4.センパイ(3)
傘を差し、歩き始めて数分後。
ホントに無駄な時間だった。住宅街を少し歩くと、雨は上がった。
こんなことならば、傘を届けなければ良かった。そうすれば、一本早い電車に乗れたのに。
しかし、その苛立ちを僕から数メートルも後ろを歩いている彼女にわざわざぶつける必要もない。それこそ時間と労力の無駄だ。だから僕は、暗雲の隙間から日が差し始めた空を睨み、傘を閉じた。
広小路の電停に着くと、案の定、西高の生徒は誰もいなかった。皆、一本早い電車に乗っていってしまったのだろう。旧型の車両は、僕が思っている以上に不人気らしい。
僕は道路を横断し、電停へと渡ると、サラリーマンと大学生数名が作る短い列に並んだ。遅れて、丸眼鏡の少女が僕の後ろに着く。僕は彼女の存在を背後で感じつつ、ポケットからスマホを取り出した。
電車は遅れていた。
もうそろそろここを発たないと、朝のホームルームに間に会わないかもしれない。しかし、それは別にどうだっていい。電車の遅延で学校に遅れても、それは僕のせいではないからだ。だけども、待たされている、という事実が僕を苛立たせた。
僕の前に並んでいるサラリーマン風の男性が汗を拭った。
確かに暑かった。9月になったとはいえ、まだ残暑は続いている。おまけに雨上がりの湿気が不快感を助長させていた。
電車はまだ来ない。
もう遅刻は決定的だ。
暑い。
とても暑い。
腹立たしいくらいに暑い。
今、僕が残暑の熱気と雨上がりの湿気に晒されているのは、全てアイツのせいだろう。
傘、持って来て。
今朝、電話越しに聞こえたアイツの声が思い出された。無愛想で、不機嫌で、苛立つような小さな声だった。傘を届けてやっても礼の一つも言わない。電車を乗り過ごしても謝らない。ホント、ムカつく奴だ。そもそも昨日、傘なんて忘れていくからこんな事になったのだ。
電車はまだ来ない。
暑い。
僕はたまらず息を大きく吸い、振り返った。
「お前さぁ——」
文句の一つでも言ってやろうと思った。しかし、僕はそこまで言いかけて、言葉に詰まる。文句を言うために開いたはずの口は、塞がらなくなった。
僕の背後には、前髪が重く、大き過ぎる丸眼鏡をかけた無口で、世話のかかる幼馴染がいるはずだった。しかし、僕の後ろに彼女はいなかった。その代わりに別の人がいた。
白い夏服に深緑色のスカーフ。膝丈のスカートはいかにも真面目そうで、それを裏付けるように校則違反のくるぶしソックスではなく、清潔感のある白色のハイソックスを履いている。それは西高の制服の正しい姿であり、僕の幼馴染と同じ着こなしだった。
しかし、それを着ている人物はまるで違った。艶のある黒髪は確かに長いが、前髪は眉の高さで綺麗に切り揃えられていて、重たさは全くない。顔は同じく小さいが、不釣り合いな丸眼鏡はかけておらず、力強い目を真っ直ぐ僕に向けていた。
その人は、僕の憧れの人だった。
篝詩織センパイ……。
僕は夢でも見ているのではないかと思った。だけど、瞬いてみてもその人は消えなかった。それにほんのりと上品な香りがした。アイツの柔らかな馴染みのある匂いとは違い、例えるならば、デパートで売られている一番高い化粧品のような香りだった(嗅いだことないけど)。
僕は唖然としたまま、言葉を発せられなかった。今すぐにでも「お前さぁ」と言った事を訂正すべきなのはわかっていた。だけど、その人に見詰められた僕は、全身を緊張させて、身動き一つとれなかった。
そのうちに、その人は微笑んだ。その微笑みが僕に向けられたのだと分かると、僕の心臓は飛び上がった。
「さっき君の後ろにいた子なら、そこのコンビニに行っちゃったよ。電車が遅れるって分かってたのかな?」
それは間違いなく僕に向けて言った言葉だった。
僕はついに憧れの人に話しかけられた。
僕とその人の間には、荒れ狂う海峡があって、それは僕が一生かかっても越えられないはずだった。それなのに、奇跡のような偶然によって、その海峡を僕は飛び越えてしまった。
何か返事をしなきゃ。
海峡を越えた今なら僕の声は、あの人に届くはず。
しかし、僕の心臓は外に音が漏れ出てしまうくらいに高鳴っていて、言葉が上手く出て来なかった。
「あ、あの……えっと……」
情けない。妄想の中では、あれほどあの人との会話を気さくに楽しんでいたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、考えがまとまらないどころか、まともに返事すら出来ない。
僕は焦った。
尋常じゃない量の汗をかき、僕は雑巾のように頭を絞ってみたけれど、言葉は一滴も出て来なかった。
そのうちに僕は前に向き直した。何も言わずに、強張った顔まま、憧れの人に背を向けた。
変な奴だと思われただろう。
まともに返事も出来ない失礼な奴だと思われただろう。
ああ、情けない。せっかくの機会をみすみすドブに捨てるなんてどうかしている。きっと——いや絶対に言葉を交わせる機会なんて、もう二度とないだろうに……。それでも僕はもう後ろを振り向けなかった。
僕はポケットに手を入れた。スマホの世界に逃げようと思ったのだ。しかし、手が震えて、上手くスマホが出て来ない。もたもたしている様子を後ろから見られていると思うと、余計に手が震えた。
こういう時は、深呼吸をしないと。
誰かがそんな事を言ったような気がした。僕はその声に従って、どうにか息を吸ってみる。それから長く吐く。それでも心臓は激しく拍動し続けた。
だけど、スマホは掴むことができた。僕は何とか掴んだスマホを無理やりにポケットから引き出す。すると、僅かに間があって足元で音が鳴った。軽い音ではあったが、何やら騒々しい音だった。
足元を見てみると、乾き始めた地面の上に1本のカセットテープが転がっていた。ラベルには「デジタル・クラッシュ・アワー」と書かれている。今朝、アイツから貰った意味不明なお土産だ。
不意に視線を感じた。たぶん、あの人が僕の背後から、落ちたカセットテープを見ているのだろう。僕は慌ててしゃがみ、それを拾い上げる。
今時カセットテープを持っているなんて、時代錯誤の奴に思われただろうか。それとも変なコレクターだと思われただろうか。
僕はカセットテープを隠すように、再びポケットに捻じ込もうとした。しかし、手が震えて、上手くポケットに収まってくれない。
何で朝からこんな目に……。
僕は自分の境遇の悪さ——いや憧れの人を前にして、失態ばかりを晒す自分の容量の悪さと意気地のなさを胸中で嘆いた。
やはり僕とあの人の間には——。
「ねぇ、君」
突然、サラリとした爽やかな声が響いた。その声は、苛立つような暑さも鬱陶しい湿気も一瞬のうちに吹き飛ばしてしまう力を持っていた。そして、それが自分の背後から発せられた事を理解するまでにしばし時間を要した。
まさか、また話しかけられた?
僕は徐に振り返る。すると、僕のすぐ後ろでは、あの人が目を丸くして、僕を見ていた。その目の意味するところが何なのか、僕には理解できなかったが、何かに驚いているという事だけは分かった。そして、その人は続けて口を開いた。
「それってさ、『デジ・クラ』のカセットじゃない?」
「えっ?」
僕が聞き返すと、小さな口許がゆっくりと動く。
「デジタル・クラッシュ・アワー。君も好きなの?」
「はい?」
僕は瞬時に理解できず、ポケットに捻じ込もうとしていたカセットテープを見返した。そこには確かに「デジタル・クラッシュ・アワー」と書かれていた。まさか、これの事を言っているのだろうか。
僕はカセットテープを持った手を上げてみた。それに合わせて、目の前の綺麗な顔が上を向いた。今度は手を下げてみる。やはりその人の顔は、連動して下がる。
間違いない。この人は、このカセットテープの事を言っているんだ。
僕は答えに迷った。当然、デジタル・クラッシュ・アワーなんて聞いた事がなかった。そもそもバンド名なのかどうかも分からない。しかし、「君も好きなの?」という事は、自分は好きだという事だろうから、ここは肯定した方がいいに決まっている。そうすれば、これまでの失態が全て帳消しにできるかもしれない。
僕はそう思い、ぎこちない動きではあるが、何度か首肯した。
「ええ、まあ……」
すると、案の定、その人は顔を明るくさせた。
「そうなんだ! 私以外にもデジ・クラを好きな人がいたんだね!」
まるで長年旅をしてきて、ようやく仲間を見つけたと言わんばかりの嬉しそうな顔だった。目はキラキラと輝き、いつもの凛とした雰囲気とは異なって、まるで小さな少女が思う存分嬉しさを表現しているような、そんな幼さと愛らしさを感じた。そして、それを見て、僕も思わず頬を緩ませる。
「まだ、にわかファンみたいなものですけど……」
いいや。僕は、にわかファンにすらなれていない。
正直、嘘を吐いているという後ろめたさはあった。だけど、憧れの人と話が出来た喜びと憧れの人が顔を明るくしてくれた嬉しさが勝って、僕はもう他の事なんでどうでもよく思えた。
デジ・クラ?
そんなものは今から好きになっていけばいい。あの人が好きなものなんだから、きっと僕も好きになるはずだ。それよりも今は、ついに向こう側の大陸に渡った喜びを味わうべきだ。もうこれ以上好機を無下にする方が罰当たりだろう。
そう。これは神様がくれた奇跡なのだ。平凡な男子高校生が、高嶺の花だったあの人に近づいた奇跡なのだ。
僕はこの上ない幸せを感じていた。
だから、丸眼鏡の少女がどこに行ってしまったのかなんて考えもしなかった。