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第29話「私が倒すまで、無事でいて頂戴ね」-1

挿絵(By みてみん)


1,「つくづく、彼女は戦の天才である」


 逃げ後れた敵は、一人もいなかった。

 小さく舌打ちしたのも束の間、敵騎兵はいつ反転したのか、突破した歩兵をもう一度断ち割る形で、クリスティーナにぶつかってきた。先頭は、リッシュモン自身である。

 突き出した馬上槍を、リッシュモンの鋸状の刃が弾き返す。単に目の前を駆け抜けたかっただけで、クリスティーナの首を獲りにきたわけではないことは、すぐにわかった。僅かに重騎兵を引き、敵が駆けるに任せる。麾下と共に右手、街道を南下する形で、陣を接敵前と同じ隊形に整えた。歩兵は敵歩兵の反転突破に陣を乱しているが、すぐに立て直すだろう。

 右翼に重騎兵、左翼に歩兵は、つい数分前と全く同じ構えである。リッシュモンも丘の中腹でこちらを睥睨する形は、やはり先刻の再現だった。

 左手を、ちらりと見る。歩兵はさらに陣を厚くして、敵に向かって槍を構えていた。正規軍でも、特に練度の高い兵たちである。上手くいなし、被害は最小限に押しとどめているはずだ。四、五人が、部隊から離脱して本陣の方へと去っていく。足手まといになるほどの負傷をしたと判断した者は、機を見て本陣で手当を受けろと指示してある。その方が、復帰の時期も早い。文字通り命懸けで持ち場を守る場面は、ここではない。

 連なる丘を複雑な軌跡で駆け抜けていった風が、クリスティーナの背中を、そして前方のリッシュモンの赤い髪を搔き上げる。

 しばし彼女はこちらの構えを見て、次の手を思案している様子だった。右へ左へ、リッシュモンは単騎で移動する。その部隊の持つ佇まいは、獲物にどう食らいつこうかとこちらを睨む、一頭の獣のようだ。

 怯まず、前進を命じる。クリスティーナの重騎兵は当然、丘を駆け上っての攻撃はその破壊力を大きく落とすものの、真正面からの激突なら、軽騎兵の逆落としでも、充分耐えられると踏んでいた。犠牲は出るが、それ以上の戦果は出してみせる。互いの歩兵が、先行した。

 丘の稜線。一騎が丘の向こうを指差し、何やら身振りで指し示していた。見晴らしの悪さから、リッシュモンが斥候代わりに出した一騎だろう。頷いたリッシュモンが、ぶつかり始めた歩兵に、介入する動きを見せた。横腹を衝かれまいとこちらの歩兵は右手に槍を並べたが、あれは敵の陽動だろうと思った。が、それをわかっていても、歩兵の指揮官としては正面への圧力を減じてでも、対応せざるをえない。本当にそのままリッシュモンに突撃されたら、歩兵陣は一気に瓦解する。

 すぐに、引き返してくる。そうわかっているクリスティーナが不安になるくらいに、リッシュモンはこちらの歩兵に猛進していった。ぶつかる。そう思った刹那にリッシュモンは急旋回し、こちらに向かってきた。大将の急な動きに乗り遅れたと思える後続は、しかし鞭がしなるように、横を駆け抜け様に槍を振るい、歩兵に攻撃を加えていた。まったくもって動きに無駄も、足りない部分もない。さすがはリッシュモンと、クリスティーナはあらためてこの強敵の危険度を認識した。

 リッシュモン。こちらの重騎兵に対し、斜めからぶつかる形で、突進してくる。そろそろか。クリスティーナは丘の上に目をやった。正規軍の旗印、その先端が稜線を超えると共に、ソーニャを先頭とした騎馬隊が姿を現した。先程出された斥候により、不意打ちにはなっていないだろう。が、リッシュモンを完全に挟撃する形は作った。歩兵を見捨て、右手、南に向かうのが唯一の逃げ道と思われる。だが、リッシュモンが自軍の歩兵を見殺しにすることはないだろう。なので、詰んでいる。そしてそれが実際はそうではないはずのことも、クリスティーナにはわかっていた。この難局を、どう乗り越えて見せる?

 ソーニャの騎兵隊が、丘を下り始める。平地なら反転してあれに決死の突撃を仕掛け、一度挟撃から逃れるところだろうが、逆落としの形となるソーニャの部隊相手にそれを出来る程、リッシュモンの騎馬隊は馬鹿げた強さではない。

 リッシュモンは左前方、斜めにぶつかる構えをそのままに、重騎兵にぶつかってきた。部隊の左翼側で、中央のクリスティーナからは、まだ遠い。が、弾き飛ばされるように部隊を急旋回させ、丘を駆け上る。そのまま、まだ駆け足となっていないソーニャの部隊、そしてソーニャ本人と刃を交わらせた。二人の必殺の一撃が火花を降らせ、斬撃が一瞬丘を照らし出したかのようだった。

 後続。なで上げるように次々とこちらにぶつかってくる。突破する形ではなく、先程の歩兵相手同様、駆け抜け様に一撃を放っていく格好だ。そして丘を駆け上ってソーニャたちに刃を振り上げ、そのまま左へと駆けていった。一瞬、先頭のリッシュモンを見失いかけた。見つけた彼女は歩兵に刃を繰り出し、その勢いのままこちらに駆けてくる。

「上手い」

 思わず、口に出して言った。

 闇雲に全ての部隊を相手にしているように見えて、リッシュモンはいつの間にか、騎馬を円形の陣にしていた。絶えず駆け回り、車輪の様に外周の敵を攻撃する。車懸かりである。通常それは一方向の敵に対して行われるのだが、リッシュモンはその陣形の特性を活かし、三方向の敵に同時に攻撃を仕掛けている。こんな使い方もできるのだと、理屈はわかっても、初めてそれを見せてくれるリッシュモンに、クリスティーナは感動すらしていた。

 つくづく、彼女は戦の天才である。詰ませたと思った途端に、もうこちらが劣勢になっている。しかしクリスティーナは鞍上で槍を構えたまま、冷静に状況を分析した。

 リッシュモンの車懸かりには今の所、隙はない。重騎兵相手に斜めからとはいえほぼまともに突撃し、その足を止められていることには驚かされるが、よく考えずともこちらに対しては逆落としであり、重騎兵が手こずるのも当然である。しかしながらソーニャの部隊とぶつかる時には駆け上る姿勢になっており、ここでは多少の犠牲を出しているようだった。

 そしてこの思わぬ反転攻勢も、長くは続かないと見た。各隊不意を討たれ今は劣勢だが、あちらの兵の負担は大きい。あと二周。リッシュモンが、この猛攻と勢いを維持できるのは、そこが限界と見た。

 重騎兵を、さらに前進させた。敵の陣形の輪が、その円周を小さくする。その分当りが強くなり、重騎兵にも犠牲と呼べるものが出始めているが、構わず、ゆっくりと包囲を狭めていく。

 すぐ目の前を駆けていったリッシュモンが、振り返ってこちらを見た。目が合ったのは一瞬だが、なんとなく、リッシュモンの考えていることがわかった気がした。

 素早く重騎兵を反転させ、さらなる犠牲が出るのも構わず、クリスティーナは重騎兵を下げた。次いで、歩兵にも後退の指示を出す。遅れてついてきたソーニャの歩兵が、丘を回り込んでこちらと合流を図っているのが見えたからである。

 以前の自分なら、先程をリッシュモン軍殲滅の、絶好の機と見ただろう。が、クリスティーナは押し合っているリッシュモンの歩兵左翼が、前方に突出しつつあるのに気がついた。斜陣。ラステレーヌの時と同じように、その気になればこちらの歩兵を潰走させるだけの仕掛けが、出来つつあったのだ。

 あのまま前進していたら、こちらへ潰走させた歩兵と重騎兵が鉢合わせ、最悪味方同士が入り乱れた状況を作られていたことだろう。その機を突き、こちらの背後に回る。クリスティーナの混乱した部隊を盾にし、ソーニャの部隊の介入を防ぎつつ、さらにクリスティーナの首を狙う。

 そこまでは、読めた。

 街道まで引き上げたクリスティーナは、リッシュモンとソーニャが激しく駆け回っているのを、背中越しに見た。丘の上を保持しているのは、ソーニャである。結果的にだが、自分の首を餌に、ソーニャにいくらか有利な状況を作ってやれたとも思う。一見詰んだと思わせるあの情勢から、クリスティーナの首を直接狙う算段をつけていたのは、さすがはリッシュモンである。

 街道を横切り、西の丘の一つに向かった。北、トゥールの城壁。胸壁から様々な垂れ幕が下ろされ、次に各部隊がどう動くのかの、道標を示してくれている。城門の上の櫓から、ゴドフリーは今の用兵を、どう見ていただろう。後で、聞いてみたい気もした。

 丘を右手から迂回し、西の窪地の一つを目指した。新たな敵と対峙する前に、自軍の兵の犠牲を、目視で見積もる。歩兵は五十人程度、重騎兵は十騎前後か。攻めたてられ、落馬した者もいたようだが、兜や胸当てに傷を残しながらも、脱落した者は少ないようだ。一度部隊を止め、一分程の小休止とした。歩兵が息を整え、戦えぬ者を離脱させたら、再び前進である。どこからか聞こえてくる、戦の音。視界の外ではあるが、西からの風に乗ってきているものと察した。反響は、他の戦場とはまるで違う。クリスティーナたちはもうここに慣れているが、相手はどうだろうか。

 水筒の水を口に含み、クリスティーナは背後を振り返った。先程までいた、丘の中腹。

 期待通り、ソーニャがリッシュモンを押しているのが見えた。



 あっさりと引き上げたクリスティーナに、またも驚かされた。

 首を獲れると判断した時は、確実にそれを狙う。クリスティーナが先頭を切ってこちらにやって来た時は、好機と思った。その得体の知れない佇まいに警戒はしたものの、リッシュモンは間違いなく、彼女を討ち取れると感じていたのだ。

 だからこそ多少の犠牲を厭わず、潜行して近づいてくるソーニャを利用してまで、着実に一歩ずつ、クリスティーナの首に手を伸ばしていった。が、あと一歩というところで、クリスティーナはあっけなく軍を退いた。追いつめられている格好は充分に演出できていたはずだが、どこかに綻びがあったか。自分かダミアンに、芝居がかった挙動がなかったかと、振り返る。が、仕掛けに遺漏はなかったと結論する。ソーニャから、何かしらの警告が出ていた気配もない。クリスティーナはその観察眼だけで、あれが罠だと看破したのか。

 そこを抜きにしても、虎の子の重騎兵に犠牲を出し、歩兵も終始劣勢、なのに何の戦果も上げずに部隊を退くことなど、以前のクリスティーナでは考えられなかったことである。多少足を使って相手に犠牲を出させたのも、あの娘の、引くに引けない意地を引き出す為でもあった。

 が、クリスティーナは堂々と退却し、残ったのはソーニャが丘の上を陣取る、ただこちらが不利なだけの状況である。

 ともかく、丘の上を奪う。リッシュモンはそのことに集中した。こちらの方が人馬ともに消耗しており、今更丘を駆け下りたところで、逆落としに追いつかれ、一方的に突き倒されるだけだった。

 ソーニャの部隊は、後から合流した歩兵を含めて、七千程か。こちらの四千はまだあまり犠牲を出していないが、兵力だけで押し切られてしまう危惧はある。戦術、戦法両面において、リッシュモンと互角に渡り合えるのが、このソーニャだからである。

 ソーニャの騎馬隊と、丘の斜面を回るように併走した。反時計回り、上手がソーニャであり、こちらは右側に押し込まれている。つまりソーニャの騎馬隊は右腕で自由に武器が振るえ、こちらは防戦一方になってしまう形だ。

 何度か着いたり離れたりを繰り返しながら、両者共に先頭を駆ける。もう一度飛刀の間合いに入った所で、リッシュモンは声を掛けた。

「さっきいたあれは、クリスティーナの影武者か? 過去とは、立ち回りが違い過ぎる。それとも、お前の入れ知恵かなんかか?」

「ちょっと、戦闘中に話し掛けないで下さい。手許が、狂います」

「そりゃいい。今から、好きな歌についてでも、語り明かそうぜ」

「いや、手許が狂ったら、あなたを捕縛できないかもってことですよ。うっかり、首を刎ねかねない」

 言ったソーニャは小声で何か続けたが、さすがに馬蹄の響きに押されて、独り言までは聞き取れなかった。

 リッチモンドの民ソーニャは、やはり先日話した通り、リッシュモンという真の主の帰還を実現すべく、捕縛を狙っているのだろう。ソーニャの思わず見蕩れてしまう面貌は、いつになく必死である。二人の剣を比べて僅かにソーニャの方が上だが、リッシュモンを一刀に伏す程の実力差ではない。殺すつもりで斬った相手が生き残るのはよくあることだが、殺さないつもりで相手を斬り伏せるのは、ある程度の実力差がないと難しい。なのでソーニャはあるいは、かつてないほど本気で剣を振るっているのかもしれないが、なおリッシュモンを斬り伏せることができないでいた。今は、この気持ちにつけ込むしかない。

 その剣をなんとか受け流しながら、丘の裏手に出た。東の窪地から、モーニカの長槍隊が、こちらに向かっている。ソーニャにも見えたのだろう。こちらから距離を置き、しかし併走の形は続けた。

「もう一周する頃には、モーニカたちが丘の上に辿り着くな」

「ここは、譲りますよ。丘の奪い合いをしているわけでもないですし」

「なら、さっさと道を空けてくれよ」

「今空けたら、挟まれるじゃないですか。っと、もうその構えになってましたか」

 左手、丘の上。ソーニャの歩兵をなんとかやり込めたのか、ダミアンの歩兵が頂上を占拠していた。

「いやあ、お強い。あらためて、ここは譲ります」

「お前が手加減してくれなかったら、あたしの首は飛んでたかもなあ」

「兵の前で、誤解招く発言は、控えて下さいね」

 ソーニャは馬腹を蹴り、騎馬隊を一気に加速させ、リッシュモンを振り切った。そのまま、北へと駆け去る。こちらの足が限界と見ての、いい判断だった。そのまま北にある丘を越え、こちらの視界から消える。遅れてそれを追う歩兵とは、すぐに合流するのだろう。上手く、差し切られた格好だ。

 下馬したリッシュモンは、轡を取って頂に向かった。ダミアンは兵をまとめたまま、北の、トゥールの城壁を見つめている。

「あれか。あたしも駆け回りながら、気になってた。何の指示かは、アルフォンスが解読するだろうよ」

「単純な信号のようですが、意外と読み解けないものですな」

 白い髭の顎を擦りながら、ダミアンが言う。

「姫、ここに残るなら、私の近くに。騎馬ごと身を守れる大盾が、何枚かあります」

 兵装については、この老将にいつも一任している。今回は折りたたみ式で、通常よりさらに広い面積を守れる矢避けの大盾を用意していると、戦前に聞いていた。

「ああ、そうする。騎馬隊自体は下げさせた方がいいな。それと、伝令。モーニカの隊に、矢を警戒させろ。急げ」

 が、こちらの歩兵が大盾を用意するのを見て、既にスミサ傭兵隊も、矢に備えているところだった。リッシュモンが矢の飛んでくるであろう方向を指し示すと、先頭のモーニカが頷き、北に向けて大盾を構えさせた。

 モーニカは臆病な娘である分、用心深い。戦場では中途半端な蛮勇より、臆病さの方こそが美徳である。

 しばらく待つと案の定、先程ソーニャが越えた丘の向こうから、長弓の矢が一斉に稜線を超えてきた。ダミアンの用意させた特注の大盾の陰に入り、下馬した馬と共に、大量の矢の雨をやり過ごす。長弓の威力は相変わらず凄まじく、矢尻のほとんどが大盾を突き抜け、穴から顔を出した毒蛇のように、矢尻の先端を覗かせていた。

「これだけの長弓隊を率いているのは、消去法でキザイアだな」

「風を、よく読んでいます。ソーニャから状況を聞き、実際は、スミサ傭兵隊を狙ったものかと」

 西からの強い風に合わせて、丘の頂上からその中腹まで、かなりの広範囲に矢を降らせている。上下の曲射に加え、こちらから見て東側への曲射も加えている。風がない時ならあるいは、ここを飛び越えて背後の騎馬隊にまで届いていたか。

「今のお前の話に、どっか引っかかったな。それが何か、すぐに口に出来ない。あの城壁の信号を、解く鍵だという気がする」

 矢が弱まったのを見て、兵全体を南へ下げさせる。モーニカにも合図を出し、スミサ傭兵隊も南に下がった。このままここにいても、矢の的になり続けるだけである。敵本陣はそのすぐ北にあり、矢の補充はいくらでもできるのだ。

「ジョアシャンたちは、どっち行った? 本陣の近くにいたと思ったが、見えなくなっちまった以上、西で合ってるよな」

「ええ、西の丘陵地帯へ。クリスティーナ元帥を追うように、兵を進める指示があったようで。ザザ殿が、孤立しているのかもしれませんな」

「街道を挟んで東は、あたしとモーニカの部隊だけか。一旦本陣へ引こう。視界が悪過ぎて、とにかく状況がわからない」

 戦前、ザザが木のない森と言っていた丘陵地帯。本来丘の頂上を取れば戦場全体を俯瞰できるものだが、いくつも無秩序に並ぶ丘と窪地のでたらめな連続が、丘の一つを取ったくらいでの戦場の俯瞰を、許してはくれなかった。

 時折風に乗って、干戈を交える音や、馬蹄の響きらしきものが聞こえてくる。おおよそ西からだとわかるものの、丘の間を身をよじらせながら動き回る風が、正確な位置の推測を困難にしていた。そこで風が南に折れるのか、誰もいないはずの街道から戦太鼓や進軍喇叭の音が聞こえてきたりして、聴覚と視覚の不一致に、軽い目眩を覚える程だ。

 ダミアンに部隊を任せ、リッシュモンは単身、本陣へ戻った。降りて来ようとするアルフォンスを手で制し、見張り櫓を上っていく。強い風が吹くと、櫓全体が揺れる気がした。通常よりも五割程高く組んだ見張り櫓は、当然の如く不安定である。

「あの信号、意味わかったか」

 トゥールの城壁に沿って架けられた、垂れ幕。色もそうだが、長さも違う。アルフォンスが言うより早く、書き付けを続けるフェリシテが口を開いた。

「大体は。まず垂れ幕の位置ですが、右から、それぞれの窪地の位置を示しているように思えます」

 垂れ幕の数は、七本。窪地の数も、七つである。

「西の窪地は三つは、ほぼ南北に並んでいますが、北から順ですね」

「色は?」

「そこにいるこちらの部隊の、向いている方角ではないでしょうか。北からぐるりと、白、黒、赤、青」

 眼鏡の位置を直したフェリシテはほとんどこちらを見ずに、羽ペンと遠眼鏡を頻繁に持ち替えていた。それにしても、この短時間で本陣ではここまで敵の信号の解読が進んでいるとは、思わなかった。さすがに、アルフォンスとフェリシテという、二人の知恵者がいるのは心強い。

「長さについては、まだわかりません。窪地ではなく、その近くの丘のどこか、さらには不在を示しているのかもしれませんね。目くらましの為の、意味のない信号も混じっていると思います。こちらが信号を読むことは、敵も重々承知しているでしょうから」

 アルフォンスが言い、地図と眼下の光景を見比べている。

「丘の数は・・・九つか。なるほど、垂れ幕の数は少ない。が、思ってたより解析進んでて、助かるぜ。実地に出ちまうと、あれを読み解くのはしんどい」

「何かの合図で意味ががらりと変わるということは、あるかもしれません。こちらがあれを利用しようとすると、逆手に取られるかもしれませんね」

「わかった。現場では、気にしない方がいいな。向こうが出す信号だ。信用すると、足元掬われるよな」

「三分の一程の長さのものは・・・ああ、やはりその窪地にこちらの部隊がいないということですね。色に関係なく」

 フェリシテが、独り言のように呟く。風が大きく櫓を揺らし、フェリシテは小さな悲鳴を上げた。これまで本陣で櫓に立つことが多かったと思うが、そもそも高い所は苦手なのかもしれない。特に、今回のものはよく揺れる。アルフォンスが、スミサ傭兵隊に指示を飛ばしていた。階下の兵が、それを下の伝令に伝えている。

「とりあえず、あれは任せる。邪魔して悪かったな」

「先程は、かなり追いつめられているように見えました。リッシュモン殿が、誘いをかけていたのかもしれませんが」

 アルフォンスは少し心配そうに、こちらを覗き込んでくる。

「耳だな。風がおかしな感じで舞ってて、遠くの音はもちろん、目の前で起きていることすら、僅かに現実感を奪う。砲兵の連中が、耳栓しながら動き回ると、どこか自分のやっていることを他人事に感じると聞いたことがある。多分、それに近い」

 そこまで言って、リッシュモンは梯子を下りた。すぐに、部隊へ合流する。命令を受けたスミサ傭兵隊が、西の丘陵地帯へ駆け去っていくところだった。本陣近くは本隊と、リッシュモンの部隊だけとなる。攻める側なので本陣の守りに固執しても仕方ないとはいえ、ここは多少手薄だった。

 ダミアンに垂れ幕の信号について話し、リッシュモンは煙草に火を着けた。西からの風に思えていたが、煙は南へ向かう。本陣近くはやや視界が悪いこともあって、敵の姿は見えない。視界よりも、水場の近さを優先したからだ。やや長期の滞陣を、偽装する意味合いもある。東の丘から、キザイアかソーニャが、いつ姿を現しても不思議ではないが、さすがに見張り台からなら、敵が近づけば捕捉できるはずである。

「さっきアルフォンスとも話してたが、耳がおかしくなるよな。現実感に乏しくなるというか」

「確かに。兵も、あれだけの懸け合いをしたのに、どこか集中に欠けます。今までに、なかったことですな」

 歩兵を見ると確かに、忙しなく周囲を見回している兵が、いくらか目についた。風が音を運ぶとすれば、布陣する位置によって聞こえ方も異なるだろう。丘の頂にいた際には、あまり感覚のずれもなかった気がする。

「ザザかジョアシャンのとこから、軍楽隊を借りるのもありかもな。普段使わないから、却って逆効果かもしれないが」

 リッシュモンの部隊に、軍楽隊はいない。歩兵が速度を合わせる際に太鼓を叩くか、猛攻の合図に喇叭を吹く者が数名いる程度だ。

 右手、東の丘の斥候が、身振りで何か伝えようとしている。元来の斥候の使い方と違うので、意思の疎通がしづらい。ただ、丘の裏に敵部隊がいることはわかった。次の瞬間、その兵は矢を受けて落馬した。

「やりづらいな。ともあれ、やるしかないよな」

 兵たちに言ったが、自分でも空虚さを感じる言い回しで、苛々とする。

 丘の斜面を回り込んで来たのは先程も見た、白地に赤い薔薇の旗印、アングルランド正規軍のもので、つまりソーニャの部隊だろう。旗はもちろん、指揮官の顔すら見ずとも、先頭が何人か姿を現しただけで誰の部隊かくらいすぐに見分けるリッシュモンだが、今となっては確実に、その感覚が鈍っていることを自覚せずにはいられなかった。

「軽く、ぶつかる。どこかに、キザイアもいるだろう。よしお前ら、油断すんなよ!」

 あえて肚の底から声を出し、リッシュモンは馬腹を蹴った。



 歩兵で、揉みに揉み上げた。

 丘を回り込んで側面を取ったクリスティーナの部隊に対し、ブルゴーニュ軍はほとんど対応出来ていない。不意打ちというには先に姿をさらし過ぎたのだが、ブルゴーニュ軍は緩慢な反応で、何が起きたか、あるいは今も気もそぞろに、こちらの攻撃にかろうじて対しているだけに見えた。

 この丘陵地帯の、いわば魔法にかかったような状態なのだろう。ここを決戦の場に定め、調練を重ねている間も、将兵たちの不満の声は絶えなかった。風が通る道筋は高低も含めた複雑な目に見えない迷路であり、音の響き、方向が眼前の光景と一致せず、混乱するのだ。じわじわと効いてくる遅刻性の毒とも言え、軍全体がこの戦場に慣れ、特性を掴むまでに、実に五日を要した。その甲斐あってか、アングルランド軍に今の所、指揮に戸惑っている者はいなかった。アッシェン軍がまったく順応できていないのは、このブルゴーニュ軍を見れば明らかだ。リッシュモン軍にその障害をあまり感じなかったものの、どこかで影響は受けていたはずである。

 こちらは半分以下の兵力ながら、ブルゴーニュ歩兵を押している。先頭のブルゴーニュ公の娘ポーリーヌが、一人気を吐き、なんとか持ち堪えている状況だ。

 その横の、ブルゴーニュ公ジョアシャン率いる重騎兵。こちらの歩兵に側面から攻撃を掛けて援護するか、あるいはクリスティーナの重騎兵を防ぐべきか、決めかねているのがよくわかった。歩兵の援護に回れば、クリスティーナに横腹をさらすことになる。部隊を二つに分けるのが賢明だと思うが、もしこちらに対応されてしまうと、犠牲を出す。重騎兵の犠牲を嫌がる気持ちは、クリスティーナにもよくわかった。

 ベラックでは、目の前であれだけの激戦が繰り広げられたにも関わらず、クリスティーナは重騎兵を動かせなかった。最強の兵科の一つである分、失った場合の補充も難しく、ここという場面を見出せないと、中々動かせないのだ。もっとも、その怯懦を、クリスティーナは克服した。先程のリッシュモンとの懸け合いでも、犠牲が出るのもやむなしと、たやすく決断できていた。

 ブルゴーニュ公が逡巡している間も、歩兵同士の押し合いは、寡兵であるこちらがなおその優位性を保っている。ポーリーヌが戦斧を振る腕を止めてしまえば、一気に押し込めてしまえそうである。

 西の丘の向こう、わずかだが、こちらの援軍の姿が見えた。勝ったな、とクリスティーナは思った。疾駆してくるのは、マルトの部隊のようだ。

 馬腹を蹴り、重騎兵を前進させる。観念したように、ブルゴーニュ公は重騎兵を二つに分けた。三分の一程を歩兵の援護に、残り三分の二はジョアシャン自身を先頭にして、こちらに駆けてくる。マルトが到着する前に、クリスティーナの重騎兵だけでも散らしておきたい、そんな腹づもりか。距離を見極め、ジョアシャンは突撃を開始した。

 クリスティーナはあえて足を緩め、敵にできるだけ長く駆けさせるよう、激突の機をずらしにかかった。重裝騎兵の突撃は、50mから100mくらいの間が、最も威力がある。それより前は加速不足、それより先なら馬が消耗し始め、一歩ごとに勢いを失うのだ。

 ジョアシャンの、巨体。ゆっくりと、しかしその姿が確実に大きくなる。槍で指示を出し、クリスティーナは馬首を返さず、馬を後退させた。なおも前進を続けるジョアシャンの突撃は、そろそろ100mを超えるか。彼岸の距離、約70m。合図を出し、クリスティーナは疾走を開始した。

 こんな簡単な駆け引きもできないから、あなたの軍は負け続けたのよ。同じく総大将として連敗中のクリスティーナだが、リッシュモンに比べると、なんと御しやすい相手なのだろうと、今更ながらに思う。

 さらに、馬腹を蹴る。クリスティーナ、ジョアシャン、共に蜂矢の陣の、先頭である。大地を揺るがす重騎兵同士の急接近に、クリスティーナはしばし目を細めた。

 互いの槍が、唸りを上げた。馳せ違い様、ジョアシャンの胸甲に、渾身の一撃を叩き込む。馬上槍試合の槍のように、クリスティーナの槍は砕け散ったが、ジョアシャンを落馬させることには成功した。素早く厚手の剣を抜き放ち、後続の敵の槍を払い、あるいは騎手を斬りつけた。いずれも重武装であり、一撃で殺し切るのは難しいものの、落馬した者は馬の蹄にかけられることだろう。勢いは、こちらが完全に上回っている。兜越しに発せられる苦悶の声のほとんどは、敵のものであることだろう。

 鋼鉄の人馬の海を、突き抜けた。そのまま、こちらの歩兵に襲いかかっていたもう一隊の重騎兵に斬り込む。クリスティーナの重騎兵も足を落としているが、半ば脚を止めていた敵重騎兵を側面から衝くのには、充分な勢いを維持している。

 馬上の敵を、次々と斬り伏せた。前進する。敵兵よりも、その馬を押し退けていく方が大変なくらいだ。後続も続き、突き落とされた完全武装の敵が、人馬に踏み潰され、くぐもった嫌な悲鳴を上げる。

 斬る。前へ進む。それだけを機械的に繰り返し、クリスティーナの重騎兵は、この部隊も突き抜け、潰走させた。しばし、敵前衛のポーリーヌと目が合う。が、これは後回しだ。自軍の歩兵の傍で馬首を返し、遅れて合流する味方を吸収して隊列を組み直す間に、馬の息も整えさせる。全身甲冑の騎士を乗せた、馬甲を着けた馬である。二度立て続けの突撃は、馬を相当に消耗させていた。横の馬が、泡の汗を鞍の下から滴らせている。

 土煙が風に流されると、先程突破したジョアシャンの部隊が、マルトの歩兵によって散々に突き崩されていた。足を止めた重騎兵は、歩兵の格好の餌食である。クリスティーナがジョアシャンの部隊を突破して動きを止め、マルトの軽騎兵がさらにジョアシャンの陣を斬り裂く。続けて歩兵が襲いかかり、今の戦況が生み出されているのだろう。

 マルトの部隊が、さらにジョアシャンの部隊に穴を穿っていく。合わせて、クリスティーナも突撃した。たまらず、ジョアシャンの重騎兵は潰走した。四方へ逃げる集団の一つに、ジョアシャンの姿を見つける。リチャード王程ではないにせよ、その屈強さで鳴らした男である。胸甲に穴を開けられ、兜がひしゃげていても、まだ自在に馬を操るだけの力は残っているらしい。あきれるほどに、頑丈な男だ。

 方々に、乗り手を失った馬と、傷が深いのだろう、重い鎧もあって身悶えしているだけの敵兵が転がっていた。今の攻防だけで、二百騎以上は今後の戦闘に耐えないだろう。逃げ散った兵も、かなりの数が負傷しているはずだ。対重騎兵への突撃としては、ほぼ完勝である。

「後を、追いますですか」

 麾下だけを連れたマルトが、馬を寄せてきて問う。

「いえ、すぐにザザか、リッシュモンが来るはず。ん、この位置だと、多分ザザね」

 トゥール城壁の信号。北東の窪地からこちらに前進している部隊がいることがわかった。街道と、東の丘陵地帯に一部隊ずつ。おそらく街道がスミサ傭兵隊で、東はリッシュモンだろう。が、その位置が入れ替わっていれば、ブルゴーニュ軍相手に深追いすると、こちらが背後を取られる危険性がある。

 ゴドフリーの考案した信号は単純で覚えやすく、しかし各部隊の指揮官まではこちらに伝えてこない。初めはそれも折り込むべきだと思ったが、たとえばリッシュモンが部隊を二つに分けるなどした場合、あるいは信号を逆手に取って彼女が他の部隊を指揮した場合、こちらが敵の動きを見誤り、さらには致命的な失態を演じる可能性も出てくる。そして信号の内容を詳細にするほどそれは複雑になり、戦闘中でもその読解に神経を割かねばならないという難点もあった。

 敵部隊の位置、その方向だけで、良しとした。そこに手を加えれば、逆手に取る余地を、敵に与えてしまう。

「捕虜を取っている暇もないわ。ザザは、私が対処する。マルトは私に代わってブルゴーニュ歩兵を攻撃しつつ、ジョアシャンの重騎兵の再集結を、できるだけ邪魔して頂戴。しばらくすればケンダル軍か、ラテン傭兵隊を、ゴドフリーがこっちに寄越してくれるでしょう。ザザとやり合っていたはずだけど、彼女、上手くいなしてきたみたいね」

「ポーリーヌは、すぐに潰走させられそうですが」

「いえ、さらに揉み上げ、犠牲を出させましょう。それにあれが持ち堪えている限り、ジョアシャンはこの近辺から離れられない。娘を見殺しにして、本陣まで逃げ帰るような男だったら、餌を取っておく意味はなくなるけど」

「わかりましたです。今までの元帥とは思えないくらい、意地の悪い用兵です」

「そこは、いい性格になったと言って頂戴。足を動かした方が、やっぱり頭の回転も良くなる気がするわね」

「ザザは、ブルゴーニュ公のようにはいかないです。お気をつけて。では、また後ほどです」

 ちょっと笑ったマルトが、自分の部隊へと戻っていく。

 マルトの歩兵が接敵するのを待って、歩兵をこちらに戻す。やや西に布陣し、引き返してくるザザの部隊を待った。開戦前の兵力は六千程で、クリスティーナの七千と、ほぼ同数とみる。

 緒戦は今の所、優勢に事を運べている。最終的に勝てるかどうかは、あまり考えなかった。この勢いを維持し、終始圧倒できる程、アッシェン南部軍が甘くないことは、二度の敗戦で身に沁みている。今は敵がこの丘陵地帯の特殊性に慣れていない為、どこでも優勢を保てているだけだ。

「誰か、槍を」

 剣を鞘に収め、麾下の一人から馬上槍を受け取る。

 それを地面に突き立て、クリスティーナはひたすら前方に目を凝らした。吐き出された自分の息が、思いの外、白い。

 今日はこんなにも寒かったのかと、今更ながらに気づかされた。



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