とある男の東京出張②
「このようになっており―――」
今日は研修初日。
主に研修に参加するのは、若い社員たち。
自分たち引率組は、研修会場の後ろで見守っている。
入社2年目から4年目の社員を集め、行われる集合研修。
引率組は見ているだけでなく、研修中のプレゼンなどにアドバイスを行う役割を担う。
引率組は自分のように、新人から中堅の間のルーキーといったところだ。
そろそろ主任から係長に昇進する時期であり、係長になれば部下へのアドバイスなどが必要になる。
そのため、今回の研修を通じ、我々にも部下の扱いなどについて学んでもらうということだ。
それよりも…。
昨晩、運悪く出会わせてしまった和久井 雫。
自分たちが利用したホテルは、本社に近いため、多くの社員が利用している。
鉢合わせることを考慮しなかった自分の責任だ。
和久井は自分と同期であり、過去に関係を持った女だ。
関係と言っても、体だけの関係。
所謂セックスフレンドというやつだ。
自分が本社にいる時に、和久井は関東支社に配属されていた。
関東支社といっても、オフィスは本社内であり、同じビルにいた。
その時に和久井から擦り寄ってきた。
そして…和久井から消えていった。
別の同期から聞いた話では、「事業戦略室にいる出世候補」「イケメンだったが、デブはない」「名古屋に左遷される予定の男に用はない」と言っていたようだ。
尻の軽さもさることながら、言動の変化も流石と言わざる得ない。
事業戦略室は、会社の方針を決める部署であり、在籍時も非常に多忙だった。
そんな部署に、新入社員を卒業したての、20代前半の右も左もわからない自分が放り込まれればどうなるか。
壊れた。
見事に壊れた。
ものの見事に精神が壊れた。
鬱の一歩手前までいった。
情緒不安定となり、日々イライラしたり、落ち込んだりした。
荒れに荒れ、暴食も重なり、今の自分とはかけ離れた姿だった。
そこに追い打ちをかけるように、和久井にポイ捨てされたわけだ。
そのような相手に印象が良いはずもなく、顔を見るのも勿論だが、声を聞くだけでも嫌気がさす。
昨晩、その和久井が声を掛けてきた。
「今の竹ならできるよ」「また昔の関係に戻ろ?」「別れてから竹のことずっと気になってた」
思い出すだけで吐き気がする。
今更どの口が言うのか。
その後、部屋に戻るとすぐに愛海に電話を掛けた。
愛海に癒されたかった。
癒された。愛海マジ天使。
朝には癒され、和久井と会うこともなく、本社の研修会所に到着した。
なぜ和久井が…自分の横にいるかわからない。
和久井から漂う香水は甘ったるい臭いだ。
鼻が曲がりそうだ。
というか、和久井の機能してない鼻を物理的に曲げてやろうか。
朝から憂鬱だ…。
「はああああああ………」
「死んでんなー」
「逃げたい。帰りたい」
「まだ初日だろーが」
休憩時間となり、同じ研修に参加していた、同期の南と喫煙室に逃げ込んだ。
和久井が声を掛けてきそうだったが、完全スルーで逃走。
逃げるコマンドしか選択肢がなかったのだから仕方ない。
「憂鬱…」
「ありゃやべーわ。俺のとこまで臭ってきたわ」
「だろー…?」
「昼からは離れれるからいいやん」
「昼まであと一時間以上もあるんぞ…」
昼からは班に別れてのグループワークだ。
引率役は各担当のいる席に、アドバイザーとして参加となっている。
和久井のところと一緒にならないことを祈るばかりだ
「昼は美味いもんでも食いにいこうぜ」
「食欲があればいいけどな…」
南、お前が話の通じるやつで助かったよ…。
和久井と二人だったら、仮病でも使って早退していたかもしれない。
それ程、和久井は自分の中では避けるべき人間だ。
「元気かね」
「あ、お疲れ様です。竹、俺先に戻っとくわ」
「おいこら…お久しぶりです」
「研修かね」
「新人研修の引率です」
喫煙室に入ってきた人物を見て、南はとっとと逃げやがった。
自分たちぺーぺーが話すことはほとんどない人間だ。
比嘉本部長。
数ある本部の、経営本部を束ねる方だ。
自分が事業戦略室にいた時の室長だ。
「ああ、あの研修か。研修にしては疲れているようだが」
「嫌いな同期と一緒でして…」
「はっはっは。竹科くんも元気になったようだ」
「全然元気じゃないですよ…」
「それだけ口が動けば元気な証拠だ。昔の君は、表情さえ出なくなっていたからな」
ごもっともです。
荒れに荒れたが、最後の方は顔から表情が抜け落ち、無表情で仕事をする毎日だった。
比嘉さんにも色々迷惑をかけたが、お荷物社員のそこまで見ていたとは思わなかった。
「あの時。萩田に声を掛けたのは間違っていなかったな」
「そうですね。あの時、骨を折っていただきました比嘉さんにも感謝してます」
「そうかそうか。ならば竹科くんは、私に借りがあるということだな」
「そ、そうですね…」
比嘉さんが二本目のタバコに火をつける。
比嘉さんに借りって…。
何を要求されるんだよ…。
「どうだ。事業戦略室に戻ってこないか」
「はい…?」
事業戦略室に戻ってこい?
あんな足手まといだった場所に戻れと…?
「ありがたいお話ですが…」
「小野も消えた。もう君の邪魔をする者はいないぞ」
小野…。
事業戦略室時代の上司だ。
自分の精神病も、小野によるものが9割だ。
あることないことでっち上げ、部下には怒鳴り散らし、上司には媚を売る。
最低の上司だった。
風の噂で首になったと聞いていた。
「萩田からも聞いている。今の竹科なら問題ないと」
有難い。
本部長直々に評価してくれてるというわけだ。
悪くない…けど…。
「過大評価だと思いますが…」
「…まぁいい。興味があったら連絡を頼むよ」
それだけ言うと、比嘉さんは喫煙室から出て行った。
本部長から評価されているという点については、素直に嬉しい。
だが、病が完治してから、出世というものに興味がなくなった。
萩田さんも、上を目指せと言っていたが、自分には荷が重い。
人には向き不向きがあるのだ。
自分は、人の上に立つような人間ではない。
出世だけが自分の幸せではない。
愛海と付き合っている、という幸せだけで十分だ。
あー…癒されたい。
早く帰りたい…。
今日も終わったら電話しよ…。




