2-7 【生きるとは】
「生きるとは、自分という物体の、表現である。
生きるとは、自分という物体は、どのようなものかの、表現である。
生きるとは、自分という物体は、どのような刺激に、どのような反応をするのかの、表現である。
人は、人に備わっている『心と考え』から、表現する内容を選ぶことが出来る。
人は、ただ生存するだけならば、『心』は不要である。
人は、無意味に生命を維持するだけならば、『心』は不要である。
だが、人には、必要なので、『心』が備わっている。
人に『心と考え』があるのは、人が『正しく』生きる為に『心と考え』を使うことから、『心と考え』が発達して、備わったからである。
人に『心と考え』があるのは、人が『正しく』生きる為に、『心と考え』が必要だからである。
生物は、生きることが目的ではない、目的があるから生きているのである。
人は、単純な、生存の行為をする為だけの物体(存在)ではない。
生きるとは、現実の世界で生きることであり、妄想の世界で生きることではない。
現実の世界で正しく生きる為に、必要な場合に、妄想を使うこともあるが、現実の世界で生きる為に妄想を使うのであり、妄想の世界で生きる為に、現実の世界で生きているのではない。
生きるとは、先祖たちが、大量の苦難のある人生をなんとか生き延びて、仲間を守り、子孫を育てて、未来に命を繋げて、今に命を渡した結果、存在している状態である。
生きるとは、自分が生まれるまでの因果を受け取り、自分が生まれて、自分の命の活動から作られた因果を、未来に渡すということである。
つまり、生きるとは、過去から受け取った全ての因果から自分の物体が作られ、その自分の物体がどのようなものであるかの表現を人生の全てで行い、自分の全てを使って作った因果を未来に渡すことである。
自分が行ったことの「全て」に結果が発生する。結果を作り出さないものは人生に1つの欠片も無い。人生の全てが原因であり、人生の全てが結果を作り出すものである。
そして、生きるとは、自分が生まれるまでの因果から、作られたものを、使っている状態である。
過去の因果から作られたものを、今に受け取っていることから、生物は、『受け取っているだけの状態の存在であり、そのままで存在するべきである』、『何も行わなくても構わない存在である』と、いう間違った認識を持つ人がいる。
これは、過去に、自分より前に生きていた生物が、その因果を作ったということを、正しく認識していない状態である。
または、過去の、自分より前に生きていた生物は、因果を作る生物であり、自分は因果を作らない(作る必要が無い)生物であると、いう間違った認識の状態である。
つまり、過去に、自分より前に生きていた生物の因果が作ったものを、今に受け取っていることから、今に生きている生物は、何も行わなくても必要なものが手に入る存在であると、いう間違った認識を持っているのである。
この間違った認識からも、神が全てを与えてくれるので、生物は、何も行わずに、神から受け取るだけの存在であると、いう間違った認識が作られている。
これは、部分の認識から作られている間違った認識であり、『地球がある宇宙(世界)』の全体や、過去の『地球がある宇宙(世界)』の状態を含めて、正しく認識しているものではない。
そして、この間違った認識から、自分の命を、何も行わずに、過去(自分以外の生物)の因果の成果を受け取るだけであり、単純な生存の行為をするだけで、終えてしまう人がいる。
これは、生きている意味が無い状態であり、間違った生き方である。
植物が自動的に食べ物を作ってくれることや、他人が自動的に食べ物を持って来てくれることから、自分が座っているだけで食べ物を受け取れる状態であっても、それは、過去からの、自分以外の苦労を含めた因果や、今の、自分以外の苦労を含めた因果から受け取っているものであり、神が、自分の『何もしないこと』へ、与えているものではない。
この何もしない状態は、神の作った因果の法則から、自分以外が作り出した因果があり、自分は、自分以外が作り出したその因果から、幸せを与えられている状態である。
この何もしない状態は、自分は、自分に与えるという因果を持つものと、同等の存在である因果を作り出すものであるが、神の設定した因果の流れから、縁があり、食べ物(幸せ)を手に入れている状態である。
自分が、自動的に手に入れているように思えるものは、神が直接的に自分に与えているものではない。
自分は、因果の流れの一部であり、世界の因果の一部であり、神から見て特別な存在ではなく、神から見て上位の存在ではない、他の因果の流れのものと同等の存在である。
自分は、自分以外のものが作った因果を、受け取るだけの存在ではない。自分も、因果の流れを作るものである。
自分も、幸せを与える為や、幸せを受け取る為の、因果を作り出そうとするべきである。
もしも、自動的に発生する食べ物を受け取ることが出来なくなったならば、自分が不要になったからであると認識して死ぬのだろうか? それとも、自分で食べ物を取りに行くのだろうか?
真実としては、自動的に発生する食べ物を受け取ることが出来なくなったことは、自分が不要になったからではなく、自動的に発生する食べ物を受け取る為の、因果が無くなったからである。
自動的に発生する食べ物を受け取ることが出来る状態は、神の作った因果から発生しているものであり、『神が、そのように与えようとしている』のではなく、神が『地球のある宇宙』に設定した因果の法則から発生した『自分以外の因果が作った結果を、受け取っている』状態である。
つまり、自動的に発生する食べ物を受け取っている状態は、神の直接的な意志ではなく、『神ではない自分以外の、意志(選択、反応)の総合』から発生しているものである。
神は、その『神ではない自分以外の意志(選択、反応)の総合』を、『良いもの』、『完成したもの』、『当然のもの』であると、認定していない状態である。
その『神ではない自分以外の意志(選択、反応)の総合』は、神が『地球のある宇宙』に設定した因果の法則から作られたと、いう素朴(単純)な状態である。未完成の状態である。
そして、真実としては、自分も、因果の一部と、いう存在である。
つまり、自分は、受け取るだけの存在ではなく、作り出す存在でもある。
だから、自分で、自分が食べ物を手に入れる為の因果を、作り出すべきである。
そして、自分で食べ物を手に入れに行くのならば、自分は食べ物を手に入れる為の因果を作ろうとする存在である。自分は、神から受け取るだけの存在ではないと、いうことである。
神は、自動的に発生する食べ物を受け取る状態の以外に、他の選択肢も用意している。
人は、他の行動も選択することが出来る存在である。
だから、自動的に発生する食べ物を受け取っている状態は、その状態を自分が『選択』していることから作られた状態である。
自動的に発生する食べ物を受け取っている状態は、神が全てを行っている状態ではなく、自分が『選択している状態』である。
神の作った世界の状態に、関係の無いものは存在していない。全てのものが、神の作った世界の因果に関係している。
だから、神の作った世界の状態に関係しなくても構わない、そのままの状態で存在するだけで構わないと、いう存在は、存在しない。
世界の状態に、自分は関係が無いと、いう存在は、存在しない。
全てを神が行ってくれるならば、神は何を目的にして、全てを行ってくれるのか? 神は何を目的にして、生物を、そのように飼育してくれているのか?
全てを神が行ってくれるならば、生物は何も行う必要の無い存在であるが、生物は、何も行わなければ、死ぬ存在である。
真理としては、全てを神が行ってくれるのではない。
神は、動くことができる存在に、動かないことを望んで、世界を作ったのではない。
全てを神が行ってくれるならば、生物は生きる意味が無い。
自分が、誰かが行ってくれることを受け取るだけの存在ならば、誰かに生きる意味は有っても、自分には生きる意味が無い。
全てを神が行ってくれる状態になるように、進化するべきではない。
神に従うように、神の意志に沿うように、進化するべきである。
自然(因果の流れに、不自然、抵抗物、悪が無い状態)に沿って生きるとは、神に従うように、神の意志に沿うように、生きるということである。
そして、今の状態が通常(当然、自然、完成)の状態であり、生物は今の状態のそのままで存在して、考えて、判断して、行動することを、行わなくても構わない存在であると、いう間違った認識を持つ人がいる。
だが、神が今の状態を作ったのではなく、過去の因果から、今の状態が作られたのである。
今の状態は、神が作ったのではなく、神ではない生物などの、因果が作ったのである。
神は、今の状態を良いものであると、断定していない状態である。
【地球のある宇宙】の全て(地球の全て)は、進化の途中であり、未完成の状態であり、今後も、変化を続けるものである。
そして、より良い状態に変化(進化)していこうとするものである。
だから、現状の状態が、完成しているものであると、いう認識は間違っている。
生物は、常に変化する世界の中で、変化する度に、考えて、判断して、行動する必要があるものである。
生物は、常に変化する世界の中で、常に同じ状態では存在できない。なぜなら、常に同じ状態で存在することは、変化した世界の状態への、最適(最善、最大値)ではないから。
生物は、常に変化する世界の中で、変化する度に、考えて、判断して、行動して、常に最適(最善、最大値)の状態になるべきである。
そして、人は、悪い状態を改善しようとするものでもある。
それから、『正しく』生きるとは、『神の目的の一部である、人の生きる目的』を成就させるように、生きることでもある。
生きる目的が分るまでは、『正しく』生きることは出来ない。
生きる目的が分るまでは、ゴール(目的地)が分らず、何をすれば良いのかも分からない。
生きる目的が分るまでは、命の使い方が分からない。生き方が分からない。
生きる目的が分るまでは、無駄な行動を行い、命を消耗させている状態である。
『正しく』生きる為には、生きる目的を知る必要がある。
生きる目的が分るまでは、生きる目的を発見することが、生きる目的である。
とても長い時間、とても多くの人が、とても努力して、人の生きる目的を発見する為に活動した。
そして、今、人の生きる目的は分かっている。
人の生きる目的とは、神の為に生きることである」
*
(更新日 2024年08月03日-No.01)




