10.良く会う(1)
詩織センパイを落とすための作戦を開始します!
朝、メッセージが届く。
僕には、早起きの習慣がなかったものの、どうにかベッドから這い出て、スマホを手に取った。画面が明るくなると、色気のないメッセージが浮かび上がる。
『7:00』
それは今の時刻を知らせるものではなく、今日、僕が乗るべき路面電車の発車時刻を知らせるものだ。
僕はスマホをベッドに放ると、寝癖でボサボサになった頭を抑えつけながら、寝ぼけ眼で窓際へと進み、カーテンを開けた。
西の空には、まだ夜が残っていた。自分も受験生になったら、これほど早起きをするのだろうか。考えるだけで気が重い。
僕はそんな事をぼんやりと思い、自室を出た。
今日で丸一週間。
僕は、澄玲さんの言っていた「良く会う」を実行するため、早起きを続けている。そして、早起きをして何をするかと言えば、当然、詩織センパイと共に登校するのだ。
だから、朝の身支度は特に念入りに行っている。寝癖直しウォーターで髪を撫でつけ、今まで使った事がないワックスで形を整え、歯磨きはブラッシングだけではなくて、必ずマウスウォッシュで口を濯ぎ、口臭予防のタブレットも舐める。正直、時間と体力を消耗するが、憧れの人に近づくためだと思えば、これくらいは仕方ないだろう。まあ、澄玲さんに押し付けられた入れ知恵だけど。
これまでの倍以上の時間をかけて身支度を済ませた僕は、「7:00」に間に合うように家を出た。
朝が早いせいか、住宅街は静かだった。通行人も疎らで、見掛けるのは、犬の散歩をしているおじさんか、家先を掃いているおばあさんくらいだ。そんなどこかゆったりとした時間が流れている住宅街を抜けると、大通りに出て、「広小路」の電停が見えてくる。
その電停には、いつも美しい少女がひとり、路面電車を待っていた。
凛とした佇まいで本を読むその姿は、僕の鼓動を加速させる。美しくて、綺麗で、淑やかで、上品で……そんな月並みな表現しか出てこないけれど、とにかくその人は僕を魅了した。この時ばかりは、早起きをして良かったと心底思う。
僕は足を速め、電停に近づく。もうほとんど駆け足のような速度で、歩道から電停へと渡ると、僕はそのままの勢いで口を開いた。
「お、おはようございます!」
その人は見詰めていた本から視線を上げ、徐に振り返って僕を見た。そして、微笑む。
「おはよう。樹君。今日も一緒の電車だね」
「は、はい。偶然ですね。詩織センパイ」
1週間も続けて同じ電車に乗る偶然なんてあるだろうか。明らかに作為的だろう。
僕は自分で言っておきながら、そう思ってしまう。だけど、詩織センパイはそれに関してとやかく言う事はなく、柔らかな微笑みを保ったまま、本へと視線を戻した。
「…………」
沈黙が訪れる。
だけど、焦ってはダメだ。
僕は本を読む詩織センパイを見詰めながら、先日、澄玲さんが言っていた言葉を思い出した。
「とにかく『会う』頻度が大事なんだから」
澄玲さんは、5つ目のガムシロップをカフェオレに垂らしたところで「ザイオンス効果」というものについて語り始めた。
ザイオンス効果というのは、始めは興味のなかったものでも接触する頻度が多くなると、次第に好意を感じるようになってくる心理法則のひとつらしい。テレビCMなんかがその例だとか。
だから、澄玲さんは、今は焦らず、とにかく詩織センパイと会う機会を増やすように言っていた。良く会っているうちに、詩織センパイは僕の事を意識してくれるようになる——らしい。ホントかなぁ……。
正直、澄玲さんの言う事だから胡散臭さはあった。だけど、無知で意気地なしの僕には、その言いつけを守る以外の選択肢もなかった。
僕が詩織センパイの横顔に見惚れている間に、路面電車が電停に滑り込んできた。今まで知らなかったが、この時間の車両も旧型らしい。今から15分余り身体を揺すられると思うと少しうんざりする。
しかし、僕にはもうひとつうんざりする事があった——と、その前に、ここでひとつ訂正をしておく必要がある。僕は詩織センパイと共に登校している、と記したが、それは少しばかり大袈裟で、実際の所は、ただ同じ電車に乗っている、という表現が適当だった。
先に並んでいた詩織センパイが本を閉じ、電車に乗り込んでいく。僕もその後について電車に乗り込む。
旧型の車両は、ステップをあがって乗り込む必要があり、その床も古びた木製で、所々腐りかけているように見えた。車内に入ると、途端に半世紀くらい時代を遡った気分になる。これを「レトロ」と言えば響きは良いが、僕には「古臭い」としか思えなかった。そして、車内は当然の如く、空いていた。
しかし、僕は詩織センパイの横には座らない。それどころか、少し距離を空けて腰を下ろす。それは僕が意気地なしだからという理由もあるが、そうさせている最大の要因は他にあった。
「おはよう。恭ちゃん」
詩織センパイが明るい顔で、とある人物の横に腰を下ろした。
「おう。詩織」
その人物も詩織センパイを見て、低くも明るい声を返す。しかし、ふたりで座るには、あまりにも座席が狭すぎる。もうふたりの肩と肩は触れ合っていた。
だがそれは、座席が小さいからではない。いや確かに新型車両に比べれば、旧型車両の座席は粗雑だが、「普通」の体格の人が座る分には問題ない。詩織センパイの横に座っているその人物が大き過ぎるのだ。そして、その人物こそ、僕が詩織センパイに近づけない最大の要因だった。
堂島恭平。
その巨躯は、柔道をやるために生まれ持った才能のひとつだろう。背丈は180センチをゆうに超えていて、190センチくらいあるんじゃないだろうかと思う。体重も予測だけれど、100キロは越えている。だけど、たるんだ感じは一切なく、全てが筋肉だと言われても疑わない。
堂島さんは、一見すると、僕の2倍か、3倍くらい大柄に見えた。そして、そんな野獣のような大男が、僕を睨むのだ。俺の詩織に近づくな、と。
「また、アイツいるのか」
電車が動き始めると、そんな太く、鋭い声が聞こえてきた。
「うん。最近よく電停で一緒になるの」
「ふうん。そうか」
詩織センパイの声は穏やかだった。だが、野獣は面白くないのか、眉間に皺を寄せている。僕は野獣の視線を感じつつも、睨み返す勇気はなく、だからと言って微笑み返すユーモアもなく、ただ気付かない振りを通した。そのうちに、野獣が視線を逸らしたので、僕は胸を撫で下ろす。そして、同時に肩も落とす。
詩織センパイに彼氏がいたって何ら不思議ではなかった。
そもそもライバルがいないという前提が間違っていたのだ。
僕は今更ながら、自分の愚かさを痛感した。
だけど解せない。
詩織センパイと堂島さんは、とてもお似合いには見えなかった。まさに美女と野獣といった感じで、詩織センパイにはもっとハンサムで、モデルみたいな男が似合うと思う。まあその点では、僕も詩織センパイとは明らかに不釣り合いだけれど。
僕はこの一週間、そんな悶々とした思いと野獣の鋭い視線に怯えながら過ごしていた。そして、それは何も朝の電車内だけの話ではなかった。