任せるしかない。まずは、ダミアン以上に老練なキザイアの動きを止めるべきだ。二手先で、キザイアがこちらを仕留める絵図が見え、今はそれを何としても斬り裂かなくてはいけない。

 ダミアンは押し合いの最中にも歩兵を少しずつ、クリスティーナのいる場所へずらしていった。背後、かつ斜めからの突撃で歩兵を蹂躙されるよりかは、むしろ完全に正対した方がいい。そのままクリスティーナが逆落としをかければ、すんでのところで部隊を二つに分けて躱せば味方の歩兵に突っ込むことになるし、仮に逃げ後れた者がいたところで、やはり結果は変わらない。クリスティーナが直前で逆落としの勢いを緩め、味方に突っ込まない場所で止まることも出来るが、そうなれば分けたこちらの歩兵が、重騎兵に襲いかかる。足を止めた重騎兵なら、歩兵でも充分やりあえるのだ。

 ダミアンの構えを見て、リッシュモンはしばし、クリスティーナの存在を無視できた。

 キザイア。今度は互いに兵を固めて、まともにぶつかった。一人、二人と、リッシュモンは雄叫びを上げて目の前の敵を斬り伏せた。三人、四人。全て斬り落としたが、一撃で命を奪う程の斬撃ではない。リッシュモンの疲れもあるが、キザイア自身がどこから襲いかかってくるかわからないので、振りは重さよりも、速さを優先させるしかないのだ。うっかり深く斬り過ぎて、敵の具足の金具にでも刃が入ってしまったら、それこそあっという間に斬られてしまうだろう。敵を落馬させるのは、視界を開いていく意味合いもあった。キザイアは犠牲を嫌う将だが、ここという時にはそれを厭わない決断力がある。そしてこの動きは、犠牲を出してでもリッシュモンを仕留めるものだ。

 一閃。頭で認識するより速く、質の違う一撃を、なんとか躱した。腕甲が裂かれ、右腕に出血を感じるが、痛みのほとんどは、それを受け止めた衝撃によるものだ。が、今の一刀を躱し損ねていたら、脇腹から背骨まで届くような斬撃だったに違いない。

 敵兵を突き抜け、リッシュモンは騎馬隊を旋回させた。車懸かりの構えだけは見せたが、キザイアは既にこちらから距離を置いている。丘上のクリスティーナは、連れてきた歩兵を、ダミアンの側面へと回そうとしていた。

 西、街道の方から、軍楽隊の音が聞こえてきた。あえて楽器を鳴らし、接近を知らせてくれたのはありがたい。クリスティーナはいつの間にか頂から姿を消し、キザイアも北東の窪地へと下がっていった。もっとも敵はその信号により、アッシェン軍各部隊の位置はある程度把握していたはずである。こちらは絶体絶命だったが、先方は上手く行けば、といった程度の懸け合いだったようだ。

 キザイアはこちらの部隊に背中を見せているが、追うべきではないだろう。北にもう一つ丘があり、そちらにソーニャが潜んでいる可能性がある。と、そこまでこちらが読むと見込んでの、単独の大胆な逃走なのかもしれないが、丘の上のこちらの斥候は追い払われたばかりで、真相はわからない。

 ザザの部隊と合流し、一息つく。

「西の方は、どうだ」

 馬を寄せてきたザザに、問う。互いに赤い具足、かつザザの得物は戦鎚だが、それでもなお、彼女が返り血に塗れていることはわかった。

「かなり、苦戦していますね。防戦一方で、攻め込むことができません。元帥が上手に部隊を回してくれているので、なんとか持ち堪えていますが」

「崩されないので、精一杯ってとこか」

「ええ。犠牲は、出ていると思います」

 汗を拭おうとして、頬にぴりりとした痛みを感じた。大した傷ではないが、どこかで斬られていたらしい。

「まずいな。かなりまずい。ちょっと、アルフォンスと相談してくる。あいつがどう見てるのか、確かめたくなってきた」

「私は南に兵を下げ、本陣近くに陣取ります」

「遅れたが、救援、助かった」

「元帥の指示です。私自身も、状況把握が難しいので」

「あたしの部隊は、一度本陣に帰す。二、三十分で戻すから、それまで踏ん張ってくれると助かる。お前が本陣前なら、危なくなったらすぐに出せるしな」

 替え馬もそうだが、兵にも何か食わせた方がいい。特に、リッシュモンの部隊は、まだ一度も本陣に戻れていない。この野戦は、日暮れ一杯まで続く。あと二、三時間で敵を蹴散らせるとは、まるで思えなかった。今日は激戦のようでいて、犠牲の出ない瀬踏みの攻防に引きずり込みたかったが、本来こちらより犠牲が痛いはずのアングルランド軍の思わぬ猛攻に、戦略にひびが入りそうな展開だった。

 兵たちに混じって、麦の粥を搔き込む。咀嚼の回数が少なくて済み、すぐに身体の力になってくれる粥は、戦場ではありがたい。兵たちも、消耗が大きく空腹感など感じていないだろうが、急いで粥を腹の中に入れていた。

 見張り台に向かうと、気づいたアルフォンスが降りてきた。

「押されてるんだろ?」

「全体に、南に下げましょう。ブルゴーニュ軍がかなり、北の城壁に釣り出されています。救出に向かって頂ければ」

「孤立しかけてるってことか。わかった。図体がでかい分、簡単に襟首掴んで引っ張ってくるってわけにもいかねえだろうが」

「こちらからの情報が、上手く伝達できずにすみません。その中でも、さすがリッシュモン殿と唸らされていますが」

「読みと、勘だけだよ。相手の用兵がいいんで、逆に読める。にしても、ここまで戦況を把握できない戦は、初めてかもしれないな。加えて、耳のせいもあって、もうひとつ集中できない。にも関わらず、えらく消耗させられる上に、犠牲も出てる。甘く見てたわけじゃないが、それでもこの戦場を、舐めてたかもな」

 鞍が外され、リッシュモンの馬が替えられるのを見ながら、水袋に口をつける。風を、冷たいと感じた。思わず、首元に手をやる。

 行軍中ではなく、実際に干戈を交える戦場では、真冬でも防寒着の類を着たことがない。戦場を自ら駆け回るのがリッシュモンの戦なので、雪や冷たい雨の中の先頭でも、一度馬を駆けさせれば、寒さを感じることはなかったのだ。

「おかしいな。それなりに駆け合ってたつもりだが、寒い」

「睨み合っている時間が、長いように見えました。神経戦だなと。あまり駆けていないのに、先程から本陣に帰ってくる兵たちは、いずれも疲労困憊といった様子です」

 あらためて、自軍の兵に目をやる。飯や便所を済ませた兵の多くが、辛そうにしていたり、地面に座り込んでいた。まるで、一日中激戦を強いられたかのような消耗具合に、唸りそうになる。まだ、昼をいくらか過ぎた辺りなのだ。

「徴用兵に関しては、余裕のある時は頻繁に休ませた方がいいかもしれません」

「ここには、ブルゴーニュやポワティエの徴用兵も多いからな。そこの差配は、できる範囲で頼む。今は持ち堪えているが、何かのきっかけでぷっつりと気持ちが切れちまう気がする」

「リッシュモン殿も、どうかお気をつけて」

「ありがとよ。死なないよう努める」

 アルフォンスにそう言われて、少しだけ喜んでいる自分に、いくらか驚かされる。この男への恋慕は断ち切ったつもりでいるが、胸が反応したのは、その残滓か。あるいは男女の仲を超えて、そもそもこの男のことが好きなのかもしれない。少し歳上だが、弟分のように扱ってきた。田舎の小貴族で、こちらは十代から一軍を率いていたこともあり、そんな関係性になったのだろう。馬の合う男であることには、間違いない。

 水袋を満杯にし、リッシュモンは再び部隊を率いて本陣を出た。先程と同じ陣形で、ザザは少し北を守っていた。

「待たせたな。西側に行って、ジョアシャンたちを助けてくる」

「私は、何度か交代で、兵を本陣に入れます。西側の見晴らしは東に比べると大分良いですが、地図よりも広く感じますよ」

「南北に三つ並んだ窪地を、五つの丘が取り囲む形だよな。どうやってジョアシャンをここまで連れてくるか、駆けながら頭を捻ってみる」

 西側、一番手前の、丘の頂上。スミサ傭兵隊が、大盾を構えて窪地の方を向いていた。敵の長弓隊の攻撃が、あるのだろう。最も敵を俯瞰できる場所で、しかし身動きが取れないようにも見えた。あれとはまともにやり合わず、距離ができた時に矢で攻撃するという敵の動きは、ほぼ一貫しているようだ。騎兵に対して無敵の長槍隊も、騎兵が逃げてしまえばどうしようもない。逆に言えば、それだけ敵は、スミサ傭兵隊を警戒しているとも言える。たった三千で敵の動きに影響を与えているのなら、ここまで目立った戦果がなくとも、存在だけで優秀だ。

 その丘の下を迂回し、南から西の丘陵地帯へ向かうことにする。街道を跨いだ際、トゥール城壁に例の垂れ幕が架かっているのが見える。信号が以前通りなら、丘陵地帯真ん中の窪地で北を向いているのが、ブルゴーニュ軍であるはずだ。頭を振り、敵の配置を想像する。なんとなく、敵のやりたいことが見えてきた気がした。

 馬腹を蹴って、リッシュモンはそのまま西へ駆けた。



 さすがに、数が多い。

 複数部隊で囲んでいるこちらの方が、総兵力では勝っているものの、一万五千の、それも守りを固めて亀になっているそれは、そう簡単に突き崩せそうもなかった。

 が、戦前は一万六千と見られたブルゴーニュ軍は、既に千名近い離脱者を出している。十名、二十名といった、田舎騎士一人に率いられているような小部隊では降伏する者たちが続出しており、彼らは捕虜として武装解除し、速やかに本陣へと運ばれている。

「ラテン傭兵隊、一度引かせて。ケンダル軍、さらに押すように伝えて」

 クリスティーナの指示に、伝令たちが駆けていく。トゥール城の櫓から何度か短い角笛の音が響き渡ったので、クリスティーナはそちらを振り返った。信号の意味が、変わるのだ。

 四番。南の丘をスミサ傭兵隊が占拠しているのは視認できるが、その裏に、移動中の部隊がいるらしい。しばらくして、七の信号。南西の丘の裏。騎馬隊にしてはやや遅いが、歩兵も連れているとすると、ちょっと驚くような進軍速度である。ゴドフリーの伝えてくる信号は敵部隊の将が誰かまでは伝えて来ないが、事前に決めた番号の場所に敵が現れると、その位置と進行方向を正確に伝えてくれていた。なお死角は残るものの、それは今クリスティーナが布陣しているような高台で視認するか、細かく斥候を飛ばせばいい。ただ、ゴドフリーの信号は、斥候の往復とは比較にならないくらい、情報が速い。

「伝令、すぐに。ケンダル軍、一旦攻撃を中止し、今度は城壁傍まで下がって。ラテン傭兵隊北西の丘へ。ソーニャの部隊を、東から呼び戻して」

 三騎の伝令が、各部隊に向けて散る。六の信号。戦場ほぼ中央のクリスティーナの位置からは見えないが、あの進軍速度、そして周到な移動は、やはりリッシュモンとみて間違いないだろう。

「長弓隊、南の丘のスミサ傭兵隊を、追い払って。手持ちの矢は、ここで射尽くしていい。矢が尽き次第、一度私の部隊から離脱し、本陣で矢の補給を。その際に、兵糧も取っておいて。二十分後に、再び私の部隊へ合流」

 命令が端的に復唱され、前へ出た長弓隊が、南の丘へと矢の雨を降らせる。しばし持ち堪えていたスミサ傭兵は、徐々に丘の向こうへと下がっていった。四番、北向き。信号によると、スミサ傭兵隊は今なお、丘の裏手に留まっているらしい。

 移動しているのは、リッシュモン軍だけか。ザザの部隊は敵本陣近くで布陣しているのは目視できるし、ブルゴーニュ軍は中央の窪地に閉じ込めている。

 東の丘陵地帯の北の方から、ソーニャの部隊がこちらに向かってきていた。街道を跨いだ所で待機させ、ソーニャだけを呼び寄せた。

「六番に、リッシュモンと思われる部隊がいる。ブルゴーニュ公を助けに来た、と見てもいいかしら」

「本陣近くへ、一旦退かせるつもりでしょう。北から介入し、押し合いの勢いを利用して、ブルゴーニュ軍を南へ押し出す目論見だったかと。元帥の采配は、あちらで見ていました。その敵の狙いをすかすようにケンダル軍とラテン傭兵隊が位置を変えた今、どう動くかは見物ですね」

「あの、四番の丘を占拠して。ブルゴーニュ軍が撤退するなら、あそこを通らざるを得ない」

「おや、ザザがこちらに移動し始めましたね。私が、あれを止めた方がいいのでは。ただ、四に部隊が邪魔ですか。どの部隊か、ご覧になられました?」

「たった今矢で追い払った、スミサ傭兵隊よ。ザザは、まだ放っておいていい。母さんの部隊がいるから、あまり本陣から離れられないはずよ。あと、私の部隊の歩兵も連れて行って。長槍は、その歩兵で封じ込めればいい」

 騎馬に対しては、クリスティーナの重騎兵隊をもってしてもほとんど無敵に近いスミサの長槍隊だが、歩兵相手だと、ただの長い槍を持った歩兵と変わらない。いや、小回りが利かない分、ただの歩兵よりも弱いと言えた。騎馬で一気に瓦解させられないスミサ傭兵隊だが、じわじわと歩兵で揉み上げることはできる。

 ソーニャが丘を駆け下り、自分の部隊と合流する。その後ろを、クリスティーナ指揮下の歩兵隊が着いて行く。ザザの部隊の妨害があるかもしれないが、本陣死守の任があるのなら、中途半端な嫌がらせ以上のことは、やってこないだろう。ザザも戦巧者だが、ソーニャには及ばない。

 クリスティーナは、北西に目をやった。遠眼鏡で、北西から姿を現した敵部隊を確認する。

 リッシュモンの部隊が、バッドのケンダル軍と対峙しようとしていた。



 騎兵だけで、一気にケンダル軍への間合いを詰めた。

 城壁からの守兵の矢は、それで封じることができる。味方への誤射を避けなくてはいけないからだ。そしてケンダル軍を押し潰す格好で部隊を広げさせれば、後からついてくる歩兵が接敵する隙も作り出せる。もっとも、こちらからの命令がない限り、歩兵の動きはダミアンに一任していた。

 正面からではなく、チーズを削ぎ落としていくように、斜めに駆けて、敵歩兵を攻撃する。槍を払いながら駆け抜け、歩兵を押し込んでいく。8の字を横にした形で疾駆を続け、ケンダル軍を少しずつ城壁に押し潰していった。

「大将は、やっぱゴドフリーじゃねえんだな。ここを指揮しているのは、副官のバッドかい?」

 兵は背後で駆けるに任せたまま、リッシュモンは突き出された槍の穂先を全て斬り落として、脚を止めた。命令を出すため、面頬を上げたままの指揮官に声を掛ける。四十絡みの、少し疲れた感じのする男だ。

「いかにも。一騎打ちを所望なら、勘弁してほしいね」

「お前も、そんなに弱くないだろ。どうだい? 名を上げる好機だぜ?」

「上げる名なんて、とっくの昔に捨てちまった。あんたも、聞いたことくらいあるだろうに」

 ゴドフリーの副官が、以前賊徒の頭目だったことは聞いている。親父の身代金の借金で首が回らなくなり、騎士から転落したという、よくある話だ。ただそこから這い上がってきたという話は、そう多くない。

「汚名を雪ぐに、あたしの首は軽いか? ほら、わざわざここまで足を運んで来ているんだぜ」

「おう、あれがリッシュモンだ。お前ら、奴の首を落とせば、報償金は思いのままだぞ」

 舌打ちし、群がってきた命知らずたちを何人か斬り伏せ、馬首を返す。二、三分といったところだが、この部隊の足止めはした。陣も、乱れている。

 ダミアンの歩兵はこちらに向かわず、西の丘にいた敵のラテン傭兵隊の横腹を衝いており、既に半ば潰走させつつある。やはり持つべきは、良い副官である。ダミアンの意図に合わせ、リッシュモンは来た経路を引き返し、後方で指揮を執っていたアメデーオに突撃した。

 ラテン傭兵隊はすぐにこちらに迎撃の構えを取ったが、ダミアンの猛攻に気を取られていたせいか、反応が鈍い。アメデーオの指揮というより、傭兵の動きが緩慢なのだ。自部隊の劣勢を感じ取るだけの豊富な経験が、かえって足を止めさせてしまっている。

 先頭を駆け、慌ててこちらに向かってくる騎兵を、馳せ違う度に斬り落とした。足を弱め、混乱した敵の中でさらに刃を振るうこともできたが、今は突破を最優先とする。さらに二人を落馬させ、騎馬隊の薄い陣を突き抜けた。反転し、後続の味方が追いついてくるのを待つ間に、ラテン傭兵隊は人馬揃って潰走した。傭兵独特の生き残り戦法であると同時に、バッドのケンダル軍がすぐに救援に来ることを見越している。派手に散らしたが、それだけに犠牲はほとんど出していないだろう。が、ジョアシャンに対する攻撃は、それで一旦止まった。

「本陣からの、指示が出ているだろう。少しずつでいい。本陣に向かって、下がれ。横背は、あたしが守る」

 最前線でやり合っていたポーリーヌに、大声で伝える。返り血で真っ赤になったポーリーヌは、すぐに反転の指示を出した。先頭にいたポーリーヌの麾下が、むしろ殿軍になるような形だ。大部隊が南に移動すると、土煙の下から倒れている、あるいは動けなくなった兵たちが姿を現した。

 ざっと見ただけで、千人程か。敵もいるようだが、ここに囲い込まれて以来、相当の犠牲を出してしまっている。一万六千いたブルゴーニュ軍も、今は一万四千程度だろう。

 ただ、ほとんど孤立してしまったことを考えると、よく持ち堪えたとも言える。倒れていても、やがて起き上がり、本陣に帰れそうな兵もいた。落ちている槍や剣も多く、捕虜になって生き延びた者たちも、少なくないはずだ。

 鋸の刃の血を払い、顔にかかった返り血を拭う。ラテン傭兵隊の再集結にはあと数分は掛かりそうだが、バッドのケンダル軍は、既にこちらに向かっていた。

 クリスティーナは東南、目の前の丘の、さらにもう一つ先の丘に布陣している。重騎兵のみで、歩兵の姿はない。ここからは見えないが、そのさらに南、本陣近くの丘を占拠していたスミサ傭兵隊に、向かわせたのだろうか。

 後はキザイアか、ソーニャの部隊を本陣前のザザに向かわせれば、全ての戦局で押されていることになる。戦前はアングルランドの迎撃軍は四万前後、対するこちらは三万二千。寡兵とはいえ充分盛り返せると踏んでいたが、今は彼岸の兵力差がまともに出ており、その差以上の劣勢は否めない。

 クリスティーナの部隊は、戦場を睥睨している。かつてない程、その存在を大きく感じた。

 ケンダル軍はラテン傭兵隊が再集結するのを待って合流し、ブルゴーニュ軍が下がるに任せ、こちらに距離を詰めてくる動きだ。が、まだ時間に余裕はある。クリスティーナは誘うように、一つ先の丘で、重騎兵のみで、半ば孤立していた。今なら首を狙えると、リッシュモンでなくとも考えるところだろう。東の、南北に続く街道への経路ががら空きで、その街道を南下すれば、最速であのクリスティーナの待つ丘の麓に、辿り着ける。東の丘陵地帯からソーニャかキザイアが飛び出してきたところで、多少の足止めができれば、騎馬隊だけでも敵の総大将とやり合うことができる。

「ゴドフリーか、クリスティーナ自身か。やることが、どこか見え透いてんだよな」

 独り言だったが、隣のダミアンが頷く。

「私が、先行しましょうか」

「いや、囮の方を、頼む。あたしが先にぶつかるだろうから、すぐに追いついてくれ」

 大将の読み、考えについてこれないようでは、リッシュモン軍の副官ではない。その点ダミアンは完璧で、今後この男以上の副官が見つかるか、不安になってくる程だ。

 そのダミアンが、歩兵のみで東の街道を目指す。手前の丘の麓を、ぐるりと回り見込む形だ。そのまま南下するのを見届けて、リッシュモンは手前の丘を目指した。ダミアンと反対に、右から回り込むか、そのまま駆け上るか。後者にした。今後ブルゴーニュ軍の援護で駆け回ることを考えると、今は少しでも馬の足は温存しておきたいところだが、ここが勝負所と見たら、躊躇うべきではない。騎馬隊とともに、一気に丘を駆け上る。

「絶っ対ぇ、ここにいると思ってたぜぇ」

 本陣から戦場を大きく時計回り、ほぼ戦場を半周。この行程で唯一、かつ本陣からも死角であり続けたのが、この丘の南の麓だった。

 眼下、二つの丘の間。今も街道を南下するダミアンたちを待ち構えていたのは、マルトのグライー軍である。この南部戦線、アングルランド軍最強の部隊が、こちらにまともに横腹をさらしていた。街道側、先頭のマルトがこちらを見上げて振り返り、目を丸くしている。クリスティーナたちの狙いは、ここで看破された。ブルゴーニュ軍を長い間いたぶっていたのはつまり、リッシュモンをあの街道へとおびき出す為だ。

「あたしを出し抜けるなんて、思わねえこったな」

 剣を振り下ろし、東西に伸びたグライー軍の中央に、逆落としをかける。マルトはしばし、彼女らしくもなく迷っていた。この突撃をかわすのは、実は部隊を前後に散らしてしまえば、たやすい。が、リッシュモンを無傷で通してしまえば、勢いでもう一つの丘を駆け上り、クリスティーナの部隊にまで手が届く。

 総大将を守ることを、マルトは決断したようだ。リッシュモンの怒濤の逆落としに対し、少しでも密集し、陣を厚くしようとしている。が、中央に兵を集めようとし過ぎれば、横をすり抜けられてしまう。顔を見なくともマルトの憤怒と戸惑いが、部隊全体から伝わってくるようだった。

「徹底的にやるぞ。ここでこいつらは、終わらせる」

 最前列。繰り出される槍を撥ね上げ、リッシュモン軍は騎兵全てで、歩兵の陣を蹂躙した。この突撃で逃げ回る兵がいなかったのはさすがグライー軍だが、腰が引け、陣は緩くなっている。ほとんど足を止めずに、リッシュモンは歩兵の中で暴れ回った。鎧ごと、兜ごと敵を斬り伏せ、その度に鋸の刃が火花を散らす。乗っている馬もかなりの敵兵を跳ね飛ばし、あるいは蹄にかけていた。他の兵も同様に、これまでの鬱憤を晴らすかのように、槍を、剣を振り回している。

 ここまでは犠牲が出ているにも関わらず、片目を塞がれるような戦を強いられてきた。ここに来てやっと、存分に刃を振るえる。それも敵軍最強の部隊に、一方的な展開を摑み取ってだ。

 背後、必死に丘を駆け上って追いついてきたラテン傭兵隊の騎馬隊はしかし、こちらへの救援を躊躇っている。そこから逆落としをかければ、乱戦の最中にあるグライー軍を巻き込みかねない。リッシュモンがいつまでもグライー軍の陣から出て来ないので、手が出せないのだ。そしてこういう時に役立つ歩兵が追いつくには、まだ時間がかかる。先行していたはずのケンダル軍は、西から丘を回り込んでくるか。

 手が出せないのは、南の丘のクリスティーナも同じだろう。こちらの本陣からも見えないよう、つまりあの丘の向こうにはもしもの為の歩兵がいない。高価な餌をぶら下げていると見せかけるよう、クリスティーナは本当に孤立しているのだ。なのでこの乱戦にある程度の決着が見え、リッシュモンがここを離脱するまでは、手が出せない。

 そのクリスティーナを守る為に潰走せず、なお踏みとどまろうとしていることで、グライー軍の被害は急速に拡大している。唯一こちらで被害を出しているのは、敵将マルトの周囲くらいだ。彼女は華奢な身体で槍を風車のように回転させ、孤軍奮闘の悲壮な活躍を見せている。リッシュモンは屍体の山を飛び越えてそこに飛び込み、マルトに馬体ごとぶつかった。なお突き出された槍を、脇でしっかりと抱え込む。

「よう、あれから大分、顔色良くなったじゃねえか。エルフの万能薬が効いたか」

「あなたのおかげです。その首を頂いて、礼を返すとしますです」

「いい加減、兵を散らしてやれよ。死んでく奴が、かわいそうだ」

 マルトの後方、街道から追いついたダミアンが、足を止めた騎兵を次々と突き落としている。

 槍を手放し、小剣を抜いたマルトの隙を見て馬首を返し、肩越しに飛刀を放つ。手応えを確かめることなく、リッシュモンは再び敵歩兵の中で刃を振るった。南の丘を下り、こちらに近づきつつあったクリスティーナに、声を限りに叫ぶ。

「こっち来いよ、クリスティーナ。マルトがお前を庇って、部隊を皆殺しにされてるぞ」

 クリスティーナの表情まではわからないが、重騎兵の速度は、確実に増している。頃合だろう。予想通り、マルトの指示で、グライー軍は四方に逃げ散った。

 潰走する兵に紛れ、リッシュモンも部隊を散らしながら、その場を離脱した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ