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第28話「あたしも、仲間にいれてくれるんだな」-3

3,「なんとなく誰もが、戦の意義に片足だけは掛けている」


 馬上の老将の敬礼に、アナスタシアも峻厳なそれで応えた。

 騎馬七百を率いて、ボリスラーフが出立する。騎兵は五百だが、二百程の替え馬を引き連れての移動となる。騎兵を率いるアリアンも、この隊の中にいた。続く輜重隊は数台だけだが、ゲクラン領を移動する際は、宿と食料の心配はない。

 予想通り、年明け四日目に、ゲクランからの出動要請が来た。いよいよ、ゲクランの西進が始まる。この新生霹靂団は、その為に旗揚げされた組織といってよかった。

「始まった、みたいな感じが、不思議としないんですよねえ」

 横でのんびりと言ったアニータに、アナスタシアは返した。

「私たちの出立は、五日後だからな。まだ荷造りすらしていないが、ここを出る頃には、そんな気分に自然となるだろう」

 これまでアナスタシアが経験してきた戦と決定的に違うのは、移動の半分近くを鉄道が占める点である。騎兵は通常通りの行軍だが、歩兵、及び兵器の運搬のほとんどを、新設されたゲクラン鉄道が担う。

 こちらの編成は既に届け出ていることもあって、騎兵歩兵共に、詳細な行軍計画が、出動要請と共に添付されていた。二剣の地に入るまでは補給線も含めて、全てゲクランに預ける形となる。

 アニータを連れて、工房の方に顔を出した。攻城兵器の材が、荷車へと積み込まれている。

「準備が出来た荷車から、二台一組で、北に移動させてくれ。護衛も、一組につき五人つける。道中、馬車宿は一拍、無料で泊まれる。兵には、徽章を着けるのを忘れないよう徹底させてくれよ。宿では酒二杯と、夕食、朝食、加えて昼食の弁当を出してくれるそうだ」

 半ば確認だが、アナスタシアは工兵隊長のグラナテに言った。工房の近くには雪も残っているが、グラナテの小さい身体は、湯気を放っていた。人間の体臭はどこか脂っぽい、あるいはすえた感じがするが、ドワーフのそれは、金属っぽい気がする。グラナテは三つ編みを背中へ撥ね除け、胸元の大きく空いた作業服をつまんで前後させ、乳房の間に冷気を送っていた。

「今日中に、四台出せそうな感じじゃな。一人二人の工兵は馬車についていくとしても、わしら工兵隊は、どうしたものかのう?」

「残りは、私たちと共に来ればいいだろう。カルラを筆頭とした、衛生兵もそれについてくる。もっとも、輜重隊と移動しても構わないぞ。一週間後に霹靂団は総員ゲクラン鉄道の終着駅にいる、その形だけ厳守してくれればいい」

「わしは、ぎりぎりまでここに残る。工兵隊は、半分くらい先行させてもいいかもしれんのう」

 積み込まれ、あるいは今も工房内で山となっているものの大半は、現地で製作できない攻城兵器の連結部分や、工具類である。さすがに攻城塔などの大型兵器の材を輜重で運ぶのは無理があり、現地調達となる予定だ。森の木を切るか、近くの町で製材されたものを手に入れるかは、それこそ現地の都合による。歩兵は五日後早朝、北にある鉄道の走る駅を目指す。徒歩でも一日で着くし、列車に乗ってからは数時間で集合地点まで運んでくれる。先日アナスタシアも、レヌブランとの交渉に同席する為、夜行列車に乗った駅だ。

 順調に行けば六日後に霹靂団再集結とあいなるが、荒天も考えて、一日早く始動している。六日後、七日後の両日が、霹靂団が軍用列車を利用できる期間だ。民間用のものと併走する線路だが、昼夜問わず運行されると聞く。前回アナスタシアが乗った客車と違い、車内は掴まる柱が何本かあるだけの、最低限の作りらしい。が、徒歩であれば日中歩き詰めて一週間前後かかる道程を、数時間立っているだけで辿り着けるなら、楽な行軍である。

「乗り心地は、どうなんでしょうね。この冊子見るに、家畜が運ばれるヤツに似てますけど。体調不良者が出た場合に備えて、寝台が一つだけあるみたいですね」

「指揮官用に、客車も一両付けてくれるそうだな。身体を壊す者がいれば、ひとまずそちらに乗せてから、現地で帰らせるか決めてもいい。客車の感想になるが、さすがに大陸鉄道と比べると、遅い上に揺れるな。酔う人間もいるだろうし、立っている方が、楽に感じる者もいるかもしれない。そうは言っても客車の乗り心地は、一般的な私鉄と変わらないと思う。私が乗った時は食堂車が準備中でな、そこは残念だった」

「指揮官用の客車では、お茶くらい出るんですかね」

「さあ。この図だと、給湯設備はあるよな。まあ何か食べたくなったら、二、三駅ごとにトイレ休憩も兼ねて停まってくれるようだから、その時にホームの売店で何か買えばいいんじゃないか」

 まだ二人ともゆったり構えているものの、さすがに会話の内容は戦に関係することばかりである。ボリスラーフとアリアンは、今頃街道を馬で飛ばしていることだろう。

「ウチでも、まだ慣れない感ありますもん。フローレンス様のとこは、今頃てんやわんやでしょうねえ」

「こちらとは規模が違うし、徴兵の問題もある。慣れた指揮官が差配しても、大仕事だろうさ」

「慣れてない人たちばかりだから、心配してるんですよ」

「それでも人事の入れ替えは、可能な限り最速だったのだと思う。新幕僚たちにも、いい経験になるだろうさ。それにジョフロワ殿もニノン殿も、有能そうではあったじゃないか。一度慣れれば、あの二人ならよくやるだろう」

「ゲクラン領の西でも合流しないわけで、レザーニュ軍と合流するのは、戦場に近くなってからですね。年末に、ここでみんなで団長の青空教室見てた時には、またすぐに会える感じがしてましたけど」

「また、同じ面子で集まれればいいよな。私の講義が、フローレンス殿たちの助けとなってくれていれば良いが」

 戦であり、犠牲者は必ず出る。野戦なら、死ぬ可能性は大敗したとて十人に一人といったところだろう。二、三割は障碍を残し、半数以上は無傷というわけにもいかないだろうが。

 その意味で、旧霹靂団が女帝の裏切りにあったとはいえ、ほとんど皆殺しにあったのは、痛恨に過ぎる。そのことにひどく傷ついていると、あのセシリアの娘セリーナと出会わなかったら、今もそれを自覚することは難しかったかもしれない。ふと、いつかまた、彼女たちに会えるのだろうかと考えた。

「そういえば団長、蜜蜂亭はどうするんです?」

「戦のことは、随分前にロズモンド殿に話してあるよ。その時に長期休暇をもらうと。年明けの出動になりそうだと、代役のリーズにも、相談してある。今日明日といつも通り出勤するし、二、三ヶ月後には一度帰ってくるだろうから、その時にまた、お世話になる。五体満足だと、いいんだがな」

「ああ、団長くらいでも、無事に帰ってこれるか、不安なんですね」

「不安は、そんなにないさ。ただ四肢を失ったり、最悪命を落とすことは、戦である以上当たり前に折り込んでおくものさ」

「それってやっぱり、不安になりません?」

「もう、あまりそういうものはないかな。お前の歳の頃には、不安だったような気がする。割り切りだよ。そういうこともあると初めから思い定めていれば、敵が目の前に現れるまでは、恐怖や不安に飲み込まれることはない。まあ、実地で自分に向けて刃が振り下ろされるのは、今でも怖いな」

「そんなものですか」

「慣れだ。どこかで、麻痺しているのかもしれないとも思う」

 懐中時計を取り出すと、まだ午前九時前だった。

「ゲクラン殿が思いの外、詳細な行軍計画を作成してくれたからな。蜜蜂亭に出るまで今日はそちらにかかり切りだと思っていたが、時間が余った。せっかく具足姿だし、少し駆けてくるか」

 朝の調練はなかったが、ボリスラーフたちを見送るため、アナスタシアたちは具足姿である。そして基本的に、アナスタシアは個人で行う鍛錬に関しては、甲冑を着込んだ状態で行う。

「たまに、夜明け前にやってるヤツですよね。一時間くらいみたいですけど、いつもどこで行ってるんです?」

「あの山の、頂上まで駆けて、戻ってくる。それだけで、いい鍛錬になるぞ」

「うわあ。全身鎧着て山道走れる人なんて、そうそういないですって。五分保たずに、戻しちゃう人もいるのに。けど気になるんで、私ちょっと体調悪いですけど、馬でついていってもいいですかね」

「構わないよ。体調が悪いなら、部屋で休んでいても構わないが」

 訊いてくれるなとばかり、アニータは顔の前で軽く手を降る。おそらく、月のものだろう。

 アニータが厩へ向かったので、アナスタシアは武器庫から戟を一本、持ってきた。井戸で水筒に水を入れ、食べはしないが、携帯食料の小袋もベルトにくくりつける。

「本当に、戦場と同じような格好でやるんですねえ」

「じゃないと、本当の鍛錬にならないだろう。鎧も武器もなく、戦場を駆けることなんてないし、この携行用のビスケットも、割らずに走る方法を、その者なりに見つけなくちゃいけないしな」

 軽騎兵を率いることが多いアナスタシアだが、馬の脚を温存する為、駆け合いの最中でも隙を見ては下馬し、自分の足で駆ける。右手に戟、左手に轡を取って駆ける形になるのだ。馬だけは、ちゃんと面倒を見切れない関係上、転倒を避ける為に連れて行くことは避けていた。ただ、左手はいつも、轡を取っていることを想定して小さく腕を振る。

 普段は長く駆けられても、戦場になるとあっという間に体力を使い果たす者たちがいる。それは大抵、戦場での動きの想定を行っていない者たちである。調練の時から、それを意識している者とそうでない者の差は、確実にあった。

「新生霹靂団のみんなには、ここまであまりそういった調練を施していないですよね」

「まずは、基礎体力の底上げからだったからな。いきなりこれをやらせても、出来上がってない身体では怪我人を量産するだけだ。出来ると判断した者は、いずれそういった鍛錬はさせていく。もっとも、既に自発的にそれに近いことをやっている者も出てきたよな」

 午前最初の調練である長駆でも、具足姿で駆ける者たちは、徐々に出てきていた。大半は革鎧を着た弓箭兵や工兵たちだが、時にアナスタシアのような甲冑を着て駆ける者も見かける。共に全体で駆ける時は、アナスタシア自身が具足姿なので、それに倣ってのことだろう。

 今日の調練は休みだが、今も調練場では、具足姿のまま駆けている集団が、二つあった。一人で駆けている者も、十人程いる。

「今回の戦、私の麾下は五十騎を考えている。ほとんどが旧霹靂団の面子になるが、少しずつでも、この数は増やしていきたい。さて、そろそろ行くか」

 戟を携え、アナスタシアは走り出した。アニータが、馬で追ってくる。麓の森に入り、残雪を踏みしだきながら、緩い坂道を上っていった。徐々に、身体に血が巡ってくるのを感じる。この調練場の北の山は、小山といった感じで高さはないが、曲がりくねった道のせいもあって、あっという間に頂上まで辿り着いてしまう道程ではない。八割くらいの速さで駆けて、三十分前後だ。

 兵舎ができて以来、夜明け前に起床した際には大抵、具足姿でこの山を駆けることで、鍛錬としてきた。始めた当初はいい負荷になると感じていたが、最近は身体が慣れてしまったせいか、物足りなくなってきた気もする。具足に重りでも着ければ負荷は増すが、やりすぎると膝や腰を傷める。やはり、戦場で身に着ける重さでこそ、やる意味があるだろう。距離か、速さか、険しい道順か。そういったもので、負荷を増やしていくしかない。

「馬だと、ちょっと駆けづらいですね。そういえば団長、鎧は全部で何kgでしたっけ?」

「全身鎧にしては、軽い方だよ。20kg強かな。今気づいたが、兜を被るのを忘れた。今なら、20kgないだろう。耳が、冷たい」

「ああ、私ももう少し重武装にしようかと思ってましたけど、こういう鍛錬やること考えると、キツそうです。今のままでいいかな」

「お前はまだ成長期だが、身体が出来上がってしまえば、今の格好じゃ物足りなくなるかもしれない。その時になって、自分の身体と相談しろ。それにあまり具足を重くしても、馬に負担がかかるからな」

 話しながらだと、多少負荷が強まる。呼吸が、一定の拍子にできないからだろう。少し速度を落としてでも、いずれは誰かと話しながら走ってもいいかもしれないと思った。

 雪解けでぬかるんだ道を、転ばぬように集中していたせいか、頂上にはあっという間に着いた気がする。高山ではないので頂といっても周囲の風景は開けていない。冬枯れの木立の間から、それでもかろうじて兵舎が見えるといった程度だ。

 パイプを取り出し、一服する。懐中時計を見て、ここまで三十二分だったことを確認した。

「はあ、はあ。いや、馬で着いてくのも、ちょっと大変です」

「馬だからじゃないのか? 道も悪い。人の脚の方が、楽だったかもしれないぞ」

「けど、このペースで駆けるのは、鎧なしでも無理です。お、団長汗びっしょりですね。珍しい」

「このくらいやらないと、汗が出ないんだよ。それに、なるべく短い時間で、大きく負荷をかけたいからな。この道も物足りなくなってきたと、考えていたところだ」

「た、体力お化けですねえ。さすがは、大陸五強!」

「お前にそう呼ばれるのは、珍しいな。他の五強・・・今は、三人か。彼らは、どの程度の体力があるのだろう。私など、足元にも及ばない気がする」

「どうしてそう思うんです? こんなことできる人、そうそういないと思うんですけど」

「まだまだ、上を目指せる気がするんだよ。それに体力だけだったら、旧霹靂団の面子は、大体これ自体はできると思う。相手に合わせて速度は落とすが、たまに、他の面子とも一緒に駆けるんだよ。スラヴァルにいた頃も、私が夜明け前に鍛錬していることを、知っている人間は多かったんでな」

 一服終え、パイプをしまう。水筒に軽く口をつけ、アナスタシアは再び走り始めた。

「ペースを落とす。その馬が、足を滑らせると大変だからな。道順も、安全そうなところを選ぼう。しっかり、手綱を握っていろよ」

 山道は、下りの方が体力を使う。アニータの馬の歩調に合わせたので、帰りも三十分以上を要して兵舎まで戻って来た。

 いつもは夜明け前に行うので、具足の手入れをした後は、服を下着ごと取り替えるだけだが、今日は身体が冷える前に、開いている大浴場へ向かった。アニータも馬の手入れをした後、今頃部屋で着替えているところだろうか。

 風呂上がりに事務所へ立ち寄ると、他の事務員たちは不在で、ルイゾンだけが書類と格闘していた。

「ああ、団長。髪下ろしてるの、珍しいっすねえ」

「蜜蜂亭へ向かう前の入浴がほとんどで、その時は部屋で髪を乾かすことがほとんどだからな。何か、困ったことでもあったのか」

 額を指の先で押しながら、ルイゾンは溜息をついた。まくっている前腕は、細い。この女に、もう一度指揮官に戻るつもりはないかと声を掛けるつもりだったが、聖夜に副官二人と話した通り、持ちかけるのは今回の遠征後のつもりでいた。が、体力的なものを考えると、話は早い方がいいかもしれない。明日にでも全体調練に参加できるような身体では、なさそうだ。

「ルイゾン、お前が青流団で、中隊長を務めていたと聞いた。また、指揮を執ってみたいと思ったことはあるか?」

 迷っていたつもりが、何の気なしに、訊いてしまっていた。

「えっ? ず、随分急な話っすね。私は歩兵指揮しかやったことありませんが、歩兵の指揮官が足りないんっすか」

 予想外だったが、あまり悪い感触ではない。

「やりたいか、と訊くのは酷だよな。幼子を抱えたお前を、死地に引きずり込むことになる」

「い、いやあ、事務が足りないとわかるまでは、青流団を辞めるのを機に、現場復帰するつもりだったっす。ノルマランの兵舎にお世話になってた時には、一緒に訓練したじゃないっすか」

「言われてみれば、そうだよな。あの時は、しばらく身体を動かしていないと聞いてはいたが。幼い子を連れているということで、こちらがおかしな気を遣っていたか」

「青流団で事務をやっていた時に落ちまくった体力を、ここに来て戻そうと思ってたんすけどね、ここでも事務が中心だったので、正直、今は体力的に難しいっす。三、四ヶ月、時間をもらえますか。そうとわかれば、時間を見つけて鍛え直しますんで」

「なら、遠征から帰って来た時に、もう一度この話をしよう。元々、そのつもりだった。私たちが留守の間に、自分の身体と相談してくれ」

「その間は、結構暇になってるとも思うんで。けど、その後の事務、私抜きで回せますかね。もちろん現場復帰した後もここを手伝いますが、中心になる人間が、いなくなるっす。そもそも複式簿記ができる人、団長と、ボリスラーフ、アニータ両副団長、それに私と、四人しかいないじゃないっすか」

「そちらに関しては、スラヴァルからの知己が、近々こちらに合流する予定だ。輜重隊、補給線の構築が専門だが、その関係で商いもやっていた。能力に関しては、旧霹靂団でよく見ている。任せて、問題ないだろうと思う」

「ああ、そういう人が来るんっすね。なら、私が体力を戻せ次第、現場復帰に関しては了解したっす」

 らしくもなく本人の意思を確認することに躊躇していたものの、訊いてみればあっさりと、この話はまとまりそうである。

「子供は、いいのか」

「何がっすか? 元々ノルマランの親戚に預けるつもりだったのに、ここには託児所まである上、夜は親子水入らずで過ごせる部屋まで与えてもらっています。子連れで多少苦労するかと思ってたのに、充分過ぎる程の境遇ですよ。食堂で三食一緒に食べてますし、仕事してる時は預ける場所がありますし。いや、こんなにも子供と過ごせる時間があるとは思ってなかったんで、本当に、大満足っすよ。いずれ事務専門の人間を雇う日が来たら、自分から現場復帰を願い出ようと思っていたところっす」

「こういうことは、本当に訊いてみなければわからないな」

「ああ、余計な気を使わせていたら、申し訳ないっす。けど自分、ここに来てもう一度傭兵としてやり直そうと思ってたっすから。じゃなかったら、今頃ノルマランかパリシで、他の仕事探していたっす。もう一度戦場に立てるだけの時間、それだけ頂きたいっす」

「わかった。いくら落ちたとはいえ、ノルマランで訓練していた時は、城の騎士などより余程体力がありそうだったが」

「いやあ、自分の一番いい状態を知ってますから。出産が身体にどう影響したかわかりませんが、時間も経ってますし、もう一度自らを追い込んで、あの時くらいに戻せるか、あるいはもっと強くなれるのか、試してみたいっすよ」

 いつもは机に向かって暗い顔をしているルイゾンだが、意外にも事務仕事は性に合っていなかったのかもしれない。頭の回転の早さと、出産後、青流団から続けてきた事務仕事の手慣れた感じで、こちらがルイゾンの立ち位置を、勝手に決めてしまっていたようだ。知り合って初めてというくらい、今のルイゾンの顔は、晴れやかである。眉尻と口角が下がっており、元々困り顔ではあるのだが、その目は輝いていた。

「そういえば、事務で何か困ったことがあったようだったが」

「いや、大丈夫っす。ちょっと計算が面倒くさいところがあっただけで。他の事務員が戻って来たら、手分けしてやるっすから」

「そうか。私も時間ができたので、手伝うよ。その前に、茶を飲むか。コーヒーと紅茶、どちらがいい?」

「ああ、コーヒーと言いたいとこなんすけど、豆を切らしてるっす。一段落したら食堂か購買部でもらってきますんで、てか団長に茶を淹れてもらうわけにもいかないっすよ。私が」

「今は、お前が事務方の中心だ。こき使ってくれ。じゃあ、紅茶でいいな。淹れてくる」

 隣の給湯室に入り、薪コンロに火を入れる。茶葉も残り少なくなっており、補充の必要があるだろう。さすがにこれは、小間使いとして働いている人間に、後で声を掛けるつもりである。

 湯が沸く間、パイプをくわえたまま、備品の備蓄を確認した。立ち上がり、窓の外の景色にぼんやりと目をやる。しばし、それを眺めていた。

 戦の前に、肩の荷の一つが、下りたような気がする。



 前日に、可動盾の材は、全て出荷した。

 今日は夜明け前から、出立の準備に追われている。新年祭の間に自分たちの用意は済ませていたが、今回の遠征では、徴用されるのが初めての兵が、二人いる。ジャンヌと共にその指導と手伝いを、朝から農場の一つでやっていたのだ。

「忘れ物、これでないですよね。まあ極端な話、手ぶらで行っても最低限の装備は支給されるはずなんですけど」

 前回の遠征、まさにほとんど手ぶらでドナルドたちについてきたジャンヌが、経験者としての見解を披露した。

 ここはもうジャンヌに任せていいかと、ドナルドは農場を出た。シャルルがおり、オッサ村から運んで来た槍が、こちらの荷車に積み込まれる様子を見ている。

「迎えの馬車ってヤツは、正午の予定でしたっけ。早めに昼食を取っておく必要がありそうですね」

「お前たちの分は、こちらで用意してある。頃合を見て、酒場に向かおう」

 二人とも既に、具足姿である。兵たちはまだ武装させていないが、馬車での移動なら、そのままの格好での移動となるかもしれない。

 パリシ奪還戦に比べて、召集される将兵の数は少なかった。オッサから少し余計に出してもらったものの、二つの村合わせても、兵数は前回の半分に満たない。オッサから七人、ブリーザからは五人だけである。両村合わせて騎士、家士以上の者二名ということなので、アネットには今回、村に残ってもらうことになった。ジャンヌを抜かせば彼女が一番腕が立つものの、両村の後継者候補であり、ここで命を落とすことになったら両村は混乱すると、そう説得して彼女には納得してもらった。

 オッサの者たちを連れ、酒場に入る。すぐに、料理が運ばれてきた。ドナルドは先に飯を済ませてあるので、茶を一杯出してもらっただけだ。胸当てだけを外し、シャルルと二人、カウンターに腰掛ける。

「あくまで、ゲクラン伯への加勢、ということなのだろうな。徴兵が覚悟していたより少ないのは、助かるが」

「余所の戦です。俺たちが関わる必要はないように、思いますがね」

「ただの、人助けではあるまい。上では、それなりの報酬が約束されていると思う。我々にまで、その恩恵があるといいのだが」

「ああ、防衛やパリシ奪還ではなく、攻め入るわけですしね」

「しかし、二剣の地は元々、アッシェンの領土でもあった。その意味で大義は立つし、いずれは取り戻さなくてはならないというのも、わかるが」

「けど、それを王ではなくゲクラン伯が音頭を取ってやる。国土って大義でやると、どこかいびつな感じもしますがね。単にゲクラン伯の領土拡張なら、納得もいきますが。まあ、アッシェンの常備軍の話は、先日忍びを名乗る連中から聞きましたが、準備不足ってのもわかります。それにゲクラン伯の西進は、伯のかつての所領を取り戻すのが目的とも聞きますし」

「アッシェンの臣たるゲクラン伯が西進することで、アッシェンそのものの失地回復に繋がる。これは、そういう戦だろう。レザーニュが一枚噛んでいることが、事態を微妙に複雑に見せているだけだ」

「俺たちが生まれる前から、二剣の地は両国に剣を捧げる中立地帯だった。奪い返すってことに、あまり意気が上がらないってのが、正直なところなんですが」

「ゲクラン伯が自らそれを成す尖兵となり、レザーニュが加勢することに、どこか釈然としないものは、まあ残るよな。ただ失地回復に繋がるなら、ジャンヌの志とも重なる。皆が一つの目的に向かっているのではなく、なんとなく誰もが、戦の意義に片足だけは掛けている。そして戦というものは、大抵そんなものなのかもしれない。世の仕組みは、考える程に複雑だ。村一つの経営すらそうなのに、国が絡むとなると、自分の立ち位置が本当にここで合っているのかと、見極めることすら難しそうだ」

 シャルルが食べ終えるのを待ち、二人はもう一度胸当てを着け、酒場を出た。他の者たちはまだ、最後の平和な食事を噛み締めている。

「末端の俺らにも、何らかの恩恵は欲しいところです。最初の話に戻りますが」

「主、とは正確には言えないかもしれないが、レザーニュ軍の総大将として、フローレンス様を信じるしかあるまい。レザーニュ伯に剣を捧げる身だ。要請に応じるのは義務であり、従う以外の選択肢が、謀反しかない。そして叛旗を翻す程に、レザーニュの我々への待遇が、悪いわけではない。中央にもう少し近ければ、上手く立ち回ることもできるのかもしれないが」

 二人でそんな話をしていると、アネットが馬を連れて広場の方からやってきた。

「そろそろ、迎えの馬車が来る頃ですが」

 アネットが、背後の山を指して言う。山の上の教会からは、六時課(正午)の鐘の音が、吹き下ろす風に乗って聞こえてきた。

「馬車での兵の移動は、初めての試みだ。色々不具合も・・・いや、あれがそうかもしれないな」

 農場の西の端、薄い木立の向こうには、先日整備した道が走っている。まだ豆粒程の大きさだが、それでも行商のものより大きそうな馬車が、こちらに近づいてきている。目を細めてしばしそれを見つめたが、はっきりとはわからない。体力こそ鍛え直した結果もあり、去年の今頃よりは確実にあると感じているが、目の衰えは、いかんともしがたかった。

「あれで、間違いないでしょう。それでは、叔父上」

 アネットに、軽く抱き締められる。戦である。姪とはこれが今生の別れとなることも、ないわけではない。

「留守を、頼む」

「お任せ下さい。御武運を」

 アネットは次いで、シャルルを抱き締めた。

「例の件、考えておいてくれよ、アネット」

「それこそ出立前に、縁起でもないことを言うな。生きて、帰ってこいよ」

 二人の間に何かしらの話し合いでもあったのか、アネットは俯きながらも、シャルルの肩甲を、音高く叩いた。

 ジャンヌが農場の方から、二人の新兵を連れ出してくる。その家族が泣きながら、二人に手を振っていた。

 ドナルドは柵の向こう、酒場の主人ギュスターヴと、村長のジャコに手を振った。留守中と、もしドナルドに何かあった時のことは、以前から決めてある。ブリーザ村を頼んだ。その気持ちを込めて、手を振った。

 シャルルが鞍に跨がり、兵たちと、武具を積んだ馬車を先導していく。ドナルドも、最後にもう一度だけ振り返って、集まっていた村人たちに大きく手を振った。鐙に、足を掛ける。軽装のジャンヌが、その後ろに直接飛び乗った。後ろから回される手に軽く触れた後、手綱を握る。

「いよいよ、始まっちゃいましたね。戦がなければ、クリスマスも新年祭も、みんなもっと、楽しめたのに」

「生きて、戻ろう。一人の犠牲も出さず、それができたらあらためて宴席を設けてもいい。お前も、無茶してくれるなよ」

 ジャンヌが、どんな顔をしているかはわからない。ただ、従者としては、初めての戦場だった。前回と違い、今回はドナルドの補佐として、正式に仕事のある身となる。

 村の外に停まっている馬車の、扉が開かれる。御者は若い男だが、どこか軍人の匂いがした。中央の上級騎士の、家士か従者だろう。外套の留め具は、家紋ではなくレザーニュそのものの物だ。御者台から下りた男が名乗って敬礼したので、ドナルドも下馬して、男に敬礼を返した。

「オッサ村と、ブリーザ村の皆さんでよろしいですね。六時課が鳴る前に、ここを出るつもりでしたが、少し道に迷いました。ともあれ、レザーニュよりお迎えに上がりました。騎士ドナルド、その従者ジャンヌ、騎士シャルル、その兵十二名で相違ありませんか」

「相違ない。私がドナルド、こちらがシャルル、そしてジャンヌだ。大きな馬車だな。二十人は乗れそうだ」

「ええ、実際に二十人が搭乗数になっております。もう少し乗せている馬車もありますが。それとレザーニュに直行する前に、もう一カ所、寄って行くことになります。そこで八名、他の馬車に乗り切らなかった者たちを乗せていきますんで」

 兵たちが、やや戸惑いながらも、馬車の中へ入る。覗くと中に一つ、小さな薪ストーブがあり、道中寒さに震えることもなさそうだ。

「じゃ、出発します。少し揺れますが、勘弁して下さい」

 二頭立ての馬車が、思っていたよりも早く駆け出した。ドナルドも、馬腹を蹴る。一応並足だが、ドナルドの老馬にとっては速歩に近い。馬車の後ろを走る荷馬車の馬二頭の方が、元気そうである。

 先日の道の整備は、大抵どこでも行われていたらしい。応急的なものであり長く良い状態を保てないだろうが、こと今回の召集に関しては、この季節とは思えないくらい、道が良かった。しばらくして、よく市に出ている町の一つを通り過ぎる。この調子なら、二日を経ず、首邑レザーニュに着いてしまいそうだ。

「あー、私、シャルルさんの馬の方に乗った方がいいですかね・・・」

 どこか気落ちした声で、後ろのジャンヌが言う。

「私が、重いからな。この馬には、少し負担になっているかもしれない」

 鞍上で、歩兵の指揮を執る分にはまだなんとか働けるが、ドナルドの愛馬にはもう、騎馬隊に編成されるだけの力はない。具足を脱いで馬の負担を減らしてもいいが、甲冑姿の騎士二人が護衛していることの、示威効果も捨て難い。前回もそうだったが、軍の召集時には、脱走兵が賊になることもあるのだ。

 村で取り組んでいる組み立て式の家具の売上げ、レザーニュからの可動盾の材の製作。いずれも本収入はまだであるものの、借金の頭金くらいの金は入ってきた。なので町の銀行から金を借りてでも、新しい軍馬に替えるべきだったか。返済計画を立てるような大きな借金をしたことがない為、一歩踏み出せなかったというのが、正直なところでもある。ただこの馬と駆ける最後の戦場とはなりそうで、ゆえにこそ別れを惜しんでしまったのかもしれない。買い取った時から既に若い馬ではなかったが、十年近くドナルドの訓練と戦に付き合ってくれた。村の農耕馬は足りているものの、たまにその手伝いをさせるくらいで、後は安らかな余生を送らせてやりたい。

 ジャンヌが、よく通る声で先頭のシャルルを呼んだ。馬首を返し、すぐにこちらにやってきたシャルルに、ジャンヌはやはり寂しそうな声で言った。

「シャルルさん、そっちいいですか。私の、荷物ごとですけど」

「構わんが、いいのか? 叔父上の後ろの方が、いいだろう?」

 何故かからかうような調子で、シャルルが応える。

「そっちの馬の方が元気なんで、仕方ないです」

「仕方ないなら、そっちでいいんじゃないか?」

「もう、意地悪ですねえ。言い方悪かったのは謝ります。とりあえず、そっち行きますね。よっと」

 ジャンヌは曲芸師のように、駆ける二頭の間を跳んだ。

「おいおい、いきなり飛んでくるとはな。寒くなったら、馬車の中に入ってもいいんだぞ」

「ああ、それもいいですねえ。後でそうするかも。荷物は、ここ置いときますけど」

 鞍上にありながら、ジャンヌは器用に身をよじらせ、自分の荷物をシャルルの馬にくくりつけていた。

「この後拾ってくっていう徴用兵の人に女の人がいたら、中にお邪魔させてもらうことにします。一人、多くて二人でしょうし、心細いでしょうから。おじさん、それでいいです?」

「構わないよ。それにジャンヌがいると、皆、笑顔になる。歓迎されるだろう」

「シャルルさん、聞きました? レディに対しては、ああやって振る舞うんですよ」

「へいへい。ケラケラ笑う娘が加われば、馬車の連中も退屈しなさそうだ」

 シャルルに見えないよう、ジャンヌは思い切り嫌な顔をして舌を出した後、こちらに片目を閉じて笑いかけてきた。

 ジャンヌとシャルルは、じゃれ合うことができるくらいに、仲が良い。誰とでも打ち解けるジャンヌであるが、シャルルに関しては格別の信頼を置いているようにも見える。それはとても良いことだと、ドナルドは思っていた。

 途中、川の傍で一時休憩となった。腕を伸ばしながら、馬車から兵となった村人たちが下りてくる。槍を携えての行軍ではない為、まだ村人たちは兵の顔をしていない。

「乗り心地は、どうだ」

 オッサ村の、年嵩の男に話し掛けた。この男は何度か、徴兵経験がある。

「思ったより、快適です。けど、いつもより早く戦場に着いちまう。それが、怖い気もしますね。最後の思い出作りになるかもしれないと、のんびりと戦場を目指すのも、悪くなかったんだって思えます」

 兵を率いる身としては、少しでも早く戦場に辿り着きたいと考えるものだが、なるほど、連れて行かれる身としては、死の危険が急速に近づいてくるのは、いい気がしないはずである。

「帰りも、早い。村を空ける時間が短くなるのも、悪くないんじゃないか」

「それも、そうですね。俺なんか、早速家に帰りたいですが」

 男につられて、ドナルドも笑った。

「そういえば俺たちはレザーニュを出た後、どこに行くんですかね。ゲクラン伯に協力して、レザーニュ伯夫人も二剣の地のどこかに戦を仕掛けるとしか、聞いてません」

「かなり上層部でも、はっきりとした目的地は聞かされていないと聞く。当然、末端の私が知る由もない。ただ道中の話になるが、レザーニュを経てゲクラン領に入った後は、鉄道で移動するらしい」

「へえ、列車の旅か。それはそれで、いい土産話になりそうだ」

「私も、鉄道は初めてだな。楽しみにしておこうと思う」

 馬車の荷台には、レザーニュ伯提供の、秣が積まれていた。分けてもらい、ジャンヌがドナルドの馬にそれを食ませている。塩も、広げた手から舐めさせていた。シャルルの方は、小川で馬に水を飲ませている。

「ジャンヌちゃん、本当にいい子ですよね」

「そちらでも、話題になるらしいな。何度も、お邪魔させてもらっている」

「ウチの桃の収穫を、手伝ってもらったこともあります。少し教えただけで、たやすくそれをこなす。そんな仕事をさせて面目ありませんが、ドナルド様はいい従者をお持ちになったと、僭越ながらも感じている次第です」

「あの子が、やりたいと言い出したんだろう? ならいい。私には、出来過ぎた従者だ。もう、私に教えられることは、ほとんどないんだ。従者としては初めての戦になるので、今回はそれについて教えていくことになるが、事前に話したことは、ああして自然とできている。村の運営についても全て教えたし、この戦が終わる頃には、本当に教えられることはなくなるな」

 王の忍びが接触し、彼女もいずれは新設されるアッシェン常備軍の指揮官になるのだろう。ひょっとしたらこれがジャンヌと共にする、最後の旅なのかもしれない。まだ来ないはずの喪失感が、微かにドナルドの胸を刺す。

 ジャンヌには去年一年間、いい夢を見させてもらったと感じている。もしドナルドの娘が生きていたらと、後ろ姿だけはそっくりなジャンヌを見て、その未練の続きを、見させてもらった。そしてもう娘はいないのだと、度々痛感させられたりもした。

 遠征中だったこともあり、流行病に倒れた、娘の死に顔を見ていない。あれだけ元気だった娘が、帰って来たら妻共々、墓の下だった。頭では、二人の死を痛い程に理解している。だが心の方は、今も二人がどこかに生きているように感じていたのだ。現実と、受け入れきれなかった。二人の死が話題になった時も、本当は二人が生きているのに、周りに合わせて嘘を言っているような気にもなっていた。当初気づかなかったが、娘とどこか似た少女と暮らすことで、そしてそれが明らかな別人であることで、ゆっくりとだが、娘はもういないのだと、胸の内で理解させてもらった。受け入れるに充分な、ゆっくりとした時間だったとも思う。

 シャルルに、ジャンヌは少しだけ娘に似ているという話をすると、髪の色、頭の丸さ以外はどこも似ていないと言われた。だから後ろ姿だけは娘によく似ているとも、言われたか。性格も表情も、控えめで大人しかった娘とは、確かに違う。

 だが、ドナルドは娘とジャンヌの共通点を、いくつか見つけていた。いつも無条件に、ドナルドのことを信頼してくれている。加えて、笑顔が似ている。本当に、屈託なく笑うのだ。

 娘のことを思い出し、ジャンヌとの、あるいは最後の旅になるかもしれないという思いも重なり、ドナルドの胸には、こみ上げるものがあった。軽く、目頭を押さえる。自分でも戸惑うくらい、感傷的になっていた。ジャンヌが川へ手を洗いに行ったのと入れ違いに、ドナルドは鞍袋からパイプと煙草の葉を取り出す。

 出発には、まだ十分程ある。少し離れた川原でパイプを吹かしていると、いつの間にか隣りにいたジャンヌが、こちらを覗き込んでいた。

「おじさん、どこか具合が悪いんですか」

「いや、ただ色々と、考えていただけさ。昔のことを、思い出したりしてな」

 二人で川原の斜面に腰掛け、しばしただ水の流れを見つめていた。向こう岸は冬枯れの森であり、ドナルドは目を伏せた。

「おじさん、私、ずっとおじさんの傍にいて、いいですよね?」

「お前が望む限りは、私も大歓迎だ。いずれ私たちの元から羽ばたく時には、その旅路を祝福できると思う」

「私は、ずっと傍にいたいんです。嫌ですか?」

 こんなことは、何度か言われたことがある。その時のジャンヌは伏し目がちで、少し頬を上気させてそう話していたものだが、今はどこか、切迫したものをその瞳に湛えていた。

「嫌なわけがないだろう。ジャンヌはもう、私の家族だ」

 寂しそうな、それでも精一杯の笑顔を浮かべて、ジャンヌは言った。

「私が大人になるまで、待っていて下さいね。これだけは、私の我侭を通させて下さい」

 十五歳になるまでは、ドナルドの元にいると決めているのだろうか。それなら、その時まではジャンヌとの時間を、大切にしていきたいと思う。そしてその申し出に安堵している自分に気づき、驚いた。

「ジャンヌは、優しいな。ただ、私の存在が枷になっているとわかったら、いや、こんな言い方は良くないな。お前が望むまで、私も日々、誠実でありたいと思う」

 ジャンヌは頷き、先程よりも複雑な表情を浮かべた後、それでも最後は笑顔を作った。



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