1.高嶺の花と丸眼鏡
2学期の始業式。
僕は壇上に立っている「あの人」を遠くから見詰めていた。
自己犠牲は美しいか、否か。
そんな事は考えるまでもなく、僕は美しくないと断定する。確かに、自分よりも他人を生かす気持ちは美しいかもしれないが、それで生かされた方は、その重荷を一生背負っていかなければならない。それは死ぬことよりも辛いことかもしれない。それはもはや罰だ。
自己犠牲なんて、ただの独善だ。エゴだ。人の役に立てたという自己満足だ。そんなものに付き合わされた僕は不幸だ。だけど、それに気付かないで、彼女の命を削り続けた僕は、もっとあくどい。
知らなかった。
気付かなかった。
そんな言葉で到底済ませられる事柄ではない。僕は、自分の都合の良いように彼女を使い、その代償を考えもしなかった。
僕に科せられた罪は重い。当然、生かされたという重荷を背負うべきだけど、そんなものでは、償い切れない。
僕にとって彼女は、何だったのだろうか。
それを一生、考え続けるべきだ。
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高嶺の花。
そうと知りながらも、人は憧れを捨てきれない。
一瞬で良い、ほんの僅かでも良いから、僕に微笑みかけてくれたらいいのに。
そんなあり得ない妄想を抱きつつ、僕は遠くの壇上に立つ「あの人」を見詰めていた。
長い黒髪に、凛々しい顔つき。目つきは鋭い訳ではないが、だからと言って女々しさは微塵もない。力強いあの目で見詰められれば、屈強な男も途端にたじろいでしまうだろう。だけども、顔全体は小さく、体つきも線が細くて、でもメリハリもあって、いかにも女性らしい。
そんな僕の憧れの人は、3年の「篝詩織」センパイ。
しかし、いや当然というべきか、僕のような生徒の群れに埋もれてしまうような平凡な男は、あの人に話しかけるどころか、近づく事も叶わない。僕とあの人の間にはドレーク海峡よりも広い隔たりがあって、そこが世界で最も荒れ狂う海域とされているように、容易に越える事は叶わない。
もし……もしも僕に、何かしらの異能の力があれば、それを越える術を知り得るかもしれない。例えば、未来予知のような。
「お前、見過ぎだって」
2学期の始業式を終え、体育館から教室へ戻る最中、前を歩いていた小山が振り返って僕を見た。僕は小山の言葉に心当たりはあったが、惚けてみせる。
「な、何の事さ」
すると小山は悪戯な笑みを浮かべて、あの人の名前を口にした。
「篝先輩だよ。お前の目ヤバかったぞ。半分ストーカー」
「見てない、見てないよ」
僕が慌てて首を振ったところで、後ろを向いて歩いていた小山は誰かとぶつかった。
小山は咄嗟に「おっと、わりぃ」と言ってから前へ向き直る。僕も小山に合わせて前を見遣る。すると、そこには小動物のように怯えた少女がいた。少女は傾いた丸眼鏡を整えると、俯いたまま、懸命に首を振った。少女が首を振る度、顔を隠す前髪が大きく揺れた。
しかし、小山はぶつかった相手が誰なのか分かると、途端に表情を変える。眉間に皺が寄り、口許が歪む。
「なんだよ。佐倉かよ」
小山の口振りは、まるで謝って損をしたとでも言いたげだった。しかし、どう見たって後ろを向いて歩いていた小山に非があって、前を向いて歩いていた少女に落ち度はない。だけども、ふたりの力関係がそうさせているのか、頭を下げたのは少女の方だった。
「……ごめんなさい」
「別にいいけど」
小山は謝られた癖に、舌打ちをして、不快感を精一杯表現した。そして、僕との会話も中断させ、足早に教室へ戻っていく。
僕はその一部始終を見て、何となく嘔気を感じた。
大丈夫か?
そう声を掛けてあげれば良かったと何度も思った。しかし、その言葉は、喉元にすら上がってくる事はなく、僕の胃袋辺りで留まり続けた。それが嘔気の原因だったと分かった頃には、もう昼時になっていた。今日は始業式だけなので、もう放課になる。
「なあ、樹」
僕が帰り支度をしていると、前の席の小山が振り返って声を掛けてきた。悪いヤツではないのだけど、相変わらず緩んだ顔をしている。
「何?」
「この後さ、皆でメシでも行こうって事になってんだけど、お前も来るか?」
小山の言う「皆」とは、小山と田端と、騒がしい女子たち数人の事だ。彼らは良く行動を共にしていて、教室内でも目立っていた。そして、時折、こうやって僕にも誘いの声がかかる訳だが、正直、馴染めない。だけど、高校生活を円滑に送るためには、こういう誘いを無下にしてはいけない事くらい僕は承知していた。
「あ、ああ……行くよ」
相変わらず嘔気が続いていた。とても食事を食べる気分にはなれなかった。それが慣れない事をしているせいだと分かっているが、僕は笑った顔を作った。
期待通りの返事を聞いた小山は、「よっしゃ! 決まりぃ!」と調子をつけて席を立った。それから教卓の辺りで群れになっているクラスメイト達を見遣り、続けて声を張る。
「おーい、田端ぁ!」
群れの中には、切れ目の田端がいた。田端は背も高いので良く目立つ。
「ああ、どした? 小山」
「今日、樹も行くってさ」
「おお、マジかぁ!」
ふたりの声は、周囲を憚る事のない大声で、教室内によく響いた。僕は何となく、自分も目立っているようで、やはり嘔気がした。
田端は、群れから離れると、大股で僕の方へと近づいてきた。田端が目の前に立つと、巨大な壁を目の当たりにしているような圧迫感があった。バスケをしている人たちは、皆こんなにデカいのだろうか。
「樹、今日、いくら持ってる?」
田端が何故そんな事を聞くのか、分からなかったが、僕は気にもしなかった。
「ご、5000円くらいかな?」
「じゃあ、大丈夫だな」
田端はそう言って、白い歯を見せた。田端は歯もデカかった。
僕には、やはり田端の言動は理解できなかった。でも、だからと言って、その意図を確かめようともしなかった。変な質問をして、相手の気分を害する事は僕の望むところではない。
しかし、迂闊だった。
小山が「皆」と言っていたので、僕はてっきりクラスメイト達と食事に行くとばかり思っていた。いや小山はたぶんそう言うニュアンスで言った。だけど、実際に来てみると、そこはカラオケ店で、僕の前には見知らぬ女子が3人いた。
「田端君、歌うまいね」
巻き髪の女子は、田端を良く褒めた。確かに田端は歌が上手かった。しかし、その上手さが際立っているかと聞かれれば、それほどでもなかった。
「小山君、さすがだね」
小山はショートヘアの女子とよく喋った。ショートヘアの女子は「さすが」「知らなかった」「すごーい」「センスいいね」「そうなんだ」を連呼していた。どちらも色の濃い化粧をしていて、スカートは短かった。
「檜山君は、歌わないの?」
僕は太った女子に良く話しかけられた。僕は、人の容姿についてとやかく言う方ではないけれど、その子だけは他のふたりと明らかに違っていた。太った女子もしっかりと化粧をしているものの、どこか違和感があって、話し方にも必死さを感じた。この子はたぶん気付いていないのだろうけど、僕と同じ、他のふたりを引き立てるための噛ませ犬だ。
カラオケは夕方になっても続いていた。相変わらず田端は歌いまくり、小山は喋りまくっていた。その間、巻き髪の女子は田端を褒め、ショートヘアの女子は小山の話に相槌を打った。僕は、延々と太った女子の話を聞かされた。
正直、もう帰りたかった。ただでさえ、こういう騒がしい場所は苦手なのに、その上知らない人とこんなに狭い空間に閉じ込められるとなると、もう何かの拷問に思えた。だが、「トモダチ」のためには、噛ませ犬といての役目を務めなければならない。嘔気はもう胃痛を伴っていた。
「飲み物入れて来ようっと……」
太った女子が、僕との盛り上がらない話に飽きたのか、ドリンクバーのグラスを持って席を立った。僕はそれを見て、これは室外に出る好機だと思った。
「あ、あの……僕、入れてくるよ!」
声が裏返った。
そのタイミングで田端の歌が終わったので、僕の声は変に目立った。どうしてこうも悪目立ちしてしまうのだろうか。皆の注目が僕に注がれる。そして、少し間が空いて、小山が噴き出した。
「樹ぃ。何だよ、その声」
「ウケるなー。お前」
田端も同調して笑う。その笑いは、次第に巻き髪の女子とショートヘアの女子にも広がっていく。室内全体が僕を笑っていた。僕は、面白くなかったけれど、どうにか笑ってみせた。
「ご、ごめん。変な声出ちゃったよ。あはっ、ははは」
とても惨めな気分だったが、僕は噛ませ犬だから、笑われているくらいがちょうどいい。
結局、僕は全員分のグラスを持って部屋を出た。
通路も彼方此方から声が漏れ出ていて、騒がしかったけれど、狭苦しい空間から解放された分、気分は楽だった。そして、僕は6人分のグラスを抱えて通路を歩く。途中、親切な店員がトレイを貸してくれたが、手伝ってくれればいいのにと思う僕はわがままだろうか。
小山はコーラ、田端はジンジャエール、あとは……。
僕は飲み物を注ぎながら、女子たちの飲み物を聞いてこなかったことを思い出した。今更引き返すのも面倒だったので、とりあえずウーロン茶を入れることにした。さっきも飲んでいたし、文句は言わないだろう。
すると、その時——
「うぎゃあぁおおぉぉ!!」
どこかの部屋から叫び声のような、怒声のような、とにかく異常な声が聞こえてきた。その声に驚いた僕は、思わずウーロン茶を溢してしまう。そして、もしかして誰かが襲われているのではないかと不安になって、辺りを見渡した。
通路には、僕以外誰もいなかった。しかし、叫び声はまだ聞こえていて、音のくぐもった感じから、どこかの部屋から漏れ出ているのだろうと思われた。
僕はウーロン茶を注ぐ手を止め、とりあえず一番近くにあった部屋を恐る恐る覗いてみる。しかし、そこにはお年寄りが数人収まっているだけで、叫び声の音源ではなさそうだった。
次にその向かいの部屋を覗く。そこは女子高校生のグループで、確かに騒がしかったが、叫び声や怒声の類ではなかった。
今度は、その隣の部屋を覗く。そこには小柄な少女がひとりで収まっていて、マイクを手にしていない様子を見ると、通路に漏れるだけの大声を上げたとは思えなかった。いやそもそも、その小柄な体つきから大きな声が出るとも思えなかった。よって、その部屋も叫び声の音源ではなかった。
しかし、僕はその部屋からすぐに離れられなかった。それは、その少女の着ていた制服が、西高のものだったからだ。
それだけではない。顔を隠すように伸ばされた重い前髪に、大き過ぎる丸眼鏡。俯き加減の丸く小さな背中は、まるで小動物のような貧弱さがあった。
僕はその少女を知っていた。知っていたから、思わずドアを開けてしまった。
「おい。お前、何してんだよ」
僕はドアを開けた勢いのまま、そう言い放った。少女は身体をビクつかせてから僕を見た。
「い、樹……」
「名前で呼ぶな」
いつからだろうか。僕は彼女に名前で呼ばれたくないと思うようになった。彼女もそれを承知しているはずなのだが、昔からの癖が抜けないのか、時々名前で呼んでしまう。
「ご、ごめん」
彼女に謝られると、嘔気が強くなった。だから、僕はすぐに質問を重ねる。
「で、お前、何してんだよ」
「……カラオケ」
嘘だ。彼女は、嘘を吐くとき、必ず耳を触る。
「マイクも持たずに、カラオケが出来るかよ」
「……」
僕が上げ足をとると、少女は黙った。不都合があると、すぐに黙る所も幼い頃からの癖だ。
それからしばらくして、少女はスクールバッグを肩にかけると、席を立った。
「帰る」
僕は質問に答えない少女に苛立ちを感じたが、彼女が無口なのは、今に始まった事ではない。
「どいて」
少女は入口に立っていた僕を見上げずに言った。人の顔を見ない所が、いかにも彼女らしい。
しかし、彼女もそろそろ世の中を上手く渡る術を身に付けるべきだと思う。いつまでも影のような存在では、いずれ本当に誰にも認識されなくなってしまう。
そんなお節介な思いを抱き、僕は口を開いた。
「お前は——」
しかし、僕は言いかけて、すぐ口を噤んだ。世の中を上手く渡るという点では、僕も人の事を言えた口ではない。だけど、僕は彼女と違って努力はしている。こうして、トモダチとカラオケ店に来ているところとか。
僕は言いかけた口のまま、長い息を吐いた。そして、通路を開け、もう一度息を吸うと、代わりの言葉を言った。
「澄玲さん、今日は夜勤か?」
「ううん」
通り過ぎた少女は、たぶんそう答えた。ただでさえ、彼女の声は小さいのに、彼方此方から漏れ出た雑音が彼女の声をより曖昧にしていた。だから、僕は少し揺れた彼女の頭を見て、そう判断した。
「そっか。良かったな」
彼女がひとりで夜を過ごさないでいいと思うと、何となく安心した。邪険に思いながらも、憂いを向ける僕は傲慢だろうか。
それから少女は何かから逃げるようにカラオケ店を出て行った。少女が去った後の部屋には、僅かに少女の柔らかな匂いと「ビニール傘」が残っていた。
そう言えば、叫び声はもう聞こえなくなっていた。
久しぶりの投稿です。良かったら読んでやって下さい。