8.作戦(1)
「おはよう。昨日も会ったね」
「昨日だけじゃないですよ。その前も、その前の日だって、僕らは会っていますよ」
「うふふっ。ホントだ。私たち、気が合うのかな?」
「はい。僕ら気が合うんです」
「何か、運命感じちゃうね」
「僕らは運命の赤い糸でつながっているんです」
「やーん! ステキ」
そんな上手くいくかよ!
僕は重いため息と共に本を閉じ、テーブルの上に置いた。
テーブルの上には、アイスコーヒーが2杯。ひとつはブラックで、もうひとつはたっぷりと甘味料が入った甘いコーヒー。
僕の向かいに座っている丸眼鏡の少女は、躊躇いもなくその甘いコーヒーを手に取って、ストローに口をつける。喉が小さく鳴り、彼女は「ふぅ」と短く息を吐いた。
「それ、美味しいのか?」
僕が尋ねると、彼女は当然の如く頷いた。しかし、テーブル上に転がっている大量のガムシロップの空容器を見ると、とてもそのコーヒーが美味しいとは思えなかった。いっそのこと、ガムシロップを飲めばいいのに。
僕も自分のアイスコーヒーを手に取ってストローを咥える。口の中には、冷たさよりも苦味が広がり、無理をしてブラックを飲んでいる自分の愚かさを思い知らされた。
僕らは大型書店の一角に設けられたカフェスペースで向かい合っていた。そこで僕らは、奈々の「来夢」を利用して、いかに僕が詩織センパイと付き合うかを話し合っていた。
ちなみに来夢とは、「未来を見る夢」の事で、奈々が命名した彼女の有する異能の力だ。それがあれば、憧れの人と付き合う事だって到底不可能な話ではない——はずだった。
僕らには決定的な弱点があった。
それは、奈々が寝ているときにしか未来を見られない、という事ではない。
それは、僕らは圧倒的に恋愛経験が少ない、という事だ。
僕はこれまで誰かと付き合った事なんて一度もなかった。中学の頃は、あの子、僕の事好きなんじゃないだろうか、と勘違いする事はしばしばあったものの、それは僕の思い込みであって、恋愛とは程遠い。そして、奈々は奈々で、まさに影のような存在だったから、恋愛とは無縁の人生を歩んできている。だから、そんな僕らが未来を知り得たところで、それを上手く活かせるはずがなかった。
「うーん……」
僕はテーブルの上に置かれている恋愛本を睨みつける。何かの役に立てばと思い、1200円も出して、すぐそこの本屋で買ってきたのだが、それに見合った情報が得られたかと言えば、そうは思えない。だけど、それはこの本が悪いのではなくて、僕らの読解力と経験値が不足しているせいだった。
「お前……じゃなくて、奈々。なんかいい案はないか?」
手詰まりの僕は、黙々と甘ったるいコーヒーを飲んでいる奈々に話を振ってみた。しかし、案の定、返ってくる答えは、僕の期待したものではなかった。
「私は手伝うだけ」
だから、自分は何も考えない。そう言う事だろう。いかにも奈々らしい。ホント、ムカつくくらいに。
だけど、僕がそれを咎める事は出来ない。僕は彼女に協力を頼んでいる側で、彼女の気分を損ねようものなら、協力関係を破棄されてしまうかもしれない。だから、僕は仕方なく、頷く事しかなかった。
「ああ、そうだよな……」
僕らは、作戦を立てる段階で、既に手詰まりだった。
詩織センパイがいつ路面電車に乗って、どこで、誰と昼食を摂るのか、今日雨が降るのか降らないのか、そんな事が分かっても、僕らにはそれらをどうする事も出来なかった。
やはり僕なんかが、詩織センパイと付き合う事なんて不可能なのだろうか。
始めから分かっていたはずだったが、今更ながらそんな事を思ってしまう。そもそも高嶺の花とは、手の届かない存在であって、憧れはいつまで経っても憧れのまま、夢はどこまで行っても夢なのだ。やはり現実は、SFや異世界のように話はうまく進まない。
僕は幻想から目を覚ますつもりで、ほとんど飲めていないアイスコーヒーを一気に煽った。うう、苦い。
そのまま空になったグラスをテーブルに戻し、正面の奈々を見る。
「帰るか」
奈々は小さく頷いた。
「悪かったな。せっかくの休みに付き合わせて」
今度は首を振る。まあ、彼女の事だから、休日といってもどうせ暇だったのだろうが。
僕は席を立った。遅れて奈々も席を立った。
しかし、僕らが立ち去ろうとすると、どこからか陽気というか、騒がしいというか、とにかく今は聞きたくない声が飛んで来た。
「あなた達、相変わらず仲が良いのね!」
僕は声の方をあえて見なかった。見なくても、奈々の声を、そのまま馬鹿でかくしたような声の主が誰なのか、僕には見当がついていたからだ。
「えーっと、何々。『恋愛心理術―決めた相手を落とすテクー』。へえ、あなた達こんなのに興味あるんだ」
少し馬鹿にした言い方が鼻に付く。だけど、それに腹を立てては、相手の思うつぼだ。
僕は絶対にその人の顔は見ないぞ、と腹を決め、手探りで恋愛本を取ろうとした。しかし、テーブルに載っていたはずの恋愛本になかなか触れる事が出来ない。そのうちに、本にしてはかなり柔軟な、そして生温かい感触のものに僕は手を触れた。
「いやーん。それ、私の手だよ」
慌てて自分の手を見ると、僕はいかにも女性らしい滑らかな手を握っていた。
「そんなに女の子の手を握りたかったの?」
僕は反射的に手を引っ込める。そして、まんまとその手の主を見た。
「な、何なんスか。もう!」
僕の視線の先には、奈々——ではなくて、奈々とよく似た人がいた。
「いやね、仕事帰りに本屋さんでも寄ろうっかなぁって思ったら、偶然あなた達を見つけて。思わず、声を掛けちゃった」
声を掛けちゃったじゃねぇよ、と僕は胸中で呟き、舌を出して笑う奈々とよく似た人を睨んだ。しかし、当人は気にせず喋る。
「それで、どうしちゃったのよ、あなた達。もしかして、やっと恋愛に目覚めたって訳?」
見れば、その人の手には1200円もした僕の恋愛本があった。そして、その人は、とんでもないことを続けて言う。
「あなた達、付き合ってんの?」
何を言ってんだ、この人は。
「そんな訳ないでしょ!」
僕は咄嗟に大声で、そう言い返した。僕と奈々が付き合うなんて、夏に雪が降るくらいあり得ない。
しかし、僕はここが本屋の一角に設けられているカフェスペースである事を忘れていた。ここには、コーヒーを片手に本を静かに読みたい人達が集まっているのだ。
僕の大声がカフェスペース内に響き、周囲の注目が注がれた。当然それらは穏やかなものではなく、周囲の鋭い視線を感じた僕は、焦って周囲に頭を下げた。
「あっ、すいません。すいません」
それでどうにか周囲の注目からは、解放されたが、僕自身は納得がいかなかった。
なんで僕がこんな目に遭わなければならないんだ。
僕は、目の前で声を押し殺して笑っている人を睨む。僕を辱めたという罪悪感は微塵もないようで、僕より年上のくせに子供のように楽しげだった。
「勘弁してくださいよ、澄玲さん」
僕はたまらず、その人の名を呼んだ。
「お姉ちゃん」
珍しく奈々も声を張る。
そこで、その人——澄玲さんは「ごめん、ごめん。冗談だって」と詫びた。だけれども、悪いとは思っていないようで、未だに笑っている。
澄玲さんは、奈々と顔立ちはよく似ていた。いや澄玲さんが姉だから、どちらかと言えば、奈々が澄玲さんに似ていた。澄玲さんの笑い顔を見ると、もし奈々が笑ったら、あんな顔をするんだろうと思わず想像してしまう。
しかし、ふたりは対称的だった。澄玲さんは社交的で、明るくて、時々うざったいけれど、不思議と人を引き寄せる。一方の奈々は、見ての通り内気で、無口で、不愛想で、人の輪に馴染めない。もし澄玲さんが光(歪んでいそうだけど)ならば、奈々はまさに影。ふたりはそんな明暗がはっきりと分かれた姉妹だった。
「まあ、とにかく座りなよ」
この人は何を見ていたのだろうか。
澄玲さんは、笑った顔のまま、先に席に着き、立ち去ろうとしていた僕らにも座るよう促してきた。
ホント、自分勝手なんだから。